ツール・ド・フランスというビッグビジネス

ダヴィッド・ガルシア(David Garcia)

ジャーナリスト

訳:エマニュエル・ボナヴィタ


 ツール・ド・フランスは、間違いなくフランスの夏のビッグイベントのひとつだ。世界各地から参戦する自転車選手たちに、熱狂的な声援が送られる。しかし、その一方、1990年代後半からドーピング問題によるスキャンダルが後を絶たない。さらに、あまり明るみに出ていない部分がある。それは、ツール・ド・フランスが、ビッグビジネスでもあるということだ。ツールに参加するのは選手だけではない。主催者やスポンサーもいれば、ステージ(走行コース)に名乗りを上げる市町村もある。華やかな舞台の裏に、フリージャーナリストが切り込んだ。[日本語版編集部]

 「世界は年がら年じゅう様々な大事件に揺れているが、だからといってツール・ド・フランスを悪く評するなんて、耳がよじくれているとしか思えない。ツールの長所のひとつは、そうした事件を忘れさせてくれる点にあるのだから」とアントワーヌ・ブロンダンは述べた(1)。今は亡きブロンダンが墓場でよじくれてしまうかもしれないが、毎年夏が来る度に、ツール・ド・フランスが自ら悪評を作り出しているのは紛れもない事実である。メディアの過熱報道、金儲け主義、止まないドーピング。労働者が有給休暇を使って観戦に行く7月の大イベントだったツール・ド・フランスは、今や株主たちの手に落ち、大々的な広告の機会を提供する高収益の営利事業になってしまった。

 ツール・ド・フランスは「金の生る木」か。自転車レース礼賛本の編集者で、ツールの前ディレクターだったジャン=マリ・ルブランとも親しいクリストフ・プノーは息巻く。「この『7月の夢』をそんなふうに決めつけるのは、事業の仕組みを何も知らず、自分の考えに凝り固まった人だけですよ」。理由はこうだ。「この大イベントが準備万端とどこおりないことは、どなたも異論はないと思いますが、言うまでもなく、それには費用がかかります。リスクをとっている主催者が、多額と言われようと、配当を得るのは当然です。経済取引に基づいた社会におけるゲームのルールとはそういうものです」。このゲームでは、オーナーであるアモリ家がすばらしい既得権をもっており、総取りできる仕組みになっている。

 そういうわけでツール・ド・フランスは、アモリ・スポール・オルガニザシオン(ASO)の収入の70%を生み出しており、同社は、ほぼ常に20%の利益率をキープしている。アモリ・グループが2007年に上げた3900万ユーロの利益のうち、2900万ユーロはASOから得たものだ。この莫大な配当の最大の受取人が、社長のマリ=オディール・アモリである。資産総額2億2800万ユーロ、フランス長者番付166位の富豪だ(2)

 これは100%私有財産で、アモリ家は人目にさらさないよう心がけている。「ツール・ド・フランス社は、レースから生まれる収益のほか、ステージとなる市町村から開催料もせしめているくせに、財務諸表について1992年以降は公表も、商業裁判所文書記録課への提出も拒否している」。1998年のカナール・アンシェネ紙の報道だ(3)。その2年後、フェスティナ事件(4)の判決にあたったリール地方裁判所も、アモリ・グループが利益公表という法的義務への違反を重ねていることを強調した。この商法上の義務違反は1500ユーロの罰金、再犯なら3000ユーロの罰金に処される。つまり第5級の違警罪でしかなく、抑止効果があるとは言えない。

 基本的には、ツール・ド・フランスに資金を提供している公的アクターが、民間のパートナーたるASOに対して会計報告を求めるべきだ。だが、彼らはまったくそうしようとはしない。全仏県連合会(ADF)会長のクローディ・ルブルトンは、真顔でこんなことを言う。「儲けているらしいと察知したら、ASOに会計報告を求めますよ」。しかし、彼が県会議長を務めるコート・ダルモール県も含め、ツールの黒字は広く知れわたっている。「カネは友を呼ぶ」というわけだ。コースとなる道路を通行止めにするために、ASOはADFに毎年27万ユーロを支払っている。県の側からすると、この少額の収入に加え、大した支出もせずに3週間にわたる宣伝効果を期待できることになる。

 細縁のメガネに銀髪の、60がらみのエレガントな紳士で、全国社会党議員連盟(FNESER)の会長という肩書きももつルブルトンは、1995年にツール・ド・フランスのスタート地となったことが、コート・ダルモール県にどれほどの経済効果を及ぼしたかをとくとくと語った。「スタートの8日前には、ホテルやレストランが満員でしたよ。4500人規模のキャラバン隊がやって来て、1人あたり150〜200ユーロを落としていくわけですから、いくらになるか計算してみてください」。一言で言えば、「ツールはすばらしい宣伝手段です。テレビで広告を打つのに比べ、コストパフォーマンスは圧倒的に優れています。採算がとれる、なんてものじゃないですよ」。だから「この機を逃すわけにはいきません」というのが締めくくりの言葉だ。ASOが法律をなあなあで済ませても、大目に見るしかないというわけだ。

主催者は黒字、競技連盟は赤字

 ルブルトンと同じくブルターニュを地盤とする社会党の政治家で、レンヌ前市長のエドモン・エルヴェの意見は、やや厳しいとはいえ大差ない。「きちんと透明化を求めていく必要があります。そのためには、各市町村が一致してツール・ド・フランス社と交渉しなければなりません。この問題に取り組むのは、全仏市町村長協会とADFの仕事です」と、弱々しく主張した。言うは易く、行うは難し。というのは、アモリ・グループの方が有利な立場にあるからだ。2009年にツールのステージとして、250もの市町村がASOに立候補の書類を出した。過去最高の数である。県の場合と同様、市町村の場合も、投資効果は大きいからだ。例えば、2007年のスタート地となったロンドンは、ASOから150万ユーロの「請求書」を受け取る一方で、1億7200万ユーロの利益を上げた。この巨額の経済効果は、ブダペストや(2010年のスタート地に決まった)ロッテルダムなど、他のヨーロッパの都市の垂涎の的になっているのみならず、なんとカタールやケベック、それに日本も興味をもっているという。

 レンヌ市は2006年大会でのステージ誘致のために、ASOに7万6000ユーロを支払った。ツール・ド・フランスのディレクター、クリスティアン・プリュドムに言わせれば、ツールへの偽装補助金などでは断じてない。「市町村側から我々に願い出るのであって、その逆ではありません。我々は市町村に便益を提示し、それに対価を払っていただきます。ごく単純な話ですよ」。市町村議会は、ツールという慈雨をよそにとられてなるものかと、アモリ・グループから突きつけられた標準契約を丸呑みする。市町村がツールに乗じて余得を得ようと考えるのに備えて、ASOはしっかり手を打っている。ほかの宣伝は契約によって禁じられているし、スタート地とゴール地に並べてよいのは、ツール・ド・フランスの関連グッズ(キャップ、Tシャツ、エスパドリーユ)だけだ。

 25年前、熱心な社会党員だったエルヴェは「スポーツは二の次の営利事業」を率直に批判した。レンヌ市長として、「1977年にツールのステージになったことがあるが、選手を見たのは10分ほど、その後、キャラバン隊が通るのを3時間見るために、総額20万フランを払った」と皮肉ったものだ(5)。当時の左派政権は、利益志向をスポーツから排除しようという野心をまだ捨てていなかった。

 1975年から89年までツールのディレクター補佐を務めたグザヴィエ・ルイが、この波乱に満ちた一時期について、おぞましげに詳述している。1981年5月に任命された新任のスポーツ大臣、社会党所属のエドヴィージュ・アヴィスは、右派と目されるツールの幹部と対立し、スポンサーが目立ちすぎると非難した。「彼女はまず、優勝者のために演奏されるマルセイエーズについて、メルラン社がスポンサーだと思い込んだ(6)。それから、スポーツ選手がサンドイッチマンになることは疑問だとして、広告やスポンサー名の記載は機材や会場だけに限り、ジャージについては禁止する法律を作るべきではないかと言い出した」。ツールの当時の共同ディレクター、フェリックス・レヴィタンの右腕だったルイは、回想録にこう記している(7)。だが幸い、スポンサーの圧倒的な存在感を規制するような法律が作られることはなかった。共産党から国民戦線、リュマニテ紙からフィガロ紙に至るまで、ツール・ド・フランスは政治的立場の違いを超えて、絶大な支持を集めている。主催者、メディア、政治家は一致団結して、「ツールはフランスの財産だ(8)」という強力な世論を維持することに余念がない。この点で、エッフェル塔(ツール・エッフェル)と似ていなくもない。ただし、ツール・ド・フランスの場合は、民間企業が利益を独占している。

 他方でアモリ・グループは、他の自転車レース、特にパリ〜ニース、フレッシュ・ワロンヌ、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュを赤字で主催することで、社会貢献していると喧伝する。確かに、ツール・ド・フランスとパリ〜ルーベ以外のレースは、ツール・ド・フランス社にとって一文の利益にもなっていない。リュマニテ紙の取材を受けた際、ASOの利益を自転車競技界にどれぐらい分配しているのかという問いに対し、ツールの前ディレクターのルブランが答えた言葉には困惑が透けて見える。数字は何も口にしなかった。「それほどの金額ではないですよ、ええ。そうですね、大した金額にはなっていないでしょう。(・・・)ユースやジュニアに何百万ユーロも空費するわけにはいきませんからね。とはいえ、物事というか、ツールが負うべき責任については、相対的に考えるべきですよ。自転車競技連盟の代わりに、あれもこれもやることはできませんから。そんなことをしたら、帝国主義者だと非難されてしまいますよ(9)」。ジャーナリストのピエール・バレステールによると、連盟が推進する自転車競技振興発展プロジェクトにASOが提供する資金は、120万ユーロ弱でしかない(10)。資金不足にあえぐフランス自転車競技連盟(FFC)は、ツール・ド・フランスの潤沢な利益を物欲しげに窺っている。しかし、庶民のつましさから、はっきりと口に出しはしない。

 マイヨー・ジョーヌ(個人総合時間賞)のスポンサー、クレディ・リヨネ銀行の広報部長ニコラ・シェーヌが、こうした現状を非難する立場にあるとは言いがたい。しかし彼は退職する直前に、こんなことを漏らしている。「ASOの友人たちの悪口を言うのは私の仕事ではありません。私は彼らが大好きです。でも、巨額の利益をちょっとばかり削って、選手の報酬をもう少し増やすとか、若手育成のための資金に回してくれたら、さらに好きになると思いますよ(11)」。こんな底意地の悪いことを言われたら、ツールの歴代あるいは現職の幹部たちは仰天してしまうだろう。彼らは粉骨砕身の果てにようやく成功した企業家の人生訓のように、ことあるごとに繰り返す。そう遠くない昔に、ツールの財政が厳しく、投資家がなかなか集まらなかった時代もあったのだと。

大戦をはさんで

 ツール・ド・フランスは1903年、スポーツ紙ロートによって考案された。自転車競技担当デスクのジェオ・ルフェーヴルが、日刊スポーツ紙最大手のライバル紙、ル・ヴェロ紙への対抗策として発案した。成果は上々で、社長のヴィクトール・ゴデと、ツールの父とされる発行人のアンリ・デグランジュの期待を上回った。ロート紙の部数は1903年7月の1カ月で、3万部から6万5000部にはね上がった。激しい打撃を受けたル・ヴェロ紙と他の2紙、ル・モンド・スポルティフとレ・スポールはほどなく廃刊され、日刊スポーツ紙市場はロート紙の独壇場となった。「こうしたいきさつは、『ツールの父』にとっても、その後継者にとっても、決して忘れてよいものではなかった」とジャーナリストのピエール・シャニーは指摘する(12)。第二次世界大戦戦後、ロート紙の後継紙となったのは、レキップ紙である。ヴィクトール・ゴデの息子で、デグランジュの薫陶を受けたジャック・ゴデを発行人とし、同じ手法で同じように成功した。とはいえ、ツール・ド・フランスを取り戻すには奮闘せねばならなかった。大戦中、ドイツ占領下でも発行を続けたロート紙は、終戦後に解散を命じられ、ツールは政府に接収されたからだ。1946年に政府が一種の入札を行い、レキップ紙および共産党系の日刊スポーツ紙スポールが応札した。共産党は、ツール・ド・フランスが大衆に人気があることに注目し、戦前の批判を和らげるようになっていた。機関紙リュマニテ紙の1920年代の論調は、デグランジュが「ロードレースの偉人たち」をこき使い、農家や労働者家庭出身が多い選手たちに、生活費にも足りないような給料しか出さず、非人間的な巡業を強いていると、ひたすら非難していた。こうした記事を掲載する欄は、「経営者の棍棒の下で」と銘打たれていた。かつては言葉に気迫がこもっていたのだ。

 落札したのは、ジャック・ゴデのレキップ紙である。ゴデには対独協力的な姿勢をとっていたという嫌疑がかけられていたが、パリジアン・リベレ紙を創刊した有力者で、ドゴール周辺に影響力をもつエミリアン・アモリが、ゴデの後見役になったからだ。このありがたい助けの対価として、ゴデはツールの持ち分の50%をアモリに譲渡しなければならなかった。残りの半分も、1965年にレキップ紙とともにアモリ・グループの傘下に下っている。1962年に、新オーナーの忠実なしもべで、パリジアン・リベレ紙のスポーツ担当デスクだったフェリックス・レヴィタンが、ツールの共同ディレクターに抜擢された。彼が指示された任務は、ツールを手作りのイベントから一大産業に作り替えることだった。夏季に新聞の部数を上げるだけでは不十分だった。アモリはツール自体が利益を上げることを要求した。こうして1973年にツール・ド・フランス運営利用社が発足した。象徴的な出来事だ。しかしアモリは名前が露骨すぎるとして、1980年にツール・ド・フランス社に短縮した。「レヴィタンがいなかったら、今のツールはなかっただろう。彼がスポンサリング制度や、ステージとなる市町村との協定を作った。テレビがどれほど経済効果を秘めているかも理解していた」と、国際自転車競技連合の前会長ヘイン・フェルブリュッヘンは賞賛する。テレビ局からカネをとるなんて、ゴデには思いつかなかった。彼はジャーナリストとして、事業としてのツールよりもスポーツとしてのツールを重視していたからだ。ツール・ド・フランスの「放映権」に関する初契約は、1979年にテレビ局TF1との間で結ばれた。契約額は250万フランである。

 レヴィタンは1987年に粉飾決算で解雇されたが、歴代の後任者もツール・ド・フランスの変身を続行した。小規模の同族経営会社が、たった数年間で多国籍企業のように経営される大企業グループになった。ツール愛好者たちのお祭り精神は消え、成果主義とマーケティングが重視されるようになった。関係者はきちんとした服装をするように求められ、くだけたポロシャツやTシャツのかわりに、ブレザーとネクタイを着用するようになった。表彰台は「刷新」され、「ヴィラージュ・デパール」地区が出現した。この地区には入構証を首にかけた「VIP」と厳選された招待者がたむろしており、「一般人」とは検問によって隔てられている。ツール・ド・フランスの登竜門とされる若手選手のレース、ツール・ド・ラヴニールの創設者ジャック・マルシャンは、自転車競技の商業化に憤る。「ツールは商才にあふれた人々の手に委ねられた。ビジネスにかけては有能でも、自転車競技界とは縁もゆかりもない連中だ。(・・・)最高の専門家を気取り、カネばかりかかる連中が、スポーツの世界に押し入り、はびこるようになってしまった」。スポーツジャーナリズムの良心であるマルシャンは、88歳の今もかくしゃくとしており、こんな非難を記している(13)

 テレビの次に出費を求められたのは、スポンサーである。1989年までは、ツール・ド・フランス社と契約した自動車メーカーは、レースの際に関係者が使う車を提供するだけだった。「今後はそうはいかない」と暫定社長のジャン=ピエール・クルコルは息巻いた。出費要請を受けたプジョーのスポーツ担当役員ジャン・トッドは、掛け値だと思って、年間50万フラン以上は払わないと答えた。クルコルは話にならない金額だとして、フィアット・フランスの社長に600万フランでどうかと持ちかけたところ、二つ返事でオーケーだった。

人気低迷を食い止められるか?

 フェスティナ事件が起こるまでツールの評価は高まる一方だった。1990年にアモリ・グループのトップに任じられたクルコルは、1970年代に大手代理店のアヴァスでキャリアを積んだ広告屋で、その経験を切り札にしようとした。スポーツイベントの開催に特化した子会社を立ち上げ、ツール・ド・フランスを事業の中核に据えた。

 それが1992年に急遽設立されたASOであり、スポーツ界の関係者をさしおいて、財界の関係者が権力を握るようになった流れの象徴だ。以後、ツール・ド・フランスのディレクターは、財界出身の最高経営責任者の下に置かれるようになった。レキップ紙で自転車競技担当デスクを務め、ゴデ自身から正統な後継者として指名されたルブランは、こうしたわけでジャン=クロード・キリーと折り合いをつけなければならなかった。

 キリーは常勝の実業家という評判をひっさげて、お膳立ての整った舞台に登場した。1968年のグルノーブル・オリンピックでアルペンスキー3冠に輝いた彼は、25歳で引退し、アメリカ人マーク・マコーマックが設立した世界的なスポーツマーケティング大手、IMGの庇護下に入った。キャノン、シボレー、ロレックスのイメージキャラクターとして、アメリカの広告のシンボル的な存在となる。肖像権を高く売りつけるスター選手の先駆けの1人である。すでに1969〜70年の時点で、200万ドルの銀行預金を持っていた(14)。ASOのトップに就任した時点で、商家に生まれたキリーの資産は1億2000万フランに上ると言われていた(15)。ゼネラルモーターズの広告エージェント、ユナイテッド航空のマーケティング顧問、ウィンタースポーツウェアのブランド「ヴェレダ」の創設者、ロレックスの国際コンサルタントを歴任し、大企業の経営者としての仕事を知り尽くすようになった。1992年のアルベールヴィル・オリンピック組織委員会の共同委員長も務めており、このオリンピックは大衆人気の点でも商売の点でも大成功をおさめることになる。キリーは政界にも太い人脈をもっているのだ。

 スイスに住むキリーは、社長のアラン・クルゼントスキーと代表取締役のジャン=クロード・ブランとともに、容赦のない交渉者として、ASOの収益を天井知らずにした。就任から数カ月後、彼らはテレビ局アンテーヌ2(現フランス2)から、従来の2倍の放映権料をもぎ取った。前回の契約は3200万フラン、新契約は6000万フランである(16)。「キリー時代にASOは根本的に変わりました」とマーケティング担当役員だったジャン=クロード・エローはコメントしている。1993年に3000万フランだったASOの利益は、この黄金トリオが離職するまでの7年間で2倍に増えた。だが物事には裏面が付き物で、レジヨン・ドヌール勲章まで受けたキリーは分かち合いの精神に欠けていた。「放映権料がものすごく上がった以上、まとまった額を選手に配分するのは当然のはずなのに、キリーは頑なに反対したんです」と辛辣に語るのは、ジャン=ピエール・カランソだ。5年にわたってツール・ド・フランスの経営に関与したが、1993年に解雇された(17)。「ある日、私にこんなことまで言いましたよ、『何とでも言うがいい、僕はカネにしか興味がないんだから』とね」

 何かに夢中になるときの常で、「カネ」の場合もやりすぎになる可能性がある。フェスティナ事件でツール・ド・フランスが崩壊の危機にあったとき、キリーはアトランタのコカ・コーラ本社で行われる取締役会に出席するために海を渡っていた。人気者への役員報酬は糸目なし、というわけだ。後年2003年にはラントルプリーズ誌の起業家精神賞を受賞することになるキリーも、このころはドーピング問題の頻発にいたたまれず、目立たないようにしていた。スキャンダルを嗅ぎつけて色めきたっているメディアへの対応は、ディレクターのルブランに丸投げしていた。ごく稀に公の場に登場するときは、このスポーツ史上最大級のドーピング事件を「突発事」だと形容した(18)

 2000年に円満に辞任したキリーは、5000万フランもの退職金をふところに堂々と去っていった。彼の腹心であるKRZことクルゼントスキーの退職金は、3200万フラン「ぽっち」だった。運命の皮肉と言うべきか、この永遠のコンビはマリ=オディール・アモリの要請を受けて、2008年に復帰することになる。ツール・ド・フランスの人気が低迷し、視聴率も低下するなかで、逆風におののくアモリが人気低迷を食い止めるために、彼らを呼び戻したのだ。ツール・ド・フランスは170カ国で放映されており、サッカーW杯とオリンピックの次に最も放映されるスポーツイベントだが、1997年に平均510万人いたフランスの視聴者は(19)、その10年後には360万人にまで減っていた。ドーピング事件に加え、若い世代が自転車競技に関心をもたなくなってきているせいで、ツールは衰退傾向にある。これを阻止するためならどんなことでもする覚悟でいるアモリにとって、今回のツールでランス・アームストロングが復帰して、メディアが大々的に取り上げてくれるのは願ってもないことだ。7連覇に輝くアームストロングのドーピング行為について、レキップ紙の調査で具体的な証拠が示されたとしても(20)、彼女はまったく意に介さないのだ。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2009年7月号)