ギニア、再びのクーデタ政権

ジル・ニヴェ(Gilles Nivet)

ジャーナリスト

訳:日本語版編集部


 9月28日にコナクリで起きた虐殺事件の真相究明に向け、国連の要請に基づいて、国際的な調査委員会が設置されることになっている。200人以上のデモ参加者が軍によって命を奪われた。ギニアは過去50年にわずか2人の大統領が政権を独占し、10カ月前から軍事クーデタ政権のもとにある。この政権は、2009年末までに自由な選挙で民政移管すると公約してきた。だが国民は、政権を率いるムサ・ダディス・カマラの野心に不安を抱いている。[フランス語版編集部]

 「いつまでも権力を握っているつもりはない。我々は、自由かつ透明な選挙を、ギニアの名誉となり、ギニア軍の名誉となるような仕方で、実施しなければならない」。2008年12月23日にクーデタで権力を握ったムサ・ダディス・カマラ大尉は、その2日後、ギニア国民と「国際社会」にこう言明した。10カ月後に仮面は剥がれ落ちた。2009年9月28日、コナクリのスタジアムに集まった200名以上の平和的デモの参加者が、軍隊によって虐殺されたのである。その翌日、同じカマラ大尉が、異様に興奮した支持者をクラクションで掻き分けて進む車から、仏テレビ局TF1のカメラに向かって、自分のことを三人称で指しながら獅子吼した。「これが、ただならぬ愛国者ダディスだ。ひとつの神話だ。民衆の権力だ。当のダディス大尉すら、このただならぬ現象を理解できない。これは一個の自然神だ!」

 この軍事政権の長が有頂天になっているのは、2008年12月22日に前大統領ランサナ・コンテ将軍が死ぬ前から、ずっと企んでいた計画を成就したからだ。ランサナ・コンテは、その前の独裁者アフメド・セクー・トゥーレが1984年に死んだ後、やはりクーデタに加わって権力を得た。フランス、米国、そしてアフリカ諸国の大半は、手を血に染めたギニア建国の父の死を知って安堵したものだ(1)。コンテ将軍は、その明らかな人権軽視の姿勢にもかかわらず、国際的な歓迎ムードによって最初から大目に見られ、「アフリカの真珠」と謳われたこの国を、以後四半世紀の間に多国籍企業の娼窟にしてしまった(2)

 ボーキサイトをはじめ、金、ダイヤモンド、鉄などの鉱物資源の収入がありながら、ギニアは貧困国のままで、国連開発計画(UNDP)の人間開発指数では182カ国中170位である。セクー・トゥーレの死によって掻き立てられた希望もむなしく、経済発展は鉱山地区など一握りの部分にしか見られなかった。そして、少数の政権の取り巻きが、国庫から吸い取った富で潤ってきた。

 2008年の政権奪取に先立って、カマラ大尉は入念に準備をしていた。彼はメディアが描き出しているように、現地の政治家や外交官、国際機関の前に突如として出現した一介の無名の軍人ではない。すでに2007年1月22日に、アルファ・ヤヤ・ジャロ基地の武器庫を押さえていた。コナクリの大通りを占拠して、政権を脅かしていた大勢のデモ隊に、軍内の一部の分子が合流するのを阻むためだ。彼はこうして、予定外の情勢流動化を防いだのだった。

 すでにコンテ大統領の死去に先立つ数カ月間、軍の燃料担当局長(うまみのある地位である)だったカマラの名は話題になっていた。間近と見られていたランサナ・コンテの死が事実となれば、彼が軍部の少数支配層の特権を維持するために、軍内の諸派閥をまとめる策謀をめぐらせている、という話だった。軍は数十年来、体制の支柱として厚遇されてきた。軍による公金の濫用にも、政権は目をつぶってきた。2007年、ついで2008年に、国民を恐怖に陥れ、数十人の民間人の犠牲者を出した軍の反乱が起きている。動機は軍人の利益擁護(俸給の引き上げなど)であり、陰で糸を引いたのがカマラ大尉だった。彼は2008年の反乱の際に、自分の計画の邪魔になる上級士官らをまんまと失脚させた。

 2002年から重病で死期の迫った老将軍(3)の近親諸派閥は、特権を失うことを恐れ、くだんの数カ月の間、公然と内部抗争を繰り広げた。彼らは現実から浮き上がっていた。毎日のように、国営メディアから高官人事を朝令暮改で発表するかたわら、死に行く大統領の枕元でそそくさと、国の将来を左右する多数の契約を交わしていたのだ。

群衆はなぜ歓呼したか

 2008年12月23日のクーデタのあと、国旗に身を包み、群衆の歓呼を受けながら、隊列の先頭に立ったカマラ大尉は、まるで戦場から凱旋したローマ皇帝のように、コナクリ市中を練り歩いた。あらゆるメディアで繰り返し流されたギニア民衆の歓呼の映像は、意外に思えたかもしれない。軍隊による2007年の弾圧は不問にされたのか。コナクリのあちこちで砲撃戦となり、死者も出る惨事となった1996年2月の軍の反乱は忘れられたのか。もちろんそんなことはない。

 ギニアの人々はただほっとしたのだ。政権の転換が一発の砲火もなく行われたことに。彼らはこれまで何年も不安にさいなまれ、コンテ大統領逝去の噂が流れるたびに戦々恐々とした。軍の派閥抗争が、コナクリ市内にある二つの兵営(サモリ・トゥーレとアルファ・ヤヤ・ジャロ)にとどまらず、市中で繰り広げられるのではないか、数十年にわたり権力を握る汚職特権層が、憲法をタテに粛々と政権移行を行い、そのまま居座ってしまうのではないかと。

 まだ若く(44歳)、階級は一介の大尉、ポップスターのような物腰で、高飛車に物を言う新しい権力者は、国民を魅了した。しかも彼は、旧政権の支配層を片付けてくれたのだ。メディアが大いに報じるカマラの熱情的な発言に示されているのは、不正を根絶し、腐敗と麻薬取引でギニアを疲弊させた富裕層と闘うという彼の断固たる意志だ。これはジェリー・ローリングズ(4)の再来なのだろうか。トマ・サンカラ(5)の生まれ変わりだと夢想する者さえいる。だが現実への回帰は、だしぬけにやって来るものだ。

 この軍事政権が最初にしたことは、共和国憲法と国家機関の停止である。2008年12月24日、国民議会のアブバカル・ソンパレ議長は、憲法に従って元首代理の役を務めるべく、迎えが来るのを一日むなしく待ち続けた。この法秩序の愚弄を厳しく非難して、「弱体な機関のほうが軍事政権よりましだ」と述べたのは、野党指導者の中で最も若く急進的な「新民主勢力」創設者、ムクタル・ジャロだけだった。

 こうした非常事態の直接の帰結は、2007年から準備されてきた民主的な政権移行の事実上の停止である。欧州連合(EU)から800万ユーロもの資金を提供された議会選挙は、すでに3度も延期されていた。この選挙には、病床の大統領には統治能力がないことを新議会に宣告させることで、コンテを片付けてしまう意図があった。しかし、内部対立にむしばまれた野党と「市民社会」は、妨害行為の疑われる政府に対し、一致団結して予定通りの選挙実施を迫ることができなかった。

 政府閣僚は、クーデタという非合法手段を形ばかり非難したあと、口をそろえて「大統領閣下」の「賢慮」への謝辞とともに、「恭順」の意を表明した。さらに驚くべきことに、2007年初頭にコンテ政権を揺るがした抗議運動の歴史的指導者たちまでもが、クーデタ容認の輪に加わって、カマラ率いる民主主義発展国家評議会(CNDD)は「誠意と決意に信用がおけ、推定無罪に値する」との評価を与えた(6)。労組もまた、カマラが「国を大掃除する」と言明したのに惹かれたのか、「ギニア軍が(・・・)政権転換のプロセスを守ろうとしていることを歓迎し賞賛する」と述べている(7)。野党は野党で、カマラから「私はあなた方に対してベレーを脱ぐ」と謝意を示され、閣僚ポストを用意する約束されたことに安心したと言う。

10カ月が経過

 米国がすぐにこのクーデタを非難する一方で、EUとフランスは、ギニア国民が総じて歓迎するのを見て、軍事政権の「事実を承認」した。唯一の要求は、可及的速やかな憲政復帰である。早くも2009年1月4日に、フランスのジョワイヤンデ協力・フランス語圏担当相が、政変後にコナクリを外交訪問した欧米初の要人となっている。彼はサルコジ大統領の名代として、状況を憂慮していると述べた。ボロレ・グループ総帥ヴァンサン・ボロレが、コナクリ自治港の近代化プロジェクトを落札できなかっただけになおさらである(8)。カマラがCNDD発足後ただちに、優先課題であると表明した案件だ。

 軍事政権と政党、労組、市民団体などの「主要勢力」は、「自由で、信頼性があり、透明な」議会・大統領選挙によって2009年末には政権移行を完了することで合意した。CNDDはこの選挙に候補を立てないと約束した。「クーデタ首謀者たちにとって幸運だったのは、このクーデタが織り込み済みだったことだ」と週刊誌ジューヌ・アフリックは指摘する。「すでに2003年の時点で、国連事務総長西アフリカ特別代表アフメド・ウールド・アブダラはギニアに対し、軍事クーデタとその後の民政移管という展開によって自由選挙にこぎ着けることを勧奨していた。国連外交筋のあいだで、『ゼロからやり直すための破断のシナリオ』と呼ばれる筋書きだ(9)

 だが、絶頂期というのは長続きしないものだ。ほとんど毎晩のように国営テレビが中継するカマラ大尉のショーは、ひととき視聴者を楽しませつつも、この人物の衝動的で短気で粗暴な性格を暴露している。それに彼の嘘もだ。この新しい権力者は、民族エゴを打倒するつもりだと言ったくせに、大臣や民間企業の社長、それにもちろん軍のトップなどの要職に、自身の出自である森林部族の者を任命するのをやめようとしない。さらに地方行政の高位ポストは、軍人に独占されている。金鉱会社の経営幹部にまで、軍人あがりが押し込まれる始末である。

 カマラは治安の改善を公約した。しかし、たいていは軍服姿の武装マフィアが、昼夜をとわず、誰彼なく、辺りをはばかることもなしに襲撃している。贈賄者と収賄者を突き止めるはずの会計監査は、ゆすりたかりや政治的な意趣返しと化している。しかも監査によって回収されたカネは、直接アルファ・ヤヤ・ジャロ基地内にあるCNDDの金庫に流れ込む。鉱業省、税関、税務当局、港湾、社会保障金庫など、いちばん実入りの大きな部門は大統領府の直轄である。契約は入札なしに、まったく不透明なかたちで締結される。コンテ時代にまとめられた契約が、賄賂つきで調印される一方で、再交渉時に巨額の袖の下を取るために、古い契約は破棄されるといった案配だ。

 麻薬組織への宣戦布告ですら、「国際社会」向けのPRに成り下がり、大山鳴動して鼠一匹しか出なかった。「特設」された600名の憲兵隊を率いるムサ・チェグボロ司令官が、9カ月間で押収した成果として誇らしげに発表したのは、混ぜもの入りコカイン22キロとインド大麻1500キロにすぎなかった。だが、ギニアと言えば、西アフリカの麻薬取引の要所であり、そこを通過するコカインの量はトン単位のはずだ。「麻薬の元締め」追及作戦は何よりも、カマラにとって不都合な数十人の軍・警察幹部をパージするための口実である。彼らは隔離され、拷問を受け、非人間的な状態で拘束されている。

 ギニアを掌握して10カ月間、CNDDが行ってきたのは、つまりは権力基盤の確立と強化だった。コンテ体制は続いている。役者は若返っても、シナリオは同じままだ。9月28日の虐殺さえも。これによって民主化プロセスは減速した。CNDDと「主要勢力」の合議の場である政権移行国民委員会は、2009年1月に発足するはずが、7月末に大統領令によって設置され、しかもいまだに稼働していない。選挙を実施するのに必要な資金はようやく8月に計上されたが、予定の年末には当然間に合わない。実施は2010年1月末になるだろう。軍事政権トップは、ここで切り札を出した。2009年末の選挙には立候補しないと、全世界を前に「聖書とコーラン」にかけて、カマラは誓っていた。だが、彼が2010年の選挙に(軍の支援と国家の資金をもって)出馬することを妨げるものはない。「民衆が求めるならば」というわけだ。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2009年11月号)