ハイダーを「国葬」したオーストリアの土壌

ピエール・ドーム特派員(Pierre Daum)

ジャーナリスト

訳:日本語版編集部


 2009年5月9日、オーストリアのネオナチが、マウトハウゼンの生還者を襲撃した。この同国最大規模の強制収容所の解放を記念する日の出来事だ。なぜ、そのような事態に至ったのか。極右復活の背景には明らかに、自国のナチスの歴史について国民が十分に検証してこなかったことがあるように思える。2000年2月にイェルク・ハイダーの党が内閣に加わり、極右思想の面目を躍如させたこともまた、同様の土壌に根ざしている。[フランス語版編集部]

 クラーゲンフルト、2008年10月18日。ここケルンテン州の州都の中央広場に、オーストリア全土から2万5000人が集まった。彼らが黙して待つのは、同州の知事を務め、数日前に自動車事故で没した極右の指導者、イェルク・ハイダーの柩である(1)。群衆の間には、驚くほどの哀悼の意が満ちていた。前日には臨時列車が増発され、当日の朝は11時半から13時まで、国営テレビが葬儀の一部始終を実況で放送した。国軍が敬礼し、大司教が説教を行った。

 最前列には、オーストリアの政治家が勢揃いしていた。オーストリア社会民主党(SPO)所属の共和国大統領、ハインツ・フィッシャー。SPO所属の首相、アルフレート・グーゼンバウアー。それに全閣僚と、全政党の幹部たち。「まさに国葬だった」と語るグーゼンバウアーは、その義務もないのに進んで弔辞を述べたのだった(2)

 彼らが弔ったのは、1991年6月13日にケルンテン州議会での審議の際に、第三帝国は「うまい雇用政策を推進した」と賞賛した男である。95年9月30日に同州クルンペンドルフで開かれた集会では、ナチス武装親衛隊の元隊員らを讃え、「清廉で、逆風にもかかわらず今日まで自己の信条に忠実な男たち」だと発言した。ナチスの語彙に直結する「ストップ・デル・ユーバーフレムドゥング(外国人の氾濫を止めよう)」というスローガンを掲げ、政治的キャンペーンに外国人排斥を導入した。死の数日前には、民兵が警備する山奥の収容施設に、亡命申請者たちを幽閉した。些細な犯罪の容疑者がいるというのが口実だ。「この男のために、オーストリア全土が涙を流した」と、ヨーロッパの極右を専門とする政治学者、ジャン=イヴ・カミュは言う。「我々には唖然とするような話でも、オーストリア人にとっては全然そうではない。あの日、オーストリア政界は、仲間の1人に敬意を表したのだ」

 内陸に閉じ込められた人口わずか800万人のアルプスの小国オーストリアは、2000年2月にメディアで大きく取り上げられて以来、いささか忘れられていた感がある。この時に起きたのは、欧州連合(EU)加盟国における極右政党の入閣である(前代未聞だと当時は解説されたが、それは正確ではない。94年5月から12月にかけてイタリアで、北部同盟およびまだファシズムを放棄していなかったイタリア社会運動が、第一次ベルルスコーニ内閣に加わっているからだ)。2000年の事件以降、オーストリアが国際的なトップニュースになったのは、何の変哲もない一軒家の地下に何年間も閉じ込められた少女が見つかった時や(3)、スキー選手のヘルマン・マイヤーが活躍した時ぐらいだ。

 1999年10月の議会選挙で、ハイダー率いるオーストリア自由党(FPO)は26.9%と予想外の得票を挙げ、キリスト教保守政党のオーストリア国民党(OVP)を僅差で凌駕した。大敗北を喫したOVPの党首ウォルフガング・シュッセルは、FPOと協定を結んで組閣した。当時15カ国の他のEU加盟国は、それぞれが自国内で極右の進出という問題を抱えており、オーストリアの事態を憂慮した。14カ国はシラク仏大統領の主導下で、二国間関係を凍結し、またオーストリア出身者を国際機関の要職に指名しないという制裁を決定したが、それらは実効性があるというより象徴的な措置でしかなかった。

 14カ国は当時、FPOが以前からオーストリア政界の一角を占めていたことをあまり理解していなかった。ナチス残党のリサイクル政党であるFPOは、1983年から86年までSPOのジノヴァツ内閣にも加わっていた。州や市町村のレベルでは、議員はみな顔見知りで、互いを尊重し、選挙結果に応じて協力関係を結ぶことに何の問題も感じていなかった。先ほどのカミュは言う。「FPOは社会的、道徳的に受容されており、ヨーロッパの他の極右政党に対する風当たりの強さとは比較の対象にならない」。しかもオーストリアではドイツと違って、FPOがナチスを容認する姿勢を見せても、それで票を失うようなことはない。

茶番と化した制裁

 前代未聞の事態に直面したEU諸国は、間もなく厄介な状況に陥った。シュッセル首相は、国内に挙国一致的な動きを呼び覚ましただけでなく、EU機構の運営を妨害すると脅したからだ。欧州議会は周到な演出の下に、オーストリアに3人の「賢人」を派遣した。彼らが2000年9月8日に提出した報告書は、FPOが「極端な傾向をもつ右翼ポピュリスト政党で(・・・)、選挙戦において外国人嫌悪感を利用・助長し、外国人に対する公然たる反発が容認される雰囲気を作り出し、恐怖心をかき立てた」ことを認めながらも、制裁の解除を勧告した。制裁はただちに解除された。

 その後どうなったかと言えば、何事も起こらなかった。オーストリアへの注視はやみ、シュッセル内閣の「恥ずかしい協定」の立役者たちは、ハイレベルで再起を果たしている。2000年2月12日付の仏リベラシオン紙で、第三帝国を懐かしむ連中への公然たるFPOの支持という問題に「かかずらうよりほかに(自分には)やることがある」と語ったOVP所属のフェレロ=ヴァルトナー元外相は、対外関係担当の欧州委員になった。メルケル独首相に誉めちぎられているシュッセル元首相も(4)、ブリュッセルで居心地のよい職に就くことになりそうだ。

 14カ国の制裁は茶番と化し、極右との妥協は完全にあり得る話になった。2001年6月にイタリアで、第二次ベルルスコーニ内閣に北部同盟から3人が入閣した時(5)、他国の反応は皆無に等しかった。2006年5月にポーランドで保守政党が、アンジェイ・レッペル率いる自衛、ロマン・ギェルティフ率いるポーランド家族同盟(LPR)という二つの排外的政党と連立した時もだ。その1カ月後にはスロヴァキアで、ロベルト・フィツォ率いる左翼政党が、ヤン・スロタ率いる極右政党スロヴァキア国民党と連立した。

 オーストリアにおける極右入閣の帰結は何だったのか。シュッセルはEU諸国の首脳に向けた弁明として、政権運営の試練にかけることでFPOの脱神話化を図ると約束した。彼はそれに成功したのだろうか。

 最初の頃は、成功したように見えた。ハイダー(本人は1度も入閣せず)が出した6人の閣僚は、何度となく力不足をさらけ出した。内相ポストを得られなかったため、支持者に公約した「移民の即時停止」の実行も不可能だった。FPOのグラッサー経済相は、オーストリア史上で最も自由主義的な政策を実施した。民営化の加速、企業に対する社会保険料や税の軽減、富裕層向けの優遇税制、年金の削減などだ。

 その結果、2002年の選挙では、3年前にFPOの大票田となっていた工場労働者や事務員が失望感を表明し、FPOの得票は10%に転落した。OVPは42%に躍進し、シュッセルは喜び勇んだ。3カ月後の組閣では、FPOとの連立が更新され、さらにハイダーの新党であるオーストリア未来同盟(BZO)が加えられた(6)。極右の政権参加はのべ7年にも及んだ。

 2006年10月の選挙では、極右はやや息を吹き返し、FPOが11%、BZOが4%、合わせて15%の票を集めた。2007年1月に、グーゼンバウアーを首班とする赤黒連立内閣(7)の成立により下野した極右は、がぜん力を取り戻し、さらに勢いを増した。2008年9月の選挙で、極右2党は合わせて28.2%の得票を挙げ、1999年の自己最高記録をも凌いだのだ。シュッセルの「戦略」は、完全に失敗に終わったように見える。

 この間ずっと、極右が人種差別的な論調を抑えることはなかった。しかも、他の政党も次第に同じ土俵に引きずり込まれていった。2000年2月にシュッセル首相がFPOと「恥ずかしい協定」結んだ時、あれほど非難の声を上げたSPOの内部では、次の地方選でFPOとの赤青連合の可能性を平然と考える向きが大勢を占めている。「これまでなびかずにきた緑の党でさえ、揺れ始めている」と、ウイーンの哲学者、オリヴァー・マルハルトは言う。「2000年2月の最も顕著な帰結は、公の発言の中に人種差別がゆっくりと、しかし着実に浸透したことだ」。最近リンツで、緑の党のある国会議員が、「亡命申請を却下された者は全員、ただちに例外なく、国外に追放する」という極右ばりの主張を行った(8)。緑の党の執行部は、この議員(とその主張)を支持することを議論の末に決定した。

28カ国中26位

 「こと外国人に関して、FPOは別に政権にいる必要はない」と、雑誌プロフィルの編集者ゲオルク・ホフマン=オステンホフは言う。「OVPもSPOも、FPOの考えを実行に移しているからだ」。そうした傾向は極右の入閣前から感じられるようになっていたが、この9年間は特に厳しい立法が相次いだ。移民にとって少しずつ、ますます生きにくい社会になってきている。刑事罰を科した上に国外退去処分とする二重処罰が導入された。移民割当人数は大幅に引き下げられた。家族呼び寄せの条件は強化された(月収1500ユーロ、ドイツ語のレベル)。長期滞在許可証を申請する場合も、ドイツ語講座を受けて最終試験に通らなければならない。帰化のハードルは上がった(必要な居住年数または婚姻年数の延長、ドイツ語のレベル、具体的に何を指すのかどこにも書かれていない「民主国家の基本的価値観」についての知識)。警察は、裁判官に諮ることなく、最大10か月まで、亡命申請者を収容施設に留置できる臨時権限を与えられた。第一審で亡命申請を却下された場合の控訴の道は狭まった。

 異なる国の外国人の状況を比較するのは難しい。考慮すべき要因が多数あるからだ。2007年に策定された移民統合政策指数(MIPEX)では、六つの指標が考慮されている。労働市場参入の可能性、政治参加(9)、家族呼び寄せのハードル、長期居住が可能な住宅への入居条件、帰化に関する規則、そして差別である。EU25カ国(およびカナダ、ノルウェー、スイス)の比較表で、オーストリアはこれまでで最悪の順位になった。後ろにキプロスとラトヴィアを残すだけの26位である(10)

 オーストリアでは、人種差別は法律や身体的暴力よりも、言葉のかたちをとって表れる。だからといって、苦痛の程度が減るわけではない。侮辱されたり、カフェで給仕を拒まれたり、壁に落書きされたり、といった出来事は無数にあり、とりわけ黒人が標的にされる。「オーストリアで黒人であることがどんなことか、想像もつかないでしょうよ」とこぼすのは、ウェブサイト「Afrikanet.info」を主宰するジャーナリスト、シモン・イヌーだ。「私が地下鉄に乗ると、隣の三つの座席が空席になるんです。通りを歩けば、いつも嫌そうな視線、不安げな視線や露骨に睨みつける視線を向けられます」。ガボン生まれでフランス語を教えるアデルは、長くフランスで暮らした後にウイーンに居を定めた。「人種差別はもちろん、どこにだってあるわ。でもフランスには、徹底的に人種差別に反対する人たちがいた。ここではどうかと言うと、こうした話を忌憚なくできる少数の友達グループひとつ、作れやしないのよ」

 日刊紙クローネン・ツァイツングが(11)、ハイダーと協調して10年越しに大々的な論陣を張ってきたせいで、オーストリア人が思い描く黒人は、麻薬の密売人や小児性愛者と同義語になった。最近は、亡命申請者とイスラム教徒も、同様の妄想の対象になっている。FPOの新党首となった極右の新鋭、39歳のハインツ=クリスチャン・ストラッヘは、選挙戦で特に二つのスローガンを掲げた。「亡命権の不正利用は、本国送還を意味する」と「我々のところよりも、イスラムの地へ」である。クローネン・ツァイツング紙の記事や、たっぷり紙面を割いた投稿欄にも、亡命申請者とイスラム教徒に対する人種差別的な決まり文句が、日々あふれている。

 フランス国立学術研究センターの政治学者パトリック・モローは(12)、極右への根強い支持をこんなふうに説明しようとする。「オーストリア人はずっと小さな閉じられた世界で暮らし、紛れもない福祉を享受してきた。失業率は低く、生活水準は高く、環境汚染も少ない。彼らの心の底には、この天国がなくなることへの強烈な恐怖心がある。他方で、オーストリアは植民地を持ったことがなく、移民が来るようになったのは最近になってからだ。移民たちに投影されたのは、そうした恐怖心である。それは今やオーストリア文化の一部となっており、ハイダーの成功の基盤はそこにある」。さらに二つの点を付け加えておこう。ナチスの過去は教訓として働かず、オーストリア人にとってナチス思想は忌まわしいものとはなっていない。またオーストリアには、徹底した人種差別反対論を担い、抗議票の受け皿になるような急進左翼政党がひとつもない(13)

 こうした現状から「極右の未来は明るい」とモローは予想する。「BZOは、ハイダーに心酔するグルーピーの組織のように動いていた。彼が死んだことでケルンテン州では伸長するだろうが、あとは急速に消滅に向かうだろう。力量あるハインツ=クリスチャン・ストラッヘに率いられたFPOが、グローバリゼーションの負け組の支持を再び集めるだろう。また、移民排斥という主張に関して、彼らの真似をする他の政党より、元祖のほうを選ぶ人々の支持も」

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2009年7月号)