イエメンの危機的状況

ピエール・ベルナン(Pierre Bernin)

研究者

訳:土田修


 イエメンは今や、サウジアラビアから流れこむアル・カイダの後方基地と化している。そのうえ、1990年に北部と統合された南部では、分離主義の反政府勢力が伸長している。さらに、北西部のサアダ州では、別の反政府勢力との軍事衝突が激化している、といった状況だ。イエメン政府は、このサアダ州の反乱勢力がイランの支援を受けていると断言する。その一方で、反乱勢力の側では、サウジが干渉していると非難する。サアダ州の事態は、過小評価されているが紛れもない戦争であり、ここ数週間にわたり悪化の一途をたどっている。それは、イエメンを破綻国家にしてしまう危険を秘めている。[フランス語版編集部]

 サウジアラビア国境に近接したイエメン北西部のサアダ州は、2004年6月以来、暴力的な紛争の舞台と化しているが、国際的には注目されていない(1)。政府と対決しているのは「ホウシー派」と呼ばれる反乱勢力である。国会議員の経歴のあるフサイン・アル・ホウシーを指導者とし、2004年9月に彼が死んだ後は、弟のアブドルマリクに率いられる。2008年7月の停戦宣言にもかかわらず、2009年8月中旬に戦闘が再開されている。イエメンの主要部族が居住するサアダ州で、泥沼化した暴力的な紛争が続き、数万に及ぶ犠牲者と避難民が発生し、連鎖反応の危険があることは、まだほとんど国際的に知られていない。

 ホウシー派は、宗教的にザイド派であることを強調している。イエメン高原に見られるシーア派の分派だが、イランで支配的な十二イマーム派とは明らかに神学を異にする宗派である(2)。イエメンでは人口の3分の1を占める。法解釈や教義の点で「穏健派」とされるのは妥当である。ザイド派はイエメンの歴史と密接に絡み合っており、人口の多数を占めるスンニ派の分派シャーフィイー派(3)と、宗教解釈の面で共通点が多い。

 政府はホウシー派が、革命の起きる1962年までイエメンを統治していたザイド派のイマームの復位を求めていると非難している。革命による共和国の成立後、長期にわたって内戦が続く。王党派の側にはサウジが味方し、共和派側はエジプトのナセル政権から援軍を得た。ザイド派のイマームはサイイド、つまり預言者ムハンマドの子孫であり、アル・ホウシー兄弟も同じくサイイドである。

 政府はまた、ホウシー派がイランの支援を受け、レバノンのヒズボラと同様に、中東を貫く「シーア派の弧」の伸長に加担するものだと断言する。政府がイランの干渉を力説するのは、サウジ政権の支援を得るためだ。サウジはライバルであるイランの影響力拡大を懸念しているからだ。

 ホウシー派の指導部は、こうした政府の主張は事実無根であるとして、共和国政府への忠誠を明言し、自分たちはザイド派の宗教的アイデンティティを守りたいだけだと言う。ザイド派は、スンニ派の厳格派であるワッハーブ派やサラフ派によって脅かされている、と彼らは主張する。

 ザイド派の発祥地であるサアダ州は、1960年代の内戦期には王党派の最後の拠点の一つだった。だから、歴代の共和国政府による開発政策でも、長らく干されてきた。ホウシー派の出現は、1980年代に始まるザイド派復興運動の一環をなしている。この運動は、さまざまな教育機関や出版社、礼拝所を舞台とし、サアダ州が中心だったが、首都サヌアでも散発的に起こっていた。

 アリ・アブドラ・サレハ大統領を含む政治的エリートの大半はザイド派を出自とするが、ザイド派復興運動は少数派にとどまっている。ホウシー派がイスラム法や宗教的実践の見地から、自分たちの特異なアイデンティティを強調するのに対して、ザイド派も含めた国民の多数派は、教育システムと共和国政府が促進する宗教アイデンティティの均質化の流れに乗ってきた。つまり、スンニ派とシーア派の対立という見方は妥当性を失い、一部の政治家の経歴や所属に関わるものでしかなくなった。

泥沼化の原因

 にもかかわらず、政権がさしあたりの協力相手としたサラフ派は、ザイド派をますます槍玉に挙げるようになっている。サアダ紛争を背景として緊張が高まっており、この戦争が宗派間の対立と化してしまう恐れがある。2009年8月末に一部のメディアが、1980年代の初めにムクビル・アル・ワディによって創設されたサラフ派の学院ダール・アル・ハディースの学生と、ホウシー派との戦闘が起こり、何人もの犠牲者が出たと報じた(4)。この情報はホウシー派のインターネットサイトでは否定されている。2007年3月には、同様の衝突により、2人の外国人学生(1人はフランス人)が死亡している。

 この種の衝突は、政府によればイデオロギーが原因であり、共和国と過激な宗教勢力との対立である。逆にホウシー派によれば、宗教マイノリティの抑圧に対する抵抗である。政府の側は、2008年7月の停戦後に大規模な復興計画を進めていると主張する。ホウシー派の側は、戦闘も挑発も止んだことはないと主張する。サアダ紛争が泥沼化している背景には、こうした非難の応酬に加え、多数の要因が存在する。

 停戦や調停(2007年のカタールによるものなど)にもかかわらず、2004年から紛争が続いている原因の一つは、政権内部の対立関係と絡み合った経済利権の出現である。最大の争点は、サウジ向けの密輸および紅海沿岸部の掌握だ。紅海沿岸部を掌握すれば、アフリカの角(ソマリア、エチオピア、ジブチ)向けのディーゼル燃料や武器の密輸には都合がよい。軍事用の武器は一部の高官によってネコババされ、一部は輸出され、一部は皮肉なことに、地元の仲介業者経由でホウシー派に売り払われている。

 1978年から政権の座にあるサレハ大統領の後継者問題が、政権内部の競争を煽っている。その中心は、大統領の息子アフマド・アリ(特殊部隊および共和国防衛隊のトップでもある)と複数の大物軍人である。つまりサアダ州は、代理戦争の舞台となっているのだ。ライバル関係にある派閥が、経済的資源の掌握と現地の実効支配をめぐって争っている。2008年5月には、戦闘地域がサヌアの北方25キロのバニー・フシャイシュ地区にまで及んだ。このとき、2004年以来初めて特殊部隊が投入され、それが功を奏したことは、サアダ州での国軍の劣勢とは大違いだと喧伝された。

 紛争の泥沼化のもう一つの原因は、部族の存在感が増していることだ。さまざまな部族が、政府の側かホウシー派の側に民兵として加わっている。また、政府は2008年6月に、サアダ州近辺の部族を中核とした「人民軍」を編制するという計画を打ち出した。こうした中で、サアダ紛争は、部族意識に根ざした報復とかたき討ちを助長する暴力の連鎖と化している。2009年初めに、政府が復興資金を投入した際、数カ月前には国軍に協力的だった一部の部族が、ホウシー派との妥協を受け入れず、道路を封鎖し人質を取ることで政府に圧力をかけようとしたほどだ。このような「部族化」という顕著な側面からして、ホウシー派には政治的な意図があるという見方や、一部の政権関係者が煽っているようなスンニ派とシーア派の対立が紛争の原因だといった見方は、考えものだろう。

 サアダ紛争は今や、北部高原地帯の2つの主要部族連合間の古い敵対関係と重なり合っている。一方はハーシド部族連合で、政府側についている。他方はバキール部族連合で、ホウシー派を支援する部族が多い(5)。単純に割り切れるものではないにせよ、このような分析によって、戦闘地域がサアダ州から徐々に拡大し、ハーシド部族連合の主要部族の一つであるウサイマート部族の拠点のそば、アムラーン州ハルフ・スフヤーン地方にまで及んでいることを説明できる。部族対立の悪循環という観点は、この戦争がイエメン北部の他の地域、特に東のアル・ジャウフ州、南のアムラーン州、西のハッジャ州に拡大し、地域一帯を不安定化させる恐れのあることを浮き彫りにする。

暴力集団の伸長を助長

 紛争の泥沼化には、地域諸国のあまり建設的とは言えない関与という要因もある。2007〜2008年にかけ、カタールの調停によってドーハで交戦当事者が合意文書に調印したが、期待された効果は上がらなかった。戦闘が再開されたことでカタール政府は手を引き、サアダ州の復興と発展に資金援助するという約束を反故にした。隣国サウジの役割は、控えめに言っても不明瞭である。伝統的な勢力圏であるイエメンに対するカタールの影響を抑えるために、カタールの調停をつぶしたのだという非難すら出るほどだ。サウード王家は公式にはサアダ戦争をイエメンの内政問題とする立場をとっているが、サウジの関係者の中には、イエメン軍や部族民兵に資金援助することで、戦闘の続行に手を貸している者もいる。

 他方、米国とEUは、テロ対策を極度に重視し、平和的解決をそれほど追求しなくなったことで、結果的にイエメン政府に白紙委任状を与えている。かつて米国をはじめとする同盟国から、「グローバルな対テロ戦争」への取り組みに熱心ではないと非難されたサレハ政権は、ホウシー派はテロ集団だと主張できる立場に立った。さらにはアル・カイダとのつながりにまで言及しているが、ホウシー派がシーア派のザイド派であり、サラフ派の教義を批判していることからすれば、その信憑性は薄い。

 極めて暴力的なサアダ戦争は不安定化要因となり、イエメン北部における中央政府の権威をさらに弱体化させている。戦争経済、慢性的な不安定性、反乱弾圧があいまって、アル・カイダに近いグループも含めた暴力集団の伸長を助長している現状だ。

 まだ真相は明らかになっていないが、2009年6月、サアダ州の病院で働いていた外国NGOのメンバーが誘拐され、そのうち3人が処刑された事件は、こうした望ましからぬ展開の例証である。イエメン政府は最初、ホウシー派の犯行だと言明したが(6)、スンニ派暴力集団の関与の方が真相に近いだろう。

 2009年の初め、ウサマ・ビン・ラディンの秘書を務めていたとされるイエメン人のナセル・アル・ウハイシが、サウジのグループとイエメンのグループを統合し、アラビア半島のアル・カイダ創設を宣言した。2007年の初めから、アル・カイダとつながったグループによる攻撃(特に2008年9月の米国大使館に対する攻撃)が、サヌアと旧南イエメン南部で続発している。北部の諸州では今のところ、類似の事件は起きていない。

 他方、1990年に南北イエメンが統一された結果、旧南イエメンの諸州では、2007年から激しい抗議運動が続いている。旧南イエメンの住民が自分たちを差別の犠牲者だと見なしているからだ。中央政府による弾圧が強まるにつれ、抗議運動は次第に公然と分離主義に傾くようになってきた(7)

 サレハ政権は長らく、予想に反して一定の安定維持に成功してきた。だが、そのもろいバランスは、数々の危機の発生と後継問題によって危うくなっている(8)。イエメン国家が衰退に向かう可能性もある。そうなれば、中東全域に予測不可能な影響を引き起こすことになる。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2009年10月号)

* 小見出し「暴力集団の伸長を助長」直前の段落「不安定化させる恐れのあることをを浮き彫りに」を「不安定化させる恐れのあることを浮き彫りに」に訂正(2009年11月2日)