サパティスタは流行遅れになったのか?

ベルナール・デュテルム特派員(Bernard Duterm)

ルーヴァン大学ラ・ヌーヴ校 三大陸センター所長、ベルギー
http://www.cetri.be

訳:日本語版編集部


 2009年8月13日、メキシコ政府は最高裁判所の決定を受け、20人の民兵を釈放した。1997年12月にチアパス州アクテアルで、45人の先住民族ツォツィル族を殺害した罪に問われていた者たちだ。これほど表立った形ではないにしろ、チアパス州のサパティスタに対する弾圧は現在も続いている。彼らは「下の左から」の抵抗運動を展開し、地に足をつけて、自分たちの「自治」を実践している。しかし、国政レベルでは孤立している感がある。[フランス語版編集部]

 「ここから先は、蜂起したサパティスタの土地です。ここでは人民が命じ、政府が従います」。時の流れで古び、さびだらけになってはいるが、反乱勢力の土地の入り口に掲げられた大きな金属製の立て札は、今もしっかりと目立っている。ここチアパス州オベンティックでは、15年ほど前から「事実上の自治」が続いている。それは21世紀に入ってから、さらに決然たるものとなった。サパティスタたちは、2001年にメキシコシティへの行進が不首尾に終わった後、戦略のローカル化を徐々に決めていった。彼らは首都の中心部で100万人以上の支持者に迎えられつつ、政府に対し、1996年2月16日に交わしたサン・アンドレス合意で約束されていた憲法改正(1)を要求しに行ったが、無駄足に終わったのだった。

 以後、サパティスタは隠棲の時期に入る。メキシコ、アメリカ、ヨーロッパの支持者たちは、当初は理解に苦しんだ後、制度を通じた政治変革の道を完全にあきらめてしまったものと解釈した。しかし、数千人のマヤ系の農民たちが差別や疎外に苦しんだ末に、1994年1月1日に武装蜂起するまでに至ったチアパスの地で、「もうひとつの世界」を作り上げようとする試みは、この尋常ならざる蜂起の具体的な結晶となっているのだ。

 2003年、サパティスタを支持する40ほどの市町村が5つのカラコル(自治区)に分かれた。オベンティック、モレリア、ラ・ガルチャ、ロベルト・バリオス、ラ・レアリダである。それぞれの行政にあたる「善き統治評議会」が組織された。コミュニティの代表者として、男女の別なく、1週間から2週間の間、順番に責任を担う。集団制で、上下関係がなく、輪番制をとる組織だ。汚職に手を染めたり、日常的な関心から遊離したりといった権力の罠を避ける最良の方法だと、現在もサパティスタ運動のスポークスマンを務め、サパティスタ民族解放軍(EZLN)を統率するマルコス副司令官は言う。実際に、うまくいっているのだろうか。

 これらの自治区が地上の楽園ではないにしろ、不登校、栄養不良、幼児死亡(いずれも1994年以前は国内最悪)は減少している。サパティスタ運動の女性たちが1993年から要求していた「禁酒法」の厳格な適用により、それまで慢性的だったアルコール依存症は減り、それとセットになっていた家庭内暴力や女性虐待も減った。

 司法分野はコミュニティの慣習に依拠しており、伝統的な長老支配の側面を排除してもなお問題なしというわけではないし、「司法の複数制」という複雑な状況を醸し出している。とはいえ、たとえば人類学者のマリアナ・モラによれば、モレリア地区では、サパティスタ派のメスティーソや先住民も非サパティスタ派の人々も、土地争いや盗難、離婚といった問題解決のために、今では「公的な手続きを踏むよりも自治区の機関に訴え出る」ほうを選ぶようになった。自治区の機関のほうが「公正」で「効果的」だと確信しているからだ。

 当然ながら、経済分野ではそれ以上に問題を抱えている。自治区では、政府の恩顧や扶助が2003年から退けられたかわりに、今度は国内外のNGOの連帯に依存するようになった。NGOの場合は、サパティスタの動向や関心事を政府よりも尊重してくれるとはいえ、援助が不確実であったり何らかの義務を課してきたり、という構造は解消されないままだ。しかも、先住民が暮らすチアパス州の農村地域全体は、国内外の経済への統合によって、控えめに言っても不利益を被り、その代償をいまだに払い続けている。それを証拠立てるのが人口流出であり、蜂起したコミュニティからは大量の人口が流出している。チアパス州の先住民は、サパティスタ派であろうとなかろうと、メキシコ国内のカンクン、あるいは米国かどこかに行けば、やせたわずかな土地にしがみついてトウモロコシを作るよりも、楽に暮らせることを知っている。米国のアグリ産業の余剰作物のはけ口を作った1994年の北米自由貿易協定(NAFTA)以降、トウモロコシ作りは採算が合わなくなってしまった。

政府の反乱鎮圧戦略

 天然資源の豊富なチアパスが、投資先となっていることに変わりはないが、農業、石油、天然ガス、林業、鉱業のいずれであろうと、今の形のままでは、投下資金は米国、コロンビア、スペイン、その他の国々の資本を潤すばかりだ。こうした強奪の最も極端な、つまり最も目につく側面は、この地の観光市場の構造である。「絵になるインディオ」や、コロンブス以前の時代の「神秘的」な遺跡、「残された華麗な自然」を備えたチアパスは、気軽な異文化体験や、エキゾチックな背景人物、魔法のような感覚を求める旅行者にとっての夢の行き先と化している。旅行者が殺到することで第1に利益を得るのは、「オールインワンのエコツアーパック旅行」を提供する一握りの国際的なツアー会社であり、70%が栄養不良に苦しむマヤ系住民ではない。

 サパティスタはアグア・アスル滝の入り口で、うっとりした旅行者を引き連れた旅行会社から、日常的に少額の入場料を「まったく違法に」徴収している。しかし、市場構造の転換への足がかりとなるようなものではなく、奪われているものを取り戻したいという正当な意思を無害な形で象徴的に表現したものでしかないと言える。

 サパティスタの司令官たちによれば、彼らの自治プロジェクトと「保健衛生や経済面での有望な成果」にとっての最大の脅威は、メキシコ政府当局が数年前から本腰を入れている反乱鎮圧戦略だという。バリエーションはいくつもあるが、EZLNの軍事的一掃、あるいは逆に交渉妥結に伴う政治的代償を引き受けるかわりに、自治区の人々への身体的・心理的な嫌がらせを積極的に続け、反乱住民の疲弊を期待するという1994年以来の戦略だ。

 蜂起地域に網の目のように軍を置く(メキシコ国軍の基地や哨戒所が118カ所あり、そのうち57カ所はコミュニティの土地にある)。住民を脅迫したり、強制移住させたりする。民兵グループに地域の「仕切り」をさせる。電気を止めるなど、各種の破壊活動を行う。サパティスタ派が占拠する土地の権利書を付与するなどの手段により、先住民の農民組織の分断や紛争を煽る。こうした政府側の嫌がらせによって、状況は悪化している。以前からずたずたになっていた社会のどこかしらで、多少とも暴力的な小競り合いがあったという話が、1週間に1度は必ずある。

 サパティスタのコミュニティに近い地元のNGOは、楽観的な見方を保っている。「EZLN自身も支持層の数を把握できない。離れる者もあれば加わる者もある」が、確かに「10年前に比べると減った」と言う。しかし、サパティスタが間違いなく「反体制的」で「不可逆的」、しかも「かつてないほど固い決意」をもって「長期的に臨んでいる」運動であるとの確信は揺るがない。「エコロジーにも配慮した農業生産団体が、教育システムや医療システムと緊密に連携しながら、自治を実りあるものにしている」と見る。

 とはいえ、サパティスタは蜂起運動ゆえの脆弱さを抱えているだけでなく、チアパス以外では政治的に孤立している。マルコス自身も「サパティスタ運動は流行遅れになってしまった」と認めている。メキシコ左派の中には、その原因はマルコス自身にあるという声が多い。メディアで大きく取り上げられた現象が飽きられたり、社会運動が停滞したりすることは避けられないものだが、メキシコ左派の批判の主眼はマルコスの国内的、国際的な戦略にある。

理念に命を吹き込んだ実績

 サパティスタ運動に対して組織、知識人、運動が徐々に距離をおくようになった理由は複数あるが、亀裂を決定的にしたのは2006年の大統領選挙である。マルコスは公式の選挙戦と並行して「もうひとつの選挙戦」を打った。彼の意図は「下の左から」の闘争の鼓舞と連携にあった。しかし、世論の印象に残ったのはむしろ彼の「反政治性」であり、とりわけ左派の有力候補者アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドールに対する執拗な攻撃だった。理由のない攻撃だったわけではない。同候補の所属する革命民主党(PRD)は、チアパス州でも国会でも、しばしばサパティスタの大義を「裏切った」。チアパス州ではサパティスタ派の先住民とPRD派の先住民の間で、死者を出すほどの衝突が散発した。2001年には、サン・アンドレス合意を反故にするに等しい「先住民法」に、PRDは賛成票を投じた。政治的には日和見主義であり、党内には明らかに汚職がある。ロペス・オブラドールの経済政策は曖昧だ、等々。

 だが、マルコス副司令官の攻撃にいらついたメキシコ左派の多くは、立場の違いを超えて、ロペス・オブラドール候補を一丸となって支援した。選挙直後に、新自由主義的な右派候補のフェリペ・カルデロンが当選し、自派候補が敗北するという結果に不正があったと抗議した際には、左派はいっそう団結した。

 マルコス副司令官に向けられる非難は、「尊大な態度」や「政治的な紆余曲折」といった点にとどまらない。他の南米諸国の革命運動を見下し、傲慢の罪を一度ならず犯し、進むべき道を確言してみせる一方で、導き手になるつもりはないと繰り返すことで、メキシコ政治からも国際社会からもサパティスタ運動を「自主排除」してしまった、と非難されている。頭脳明晰なマルコスは、いくつか状況判断を誤ったことを認める。彼はとりわけ、自分がメディアに大きく取り上げられたことで、EZLNと言えばマルコスだとなってしまったことを後悔する。しかし、つい先日まで、彼を蜂起運動の素晴らしいスポークスマンだとほめそやし、彼がいなければ世界の注目は2日ともたなかっただろうと言っていた人々が、彼はだめだと言い出したことに対して、マルコスは呆れてもよいはずだ。

 孤立状態にあることは事実だが、単純な見方をすべきではない。EZLNは、決起するマイノリティ(社会的、人種的、性的、世代的マイノリティ)を求めて国内を行脚した「もうひとつの選挙戦」そのままに、「左派の反資本主義的国民運動の可能性」への信念を今も公式見解としている。それは、上下関係のない、底辺からの運動であり、代表や仲介、政治機構といった仕組みの外で展開されるものとなる。2009年初頭にはチアパスで、蜂起15周年を記念して、「尊厳ある怒り」集会と銘打たれた新たな国際会合が開かれた。1996年の「銀河間会合」に比べると規模は小さかったが、それでも極めて多様なラテンアメリカの知識人と政治家、それにビア・カンペシーナ(2)など内外の先住民や農民の運動組織が、この「突然のイベント」に駆けつけた。

 このメキシコの辺境の蜂起運動には、彼らが今後どのような道をたどることになるにせよ、地元に深く根を張りながら、今では全世界で掲げられるようになった理念に命を吹き込んだという実績がある。その理念は、民族と政治を結び付け、富の再分配という課題と承認という課題を結び付けるものだ。彼らは最初は武器を手に、その後は平和的に、状況に応じ、力関係を見定めながら、戦略を適応させながら、運動を続けてきた。「我々はそれぞれ異なるからこそ平等でありたい」と、サパティスタの司令官たちは、奇妙にも彼らのアイデンティティ表明のシンボルと化した覆面の下で繰り返す。

 彼らが1994年に「民主主義、自由、正義」のために蜂起した後、憲法の改正や、制度の脱植民地化、メキシコの民主化を成し遂げられなかったのは事実である。しかし、政治的に行き詰まり、グローバル化した経済の嵐に翻弄されるメキシコで、サパティスタは社会の選択に影響を及ぼす気概を保ち続けている。

 サパティスタ運動は、メキシコ、ボリビアその他の国々で展開されている先住民運動の一翼を完全に担うものだ。多様性の承認を求める運動は、必ずしもアイデンティティの硬直化や「文明の衝突」を伴うわけではなく、社会正義と法治国家を求める闘争と手を携えていくことができる。諸国の先住民運動がそれを微力ながらも証明している。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2009年10月号)