2つの正統性をめぐるイランの抗争

アフマド・サラマティアン(Ahmad Salamatian)

元イラン国会議員

訳:土田修


 米政府は、4年あまり空席としていた在シリア大使を復活させた。それとともに、イスラエルへの圧力を強め、東エルサレム地区を含むパレスチナ占領地への入植の完全な停止(これを要求するのは初めて)、パレスチナ人が存続可能な国家を樹立する権利の承認、和平交渉の早期再開を求めている。オバマ大統領はさらに、イラクやアフガニスタン、核問題やイスラエル・パレスチナ紛争など、共通した利害関係にあるすべての課題について、イラン政府との対話を進める用意があるという。だが、6月12日のイラン大統領選挙で、不正投票に怒った反対派がデモを起こし、死者が続出し、暴力的に弾圧されたことで、対話の再開は微妙な問題となっている。イランの危機は、政権エリート内部の根本的な亀裂の表れである。それは、国民を政権の元へ結集させる意図の下、反欧米的ナショナリズムの高揚を招きかねない。[フランス語版編集部]

 「あと数カ月で任期が終わる人々のようにふるまってはいけない。さらに5年間の職務執行に向けて準備しなさい」。2009年6月12日の大統領選挙の9カ月前、ハメネイ師は政府首脳にこう語りかけ、自分が目をかけているアフマディネジャド大統領の再選を望む意向を公にしてはばからなかった。つまり、この最高指導者は、イランの現在の危機に責任がある。自らの権威を強め、あらゆる政敵を排除し、一切の改革の動きを封じることに決めたという点において。

 ハメネイ師に道を開いたのが、2005年の大統領選挙である。2期続いたハタミ政権に、国民は非常に失望していた。改革派はさまざまな自由を拡大したが、経済・社会問題への対策には無力だった(1)。2005年の選挙では、8人の立候補が認められた。投票率は62.8%と比較的高かったが、1回目で過半数を得た者はなかった。テヘラン市長だったアフマディネジャドは、このとき2940万票のうち570万票しか獲得していない。大統領選挙で初めて決戦投票が必要になった。

 改革派が候補を一本化できず、候補の1人だったラフサンジャニ元大統領が不人気だったことで、最終的にはアフマディネジャドが勝利した。彼は、軍や治安部隊、宣伝機関、それに最高指導者に牛耳られた富裕な慈善財団の支持を受け、従来の政治を一新すると主張した。演説の基調は、「正義」を軸としたポピュリズムだった。2003年のイラク戦争をはじめとする米国の干渉政策により、ナショナリズムや外国人嫌悪が高まっていただけに、「正義」という言葉は効果的だった。

 4年間の任期を通じて、アフマディネジャドはうまく計画通りに行動した。改革をストップし、ハメネイ師の盟友から厄介者に変わったラフサンジャニを排除した。だが、アフマディネジャドの好戦的な発言に満ちた外交と破滅的な経済政策は、反対派の広範な結集を促した。彼の再選への反対は、政権の上層部から社会の下層にまで広がっていた。2005年の決戦投票でアフマディネジャド支持に回ったオスール・ギャラーヤーン(原理主義者集団)でさえ、態度を留保した。こうした中で壊滅的な敗北を防ぐために、ハメネイの2人の側近、ラリジャニ国会議長とガリバフ・テヘラン市長が今回の大統領選挙に出馬しようとしたが(2005年にも出馬、ただし決戦投票は辞退)、ハメネイ自身に止められた。

 こうした条件下でのハタミの新たな立候補表明は、2009年3月に南部諸州で行った短い選挙運動の際に示されたように、熱狂的な支持を集めた。彼は政府系メディアの激しい攻撃にさらされた。政府系新聞ケイハーンは、ハメネイの個人的な代弁者でもある編集長の署名記事の中で、投票日前に暗殺されたパキスタンのベナジル・ブット候補と同じ運命をたどることになるとまで書いた。こうした脅しに遭い、それをハメネイがとがめ立てしない情勢を見て、正面攻撃をかわしたいハタミは撤退を決めた。

 このとき、1981年から首相ポストが廃止される89年まで首相を務めたミール・ホセイン・ムサヴィの不遇の時代は終わった。彼は妥協的な立場の候補、「(イスラム革命の)原理に依拠した改革派」として立候補した。そして改革派の支持だけでなく、アフマディネジャドの再選を支持しようとしないオスール・ギャラーヤーンの支持も集めようとした。

 長く続いた対イラク戦争の間、内閣を率い、革命新政権の主要な決定に加わったムサヴィは、「欧米的な自由主義者」ではまったくない。2003年にベイルートの米軍海兵隊本部が標的とされ、240人以上が死んだテロの黒幕だとして米国から非難されたこともある。しかしムサヴィは成熟し、1978-79年の革命の立役者となった多くの人々と同様、イラン体制は現代の世界に適応すべきであると考えている。ハメネイはそうは考えていない。

過熱したテレビ討論

 大統領選挙に「受け入れられる」候補者を選別する役割を担う護憲評議会は、12人のメンバーのうち8人がアフマディネジャド支持を打ち出しており、審査結果の発表を引き延ばそうとした。誰が候補者となるか未確定な状態を維持し、対立候補の運動期間をできるだけ少なくするために、法律上の期限をフル活用した。他方、アフマディネジャドは数カ月前から全国遊説を始めていた。彼は報道機関や、最高指導者に牛耳られた財団の支持を受け、しかも政府の資金を活用できる立場にあった。護憲評議会が(女性42人を含む475人の中から)4人の男性候補を認定したのは、法律上の期限最終日のことだった。

 こうしたお膳立てを整えた者たちは、事態をすべて見越したつもりでいた。彼らは2人の改革派候補、ムサヴィとキャルビ元国会議長の立候補を許した。この2人は票を食い合うはずだった。もう1人の候補者は、保守派のレザイ元革命防衛隊長で、独立系候補を名乗っていた。

 こうしてイランは、22日間の短い選挙戦に突入した。それは、お膳立てをひっくり返し、体制をも揺るがす激震を引き起こすことになる。国営のラジオとテレビは、選挙戦が公式に始まるまで改革派候補者をまったく出演させなかった。それに加えて、真偽も定かでない内紛の報道というかたちで改革派を日々批判し、反論の機会を与えなかった。最終的には、国営テレビは議論があまり広がりすぎないよう、候補者の直接対決を企画した。

 テレビ用のロゴの色を決めるくじ引きの結果、ムサヴィ候補は緑色になった。この色は後に「緑色革命」の色となる。

 一連の番組は過熱した。アフマディネジャドは当初より、防戦のために攻撃に打って出た。前例のない激しい論争は、イスラム共和国体制下で許される言論の狭い枠組みを打ち破った。数千万の国民が、夜遅くまでテレビの前で見守った。政府幹部たちが汚職を断じられ、大統領自身も嘘つき呼ばわりされた。ラフサンジャニはアフマディネジャドに公然と非難され、ハメネイに抗議の公開書簡を送りつけたほどだ。

 これらの討論で示されたのは、イラン人の自由への願望だ。すべてはまるで、イラン社会が民主化を遂げつつあるかのごとく進行した。公式発言にみられる好戦的な姿勢やいつもの教条的な態度が、急に嘘くさく聞こえるようになった。普段のレトリックでは立ち行かなくなったアフマディネジャドは、経済に関わる数字や指標を持ち出した。対立候補たちはすぐさま、それらの改竄を非難して、インフレや失業、経済の危機的状況といった問題(2)をうまく提起した。激しい議論は投票率の高さを予想させたが、投票率が上がればイスラム体制の根本的な矛盾が明るみに出る恐れがあった。その矛盾とは、体制の正統性の二重性であり、6月24日付のヘラルド・トリビューン紙の風刺漫画にうまく表現されている。「神権政治の説明」という題で、ハメネイが2人の有権者に「あなたが投票し、神が決める」と説明している。

 1979年に招集された最初の憲法制定議会に提出された草案には、国民主権に由来する大統領権限を定めるという規定があった(第6条)。しかし、宗教勢力が過半数を占めたこの議会は、神の主権の名の下に、大統領権限を宗教者の監督下に置くこと(ヴェラーヤテ・ファギーフ)を規定した(第5条)。その結果、立法・行政・司法三権に対する絶対的な統制権を持つ最高指導者が(第57条)、大統領大権の主要部分を横取りすることになったのだ。

最高指導者と大統領との緊張関係

 共和国の政策の基本路線を決めるのは最高指導者だ。彼は軍の最高司令官であり、宣戦を布告し和平を締結し、総動員令を発する。国民投票の開催も決定する。護憲評議会メンバー中の宗教関係者や、司法府代表、国営ラジオ・テレビの総裁、参謀総長、革命防衛隊長、軍と治安部隊の司令官を任命する。憲法上の三権を調整するのも、三権間の紛争を仲裁するのも最高指導者だ。一定の条件下で憲法の規定、さらにはシャリーア(イスラム法)の規定を無視することもできる(3)。最高指導者は、隠れイマーム(4)の現世における代理人として、ほぼ無制限の権力を握っている。

 イラン国家のナンバー2である共和国大統領は、国家財政の管理と経済・社会分野の日常政務を担当するにすぎない。しかも最高指導者と、国民による統制なしに最高指導者が取り仕切る非公選機関との、息の詰まるような監督下に置かれている。

 だが、大統領は直接選挙によって民主的な正統性を与えられている。その結果、大統領選挙は所期の目的を超えて、一定の枠と制約を伴いつつも、4年に1度の民意表明の機会となっている。普通選挙で選出された大統領と、国家の政治・宗教機関との正統性をめぐる抗争こそが、現在イラン政権上層部で展開している事態の最大の動因なのだ。

 革命から数カ月後の1980年1月、バニサドルが公選による初代共和国大統領になった。このときは95人が立候補している。バニサドルはホメイニ師と衝突し、1981年6月に、目下のイランを髣髴とさせる状況下で罷免されることになる。現在の最高指導者であるハメネイが、対イラク戦争時代の1981年から89年まで2期大統領を務めた際も、体制内の同様の緊張関係が噴出した。ホメイニはムサヴィを首相に任命することで、ドゴール将軍が「開会式と墓参」と呼んだ儀礼的な役割にハメネイを押し込めたからだ。

 宗教的権威にかけては異論の余地のないホメイニ師が1989年に死んだ後、新しい最高指導者の指名は難問だった。ホメイニ師の後釜に座ったハメネイ師は、ただのホッジャトル・エスラームにすぎなかったのが、一夜にして大アヤトラに格上げされている。まるで一介の司祭がたった一日で教皇になるようなものだった。その陰には、当時の大統領ラフサンジャニの意向も働いていた。

 2期のラフサンジャニ大統領時代(1989-97年)も、正統性をめぐる抗争を免れなかったが、重大な危機にいたることはなかった。大統領選挙の認定候補者の数は制限され(脇役でしかなくなり)、投票率は低下した。

 1997年の選挙では、投票率は79.9%にはね上がり、ハタミが改革派として確固たる地位を得た。彼は最高指導者に支持された候補者を打ち負かした。政権側の候補者しか勝つことのない大部分の中東諸国では考えられないハタミの勝利は、2つの正統性をめぐる抗争を白日の下にさらすものだった。2期にわたるハタミ政権とその改革の試みは、最高指導者による度重なる妨害に彩られることになる。最高指導者は、国民の異議申立の広がりが、自身の権力を脅かすことを見て取ったのだ。2005年の選挙で、ハメネイは意中の候補者を勝たせようとした。それがアフマディネジャドだ。

おかしな票数

 ハメネイは4年後の今回の選挙で、側近たちの忠告に耳を貸すことなく、いかなる犠牲を払っても再度アフマディネジャドを支持すると決めた。6月12日、有権者が投票所に押し寄せた。すべては平穏に進んだ。だが、まだ投票が続いている午後5時の時点で、テヘランの治安部隊司令官が、部隊を展開中であるとテレビで発表した。次いで、投票所や集票所から、候補者側の立会人が追い払われた。3人の対立候補者の共同抗議は何の役にも立たなかった。選挙結果の公表が予定されている内務省の一室は沈黙に包まれていた。その一方で、ファルス通信やその選挙関連サイトのラジャニュースといったアフマディネジャド派の報道機関が、おかしな数字を流し始めた。

 数時間後に、この票数を内務省が追認し確定したことで、驚愕はさらに広がった。票数はまず200万票単位で、投票所の名前も場所も明示しないまま発表された。次いで、数時間の沈黙の後、6月13日の早朝、同様に500万票単位で発表された。まず大統領派メディアが発表し、次に内務省が追随するという手順は変わらない。

 そのうえ、開票数が3900万票(投票率85%に相当)に達しても、各候補者の得票率は終夜ずっと一定していた。どの町でもどの地域でも、その土地固有の状況とは無関係に、有権者が各候補者に一定の割合で投票したかのようだった。州ごとの投票結果が出そろうには10日間を要した。

 公式データによると、アフマディネジャドは62.63%に当たる2452万7516票を獲得した。4年間の任期でガタがきて、経済情勢もはかばかしくないにもかかわらず、2005年の第1回投票で得た575万1000票のほぼ5倍ということになる。対立候補の1人キャルビは33万3635票と、2005年の15分の1しか獲得できなかったというのだ。

 さまざまな調査報告が、大がかりな不正行為を疑う人々の疑惑の火に油を注いだ。政府当局でさえ300万ほどの不正票を示唆した。チャタム・ハウス(ロンドン)の調査によれば、2つの州で投票率が100%を超す計算になる(5)。アフマディネジャドが公式発表ほどの票を獲得するには、保守派と中道派の票だけでなく、全国の州の3分の1で、改革派の票のほぼ半数を得る必要がある。さらに、保守派の候補者たちは、一般に信じられているのとは逆に、1997年、2001年、2005年の選挙でも明らかだったごとく、農村部ではむしろ常に評判が悪い。チャタム・ハウスの調査によれば、農村部で最も伸び悩むほどだ。大きな理由は、中央政権への不信感が激しい少数民族の居住地域であることだ。一体どういう奇跡によって、アフマディネジャドが2009年の選挙で過半数を獲得したというのだろう。

 さらに庶民階級、特に労働者階級は、これまでの経済政策の最大の犠牲者である。インフレは20%を超え、大規模な失業が真っ先に若年層に襲いかかっている。アフマディネジャドがいかにして彼らの支持を勝ち得るというのか。

 アフマディネジャドがハメネイから祝辞を受けた「勝利の祝賀」の翌日、テヘランと地方で数百万人のデモ参加者が、自分たちの票を横取りしたとおぼしき者に対する怒りの声を上げた。もしブッシュ政権が続いていて、戦闘的な発言を繰り返し、同盟国イスラエルを無条件に支持していたとしたら、主として中流階級に限られたイランのデモは、疑いなくもっとやりづらいものになっていた。米国への恐れや内政干渉への恐れを一部なりともイラン人から取り除いたのが、対話に向けたオバマ大統領の意志だった。この米大統領は欧州諸国やフランスの大統領と違って、主権国家に対する内政干渉を控え、抑圧を断罪するという両天秤の取り方を知っている。

 テヘランで起きている闘争と対決の帰趨は、史上最も深刻な危機の渦中にあるイスラム共和国の将来を左右するだけではない。内政面での姿勢の硬化が、反欧米感情を高揚させる可能性もある。そうなれば、米政府とイラン政府との対話はさらに困難なものとなるだろう。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2009年7月号)
* 註(1)のスペリングを訂正(2009年8月2日)