トイレなき26億

マギー・ブラック(Maggie Black)

Ben Fawcett との共著 The Last Taboo :
Opening the Door on the Global Sanitation Crisis,
Earthscan, London, 2008

訳:萩谷良


 誰もが行くところだが、話題にはしない。そんな礼儀から来るタブーの陰で、助けられたはずの数百万の人の命が毎年失われている。都市人口の増加に伴い、屎尿(しにょう)の管理は死活的に重要となっている。それは、人の健康の問題であり、人の尊厳の問題でもある。[フランス語版編集部]

 今の世界は、二酸化炭素の排出や化学汚染物資、核汚染物質のことは気にするが、病気を運ぶ屎尿というもっと基本的な汚染のことはなんとも思わない。先進国では、かつてロンドンで起こった「大悪臭事件」以来、都市環境の浄化と衛生化に多大な資源が投じられてきた。発展途上国でも、諸種疾病の原因に関する理解が進んだおかげで、数世紀来さまざまな伝染病の原因と目されていた「マラアリア(悪い空気)」の不安は薄らいだ。

 その一方で、加速してやまない近代化の生み出した新たな不安がある。タウンシップ、バラック、スラム、ファヴェーラ。大都市の住民の大部分は、そうした粗悪な住宅に暮らしている。10億の都市住民が、衛生施設なしの生活を余儀なくされ、貧困と尊厳と健康に関わる問題を抱えているのだ。

 7000人を超えるコレラ患者が発生、死者162人のうち30人が首都ルサカの住人だったザンビアでは、125億クワチャ(約2億5000万円)を投じてリスク軽減対策を取った。囚人を動員して下水溝を浚渫し、連続テレビドラマの特別編やコンサートを通じて、国民に情報を流した(1)

 しかし、拡張さなかのアフリカ、アジア、ラテンアメリカの都市で、周辺部(ときには中心部)の劣悪な生活環境が、社会と都市の構造上の重大な脅威と見なされることはめったにない。医療インフラはどの国でも、衛生対策の欠如による伝染病(その筆頭がコレラ)の蔓延をくいとめるのに概して十分だからだ。

 水洗トイレと下水集合処理のおかげで我々はすっかり、水道さえあれば屎尿の除去という問題は解決されると思うようになってしまった。疾病と屎尿汚染との関係は忘れられていた。下痢その他、屎尿に関連する感染症の問題が、諸国の保健政策においてすら、「水の入手」という項目に括られていたほどだった。

 「衛生化」という言葉はどこかに消えた。こんにちの住宅所有者が払う「水道料金」は、生命に不可欠な上水の「配管」のためである。まるで下水道は存在しないかのようだ。この言葉のあやによって、上流階級の会話ばかりでなく政策決定者の間でも、不快な話題は封じられた。一部の開発途上国の都市を貫く河川は、19世紀のテームズ川やライン川やセーヌ川のように澱んで、濁って、そこに流しこまれる未処理の人間の糞尿を吸収できずにいる。だが、この「悪臭」は、もはや恐怖を引き起こしはしない。洒落たホテルや観光名所のある中心地区から隔たっているかぎりは自由放任がまかり通る。

 その結果、26億人(世界人口のなんと38%)にとって、屎尿除去という日常生活の問題は未解決のままだ。トイレもなければ、下水道もない。簡易トイレがあっても、中身は穴に埋めるか腐敗槽で処理するだけで、定期的な汲み取りが行われるわけではない。家が集合処理の下水につながっている場合でも、糞尿のうち処理されるのは10%にすぎない。90%は川に流される。水環境(魚や植物)と人間の健康への悪影響は、甚大なものとなりかねない。

何百万もの人々が病気に

 その同じ川が、水浴や行水に、洗濯に使われ、多くの場合には人間と家畜の飲み水にもなる。水は塵芥を吸い込み、運び去ってくれるが、病原体もまた運んでいく。ほんの微量の排泄物にも、顕微鏡でしか見えないような無数のバクテリアが含まれている。

 ガンジス川は長年にわたり、有毒な産業廃棄物と未処理の排水によって汚染されてきた。その浄化のため、インド政府はこのほど世界銀行から期間5年の融資10億ドルを得た(2)。しかし、これほどの資金投下により、この川沿いの下水溝の出口に十分な数の浄化施設が作られ稼働したとしても、その下水が貧困家庭に引かれるとは、およそ期待できない。下水道のない人々のほとんどは、農村の粗末な家か(70%)、都市に乱脈に広がるスラム街か(30%)に住んでいるからだ。

 開発途上国の田園地帯では、大半の場合、住民は戸外で排便する。日が暮れてから野原に行く。これには多くの問題がある。とくに女性の場合はそうだ。評判を落とさず、恥を捨てず、体面を保ちたければ、慎み深くふるまわなければならない。夜の遠出は、身の危険もあり、性的暴力もまれではない。しかも、昼間はずっと我慢しなければならないから、健康にも障りが出るかもしれない。

 たとえば都市部のように行き場がない場合、また幼い子ども、障害や病気を抱えた高齢者のように出かけるのが困難な場合には、バケツを使うか、食料品の包みやビニール袋などで用を足す。使用後の袋は、近所のゴミ捨て場に捨てられる。すると野良犬や豚がやって来て、それなりの始末をしてくれる。こうした袋は「ひらひらのトイレ」と呼ばれている。

 田舎では、狭くて臭いトイレよりも、伝統的な方法のほうがはるかに好まれる。家の中にトイレを設けるという考えへの抵抗感が強い。むしろ、そんなものは生活の場からなるたけ離しておきたいと考える。昔は、太陽と風の作用でなんでも乾き、臭いが失せたし、寄せては返す川がきれいさっぱり洗い流してくれた。だが、人口密度が大幅に増えた世界では、戸外での排便は不衛生なことになってしまった。

 排泄物はまた、野原や街道や小道、海岸や大小の河川のほとりに、微細なかたちで散乱しており、何百万もの人々が病気にかかる原因となっている。足に、手に、食物に、食器や調理用具に、衣服に付着した病原微生物が、湖や沼で沐浴する人たち、そこで遊ぶ子どもたちの口に入っていく。

 毎年150万人の幼児が、下痢性の感染症によって命を失っている。そのほかに何百万もの子どもが、周期性の発熱や腹痛に苦しみ、そのために学校を休み、成長を阻害されている。母親にも家計にも大きな負担がかかる。さらに広範に見られるのが、寄生虫による病気である。糞便の散っているところを裸足で歩くからで、毎年1億3300万人を数える。腸管に巣くう回虫は、子どもの摂取する栄養の3分の1を奪い、しばしば喘息の原因ともなる。きわめて劣悪な環境に暮らしている子どもなら、1000匹もの寄生虫にやられていることもある。

オルタナティブな技術の推進が必要

 にもかかわらず、衛生システムの不備が健康に及ぼす影響を諸国政府が憂慮する一方で、民衆にとっては依然として、屋内トイレは衛生用というより、個人的な利便と映っている。都市化が進むほど、人目を避けて用を足すために一人になることは、そのための設備がない場合には非常に困難になってきた。プライバシーの欠如は、貧困層の人々の間に、とくに社会的上昇を始めた人々の間に、トイレ需要を生み出している。トイレはテレビと同様、貧しい家庭さえもが求める近代性のシンボルなのである。

 浴室やシャワールーム、そして下水管への欲求とあいまって、ヨーロッパで1世紀あまり前に起きたような家庭用設備財への需要増大が起きている。だが地域行政当局には、意欲も資力もない。設備普及に向けた動きは、有力者からも大衆からも出てこない。

 この現状については、援助国・機関にも責任がある。衛生設備よりも水道整備のほうに10倍の資金を投じているからだ。「水と衛生化」と銘打った計画には、衛生教育や、トイレ設置の推進、あるいは汚水や屎尿の除去システムの建設に、予算が計上されないものが多く、「衛生化」という言葉は単なる飾りになってしまっている。2000年に国連が定めたミレニアム開発目標でも、衛生化についてはまったく触れられさえしなかった。集中的なロビー活動の末にようやく、2002年のヨハネスブルク第二回地球サミットで、基本的衛生設備を利用できない人々の比率を2015年までに1990年の半分に減らすという目標の追加が決定されたのである。とはいえ、この目標は、なお18億の人々を現状にとどめおく控えめなものでしかなく、ユニセフによれば、それすらほとんど達成の見込みはない。

 衛生関連の措置(財政、政策、制度、広報)がなかなか進まなかったので、国連は2008年を国際衛生年(IYS)に定めた。若干の成果はあった。上水の問題と衛生化の問題が、ようやく政策決定者の頭の中で分けられるようになったのである。

 世界の多数の地域で、貧困地区へのトイレ設置に取り組む場合、上水や下水を前提にはできない。住民にも地域行政当局にも、水道や下水道を設置する資金はない。汚水の排水・処理システムなどはなおさらだ。アフリカと中東の大多数の国(それにインドと中国)では、厳しい給水制限が行われている。国全体に衛生施設を行き渡らせることなど、できるはずもない。

 長年放置されてきた問題に取り組むとき往々にして見られることだが、国際衛生年によって二つのことが明るみに出た。ひとつは、これまで陰に追いやられていた教育上、技術上の進歩の問題だ。もうひとつは、想像していた以上にひどい現状だ。「不法」住宅に暮らす人々も数に入れたことで、極度に劣悪な生活環境で暮らしている人の数が上方修正された。多数の国が、観光上のイメージダウンを恐れて、コレラの症例数を低めに見積もるようになった。恥ずかしさから「不潔な病気」にかかったことを口にしない患者が多数いるだけに容易なことである(3)

 衛生面でのなんらかの進歩を実現するためには、オルタナティブな技術の推進が必要だ。かねて先進国や裕福な地区で用いられてきた従来の集合下水処理システムより、コストが低く、もっと設置しやすく、維持もしやすい技術である。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2010年1月号)