タリバン攻撃に踏み切ったザルダリ政権

ナジャム・セーティ(Najam Sethi)

デイリー・タイムズ紙(ラホール)編集長

訳:日本語版編集部


 在アフガニスタン米軍司令官、すなわち戦地で指揮を執る大将の罷免という措置は、米国史上でほとんど前例がない。「アフパック」という言い方がワシントンで一般化したアフガニスタンとパキスタン、この両国をオバマ政権が重視していることの表れだ。パキスタンでは、国軍がタリバンへの大規模な攻撃を開始した。様々な変化を引き起こすことになる戦略上の一大転換の予兆か。[フランス語版編集部]

 北西辺境州にあるタリバンの拠点への攻撃は長期化し、スワート渓谷と近隣地区の住民の戦場地帯からの脱出が続いている。2009年4月26日の作戦開始以降、パキスタンの国軍と準軍事組織は、反政府勢力をいぶり出して追い詰めるべく、戦車に重火器、迫撃砲に軍用機、戦闘用ヘリコプターなどを大々的に展開している。司令部は日々、タリバンの死者数は数十名、軍と市民の犠牲は僅少と自画自賛する。しかし国際NGOが懸命に訴えるところによれば、大規模な人道危機が間近に迫っている。渓谷地帯から逃れてきた人々は100万人以上に達する。パキスタン史上最大規模の避難民である。

 ここ2年来、タリバンは北西辺境州と連邦直轄部族地域で、地元住民を恐怖に陥れ、イスラマバードの連邦政府に挑むかたちで、勢力拡大と権力強化を進めてきた。2009年2月28日、タリバンによるシャリーア(イスラム法)の施行を容認する「和平合意」を結ぶことで、ザルダリ政権は社会の平和を確保したつもりでいた。多くの識者が危ない真似だと考えた2月の合意は、期待はずれの逆効果をもたらした(1)

 停戦が実施されるとすぐさま、タリバンは勢力地の拡大に乗り出して、隣接のブネール地区と下ディール地区で人員を調達し、支配権を確立した。首都からも、中国へと至るかつてのシルクロード沿いにある要路カラコルムからも、わずか100キロの地域へのタリバンの電撃的な進撃はパキスタンと世界を震撼させた。

 新たな地域戦略の策定を急ぎ、パキスタンに対して数カ月前から武力解決を迫っていた米政権は、ただちに怒りを露わにした。主要国は政権が転覆され、内戦が勃発し、戦略・核施設および兵器の管理がずさんになるという不穏な帰結を憂慮している。

 こうした状況の下で、意地の悪い人々は、パキスタンが遅まきながら攻撃に乗り出したタイミングのことを指摘する。それはザルダリ大統領がワシントンを公式訪問して、経済援助の条件について交渉し、米国の支援の延長を求めていた最中のことだったのだ。この訪問の結果、米国は今後2年間にテロ対策、人道援助、経済開発の名目で19億ドル、軍事費として6億ドルを出すと約束した。

 1999年から2008年まで国政を担ったムシャラフ軍人大統領が、ワシントン訪問時に、わずかな譲歩と引き換えに多大な援助を手にした時代とは大違いだ。ムシャラフがしたのは、新たにアル・カイダ幹部を1人つかまえてみせるとか、最果ての部族地域で若干の反政府勢力に小規模な攻撃をかけるとかいった程度のことでしかなかった。

 パキスタンとアフガニスタンでのタリバンの進撃を目の当たりにしたオバマ大統領、クリントン国務長官、マレン統合参謀本部議長、ペトレイアス中央軍司令官、ゲイツ国防長官、パネッタCIA長官や、両院の複数の議員は、ワシントンを訪問したザルダリ大統領とカルザイ大統領に対し、ゲームの規則が変わったことをはっきりと通告した。

 米政権は、パキスタンとアフガニスタンが支援と引き換えに、アル・カイダとタリバンを相手取った戦争の進捗状況を報告することを望んでいるのだ。米政権は両大統領に、共同目標リストの策定と中間報告の作成を示唆した。また、汚職にまみれ、政策運営がまずいと悪評の高い両名が、襟を正すことも求めた(2)。国内をなんとかしろ。国民が待ち望むまともな政府になれ。そして何よりも、われわれの共通の敵であり、あなたがたの地域を狂乱と戦争に陥れているアル・カイダとタリバンに対して、野党と共同戦線を張れ。

パキスタン世論の逆転

 パキスタンが急進イスラム主義勢力の危険になかなか気付かなかった原因のひとつは、1980年代と90年代に推進されたイスラム化キャンペーンにある。宗教とナショナリズムを結び付けた国策に感化された一大世代が出現した。「インドに占領されたカシミールにおけるイスラム聖戦」や、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間の憎悪に基づいた「二民族論」といったものが、教科書に書かれ、日常の会話で流通する基本概念となっていた。

 その一方で、イスラム教徒に対し、特にパキスタンに対して不当だと受け止められた米国の政策のせいで、反米主義が助長された。アフガニスタンにおける対ソ戦略で米国に重要視されたパキスタンは、対ソ戦略という目的が達成された1989年に見捨てられたと感じた。米国はすぐさま地域から手を引き、同盟国だったはずのパキスタンは、アフガン紛争の劇的な帰結に自力で立ち向かう状況に追い込まれたからだ。

 核開発のせいで科された重い国際制裁も、納得がいくものではなかった。さらに、2度にわたるイラク戦争とパレスチナのインティファーダが、CNNのおかげでパキスタンでも一般家庭の目に触れるようになったことも、人心に火をつけ、米国のイメージを悪化させた。

 武装したイスラム主義勢力が2007年にイスラマバード中心部の「赤いモスク」に立てこもった時、それを米国と国軍に挑む中世の英雄のように描くことで、一部のメディアはテロリストの主張に同調し、そこはかとなく同情的な世論を醸成した。これらのメディアは、イスラム主義とテロリズムとの戦いは「米国の戦争」だと力説し、米国さえ撤退すればタリバンとアル・カイダは消えるという誤った考えを広めた。

 こうした流れが逆転することになったのは、最近のいくつかの事件による。2009年3月初め、スワートで若い娘が公開の鞭打ち刑に処される様子が、あらゆるテレビ局で放映された。この刑をタリバンが「イスラム的行為」と呼んだことに、イスラム法学者や宗教指導者を含め、パキスタン全土が嫌悪感を示した。シャリーアをそんなふうに解釈するのは、部族的慣習を正当化するためにイスラムを歪めることだと思えたからだ。第二の事件は、タリバンのスポークスマンが憲法や法治国家、「市民社会」や民主制、組織あるいは個人の自由など、パキスタン人の大半が非常に重要だと考える制度や価値観を反イスラム的だと宣言したことだ。メディアが相次いで脅迫を受けたことで、多くのジャーナリストが従来の同情的な見方を変えた。2008年には10人のジャーナリストがタリバンの手で、あるいは銃撃戦の巻き添えになって、部族地域で命を落としている。

 世論の逆転を決定的にしたのは、タリバン支配地域から逃げてきた住民の証言だ。怒りに満ちた彼らの証言を報道機関は黙殺できなかった。恐怖にやつれた避難民は、政府と軍が何カ月ものあいだ自分たちを見捨て、軍事攻撃開始まで何の保護策も講じなかったと、怒りをこめて非難した。

 パキスタンの歴史の中でも最大級の転換期が始まっているように思われる。パキスタンが国内で、あるいは地域安全保障の面でどのような選択を行うかが、この国の将来を左右するだけでなく、存亡さえも決することになるかもしれない。これほどの重大事に際し、どういったロードマップを作るのが適切だろうか。

避難民対策の重要性

 パキスタンの国益上、第一に達成すべき目標は、政治家、政府、軍、メディアを全面的に糾合した共同戦線の構築である。そのためには、シャリフ元首相率いる野党第一党のイスラム教徒連盟が、連邦政府に合流し、アル・カイダとタリバンとの戦争遂行責任を分担することが欠かせない。

 米国もそれを求めており、挙国一致内閣の組閣に協力するようシャリフに圧力をかけている。現在のところ、彼は難色を示し、前提条件を出している。ザルダリ大統領の権限を弱め、中間選挙を実施するような憲法改正だ。さしあたりの提案として、シャリフは全政党による会議の場を設け、これらの問題を討議することを主張しているが、全政党の賛同は得られそうにない。宗教色の強い小政党は、タリバンに対する一切の軍事行動に反対しているからだ。

 米政権がアフガニスタンのカルザイ大統領に、穏健派の親パキスタン的なパシュトゥン人を政府内に取り込み、越境的な反政府運動をやめさせることが、自らの利益になると解らせることも重要だ。

 パキスタン政府が国内の敵に力を注ぐことができるよう、隣国インドに関する懸念を薄めることも必要である。そのためには、印パが下心なく協力して、数十年にわたる両国間の紛争解決を目指すことが不可欠だ。インドが和平合意の前提条件として、パキスタン領からのテロの輸出の停止を要求していることからしても、そうした協力が実現するかは微妙である。自身もテロの標的とされているパキスタン政府には、そんなことは保証できない。こうした状況下で、パキスタン軍は今のところ、タリバンとの新たな戦地となっているアフガン国境へと、東部のインド国境に駐留する部隊を移動させることには消極的である。2009年4月から5月にかけてのインド国会選挙で国民会議派が勝利して、パキスタンとの和平確立に向けた方針変更がなされることを期待したいところだ(3)

 もう一点、国内避難民対策も国家的重要事と考えるべきである。これらの一般市民は、地方政府の求めに応じて、軍が動きやすくするためにタリバン支配地からの退避を受け入れた。彼らは急造の仮設キャンプや、かつてアフガン難民が収容されていたキャンプに入ることが、これほどつらいことだとは予想だにしていなかった。現場はまるで組織化されておらず、スワビやマルダンのキャンプに入った最初の避難民たちの話はすさまじい。毎日、数百世帯がキャンプに入居するための登録証の交付を待っているが、そのキャンプは更地に張られたテントにすぎず、日除けもなければ、水道も医療設備もない。寒冷地域で暮らしていた避難民は暑さに弱く、このような生活環境はことさら骨身に応える。子供たちはひどく衰弱しており、危機的な健康問題の発生が憂慮される。登録の済んだ避難民は、5月半ばの時点でわずか20万人にすぎない。こうしたことはすべて避けられたはずだ。

 軍事介入にあたって人道支援の行動計画を講じておくべきだったのに、何の措置も取られなかった。連邦政府が対策費として地方政府に渡した10億ルピー(約12億円)など取るに足らない額でしかないだろう。資金にもまして欠けているのが能力である。2005年に自由カシミール州と北部辺境州の一部に甚大な被害を与えた地震からも、30年に及ぶアフガン難民受け入れの経験からも、何の教訓も引き出されてはいない。

 長期的には、ギラニ首相が「パキスタンの存続」のための戦いと呼ぶスワート戦争によって、150万の避難民が発生するとパキスタン政府は予測している。政治家層がタリバン封じ込めに向けて結束の構えを見せるなかで、政府当局は避難民を放置しないよう配慮する必要がある。さもなければ、軍事的には勝利を収めても、人心は離れてしまい、少しずつ形成されていた国民合意はもろくも吹っ飛んでしまうだろう。諸政党と「市民社会」、それに「国際社会」は、今のパキスタンがどれほど政治的に重大な状況に置かれ、どれほどの規模の人道問題に直面しているかをようやく悟り始めた。向こう3か月が正念場だと、カヤニ参謀長は5月半ばに国内主要政治家との会合の場で語った。会合に参加した政治家側は、反政府勢力対策を支持する声明を出したが、そこにはタリバンに関する言及はない。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2009年6月号)