新疆ウイグル、2009年

マルティーヌ・ビュラール特派員(Martine Bulard)

ル・モンド・ディプロマティーク編集部

訳:日本語版編集部


 経済の回復を図っているさなかの中国にとって、南のチベット、北の内モンゴル、西端の新疆といった辺境地域が、あるいは公式には50余りあるとされる少数民族が、脅威として出現しているのだろうか。いずれにせよ、中国で騒乱が頻発するようになったことは事実だ。2009年7月にウルムチで、テュルク語系のイスラム教徒と多数派の漢族との間で起きた衝突はすさまじいものだった。北京政府はそこに、中国を揺さぶろうとする国際的な陰謀の影を見ている。インドに亡命中のテンジン・ギャツオ、つまりダライ・ラマ14世に続いて、ワシントンに亡命中の世界ウイグル会議のラビア・カーディル議長が糸を引いているというのだ。しかし北京政府が違う政策をとっていれば、この2人の指導者がこれほどの影響力を持つことはなかっただろう。ウイグル族はいくつもの要因に苦しめられている。第一に「漢化」である。北京政府の政策だけによるわけではないにせよ、ウイグル人の疎外につながっている。第二に、急速な近代化もまたウイグル人の排除を招いている。第三に、観光産業の急成長によって、ウイグル文化は単なる風習に成り下がりつつある。[フランス語版編集部]

 中国の西の果てへと向かう旅は、パリ近郊の地下鉄シャトー・ド・ヴァンセンヌ駅、ありふれたブラスリーの奥で始まった。怯えたまなざしで両手を震わせた1人のウイグル人。私服のフランス人警官が護衛に付き添っている。取材に来た相手を見つめ、ジャーナリストを騙る中国公安関係者ではないかと疑っていた。彼は在外反政府派の運動組織である世界ウイグル会議(1)のメンバーであり、フランスから政治亡命を認められたばかりだった。その身の上話はオーソドックスだ。新疆の職場での不当な扱いへの抗議、逮捕、収監、逃亡。それ以上のことは我々には知りえなかった。この平和な場所での彼の怯えようは、苦笑を誘うようなものかもしれない。だが、そこには、テュルク語系イスラム教徒の反政府派が中国でどれほどの精神的、身体的抑圧を受けているかが示されている。

 その数日後、北京から4000キロ近く離れた新疆ウイグル自治区の区都ウルムチでは、緊張の気配はまったくなかった。2009年5月のことだ。ウイグル人地区に入っても変わりはない。自治区には、ウズベク、カザフ、キルギスといったイスラム系少数民族と、一部は数世代前にさかのぼる漢族の世帯が共存している(漢族は、中国全土でもウルムチでも多数派だが、自治区全体では少数派である)。付近の小さなモスクは誰でも自由に出入りできる。先ごろ塗り替えられた大市場のそば、露店が立ち並ぶやかましい路地では、商人たちがてんで雑多なもの、櫛、染料、薬草、テレフォンカード、スカーフなど、それに鶏や羊の串焼きと麺のセットを売っている。ウイグル人は、漢人の食生活の基本である豚も米も食べないのだ。この点ひとつとっても両者の違いは大きい。

 だが2009年7月5日から8日にかけて、この界隈や付近の地区で、とりわけ新疆大学の前で、空前の暴力行為が展開されたのだった。棍棒、ナイフ、その他の即席の武器を手にしたウイグル人デモ隊が、何時間にもわたってバス、タクシー、パトカーに火を放ち、商店を襲撃し、漢人に殴りかかり、リンチを加えた。すぐ翌日には、漢人が反撃の狼煙をあげ、ウイグル人を殺し、負傷させた。7月末の公式発表によると、死者197人、負傷者1684人である。ただし、民族ごとの正確な被害者数は明らかではない。

 2カ月前には、このような民族間の衝突を誰も想像だにしていなかった。とはいえ、侮蔑に加え、嫌がらせを受けることも多々あるウイグル族の側に怒りが溜まっていることは、当時すでに感じられた。ウイグル人とのアポは、相手が活動家かいなかにかかわらず、平凡には運ばなかった。何度も電話をかけ、公共の場所で落ち合い、歩きながら会話し、人影のない通りで別れる。見たところ同化の度合いが高いウイグル人が相手でも、共産党幹部(漢人)に紹介されることもある。隠し事は何もないと証明するためだ。外国人の訪問を受けた者は、直ちに「民族主義的活動」を疑われる可能性がある。それは(テロに次ぐ)最悪の罪状であり、失職や降格、警察への出頭、逮捕、さらには収監につながりかねない。

 ウイグル人土木技師のアブデルラフマン(2)によれば、「ウイグル人に対しては嫌疑と抑圧がお定まりだが、漢人も政治活動を疑われれば身の不安を感じるだろう」。彼は、ウルムチでも定評のあるウイグル料理のレストランに我々を招待した。漢人も、スカーフの女性あるいはジーンズにお化粧の娘が混じったイスラム教徒の家族も、外国人旅行者も訪れる店だ。

 アブデルラフマン自身はさほど心配していない。彼は小さな会社を興し、様々な民族からなる5人の従業員を雇っている。ただ、ウイグル人に対する差別行為について話す時は声をひそめ、学校教育の内容について人に聞かれずに批判する際には手のひらに書いた。「洗脳だ」

 監視はどこでも行なわれている。モスク周辺は言わずもがなだ。新疆南部のカシュガル(公式名称は喀什)のモスクも例外ではない。最大2万人が集まる金曜日の礼拝には、お世辞にも控えめとは言えない私服警官が張り付いている。いずれにせよ、イマムの任命には地級行政当局の承認が必要とされ、説教も規制を受けている。「中国におけるイスラムの歴史」を述べた新疆ウイグル自治区政府の公式ウェブサイトは、身も蓋もないくらい愚直だと言うべきか、宗教指導者(細心の注意を払って選任)と中国共産党指導部が、一連の説教を練り上げたことを記載している。20分から30分に制限された(時間超過は厳禁の)説教は、4分冊に収められ、イマムはその中から選ぶだけだ。

 昔からこうだったわけではない。1954年の中華人民共和国憲法では、宗教の自由が謳われた。60年代半ばまでは、イスラム教徒はさしたる障害もなしに信仰活動を実践できた。カシュガルでガイドを務めるアフメドは今でもよく、まだ幼い頃に祖母がスカーフを着け、近所の女性たちが目だけ出して顔全体を長いスカーフで隠していたことを覚えている。66年に始まる文化大革命の暗黒時代に、モスクは閉鎖あるいは破壊された。家族の間でさえも、宗教的なしるしを顕示することは不可能だった。弾圧が終わったのは、トウ小平が経済開放政策を始めた78年のことだった。82年の憲法改正により、信教の自由が再び保障されるようになった。

 文革が終わった時点で、イスラム教の中心地のひとつであるカシュガル地区には、使える状態の宗教施設はたった392カ所しか残っていなかった。施設の数は、1981年末には4700、95年には9600にまで増えた。ウイグル人運動に関するフランスの専門家であるレミ・カステによれば(3)、2000年代に入ると「新疆は2万4000、つまり中国全土の3分の2に相当する数のモスクを数える」ようになった。イスラム学校が開設され、イスラム学者の著作が日の目を見、民営編集の出版物が刊行された。宗教の伸長と並行して、ウイグルの文化と民族意識が息を吹き返した。

主要産業を握る「兵団」

 しかし、1990年代半ばには事態の悪化が始まった。1つめの要因は、イスラム教の政治化である。メシュレプという一種の地区ごとの宗教委員会で、時には権利要求団体の性質も帯びる組織が、各地で創設された。アル・カイダとのつながりがささやかれる東トルキスタン・イスラム運動のような運動組織も結成された。もう1つの要因は、中央アジアの旧ソ連諸国の独立が国境を越えた影響を及ぼして、それまでことさら主張されることのなかった自立解放への希望をかき立てたことだ。国境の両側にまたがる「ウイグリスタン」の樹立を唱える者もいる。フランスとスペインにまたがるバスク人の中に、バスク独立を夢見る者がいるのと似ていなくもない。

 ウルムチの古典文学教師サニヤは、92年初頭の親類との再会をいまだに思い出す。文革の時代にウズベキスタンに逃げた母方のおばがウルムチに戻れるようになった時のことだ。「次は私たちがタシケントを訪問する番だった。それは衝撃だった。ウズベク人が私たちより良い暮らしをし、テュルク系ムスリムの伝統を私たちよりしっかり維持していることが見て取れた。と同時に、宗教の重圧は(まだ)なかった」。その日から、と彼女は続ける。「独立の問題がとても大きくなった。新疆とウズベキスタンの間には、なんの文化的、宗教的、言語的な障壁もない。タシケントではよく、『あなた方は何を待っているのか。我々は成功した。ほら、あなた方も』と言われた。ウイグル人としての誇りが問われていた。駆り立てられるような気持ちだった」

 おそらくこうした感情が、ウイグル民族運動組織の誕生につながった。独立を求めるものもそうでないものもあり、パキスタンやトルコなど外国にも拠点を持つものもある。1990年から2000年にかけ、住民の間で大きな反響を呼ぶことはなかったものの、デモや衝突が頻繁に発生した。それに対して、中国政府は3つの対策をとった。1つめは外交である。「3つの勢力」(過激主義、分離主義、テロ)を抑え込むべく、上海協力機構などを通じて、ウイグル人活動家と中央アジア諸国やパキスタンとの連絡を断つ。2つめは、経済開発と近代化である。公的資金の投下をちらつかせ、新疆生産建設兵団(軍に所属)を基盤とし、自治区に漢人を呼び込む。3つめは、厳しい監視体制と弾圧である。

 レミ・カステはこう分析する。「中央政府の狙いは、イスラム教そのものの攻撃にはない。最大の狙いは、分離主義的または反政府的な主張が、イスラム教によって正当化されるのを回避することだ。中国共産党の頭には、回族が一種の手本になるという考えがある」。中国最大のイスラム共同体(1000万人)である回族との関係は確かに平穏であり(4)、政府はウイグル族とも同種の合意を結ぼうと考えている。

 政府の推算によると、2000年以降に新疆に投下した資金は8700億元(約12兆円)にのぼる。経済開発の動きはあちこちで目に入る。豊富な一次産品(石炭、石油、ガスなど)が開発され、新エネルギーの開発も促進されている(ウルムチとトルファンを結ぶ高速道路には、見渡す限りに広がる風力発電機群[5]の前で中国人が記念写真を撮れるよう、サービスエリアが設けられた)。巨大な新都市が開発され(たとえばコルラは、露店の商店街が集まる町だったが、そこに石油会社の本社が進出した)、空港や高速道路の建設も進められている。ここかしこが工事現場と化している。工事などすべきではない場所までもだ。カシュガルでは、古くからのウイグル人地区が取り壊されかけている(6)

 一次産品と農業食品業、また規模は落ちるが観光業といった主要産業は少なくとも半分以上が、かの新疆生産建設兵団、通称「兵団」に属している。中国辺境の新疆について多少とも理解するには、この国家内国家のことを知っておくことが重要だ。国境警備と開拓に特化して、1954年に創設された軍隊である。国共内戦終結後に動員解除された兵士や、農村に文明をもたらすのだという信念を持った共産党員、再教育のため強制労働キャンプに移送、あるいは追放された(党員あるいは非党員の)漢人などからなり、その中には「右傾」を非難された有名な作家で党員の王蒙もいた(7)。当時は中国各地(黒龍江省、チベット、内モンゴルなど)に12の兵団が置かれていたが、76年の毛沢東の死後、他はすべて廃止された。例外は新疆の兵団で、これまでにないほど旺盛に活動を展開している。

 兵団発祥の地であるシーホーズ(石河子)には博物館があり、社会主義的なリアリズムをもって兵団の歴史を讃えている。貧しい農民兵や、にわか作りの学校の児童を写した数十枚の黄ばんだ写真からは、当時の開拓精神が匂い立つ。博物館のハイライトは、一部屋いっぱいに広がった巨大な地図だ。そこには、自治区政府をはるかにしのぐ現在の兵団の力が示されている。現在も人民解放軍の統制下にある新疆生産建設兵団は、190万人の住民を束ね、管区で徴税に当たる。傘下には、商工業や建設業に従事する1500の企業グループがあり、上場企業もいくつかある。2つの大学も有している。新疆の耕作地の3分の1、工業生産の4分の1、輸出の2分の1から3分の2は兵団の手中にある。兵団は世界最大のケチャップ・メーカーであり、子会社の新疆中基実業を通じて、2004年にはフランスで、缶詰メーカーのコンセルヴ・ド・プロヴァンス社を買収したほどだ。象徴的な出来事がある。1996年に、新疆の安定維持をテーマとした歴史的な会議が開かれた際に、共産党政治局が党員に対し、「中国内陸部の若者たちが新疆生産建設兵団に加わるよう促進(8)」せよと発破をかけたのだ。

 漢族の比率が6%(1949年)から40.6%(2006年)に上がり、人口構成が偏向した原因はそれだけではない。往来の自由が完全に認められて以降、この「新たなフロンティア」で一財産築くつもりの漢人が移住してくるようになった。新疆よりもさらに所得の低い四川省、陝西省、甘粛省の貧しい農民(民工)も後に続いた。ぱっとしない仕事に従事し、かつかつの生活をしている彼らのことを、欧米のメディアは「植民地入植者」と形容することがあるが、それは控えめに言っても不適切な短絡だ。

就職難で溜まる鬱憤

 新しく移住してきた者の中には、国営企業の幹部もいる。給与はかなり良いが、生活条件はそれほどでもない。タクラマカン砂漠を横断する重要な交通網のひとつとして、ウルムチとホーテン(和田)の間に新たな鉄道の敷設が進められている。その作業に携わる技師のリュウ・ワンも、こうした国営企業幹部の1人だ。陝西省出身で、妻子に会えるのは旧正月の時だけだ。彼は漢人とウイグル人やカザフ人との間に、いささかの違いも見出しておらず、新疆全体を揺さぶる必要があると言う。「ここは、まだ社会主義なんだ」と断言する。褒め言葉には聞こえない。筋金入りの建設者かたぎのリュウは、行政ののろさを嘆く。「常に上層部に訴えかけなくてはならないし、保身を図る必要もある・・・」と愚痴をこぼす。公的資金が無駄使いされているわけだ。「高速道路が作られ、空港が作られ、ホテルが建つ。しかし、それに従業員の育成が追いついていない」。というわけで、リュウの建設現場では、技能を要する職は漢人に、それ以外の職はウイグル人に割り振られている。この理屈はくさるほど耳にした。カシュガルとホーテンを結ぶ道路で工事現場を通り抜けていた時に、ウイグル人のタクシー運転手までが同じことを言い出した。運転手は続けてこう言った。「もちろんウイグル人技術者もいる。でもドイツや日本から技術が持ち込まれるようになったというのに、彼らは外国に研修に行くことができない。渡航のためのパスポートが発給されないのだ」。事実、中国では、パスポートの発給は当然の権利ではない。県の上層部の裁量によりけりだ。技術者であれ、研究者であれ、一般市民であれ、少数民族に属する者にとって、パスポートの手続きは打ち破るべき障害の連続だ。しかも、渡航先の国の領事館からビザを受けるには北京まで飛行機で行かなくてはならないが、これも普通のウイグル人にとっては困難である。

 ウイグル人の就職難の理由として、もうひとつ言われることがある。言語だ。ウイグル人の多くは、漢人が多数を占める会社で用いられる中国語を話さないか、ひどく苦手である。ただし、北京にある中央民族大学の民族学・社会学学院の王建民教授によれば、「言語と民族はよく混同されます。企業が標準中国語を正しく話せることを求めるのは理解できますが、漢人であることを求めるのは尋常ではありません」。尋常ではないが、シーホーズ近郊の若手企業幹部に言わせると「そのほうが楽なのだ。少数民族の者がいると、食習慣が同じではないため、ハラルの食堂か何か、とにかく特別な食事を用意しなければならなくなる」。それに概して、いつでも故郷に送り返すことができる民工に比べ、「何か問題がある時、ウイグル人はなかなか収まらない」。こうしたわけで、若いウイグル人は高学歴でも就職が困難であり、鬱憤が溜まっている。ただ中国全体でも、大学卒業時に3人に1人が職にあぶれており、大差ない状況ではあるのだが。

 とはいえ、言語が障壁になっているのは紛れもない現実である。かつては、大多数の世帯で子供たちは少数民族向けの学校に通い、標準中国語は数ある科目のひとつにすぎなかった。それに農村部では学校の選択肢もなかった。それがウイグル人に今のようなハンディキャップをもたらし、母語で暮らせる唯一の場所である自治区から若者が出て行けない状況を生み出した。都市部のエリートは、こうした問題とは無縁だった。中国語を使う学校(ウイグル語は選択科目)に両親が入れたからだ。

 2003年以降、文学の授業以外は、最初の学年から中国語で教育を受けることが義務化され、ウイグル語は第二言語という位置付けになった。この措置が、漢族とウイグル族の決定的な対立要因となっている。多くのウイグル人はこれを「文化的虐殺」、あるいは土木技師のアブデルラフマンが言ったように「洗脳」と受け止めている。農村部では、カシュガルから遠く離れた村で会ったナディラの話のように、時には不条理きわまりない事態も起きている。彼女はウルムチ師範大学を卒業した若い教師であり、標準中国語を教える教師が他にいないため、子供全員を受け入れることができない。そこで「政治指導者たちが、二カ国語の学校に通う子供とそれ以外の子供を選別している」という。ただでさえ中国語を強制されることに総じて反発しているウイグル人世帯は、この恣意的な措置のせいでさらに恨みを募らせている。

 ウルムチ大学の学科主任であるウイグル人のナジムは、この措置を逆に、ウイグル人にとってチャンスと見ている。「これで、一つには母語を身につけることができる。固有の文化を維持するためには読み書きができないといけない。そしてもう一つ、知識、交流、仕事に使う中国語も学ぶことができる」。多くの中流家庭と同様、ナジムがむしろ危惧しているのは、富裕層がウイグル語の習得を次第に放棄し、子供たちの将来に備えて中国語で教える学校を選ぶようになることだ。両親がウイグル語を次第に話さなくなり、読み書きが失われていくという事態、「言葉というのはこうして死んでいくものだ」

 若者たちの舌鋒はもっと激しい。幼い頃から中国語で授業を受けたというアシアンは、年配の同僚男性が立ち去ってから持論を語った。「最初はウイグル語での授業を減らす。そして最後は消滅だ」。彼女が教育を受けた雲南省では、「少数民族の言葉はもう教育されていない」。そうやって時間をかけて民族意識を失わせるのだと彼女は言う。「教育によって、私たちの文化が単なる風習に成り下がってしまう」。これは紛れもない事実だが、ほとんどの漢人は認めようとしない。漢人の多くは、いつも文句ばかり言われているといらついている。たとえば写真家のチャン・ウィは、好戦的な姿勢でこんなふうに言う。「少数民族の人たちは、大学入試では加点制度によって優遇されている。公的機関の幹部要員にも特別枠がある。少数民族の作家は、漢族の作家に比べて作品が刊行されやすい」。そう言って、ある無能なウイグル人が本当に有能な漢人の代わりに選ばれたという例を出した。

歴史をめぐる争い

 2003年以降、行政トップは漢族と少数民族の二頭制とすることが法律で義務付けられている。しかし、多くの場合、指導権は漢人指導者が握っている。自治区の最高幹部もそうだ。首長はウイグル人のヌル・ベクリである。しかし、実権は漢人の党委員会書記である王楽泉が握り、1994年から圧政を敷いてきた。「彼は状況を理解する頭を持たず、何かを愛する心を持たない。人々の心の中に入っていかない」と北京に住む高齢の共産党員イ・ファンは言う。彼は今年7月に起きた騒乱を「中国の恥」と見る。王書記は、新疆の人々も文化も顧みることなく、「自由主義と弾圧」を組み合わせた政策を進めてきた。それは植民地主義的というより強権的な姿勢である。新疆は中国の一部であり、中国の国境線は国連も承認しているのだと、イは強調した。

 常のごとく、ここでも歴史は政治的に争われており、事実が大々的に動員され、さらには改竄される。カシュガルの埃っぽい博物館は、古い鉄のシャッターの南京錠が必要に応じて開けられるところを見ると、あまり来館者もいないようだ。入り口にはこう書いてある。「紀元前60年(・・・)、漢王朝の時代に地方政府が設けられた。それ以来、新疆は中国の一部をなす」。これは長い間の公式見解だったが、今日では放棄されている。この地の最初の住民が中国人だったという見解も同様である。タクラマカン砂漠でインド・ヨーロッパ系民族の見事なミイラが発見されたことで(9)、こうした説が否定されたからだ。オアシスの点在するシルクロードの途上にあった新疆は、様々な民族、文化、武将が混在していた。それを何かひとつの勢力圏に還元するなどというのは、話にならないほどばかげている。

 逆から見ても、ラビア・カーディルの世界ウイグル会議が言うように、「この地域の植民地化」は1949年に共産党がやって来た時に始まるという説は、フランスの多くのメディアも採用しているが、事実にまったく合わない。新疆に初めて中国の政治機構が置かれたのは、清朝下の1750年代である。反乱を受けて8代皇帝の道光帝が、(当時すでに開始されていた)同化政策の一環として「再建局」を設置した。現地の支配層は「腐敗しており、中央国家の政治の邪魔になる(10)」として、彼らに依拠するのを躊躇したからだ。新疆が中国領となったのは1884年のことだ。比較のために挙げると、ニューメキシコとカリフォルニアがアメリカ領となったのはその少し前、1846年と1850年のことである。

 たしかに、歴史は直線的には進まない。新疆には何度も独立の動きがあった。1864年から77年にかけてカシュガル首長国が樹立され、オスマン帝国、イギリス、ロシアに承認された。1933年11月から34年2月までは短期間ながら、東トルキスタン・イスラム共和国が建てられた。そして1944年から49年までは北部の3地区に、旧ソ連の衛星国である東トルキスタン共和国が存在した。これらの動きの背景には、レミ・カステが強調するように、「中国に張り合うほど強大な帝国や王国の後継者であるという感情」があった。

 実際には、ウイグル人の多くが求めているのは独立ではなく、民族としてのアイデンティティの尊重ともっと公平な待遇である。アブデルラフマンは「我々の暮らしは10年前に比べて良くなったとはいえ、いまだにしんがりだ」と言う。住民1人あたりGDPはシーホーズ(漢族が住民の90%)では1万5016元(約20万7000円)、アクス(阿克蘇、漢族30%)では6771元(約9万3000円)、カシュガル(漢族8.5%)では3497元(約4万8000円)、ホーテン(漢族3.2%)では2445元(約3万3000円)にすぎない。

 これほどの格差が民族の違いによって生まれていることで、ウイグル人はイスラム教へと向かっている。それが唯一の対抗の道であり、民族意識を確立する道であるからだ。最も原理主義的な流れが主流となる危険もある。全身を覆い隠し、目だけを出した修道服のようなブルカを着た女性とすれ違うことは、すでに珍しくなくなっている。聖戦を唱える過激主義運動は少数派にとどまっているが、あらゆる対話を拒否するならば、状況は一変してしまうかもしれない。

 ウイグル人をはじめとする少数民族は、様々な圧力に晒されている。彼らの文化を押しつぶす近代化、彼らを経済成長から排除する差別的待遇、彼らの特徴を打ち砕く強権主義の間に絡め取られている。分断線は宗教以上に、社会と文化の領域で引かれている。自治区という地位はリップサービスの段階にとどまっている。もし北京がそれに実質を与えていれば、新疆の現状は違っていたのではないだろうか。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2009年8月号)