革命を讃える

セルジュ・アリミ(Serge Halimi)

ル・モンド・ディプロマティーク編集総長

訳:日本語版編集部


 何度となく祓いのけられた亡霊。自ら道を誤ったことで閉ざされた展望。革命は、歴史の墓場に安置されているように見える。だが、いつの日かすべてが変わるという壮大な希望が、悪魔祓いにもめげず、人々の意識の中に入り込んでいる。数々の出来事によって、こうした希望が生み出されている。この禁断の一線は、世紀を通じ、大陸を通じ、蛇行を描いてきた。それは決して途絶えはしなかったのだ。労働者の運動、女性とあらゆる被抑圧者の解放、民族の解放。そしていま、新たな一章が書かれようとしているのかもしれない。経済危機によって引き起こされた怒りを前に、保守派の論客は不安を抱いている。自分たちのイデオロギーに基づくモデルの崩壊を自覚しながら、怒りの噴出の兆しを不安げに探り、フランスの労働者、中国の失業者、ラトヴィアのデモ隊のことを調べ上げる。もうひとつの別な世界は現れ出るのだろうか。いずれにせよ、資本主義の狂奔が、これまでの世界にひびを走らせるようになったことは明らかだ。[以下の論文を結びとする特集に、フランス語版編集部が付したリード文]

 1789年から200年たって、革命の肉体はなお動く。だがフランソワ・ミッテラン仏大統領が200周年記念式典にマーガレット・サッチャー英首相とジョゼフ・モブツ・ザイール大統領を招待したのは、フランス革命の納棺を見届けさせるためだった。この記念の年はベルリンの壁が崩壊した年でもあったから、フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」を宣告した。新自由主義の世界支配は永遠であり、革命という厄介なものは、彼の目には決定的に終了したわけだ。ところが、権力を寡占する者どもの正統性は、いま再び、資本主義の危機によって揺るがせられている。時代の空気は軽くなったか、重くなったか、それは見方によりけりだ。すでにフィガロ紙は「反乱を呼びかける知識人と芸術家たち」を取り上げて、「フランソワ・フュレは間違っていたらしい。フランス革命は終わっていなかったのだ」と嘆いている(1)

 ほかの大勢の歴史家と同じように、革命の記憶を祓いのけ、その誘惑を退けるのに、フュレは骨惜しみをしなかった。かつて歴史的必然性(マルクス)、「歴史の新たな時代」(ゲーテ)と呼ばれ、ユゴーが「輝ける浮浪者の群れ、まばゆき世界を歩むを人は見き」と歌った共和暦2年の兵士たちの壮挙とされた革命は、血に汚れた手としてしか語られなくなっていた。ルソーから毛沢東にいたるまで、平等主義と恐怖政治と美徳からなるユートピアこそが、個人の自由を踏みにじり、全体主義国家という冷酷な怪物を産み落としてきたというのだ。次いで、「民主主義」が再起を果たし、革命に対して勝利を収めた。快活で、穏和な、市場の民主主義だ。民主主義も革命の遺産相続人ではあるが、それは別の種類の革命だ。イギリスないしアメリカ流の、社会福祉的というより政治的な、「カフェイン抜き」の革命である(2)

 イギリスでも国王を斬首にした。しかし、貴族の抵抗がフランスほど強くなかったので、ブルジョワジーは支配を確立するのに民衆と同盟を結ぶ必要を感じなかった。恵まれた人々の間では、浮浪者もサン・キュロットも抜きの革命が、フランス革命より上品で危なくないように見える。フランスの経営者団体会長のロランス・パリゾが、ファイナンシャル・タイムズ紙の記者に次のように語ったのも、会員たちの感情にまったく背くところはなかったのだ。「私はフランスの歴史は大好きですが、革命はあまりいいと思いません。あれは極端な暴力行為で、我々を今も苦しめています。何らかの陣営に属することを我々ひとりひとりに強いてきた元凶です」。そしてパリゾは、こう付け加えている。「我々はイギリスほど民主主義の実践に成功しているとは言えません(3)

 「何らかの陣営に属する」がごとき社会的分極化は、とりわけ経済危機の時期のように、あくまで自分の分際をわきまえながら、会社や経営者や自社ブランドとの連帯精神を発揮しなければならないときには、なんとも都合が悪い。革命をあまり評価しないむきにとって、革命の最大の過ちは暴力などではない。そんなものは、悲しいかな、歴史の中ではありふれている。それより、もっとまれにしか起こらないこと、持てる者とプロレタリアとの戦争を機とした社会秩序の転覆こそが、革命の最大の過ちなのだ。

 1988年、ジョージ・H・ブッシュ米大統領は、民主党の対立候補マイケル・デュカキスに決定的な一撃を加えようとして、このまったく人畜無害なテクノクラートをこう批判した。「彼は我々を諸階級へと分裂させようとしている。ヨーロッパならそれもいいだろうが、アメリカではそうはいかない」。階級がアメリカに現れるだなんて、いかに恐ろしい話であることか。それから20年後、「ぬすびとよ、むさぼりしものを吐き出せ」という「インターナショナル」の歌詞を尻目に、アメリカ経済がそれまでの利益と同じくらい不平等に犠牲の分配を強制しているらしい今日も、民衆の怒りの鎮静化が急務だとホワイトハウスのいまの住人は考えたのだから。「この危機から引き出すべき大切な教訓のひとつは、我々が一体だという意識をもたなければアメリカ経済は立ちゆかないということである(・・・)利益を追求する投資家や起業家ひとりひとりを悪人視するわけにはいかない(4)」。政敵たる共和党の一部が主張するのとは異なり、バラク・オバマは革命家ではないのだ。

 「革命とは第一に、断絶である。既成秩序との、資本主義社会との、この断絶を受け入れない者は、社会党員たりえない」。1971年、フランソワ・ミッテランはこう語った。その後、フランス社会党の加入条件はこれほど厳格ではなくなった。国際通貨基金(IMF)専務理事のドミニク・ストロス=カーンも、世界貿易機関(WTO)事務局長のパスカル・ラミーも、排除したりはしていないのだから。革命の理念は、最もラディカルな団体も含め、ほかのところでも衰退している。そこで、この言葉をまだ有望だと見た右派がこれを奪い取って、体制復古の同義語にしてしまった。彼らの唱える革命は、「既成秩序」に逆らって勝ち取られ、もぎ取られた社会保障を破壊することの同義語だ。

 諸々の大革命は暴力性のゆえに非難される。たとえば1792年8月のチュイルリー宮殿陥落のときに起こったスイス人護衛兵の虐殺、あるいは1918年7月にエカテリンブルクで実行されたロシア皇帝ニコライ2世一家の虐殺、1949年に中国共産党が政権掌握後に行った国民党軍将校の虐殺に、人は眉をひそめる。しかし、それなら、ヴェルサイユが舞踏会に明け暮れ、聖職者が十分の一税を取り立てていた同じときに、旧体制下で数々の飢饉が発生していたことを語ってしかるべきだった。1905年1月に、サンクトペテルブルクを平和裡に行進していた何百人もの民衆が、ニコライ2世の兵士によってなぎ倒された血の日曜日事件のことや、1927年に広東と上海で、革命家たちが生きながら機関車の釜に投げ込まれた事件についてもだ。人々がかつて打倒しようとしていた社会秩序による数々の日常的な暴力については、言うまでもないだろう。

レオン・ブルムの問いかけ

 生きながら焼かれた革命家の話は、中国史に関心をもつ者にとどまらず、マルローの『人間の条件』を読んだ何百万の人々にも強烈な印象を与えた。何十年にもわたって、最も偉大な作家や芸術家たちは、労働運動とともに革命を、明るい未来を言祝いできたのだ。革命の幻滅、悲劇、ほの暗い夜明け(政治警察、個人崇拝、強制労働収容所、処刑)を矮小化した者もいたのは事実だが。

 逆にそれだけしか、ここ30年は語られなくなっている。大学やマスコミでうまくやるためにも、アカデミー・フランセーズ会員という栄誉に輝くためにも、そうすることが勧められさえする。「革命というのは暴力の突発のことだ」と、うまくやった歴史家であるマックス・ガロは言う。「我々の社会は極度に脆弱だ。公的発言権がある者の重要な責任は、そうした突発に対する警戒を人々に促すことだ(5)」。フュレはフュレで、ラディカルな転換の試みはすべて全体主義か恐怖政治だと言っている。そしてこう結論する。「《別》の社会を考えることは、殆ど不可能となっている(6)」。それが不可能だからといって、ディナーと議論からなる心地よい生活によって嵐から守られた彼の愛読者の大半には、とくに不満がないことは想像にかたくない。

 革命を毛嫌いし、その当然の帰結として既成秩序を正当化する言論人は、ガロやフュレ以外にもたくさんいる。映画も含めたメディアの方向性を考えてみればいい。彼らは30年前から、自由民主主義の外には、専制体制とそれら相互の共謀しかありえないということを立証しようと努めてきた。だから、独ソ不可侵条約は、ミュンヘン会談における合意成立、アドルフ・ヒトラーとネヴィル・チェンバレンの握手のような、他の同様に異様な同盟よりも、はるかに重要視されている。このナチスと保守派という取り合わせは、少なくとも人民戦線への憎しみという点で共通していた。ムッソリーニの政権掌握と第三帝国の出現を後押ししたフェラーラの貴族たちとルールの鉄鋼王たちの胸中には、まさにこれと同じ階級的恐怖があったのだ(7)。こんなことをいまだに語ることが許されるのだろうか。

 許されるのであれば、話を先へ進めるとしよう。フランス初の社会党政権の首相となったレオン・ブルムは、彼のある友人が「タルタルソース(タタール風ソース)で味つけされたブランキ主義」と評したソ連型革命を拒否し、それを見事に理論化したが、立派な大学教授たちも評価する彼のような人物でも、普通選挙だけをよりどころとするような社会変革の限界を考察していた。1924年に彼は警告している。「現在の社会を代表し指導する人々自身、この社会の根本原則があまりに深刻に脅かされていると思ったときに、合法性から逸脱しないでいるものかどうか、我々はさほど確信がもてない」。その後まさしく、1936年のフランコの反乱、1973年のピノチェトのクーデタ、それにもちろん1953年のイランのモサデク政権転覆など、その種の違反行為は挙げるに事欠かない。さらにブルムは、次の点を強調している。「フランスにおいて共和政が憲法にのっとった合法的な投票によって宣言されたことは一度もない。共和政は、既存の合法性に抗って蜂起した民衆の意志によって確立されたのである(8)

 いまや、普通選挙は、他のかたちの集団的介入を不当視させるために引き合いに出され(公共サービスのストは、人質を取るに等しい行為だと言われる)、あらゆる政治的行動のアルファにしてオメガとなったようだ。だが、レオン・ブルムが普通選挙について投げかけた問いはまるで古びていない。「それは今日、完全に実現されているだろうか。経営者と地主の影響力が、金の力と大新聞の力とともに有権者にのしかかってはいないだろうか。あらゆる有権者が思考の涵養と人格の独立性の自由を享受することで、自由に投票できているのだろうか。有権者を自由にするためにこそ、まさに革命が必要なのではないだろうか(9)」。とはいえ、投票による審判により、経営者と金とマスコミの総がかりの圧力をはねのける事態が、オランダ、フランス、アイルランドというヨーロッパの3つの国で起きたではないか、という声も聞こえてくる。まさにこの理由から、そうした審判結果はないがしろにされたのだった。

 「我々はすべての闘いで負けたが、いちばん美しい歌を歌ったのは我々だった」。フランコ勝利後にフランスに亡命したスペイン共和派の闘士が語ったとされる言葉は、保守派の問題点、そして彼らが執拗に屈従を教育することの問題点の、独特の要約となっている。簡単に言えば、諸々の革命は人間の歴史と意識のうちに消しがたい痕跡を残したのだ。革命が失敗しようと誹謗されようと、それは変わりない。革命はあのまれな瞬間、運命が決起し、民衆が優位に立った瞬間を具現する。だから普遍的な共鳴を生む。戦艦ポチョムキンの反乱兵、中国共産党の長征の生き残り、キューバ山岳地帯の髭づら男たちは、共和暦2年の兵士たちの武勲をそれぞれに再現していたからだ。イギリスの歴史家エリック・ホブズボームが述べたように「フランス革命は、いかなる政府も決して忘れられないほど、民衆の力というものを明らかにした。政府にとって忘れられないのが、訓練不足の徴募兵からなる急ごしらえの軍隊が、ヨーロッパ諸王国の百戦錬磨の精鋭部隊からなる強力な連合軍に勝利したことの記憶だけだとしても(10)」 

「彼らはいまなお社会的に有用なのか」

 いや「記憶」だけではない。現代政治のボキャブラリーも、世界の司法制度の半数も、フランス革命が発明した法典の影響を受けている。さらに1960年代の第三世界主義を考えるなら、それがヨーロッパで得た支持の一部は、ルコネサンス(再認識と感謝の二重の意味)の感情から来ていたのではないだろうか。革命と平等と解放という啓蒙期の理想が、旧大陸で教育を受けたヴェトナム人、アルジェリア人、中国人、チリ人の力とあいまって、南の諸国で再生を遂げたように見えていたのだ。

 帝国は肥大し、理想は旧植民地に受け渡され、革命は続いた。今では状況は変わってしまった。中国とインドが解放を遂げ、国際舞台で発言するようになったことは、世界各地で好奇心と共感を呼び起こしている。しかし両国に起きた事態は、いかなる「普遍的」希望も指し示すことがない。それは平等や、抑圧された者たちの権利や、既存のものに替わる開発モデルや、知識と名望に依拠した保守派の体制復古を阻止しようとする思慮とつながってはいない。

 ラテンアメリカの状況に対する国際的な興奮が、ほかの地域の場合より大きいとすれば、それはこの地域で採られている政治的方向性が民主的かつ社会福祉的だからである。20年来、ヨーロッパのある種の左翼は、「革命という括弧」は閉じられ、大衆層は政治的に消滅したという理論を作り上げ、中産階級の要求を優先することを正当化してきた。これに対し、ベネズエラやボリビアの為政者が行っているのは、大衆層の再動員である。彼らの境遇は気に懸けられている、その歴史的運命は決されたわけではない、要するに闘争は続いているのだ、ということを大衆層に示したからだ。

 革命は、いまなお望ましいものであるとはいえ、まれである。革命が起こるためには、同時に満たされなければならない複数の条件がある。不満を抱き、行動を辞さない大衆が存在すること。国家の正統性と権威に対し、通常はそれを支持している層の一部も(国家の経済的無能や、軍事的怠慢、あるいは国家の機能麻痺に続けて解体を引き起こす内部分裂のせいで)抗議を始めたこと。そして、初めは極度に少数派であっても、旧来の信条や忠誠心の崩れた人々すべてを糾合できるような、既存の社会秩序を疑問視するラディカルな思想があらかじめ存在することだ(11)

 第一次大戦前夜のモスクワとサンクトペテルブルクにおける労働者についての研究が、アメリカの歴史家のヴィクトリア・ボネルによって行われている。労働者が主要勢力となった革命の唯一の「成功例」であるだけに、彼女の結論はここに引用しておく意義がある。「革命的意識を特徴づけるものは、既存の制度を転換し、別の社会的、政治的組織を確立するしか、憤懣を解消する道はないという確信である(12)」。そのような意識が、政治的動員と知的高揚という前提条件なしに、おのずと現れることはない。

 しかも、一般的に言って、現在の事態にも見られるとおり、社会的運動が掲げる要求は第一に防衛的となる。つまり、経営者、地主、銀行家、為政者が破った社会契約の立て直しだ。パン、仕事、住居、教育、生活の見通しだ。彼らは(まだ)輝かしき未来を掲げはせず、「現状のいちばんひどいところを取り去ったイメージ」を掲げる(13)。「国王、資本家、司祭、将軍、官僚たちは、いまなお社会的に有用なのか(14)」という問いが、活動家サークルを超えて次第にあちこちで発せられることになるのは、次の段階に入ってからだ。支配者たちがその権力と特権を正統化する自らの義務を果たしえないことが明らかになった段階だ。そこまでくれば、革命を語れるようになる。ひとつの段階から次への移行は速やかに訪れることもある(1798年の場合は2年だったし、1917年の場合は数カ月だった)が、決してやってこないこともある。

 ほぼ2世紀にわたって、何百万の政治的活動家や組合運動家、歴史家、社会学者が、その帰趨を決する変数について検討を重ねてきた。指導階級が分裂し、意気阻喪しているかどうか。その抑圧装置が無傷かどうか。変革を渇望する社会的諸勢力が組織され、うまく連携できているかどうか。そうした研究がアメリカほど多くなされている国はない。アメリカの研究のほとんどは、革命を理解し、革命がもたらした一切を認めるが、その目的は、革命という恐るべき見通しを祓いのけることにあるのだ。

 それらの研究の信憑性はといえば、じつにいいかげんであることが明らかとなった。1977年の例を挙げよう。当時なによりも懸念されていたのは、資本主義社会の「統治しがたさ」であり、それに引き換え、どうしてソ連はあれほど安定しているのかという問いが立てられた。説明は続々と登場した。ソ連では指導者も国民も秩序と安定を好むからだ、体制の示す価値観が社会の中で集団的に強化されるからだ、解決すべき問題が累積的な性質のものではなく、一党体制下で情報操作が可能だったからだ、好調な経済が安定に寄与したからだ、生活水準が上がったからだ、大国としての地位があったからだ、等々(15)。当時すでに途方もなく有名だったイェール大学の政治学者サミュエル・ハンチントンのなすべきことは、相互に合致する一群の指標にもとづいて結論を下すことだけだった。「今後予想される課題のうちに、ソ連の体制がすでに解答に成功した課題と質的に異なるものがあるとは考えられない(16)

 その後のなりゆきは誰もが知っている。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2009年5月号)

* リード文中の「悪魔払い」を「悪魔祓い」に訂正(2009年5月25日)
* 第一段落「フランセス・フクヤマ」を「フランシス・フクヤマ」に訂正(2009年6月1日)