キルギスで起きた第二の革命

ヴィッケン・チェテリアン(Vicken Cheterian)

ジャーナリスト

訳:日本語版編集部


 かつて、中央アジアにおける「民主主義のオアシス」と呼ばれたキルギスは、それから10年も経たないうちに、内戦前夜のような状況に陥った。2010年4月6日、西北部の町タラスの住民が、エネルギー価格の高騰と政府上層部の汚職蔓延を腹に据えかね、街頭デモを繰り広げた。デモ隊はその日のうちに主要庁舎を占拠し、副首相と内相を人質に取った。この反乱は、翌日には首都ビシケクに達し、5000人の群衆が大統領府に向かって行進し、治安部隊と衝突した。その日だけで死者は84人、負傷者は千人単位にのぼった。

 過去最悪となった2002年のアクス事件でさえ、警察との衝突で死亡したデモ参加者は6人という国で、前代未聞の暴力沙汰である。当初バキエフ大統領は、地盤である南部ジャラルアバドに避難し、支持者の結集を図った。そして、キルギス第二の都市オシで対抗デモを組織したが、数百人しか集められなかった。彼は4月15日に出国し、現在はベラルーシにとどまっている。

 オトゥンバエワ元外相を代表とする臨時政府は、国家を取り仕切っていけるのだろうか。貧困下にあえぐ国民の期待に応えることができるだろうか。予測はまったくできない。

 振り返ってみると、バキエフ時代はこの国の民主化プロセスの後退期と位置付けられるかもしれない。2005年にアカエフ体制を倒した「チューリップ革命」で政権の座に就いたバキエフは、民主化と清貧を約束した。だが就任後ほどなくして抑圧的な政策に傾き、アカエフと同じ縁故主義に走るようになった。瞬く間に「ファミリー」のルールに従って、諜報機関や外交部門の要職に近親者を任命し、国営企業を手中に収めた(1)

 ビシケクでは、「民営化」という言葉自体がジョークの種となり、国有財産の私物化の同義語と化した。大統領の息子マクシムが、国営企業の中で最もうまみのあるものを押さえたことは、バキエフ体制の特質をよく物語っている。それは、どんな暴虐でも平気でやってのける派閥に利益が回される体制だった。過去数カ月にわたって、野党とメディアに対する政権の抑圧は強まっていた。

 特に政権が封じ込めようとしたのは、マクシムの事業パートナーであるエフゲーニー・グレヴィッチが、マフィアと結託して資金を横領したとして逮捕されたというイタリア発の報道である。グレヴィッチは、イタリアの複数の電気通信企業から総額20億ユーロを詐取したとされる(2)

 この事件をはじめとする諸々の事件で、バキエフ・ファミリーが批判を封殺するために採ってきた方法は、マフィアの手口を思わせる。2006年には、野党の指導者オムルベク・テケバエフがワルシャワ空港で、荷物からヘロインが見つかったとして拘束された。間もなく、それが諜報機関によるでっちあげであることが判明した。当時の諜報機関の長は、バキエフ大統領の弟ジャニベクである。2009年12月には、ジャーナリストのゲンナジー・パヴリュクが、カザフスタンの都市アルマトイの高層ビルから突き落とされた。野党は諜報機関の仕業であると強く疑っている。

基地をめぐる疑惑事件

 政権転覆のもう一つの要因となったのは、国民生活の悪化だ。最大の輸出収入源であるクムトール金鉱からの収入は低迷し、この国の労働力人口の3分の1を占めるロシアへの出稼ぎ者からの仕送りも、2008年9月の経済・金融危機以降は激減した。世界銀行の統計によれば(3)、対外債務は22億ユーロ、国内総生産(GDP)の48%に達する。国民の4割が貧困ライン以下の生活水準で、平均月給は50ユーロ足らずだ。臨時政府のバイサロフ報道官が最近発表したところでは、国庫には9億8600ソム(約20億円)しか資金がなく、キルギスは破産状態にある(4)

 4月の出来事について、識者の大半は米露の勢力争いを原因に挙げる。米露の軍事基地が併存する国は世界でもキルギスしかないからだ。クレムリンの関与があったという説は大げさだが、臨時政府をただちに承認した事実からも、ロシアがバキエフ失脚を大いに歓迎しているのは明らかだ。両国の関係は、2009年2月の経済援助協定を機に悪化していた。ロシアはキルギスに21億ドルの援助を供与し、調印式のために訪露したバキエフ大統領は米軍施設の即時閉鎖を宣言したのに、援助金の4分の1を受け取った時点で、今度はアメリカと基地を維持するという協定を結んだのだ。侮辱されたロシアは、援助を停止した。

 ビシケクの「体制転換」をクレムリンが歓迎しているのに対し、ワシントンは困惑しているように見える。マナス空軍基地はアメリカと北大西洋条約機構(NATO)のアフガニスタン戦略上、重要拠点となっている。この基地は、こうした政治的な役割に加え、贈収賄事件の舞台にもなっている。米国防総省は、基地を維持するために「ファミリー」と契約を交わしたらしい。こうした動きはアカエフ時代と同様だが、今回はマクシム・バキエフが甘い汁を吸った(5)

 莫大な利益を上げたと見られるのは、ロシアから優遇価格で仕入れた燃料を、市場価格でアメリカに再販したことだ。2010年4月1日、燃料の第三国への再輸出に関する新たな関税規則を根拠として、ロシアはキルギス向けのエネルギー販売に対する課税を通告した。臨時政府は現在、マナスでの燃料疑惑についての調査を求めている(6)。基地維持のためにバキエフ一味とつるんだワシントンは、キルギス民主化の約束が果たされていないことにも、透明性に問題があることにも目をつぶっていた。

 アカエフ政権下で公職選挙への立候補を認められなかったオトゥンバエワ現臨時政府代表が、当時の野党勢力に合流し、キルギスの有力政治家として頭角を現したのは2005年春のことだ。彼女は旧共産圏の名門校を出て、ソ連の外交畑を歩き、ソ連崩壊後に新生キルギスタン共和国の外相を務めた。「バラ革命」が起きた時のグルジアに、国連事務総長副特別代表として赴任していたオトゥンバエワは、2005年3月24日のアカエフ政権崩壊の日、バキエフ側でデモに加わった。

 しかし「チューリップ革命」からわずか1年後、彼女は全国から集まった青年運動家たちを前に、こう不満を語った。「何も変わっていない。アカエフ体制は今も健在だ」。そして「我が国はいつまで経っても移行状態だ。政権と反対派の違いが市民には見えてこない」と嘆きつつも、決意と希望に満ちた様子を見せた。「民主化の進展に向けて大きな余地がある。政党を結成すべき時だ」。この点について、オトゥンバエワは欧米諸国、とりわけヨーロッパの無関心に対する苛立ちを隠さなかった。「彼らがしてくれたことと言えば、少額の融資の供与だけ。複数政党制を築き上げるには多大な援助が必要なのに」

ソ連崩壊後の初めての社会運動

 4月の出来事では、キルギス国家の弱体性が改めて示された。2005年の時も、せいぜい1万人か1万5000人のデモで、政府は1日で転覆した。啓蒙的独裁者で通っていたアカエフは、抑圧機構を強化するには及ばないと考えていた。今回、バキエフの治安部隊は躊躇なく群衆に発砲したが、それでも政権は倒れた。多数の死傷者の発生は良い兆候ではない。それは、つい最近まで中央アジアのスイスを自負していたキルギスに、緊張がみなぎっていることの証左である。

 政党の指導者が党員の数とほぼ同じという政情の国で、組閣を行い、情勢を安定させるのは容易なことではない。オトゥンバエワのチームは、最初からやり直す必要がある。新憲法を公布し、機能する行政機構を作り、複数政党制が出来ていないなかで議会を発足させなければならない。しかも、経済は極めて憂慮すべき状態にある。債務の重圧は増す一方であり、ロシアなどの貿易相手国も苦境にある。いかに改革派といえども、これまで民主的な機構も文化もなかった国で、不景気のただ中に、意欲だけで民主化を果たすことができるものだろうか。

 地域分裂も憂慮されている。キルギスの二大都市である北部のビシケクと南部のオシは、山頂が標高3000メートルを超える広大な山岳地帯によって隔てられている。「チューリップ革命」の時は、南部の都市が発端となって、北部出身のアカエフ大統領が倒された。今回の出来事は、北部の都市部で始まって、南部出身のバキエフを打倒した。南北の境界線は、地理上の事実だけではなく、政治的な現実でもある。

 とはいえ、キルギス人は地域、派閥、部族によって細かく分かれている。ウクライナの「オレンジ革命」のように、確然たる政治ブロックが形成されるとは考えにくい。

 キルギスでの出来事は、世界的な経済危機と、ソ連消滅後の自由主義政策の失敗が背景となって起こったものであり、中央アジア諸国での社会問題の再燃という側面をもつ。1992年、新生ロシア連邦の指導部は自由主義に舵を切り、補助金の削減と大規模な民営化に乗り出しつつも、国民の暴力的な反発を恐れていた。しかし、価格が自由化され、国民生活に壊滅的な影響が及んでも、民衆の蜂起は起こらなかった。

 この20年間に旧ソ連圏で起きた主な危機は、政治的あるいは民族的な主張を目的としたもので、その多くは選挙の不正や、政府関係者の汚職事件がきっかけとなっていた。今回、タラスとビシケクで人々が街頭に繰り出したのは、エネルギー価格の高騰が原因だった。キルギスのこの新たな革命は、ソ連崩壊後の初めての社会運動として、歴史に刻まれることになるかもしれない。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2010年5月号)

* 第一段落「旧ソ連圏」を「中央アジア」に修正(2010年6月1日)