カウンター・ショックに打って出ろ

フレデリック・ロルドン(Frederic Lordon)

経済学者

訳:日本語版編集部


 ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」論(1)には、これまで全面的に納得しかねるところもあった。南半球や移行経済の国など、うまく当てはまりそうな場合も多いが、暗に意図されているほど広く当てはまる説ではない。いわゆる経済「先進」諸国におけるネオリベラリズムの定着が、ここで言う「ショック」モデルに当てはまらないことは明らかだ。それはむしろ、徐々に「淡々と」実行に移されたプログラムが、展開につれて体系化され、深められていったものだ。だが今や、クラインの分析を見事に実証するような事態が、「先進」資本主義の中核で生まれていることを認めなければならない。

 民間金融の危機は、仮借なき歯車の軌道により、政府財政の危機へと変貌した。これはどうにも避けがたいことだった。銀行が総崩れになるリスクが差し迫っているのに、政府が手を引くことはおよそできなかったからだ。納税者の負担で金融界が再び繁栄することへの当然の怒りがかき立てられようと、この姿勢は揺らがなかった。金融機関の救済に選択の余地はなかった。銀行への資本注入という措置に、複数の要素が混ざり合っていたことは疑いない。喫緊の必要性に加え、支配階層の連帯や種々の情実関係(2)も働いた。だからといって個々の要素、とりわけ喫緊の必要性という側面が消えるわけではない。

 金融界を救済したことはともあれ、それにたいした交換条件を課せなかったこと(真に論じられるべき点)については成果を誇れない各国政府は、世論に対してこんなふうに豪語する。金融界がもちなおし、貸し付けた金が返済されれば、救済策は最終的には何のコストもかからないどころか「納税者に利益をもたらす」場合すらある、と。こうした弁が単なる空威張りでも、いつもの嘘っぱちでもないことは、客観的に認めなければならない。フランス政府が用立てした資金は実質少額で済むことになりそうだし、金融界が全般的にもちなおした結果、政府保証にはさして出番もなかった。銀行への緊急融資はきちんと返済され、国家予算上は利益になった(3)。金融界の救済コストの圧縮は、見たところアメリカではさらに目覚ましい。不良資産救済プログラム(TARP)と素敵な婉曲語法で呼ばれる救済策は、当初7000億ドルを用意していたが、フランスと同様の事情によって最終的には1000億ドル足らずで済みそうだ。しかもオバマ政権は、10年にわたり銀行に特別税を課すことで、コスト全額を補填するつもりでいる。

 とはいえ、大団円だと言われても、それを台無しにするディテールもある。なかでもファニー・メイ、フレディ・マック、連邦住宅金融庁(FHFA)など、不動産市場と経済成長の全面的な破綻を回避するために、多大な貢献を求められた準公的機関の役割は決定的だ。これらの機関の救済コストは抜かりなく昨年のバランスシートから除外されたのだ。このコスト(4000億ドルにもなる)が回収できる見込みは限りなく薄いという事情も働いていた。金融界は救済され、景気後退は抑えられたといっても、問題の大部分を一カ所に押し込めたおかげである。それがいずれ派手に爆発しない保証はない(4)

 結果は上々だという主張は、政府の介入コストを金融機関の救済だけに限定し、肝心な点を置いてきぼりにした話でしかない。経済活動の急激な後退と、それに伴う巨額の税収減への直面というコストまで考えるべきである。政府債務と財政赤字は、「救済策」自体のせいというより、マクロ経済を幾重にも介して急拡大していく。これに関しては逃れる道もなければ、奇蹟的な回復策もない。

先進国における「ショック・ドクトリン」

 原因から最終的な結果にいたる連鎖が長くなれば、全体の関連が見えなくなるのは確実だ。金融界は今や、こんなふうに思っている。ささいな乱行の後始末については割り勘で精算済みだ。失業や景気後退、財政赤字といった残りについては、複雑遠大なマクロ経済に押し付ければいい。御愁傷さまだが、自分の問題ではない、と。羞恥心という言葉が辞書にない金融界は元気を取り戻し、どうしようもなく無責任なすかんぴんの国家に対する教訓をまたぞろ垂れてはばからない。政府債務の急拡大は問題だ、とフィクスト・インカム部門(5)のマネージャーは眉間にしわを寄せて繰り返す。お陀仏になるところを納税者の金で救われた連中のはずなのに。

 各国政府が経済全体への大規模な支援を行ったことで、銀行はさもなくば致命傷になっていた不良債権の爆発をまたも免れることができた。これも業績好転の一因であるにもかかわらず、良心を痛めることがないらしい銀行は、元気になったとたん、自分の窮地を救った国家に対する投機に走った。それが政府の借り入れコストを上昇させ、財政赤字の悪化を招いている。財政赤字の一因は、もとをたどれば当の銀行である。

 まさにここで「ショック」が形を取り始めるのだ。賃金労働者はすでに景気後退に苦しめられている。そのうえ納税者として財政調整のツケを回されて、二重に痛め付けられることになるだろう。ネオリベラルのイデオロギーは、お見事としか言いようのないほど巧妙だった。自らの死亡宣告になっていたはずの出来事を真逆に都合よく反転させてしまった。おはこの「緊縮」を繰り返すだけにとどまらず、未曽有の国家解体プログラムを予告しているのだ。このプログラムの規模は、その実施自体による政府債務と財政赤字の急拡大に比例して広がっていく。柔道の達人とて、これほどの技は繰り出せなかっただろう。

 ナオミ・クラインが考えた「普通」のショックは、クーデタ、反革命、自然災害など、概して外部からやって来る。ネオリベラルのプログラムが作動するのは、そうしたショックによって無秩序が作り出された後のことだとされる。ところが目下のショックは、まるごと内部から生み出された。それを徹底活用しているのが、あわやこてんぱんのはずだったのに、この際うまくやってやろうという図太さをなくさなかった勢力だ。ネオリベラリズムの大きな挫折は、さらなる拡大継続のための動機と口実を作り出す結果になったのだ。言うまでもなく、二桁に迫るか乗るかの政府赤字(対GDP比)をEU財政安定協定に定められた3%に引き下げるには、かつてない荒療治が必要になる。過去20年に及んだ「改革」拡大フェーズはそろそろ終わりだ。これから始まるのは、まったく新たな急変のレジームである。もはや程度の変化ではなく質の変化が問題となる「調整」限界に達した、というわけだ。

 金融界の議論が、政府債務の不履行リスクや長期金利の緊張といった技術的なレベルにとどまるなかで、広範なイデオロギー装置(元気を取り戻した専門家、かねて彼らの説にくみしてきたメディア、あるいは自己矛盾など気にしないメディア)は、すでに営業を始めている。破綻を警告し、努力を求める予言の声が、どこかから聞こえてこない日はない。常に流れる基調低音は「政府債務」への集中攻撃だ。これほど強烈で継続的な言論「作業」は近年ほとんど前例がない。準備進行中の変革の規模がそれでわかると言えるだろう。

課税の増額を考える

 エコノミスト誌は、いとしの資本主義が同誌の目にも崩壊寸前と見えた1年間の知的沈滞の末に、驚くべき復活を遂げた。失地回復の教導権を誰にも譲るつもりはない。ここ3カ月にわたり陸続と「政府財務」特集を繰り出している。イギリス、アメリカ、それにもちろん、事実にしてはあまりに素敵な、もっとおいしい実例たるアイルランド、スペイン、ギリシャである。特集の度に、熱っぽく繰り返される命令は「削減」だ。リベラル派の主要人物がもはや恥じ入るのをやめ、攻勢に戻ったことを深く納得したければ、この「必読の週刊誌」が下すアドバイスの高圧口調を見ればいい。「企業の世界では、10%の人員削減はごく普通だ。政府が同じことをできない理由はない。(・・・)雇用の安定度を考えれば公的部門の賃金は下げていい。(・・・)公的部門の年金額は潤沢にすぎる(6)」。引用元は「ストップ!」という意味ありげな題の社説で、結びは明確このうえもない。「小誌はこれらの問題を今後も取り上げていく」。さもありなん。

 とはいえ、予告された宿命に全面的に同意する必要はないし、こんなイデオロギーの一斉射撃の下では木っ端みじんにされるしかないと観念する必要もない。「ショック」がそもそも具体的に何を引き起こすのかに疑問の余地があることは言うまでもない。したがって、まだ点在状態の前兆を拾い集め、全体像を描き出すことが役に立つ。そうすれば、どういうプログラムが作られつつあるのかが、もっと明確に見えてくるだろう。アイルランドでは、公共部門の賃金労働者が、名目ベースで10%の賃金引き下げを「打診」され、それでは済まないことを予感している。ギリシャでも(欧州委員会の熱烈な支持の下に)、公務員が同じ理由で同じ憂き目に遭うのが既定路線だ。フランスの場合も、年金制度の改革、公務員の解雇法案、それに財政均衡を憲法に盛り込もうという(異常な)発想をにらみ合わせると、社会的国家の破壊が準備されていることがはっきりと見えてくる。どの国を取っても、「ショック」それ自体の内に凝縮された暴力は、過去数十年の慎重な漸進主義とは似ても似つかない。それは今度こそ、社会の反発を呼び起こすやもしれぬ。

 その可能性を視野に入れるなら、財政問題を否定するのは無理にしても、大なたを振るうだけが解決策だと考える必要はない。改めて取り上げる価値のある興味深い(が、決まってしりぞけられてきた)いくつかの代替策があるのだから。

 一つだけ挙げるなら、もちろん課税の増額を考えるべきだ。ただし、経済成長を阻害しないよう、今回の危機の勃発に無関係な人々へツケを回さないよう、うまく運ばなければならない。そんな条件の下では納税主体が限られる、という見方もあるだろう。数の面では間違いではない。だが算定対象の面では(ありがたいことに)きわめて不正確な見方だ。実際には、ここで言う納税の「主体」は多種多様であり、それゆえ多彩な課税方式が考えられ、かなりの税収を期待できる。金融取引、金融機関、「金融関係者」には、自らの招いた害悪の補償をぜひともお願いしたい。普通に考えるなら、財政調整の基本方針として唯一容認できるのは、金融界が自らの危機のコストを全額自己負担することだからだ。

 トービン税を考えてみよう。国際金融投機という「所与」をがらりと変える道具に使えるかには疑問の余地がある。投機の構造を抜本的に変えるものではないからだ。しかし、まさに税金であるがゆえ、税収という属性が確実にあることは押さえておこう。つまり、カネが入ってくるのだ(7)。それも、相当な金額になり得る。これまで何度も言われてきたように、名目税率がごくわずかであっても、天文学的な大きさの金融取引にかければ、ものすごい額に膨れ上がるからだ。

政治危機へ?

 取引税を納める主体の筆頭は金融機関である。現状を見れば筆頭どころか後列で、自分たちは雑巾がけ係だと居直っている。しかし銀行(およびヘッジファンド)への課税は経済の理屈に合わず、革命家の軽挙妄動でしかないと片付けるのはもう無理だ。オバマ政権でさえ、この方向に動き出している。税制に関する想像力を駆使して、具体的な課税方式を定めようではないか。収益にかける、総資産にかける、高リスク資産に(その増殖を抑えるために)かける、高給にかける、等々。目的についても、目下の穴を埋めることから、それに加えて将来の資金を確保することまで、いろいろ考えることができる。コスト補填が済むまで配当金の支払いを禁じるというのも、完全に筋が通った措置だろう。株主とは所有者すなわち責任者であり、自分たちの銀行の修繕作業を免除されるいわれはない。

 もう一つ、自然人への課税も考えられる。銀行の上級管理職、(忘れられがちだが)取締役、トレーダー、それに金融機関にとどまらず、同じ百分位(8)に属する御同類も残らず加えるべきだろう。こうなると、ターゲットが狭すぎて、たいした税収にはならないし、単に制裁という象徴的な意味しかもたないと、怒りの声が上がるだろう。確かに、これらの納税者集団は数の上ではとても少ない。しかし、過去15年にわたり、人件費のうち彼らの取り分は増え続けてきた。だから、少ない数でも対GDP比では相当なものだ。

 (銀行部門の)ボーナスと報酬の問題は、金融危機に関わる経済全体の中では二次的なものにとどまる。だが社会正義という政治的観点からすると、そして税収の機会という観点からすると、きわめて重要であることは言っておきたい。金融界とその協力者たちが主張しそうなことは見当が付く。「頭脳流出」が起きると騒ぎ立てるのは間違いない。だからすかさず言っておくが、彼らの主張はもはや下り坂にあり、恐れをなす人も減っている。それどころか苛立ちの種になり始めており、しっかりした反論がすぐさま飛んでくる始末だ(9)

 言っておくといった言い方になってしまうが、もう少しあけすけに言っておいた方がいいだろう。民間金融の危機を政府財政の危機に変えたプロセスは、うまくこの辺で止まってくれるわけではない。お次に来るのは、政府財政の危機を政治危機へと転じる段階だ。「体制」内にも不気味な寒気を感じ始めている者がいる。きわめて意味深いことに、ストロス=カーンIMF専務理事やトリシェ欧州中銀総裁など、金融界から疎まれている人々が、懸念を公然と口にしている。新たな金融危機のコスト補填を求められることに対し、社会はものすごく厭な顔をするのではないか、と。「次のやつ」が来る可能性があるだけでなく、その直接の原因が前の危機の管理そのものにあるなんて、そう言ってよければ大いに滑稽だ。さすがにこれでは、あんまりというものだろう。

 体制寄りの労働組合、つまり今では内部分裂はさておき、右派や社民的「左派」といっしょに統一政権ブロックの一角をなすような労働組合が、下々の連中の不満をやわらげようとする動きに出るのは必至である。パリのレプビュリック広場からナシオン広場までというルートで、無害なデモ行進を組織することだろう。晴れの日なら申し分ないし、ピクニックでもいいかもしれない。しかしながら、そんな「町中の散歩」だけでは済まないかもしれない。当の下々の連中は、散歩にいささかうんざりして、連れ回されるのはたくさんだと感じるようになるかもしれない。

 これから何が起こるのか、じきにギリシャがかいま見せてくれるかもしれないが、予断は控えたい。とはいえ改めて思い起こそう。根っから悪意があるわけではない集団も、さんざんひどい目に遭わされれば激しい悪意をもつようになる。出口はない、ひどい目に遭う以外の出口はないと、さんざん言い含められるような状況に置かれれば、とりわけそうなる。しかし、他にも出口はある(10)。それをもっときっぱりと示すべきではないか。うまくいけば、力強いカウンター・ショックにできるのだから。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2010年3月号)