アフリカの帝王ヴァンサン・ボロレ

トマ・デルトンブ(Thomas Deltombe)による調査記事

ジャーナリスト

訳:エマニュエル・ボナヴィタ、清水眞理子


 ヴァンサン・ボロレは、2007年にサルコジ大統領にゴージャスなバカンスを提供したことについて質問された際、「誰かと友人だからといって、お互いに倫理はヌキだなどということはない」と述べた。彼が率いる企業グループは、フランスの経済活動において特異な位置を占めている。プラスチックフィルム、運輸、エネルギー事業を手がけ、系列会社がいくつもあり、政府調達にも食い込んでいる。1822年に設立されて以来ずっとボロレ家が資本の過半数を保有しており、世界ランキングでトップ500に入るコングロマリットだ。世界各地に進出しているが、本命はどうやらアフリカらしい。アフリカでは様々な企業グループが、特に最近民営化された事業の免許をめぐって、熾烈な競争を展開している。ボロレ・グループは、リベリアのチャールズ・テーラーや、フランサフリック(1)の代表格であるカメルーンのポール・ビヤなど、悪辣な政権との関係が暴かれて非難の嵐にさらされた。だが、ヴァンサン・ボロレには、政治家の人脈やグループ傘下のメディアという強力な味方が付いている。[フランス語版編集部]

 「我々メディアにとって、ヴァンサン・ボロレは現代のヒーローとして完璧だ。怪しげな連中との旧交を温める彼の姿には、経済危機を忘れさせてくれるところがある」

テレビ局TF1で放映されたヴァンサン・ボロレについてのルポルタージュ(2)


 長い間、ヴァンサン・ボロレの童顔に、フランスのメディアは甘い視線を向けてきた。1980年代に「キャッシュフローの王子」と呼ばれていた彼は、「新しい資本主義」を体現する存在だった。倫理観のある企業家として、労使関係の安定と事業の収益をうまく両立させていたということだ。ブルターニュ地方のオデにある彼の製紙工場で見られたのは、マイクとカメラに取り囲まれた労働総同盟(CGT)の代表者が、「会社の利益をしっかり考えたい」から「階級闘争よりも近代化」を目指していく、と衷心から語る光景だった。

 しかしその後、「カネの時代」を体現したブルターニュの寵児の人気には、衰えが見られるようになった。最初のきっかけは、90年代にブイグ・グループなどに対して仕掛けた株取引だ。友情を裏切って莫大な配当を手にしたことで、強欲な実業家だという評判を取った。また、高級ヨットやプライベートジェットをこれ見よがしにひけらかした。その横にいたのは、大統領に当選したばかりのサルコジである。疑惑と謀略が渦巻くなかで、かつて天使のようにもてはやされていた億万長者は、一部のメディアから悪魔のように言い立てられるようになった(3)

 この頃から、ヴァンサン・ボロレのもうひとつの顔が表面化した。それは、アフリカにおける事業である。過去20年でアフリカはボロレ・グループの柱のひとつとなったが、このことは長い間「隠された一面」だった。売上高にアフリカの占める割合は、公式には4分の1(2007年には64億ユーロのうち14億ユーロ)にすぎないものの、従業員は1万9000人にのぼり、43カ国に200もの事務所があり、枢要なインフラ(港湾、交通機関、プランテーション)を保有している。ヴァンサン・ボロレはアフリカで、侵略を進める帝王のように振る舞い、政界やメディアの人脈を駆使している。

 ボロレ絡みの争いの中でメディアが最も取り上げるのは、アフリカの港湾をめぐるものである。港湾は、グループの現地輸送・物流ネットワークの要をなす。グループの傘下には、植民地時代にアフリカとの貿易で、輸送・中継・荷役を手がけて大儲けした企業がいくつもある。主な企業は2つある。ひとつは用船・燃料貿易会社(SCAC)である。1986年にボロレに買収され、合併によりSDVロジスティク・アンテルナショナルと改名された。もうひとつはSAGAで、SCACと対をなす。数々の謀略の末、97年にボロレが買収した。ボロレはさらに、国際金融機関がアフリカ諸国に強制した民営化の波に乗って、これまた植民地時代から継承された枢要なインフラの事業免許を手に入れた。95年には、ブルキナファソとコートジヴォワールをつなぐアフリカ鉄道運輸国際会社(シタライユ)、99年には、内陸国チャドと中央アフリカの海への出口として重要なカメルーン鉄道会社(カムライユ)、という具合だ。

 港湾施設の分野では、ボロレはたった5年間で、系列会社を通じて、あるいは他社との提携によって、いくつものコンテナターミナルの事業免許をもぎ取った。ドゥアラ(カメルーン)、アビジャン(コートジヴォワール)、コトヌー(ベナン)、テマ(ガーナ)、ティンカン(ナイジェリアのラゴス)、さらに最近ではポワント・ノワール(コンゴ共和国)などだ。

 約40カ国にわたる200の事務所のほか、鉄道、数千台のトラック、数百万平米の倉庫を擁するボロレ・グループにとって、港湾の運営はアフリカ支配を保証するものとなる。グループは2008年9月に設立したボロレ・アフリカ・ロジスティクスの名の下で「アフリカ最大の総合物流ネットワーク」となった(4)。だが、この勝利声明の裏では、アフリカの港湾をめぐる政治的かつ経済的な闘争が繰り広げられている。

ライバル企業プロゴザとの闘争

 例えば、ダカール港の事業免許を得るために、ヴァンサン・ボロレは自分の影響力を最大限に活用した。サルコジとの仲を見せつけただけでなく、有力政治家アラン・マドランやフランソワ・レオタールの後押しを得た。財界の重鎮アルノー・ラガルデールを仲介役に立てて、アラブ首長国連邦の大手ライバル企業ドバイ・ポーツ・ワールド(DPW)にダカール港を諦めさせようとした(5)。さらに、自社系列のテレビ局ディレクト8でセネガル大統領についての特集番組を放送し、傘下の無料紙マタン・プリュス(2008年初めにディレクト・マタン・プリュスに改名)とディレクト・ソワールがともに一面記事を載せた。2007年3月20日付のディレクト・ソワールには、「アブドゥラエ・ワッド、アフリカの偉人」という簡潔きわまりない見出しが躍った。

 しかし、その努力は報われず、ダカール港のターミナルは最終的に、2007年10月にDPWに委ねられることになった。内心ではこれを快く思わないヴァンサン・ボロレだが、メディアに対しては潔く負けを認めた笑顔を見せ、自由競争を擁護するコメントを繰り返す。セネガルでの敗北は、ボロレ・グループがかねて批判されてきたようにフェアな競争から逃げているどころか、競争に打って出ている証拠であり、セネガルにしろどこにしろ、フランス多国籍企業の「縄張り」などではない証拠である、と(6)。そして、「勝つこともあれば、負けることもある。これがビジネスだ」と泰然と語っている(7)

 ドゥアラ港やアビジャン港の免許獲得をめぐる論争を鮮やかに封じるコメントだ。アビジャン港については、この国が戦争中の2004年に、コートジヴォワール政府との随意契約で免許を得たという経緯がある。

 ダカール港の件の後でのヴァンサン・ボロレの作り笑いは、もうひとつの闘争のせいでもある。それはライバル企業プロゴザとの、より水面下の、さらに激しい闘争であり、政財界を舞台に数年前から続いている内輪もめだ。プロゴザの会長ジャック・デュピュイドビは、SCACの社長を務めていたが、同社が1986年にボロレに買収されたときに解雇された。ブイグ・グループに移った後、一時はボロレと縒りを戻したが、トーゴをはじめアフリカの港湾をめぐって再び対立するようになった。

 2人の熾烈な競争は、間もなくヨーロッパやアフリカでの裁判合戦となり、次いで派閥抗争の様相を帯びるようになった。ボロレ側はサルコジ派と見られているのに対し、プロゴザ側にはシラク派が集まっている(8)。そして、メディアを通じての闘争と、政財界の謀略とが交錯するような事件が起こった。ある元憲兵が、ヴァンサン・ボロレの命を受けた経済情報収集会社GEOSの依頼で、デュピュイドビのビジネスパートナーについて調査を行ったと明言したのだ。それに対してボロレ側は「嘘だ、中傷だ、偽りだ」と力説している(9)。「ビジネス活動」というものが、紳士のたしなみで済むようなものでないことは明らかだ。

 アフリカの港湾がこれほど渇望されているのは、涸れることを知らない政治力と経済力の源泉となるからである。税関は、多くの政府の資金源である。また、アフリカの輸出入の管理を通じて、貴重な情報を手にすることができる。ボロレの元社員が2006年に述べたように、「アフリカというのは島のようもので、海を介して世界と結ばれている。クレーンを押さえた者が大陸を押さえることになる」のだ(10)。中国をはじめ新興国がアフリカに進出するようになり、商品の物流・中継・輸送を担う企業に好機が訪れたことからも、港湾の掌握がますます重要になっている。

政治家との人脈

 ボロレ・グループは運輸事業で確固たる地位を築き、記録的な躍進を続けている。「西アフリカでは、カカオや綿花など品目によって異なるが、一次産品で50〜70%のシェアを握っている。東アフリカでは15〜30%のシェアだが、それでも多くの品目でトップに立つ」と、グループの「アフリカ」担当役員ドミニク・ラフォンは満足げに語る。石油、鉱石、工業製品の分野でも、相次いで物流契約を結んでいる。トタル社とはアンゴラ、カメルーン、コンゴで、アレヴァ社とはニジェールのウランに関して提携し、ブルキナファソでは金鉱、ガーナでは発電所にかかわる契約を獲得した。

 これらの契約に関しても、他のアフリカ事業と同様に、ヴァンサン・ボロレは自分の人脈を活用した。重役のジル・アリックスは言う。「あの辺の大臣はみんな知っている。友人だ。率直に言うと、大臣でなくなったときには系列会社の役員就任を斡旋することもある。そうすれば彼らのメンツが立つ。それに、いずれまた大臣になるかもしれないし(11)」。ボロレ・グループはガボンでは、中国が近々開発を始める巨大なベリンガ鉄鉱山を狙っており、ボンゴ大統領の娘パスカリーヌを系列会社ガボン・マイニング・ロジスティクスの社長に就けた。あちこちの人脈をテコに、友人たちの政権とつるんでいる。「フランサフリック」の伝統を完全に踏襲しているわけだ。

 ボロレ・グループはフランスでも以前から、影響力のある人物を採用している。最も有名なのは、恐らくミシェル・ルーサンである。10年以上前からボロレの「アフリカ人士」の1人として活躍し、1997年にアフリカについての本を書いて注目された。この本を出した叢書の責任者は、ヴァンサン・ボロレの義理の兄弟でもあるジェラール・ロンゲ元大臣である(12)。だが、ボロレがルーサンに関心を向けたのは、別の理由がある。フランス情報機関の幹部、シラク前大統領の盟友、バラデュール内閣の協力相という経歴がある上に、フランス企業運動(MEDEF)国際部門の副代表だからである。

 ボロレ・グループは、植民地時代の大企業とフランサフリック人脈をそのまま引き継いでいるため、フランスの政治家との厚いコネクションを解明するのは容易ではない。アフリカへの攻勢では、他のコングロマリットと同様に、政府の支援を受けている。大統領や大臣がアフリカ行きを快諾し、向こうの政府に対してロビー活動を行っている。ヴァンサン・ボロレの右派人脈はよく知られているが、グループの戦略委員会には、社会党のジャン・グラヴァニ議員が財界人のアラン・マンクとともに顔を連ねている。

 また、ボロレ・グループのアフリカ事業は、インフラ開発支援プログラムを通じて間接的な政府支援を受けているばかりか、政府契約の恩恵に直接あずかってもいる。政府契約に関してヴァンサン・ボロレは、公認の伝記の著者に対し、「どうでもいいような金額だ。誰も参入したがらない分野の話にすぎない。例えば、アフリカ域内の輸送はうちしかやっていない。全部を足しても数千万ユーロ程度で、我々の売上の1%にも満たない」と語っている(13)。「どうでもいいような」金額だとしても、外務省や国防省などとの契約は、フランスの枢要な利益が絡んでいるものが多い。コートジヴォワールでのリコルヌ作戦のように、フランスがアフリカに軍隊を派遣する(あるいは引き揚げる)ときには(14)、ボロレ・グループの多数の系列会社が頼りにされているようだ。系列企業SDVの「防衛」事業部のパンフレットには、装甲車の写真に重ねて、「作業のセキュリティと秘密保持は万全です」という文字が躍っている。

 ボロレ・グループは「アフリカの基幹的な輸送インフラ全体における主要事業者」を自任する企業であり、平時も戦時も一様に好調である。国連がPKOを派遣するときにもグループの助けを求めることが多い。ボロレはチャドにEU軍(EUFOR)が派遣された際にも一枚かんだ。長年の暴力で荒廃した産油国スーダンでは、系列会社の関係者が白状したように、人道援助関連に加え産油関連でも、物流を手がけて大きな利益を上げている(15)

国連の報告書

 ボロレ・グループは、自社事業の「人道的」な側面(SDVの関係者によると「すばらしい天の配剤」)について語るのを厭わないが、常にその手の透明性を貫いているわけではない(と婉曲に述べておこう)。コンゴ共和国では、90年代末にクーデタと血生臭い内戦によって政権に復帰したサス=ヌゲソ大統領と、驚くほど良好な関係を保ってきた(16)。同じ頃リベリアでもテーラー大統領と、それに劣らぬ不透明な関係をもっていた。テーラーが流血のうちに政権を奪った直後の1998年に、ボロレを大株主とするベルギー企業ソクフィナルが広大なゴムのプランテーションの事業認可を得たとき、その背後関係について疑惑がささやかれた。

 こうした関係について、テーラーは武装勢力を率いていた時代にヴァンサン・ボロレの名を挙げないままコメントした。「特権などない。フランスの実業家が誰よりも早く我々に会いに来たにすぎない。彼らはリスクを取ったから、今日の先行を得ることができたのだ。(・・・)要は『通常のビジネス』だ。というのも結局のところ、実業家に国籍はない。フランスから来ようが、どこから来ようが、彼らはみな、当然ながら、リベリアの木材や、鉄、金、ダイヤに関心をもつ(17)

 「チャールズ・テーラーに会ったことがありますか」と、くつろいだヴァンサン・ボロレに対し、1999年にジュンヌ・アフリック誌が尋ねた。「私はないね。私自身はもはや何もしていない(笑)。必要なことを私に代わってやっているのはグループの経営陣だ(18)」。ボロレ・グループとリベリア政府の親密な関係は、2001年に再浮上することになる。リベリア政府が隣国シエラレオネを揺さぶるための戦争の資金源として、木材の組織的な密輸を行ったことに、このコングロマリットが関与したという非難が複数の市民団体から起きたからだ。テーラーが戦争犯罪と人道に反する罪でシエラレオネ特別法廷に起訴された後も、ヴァンサン・ボロレが「笑み」を浮かべているかどうか、歴史は語っていない。

 ボロレは自社グループとテーラー政権との一切の関係を「きっぱりと」否定するが、国境を越えた戦争で荒廃したコンゴ民主共和国(旧ザイール)東部にある系列会社に向けられた非難に関し、ドミニク・ラフォンは彼ほど平静ではないようだ。この件で非難の声を上げたのは単なる市民団体ではなく、国連安保理の要請により、この地域の天然資源の「不法採掘」について調査した専門家グループである。国連は、この地域の一次産品の売買が武器密輸の資金源になっているのではないかと懸念している。特に問題なのは、携帯電話やテレビゲーム機の製造に使われるコルタン(コロンバイト・タンタライト)である。コルタンの相場は2000年代の初頭、爆発的に高騰した。

 最初の国連報告は、「差配役か受動的共犯者か」というタイトルで、2001年4月に公表された。そこにはすでに、ボロレ・グループの100%子会社であるSDVが、「採掘と戦争遂行のネットワークの要のひとつ」だと記されていた。「数千トンのコロンバイト・タンタライトがこうして(ルワンダの)キガリから積み出されたり、(タンザニアの)ダルエスサラーム海港経由で運ばれたりしている(19)」。国連の専門家は、2001年11月にもSDVへの非難を繰り返し、2002年の新しい報告書では「多国籍企業に向けた経済協力開発機構(OECD)の主要指針に違反している」企業のリストに掲載し、さらに2003年には、「意見表明に必要な時間が充分にあったにもかかわらず」専門家グループの要請に「反応しない」企業のひとつに挙げた(20)

 この件についてボロレ・グループ関係者がようやくコメントしたのは、コンゴ(旧ザイール)の紛争が再びニュースになった2008年末のことだ。週刊誌マリアンヌが、2003年の報告書に依拠しつつも、それより前のもっとストレートな報告書には触れずに行った質問への回答だ(21)。とはいえ要するに、2年足らず前に就任したばかりの現地責任者の「非の打ち所がない」経歴を振りかざすことで、事実を否認するものだった。だが、むきになって否認するほどのことはなかったかもしれない。2009年1月25日に教育テレビのフランス5が、52分のドキュメンタリー「地獄の鉱山」を放映し、コルタン問題に関する特集番組なのに、ボロレその他の欧米多国籍企業に一度も触れないまま、国連報告を引用するという離れ業を成し遂げたからだ。

慈善団体への寄付

 大部分のジャーナリストが関心をもたないのをいいことに、ボロレ・グループはもうひとつの競争分野であるメディア事業に打って出る姿勢を明確にし、2000年代初めから多大な投資を続けた。広告(アヴァス)から、テレビ局(ディレクト8)、世論調査機関(CSA)、無料紙(マタン・プリュス、ディレクト・ソワール)までを押さえ、企画から放送・配布まで完全にコントロールしたメッセージの流通体制を確立している。グループのアフリカ市場への攻勢にあたり、これらのメディア部門はアフリカの重要な「政策決定者」を対象とした懐柔策を繰り出している。

 例えばディレクト8の場合、編集局長はほかならぬヴァンサン・ボロレの息子ヤニックであり、ドミニク・ルーサンが司会する月例番組もある。無料紙の場合も同様で、公共交通機関を利用する何百万人もの人々に、宣伝ビラのように配られている。マタン・プリュスとディレクト・ソワールの両紙は、アフリカ諸国についてフランス人がおおむね無知でほとんど関心がないのをいいことに、大半が選挙の洗礼を受けず、国内の抑圧政策と対外的な宣伝政策だけで権力を維持する大統領たちのイメージアップを図っている。この静かな戦争において、ボロレはメディア事業を通じて、彼らに強力な武器を提供しているのだ。

 例えば、ル・モンドと提携している日刊紙マタン・プリュスは、カメルーンのビヤ大統領の在任25年に関し、べたぼめの総括記事を載せた。カメルーン政府は国民の「購買力を引き上げる」ため、また「人権促進機関を強化する」ために奮闘している、という驚くべき内容だ(マタン・プリュス2007年10月26日付)。2008年2月に飢えによる暴動が起き、100人の死者が出る惨事となっても、この「無料紙」は前言を撤回しなかった。

 ボロレ・グループはカメルーン進出に大成功を収めつつも、ドゥアラ港のコンテナターミナル事業免許に関わる「汚職と情実」の罪で、ライバル企業プロゴザから訴えられるという不安材料を抱えているため、ビヤ大統領の国際的なイメージアップに心を砕く。費用はボロレ持ちで、系列の無料紙を利用し、傘下の広告会社ユーロRSCGも恐らくは身内価格で使っている。同社の社長ステファヌ・フークスが2009年2月に行ったカメルーン大統領府訪問は、「豊かで実りある」ものとなった。

 カメルーンでのボロレ・グループのメディア事業は、それだけにはとどまらない。銃後を固めるために地元ジャーナリストにも秋波を送っている。2007年5月には、カメルーンのメディアの編集長6人を、費用丸抱えで1週間のフランス周遊旅行に招待した。2008年2月にドミニク・ルーサンがヤウンデを訪れたのも、同じような気前よさに基づいたもので、この訪問の目的は、大きな影響力を持つ大統領夫人が慈善事業の看板として「エイズ対策」を掲げた不透明な機関、シャンタル・ビヤ基金との提携調印だった。

 ヴァンサン・ボロレが政治と慈善をない交ぜにした姿勢の下、しばしば慈善団体に寄付をしていることも言っておくべきだろう。例えば(ダニエル・コーン=ベンディット欧州議員の兄)ガブリエル・コーン=ベンディットが主宰するアフリカ全人教育ネットワーク(REPTA)がそうだ。また、今はもうないが、「社会的」目的を掲げたミシェル・ロカール元首相のベンチャー投資会社、アフリク・イニシアティヴを長きにわたって支えた。ベルナール・クシュネル現外相を会長とする団体、レユニールが2005年にニジェールに派遣した緊急人道援助隊など、短期的な活動にも資金援助している。

 ネルソン・マンデラ基金へのヴァンサン・ボロレの固執も、これらと似たり寄ったりだ。この反アパルトヘイト闘争の英雄については、すでに系列の無料紙が一面記事を4度も載せている。2007年9月、この南ア前大統領のフランス訪問の際には、マタン・プリュスとディレクト・ソワールの両方が一面記事を載せた。「南アと西アフリカで(経済的な)拡大を図るボロレが、この訪問を自ら企画し、自社の飛行機を提供した」ことを週刊誌テレラマがスクープしている。「この訪問をメディアで大きく取り上げさせることで、アフリカとの関係、そしてフランス大統領府との関係を強化した。サルコジはこの象徴的人物と握手できて御満悦だった(22)」。マタン・プリュスに掲載された写真が示す通り、フランス大統領はオルリー空港で、友人ヴァンサンによる懐柔策に満面の笑顔で応じた。さらに、2007年9月3日付のディレクト・ソワールは、誰の機嫌も損ねることがないよう、クシュネルの写真でマンデラ特集ページに彩りを添えた・・・。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2009年4月号)
* 著作権表示を訂正(2009年4月29日)