グーグル・ブック検索は啓蒙の夢の実現か?

ロバート・ダーントン(Robert Darnton)

歴史家、ハーヴァード大学
カール・H・プフォルツハイマー記念大学教授および図書館長

訳:逸見龍生


 絶えず増大し続ける知識を最大多数の人々に供給するインターネットは、啓蒙主義の夢の実現だろうか、それとも公共知が私的企業の餌食にされる悪夢の到来なのだろうか。グーグルのおかげで、あるいはグーグルのせいでと言うべきか、この問題はもはや机上の空論ではなくなった。この4年間、有名な検索エンジンサービス企業は、世界有数の大学図書館の蔵書から数百万の著作物をデジタル化し、ネット上で公開してきた。著作者と出版社にとってそれは、著作権のあからさまな侵害行為だった。長い交渉を経て当事者双方は合意に達したが、そこで合意された内容は、書物を読者のもとに送り届ける従来の仕組みを根底から覆すものだった。どんな新たな世界がこの取り決めから生みだされるのか、その法的・経済的な概略はいまだ未知数であるものの、所蔵コレクションを開放し、あらゆる人々に閲覧できるようにするという、大学図書館館長たちの目的にぶれはない。一見するとごくたやすいプロジェクトであるが、そこには社会的拘束や経済的利益など様々な足かせがつきまとってきた。2世紀前に存在した、世界文芸共和国のプロジェクトとも重なって見える。

 啓蒙の18世紀は、百科全書派の人々が文芸共和国と呼んだ思想の世界に全幅の信頼を寄せた。その領土には警察も国境もなければ、才能以外には不平等もなかった。書くことと読むこと、その二つがこの世界の市民たるにふさわしい特性であり、そのどちらか一つを使えさえすれば、誰であろうとこの世界に居住することができた。作家は自分の考えを公表し、読者はそれが正しいかどうか評価する。活字のもつ権威によって、多くの議論が輪となって広がり、最も説得力のある議論に軍配が上がった。

 書き言葉のこの黄金時代、言葉は書簡を通じてもまた広まった。ヴォルテールやルソー、フランクリンやジェファーソンたちの、それぞれ優に50巻にはなろう大部の書簡集のページをめくれば、文芸共和国の真髄に触れることができる。途切れなく連綿と綴られる書簡の中で、どの作家も時代の枢要の主題を議論した。欧米を結んだこれらの書簡は、大西洋を挟んだ情報ネットワークの特徴を、すでに遺漏なく呈していた。

 私が特に気に入っているのは、ジェファーソン(1743-1826)とマディソン(1751-1836)の二人で交わされた往復書簡だ。彼らは諸事万端を語るのを好んだが、とりわけ二人が好んだのは起草中の合衆国憲法の話題だった。新生共和国の代表としてジェファーソンがパリに駐在していた頃、マディソンはフィラデルフィアで憲法起草に寄与していた。ジェファーソンは友マディソンのためによくパリ中の書店を駆け巡って書物を購入していたから、二人には書物の話題も多かった。購入書籍の中にはディドロ『百科全書』もあった。安値で買ったとジェファーソンは信じていたが、入手したのは初版ではなく、リプリント版だった。

 啓蒙時代の情報ネットワークの中で書物について談論する、合衆国の将来の二人の大統領というこのイメージは、魅力的ではある。だが、このイメージに酔いしれてしまわないうちに、文芸共和国が民主的だったとしても、それは原則論としてだけだったことは、やはり強調しておきたい。この共和国に属していたのは、実際には富裕層と貴族たちだった。大部分の作家たちは筆一本では暮らしていくことができず、権勢者にこびへつらい、閑職を請い求め、国家が監督する新聞のどこかに席を得ようと懇願し、検閲の裏をかき、サロンやアカデミーを転々として、好評を博したり、汚名を着せられたりしながら、自力でどうにかこうにか道を開いていかざるを得なかった。庇護者たちから被る侮辱を晴らすことはとてもできないので、代わりに互いに内輪でいがみ合った。ヴォルテールとルソーのいさかいはその最たる例だ。

 『カンディード』の著者[ヴォルテール]は『人間不平等起源論』を読んだ1755年、こんな手紙をルソーに書いた。「人類に反対する貴殿の新刊書を頂戴しました。(・・・)われわれを禽獣としようとするのにこれほどの才気を示した人はいません。御著書を読んでいると、四つ足で歩きたくなります」。ルソーは5年後に次のような返事を出した。「あなたを憎みます」

 社会的な違いが個人間のいさかいを激化した。平等主義的なアゴラとして働くどころか、18世紀の全社会に巣くっていた特権という病に文芸共和国は苦しんだ。特権が存在したのは貴族の領域に限らなかった。フランスでは思想の世界、とりわけ独占的な同業者組合に支配された印刷業者や書籍商たちや、国王の同意と検閲の認可がなければ出版もできない書物そのものにまで、それは及んでいた。

 このシステムは知の社会学、特に文学についてピエール・ブルデューが展開した概念を使って分析することができる。ブルデューは文学を一つの領域として捉え、その内部では様々な競合する立場の者たちが、社会の支配的力に対し、多少なりとも自律したゲームの規則に従っているとした。

 だが文学者たちの生きざまが啓蒙の理念とおよそ無縁であったことを確認するのに、わざわざブルデュー学派にくみする必要もない。文芸共和国は、その寛容な原則にもかかわらず、非特権者には立ち入りできぬ閉じられた世界だった。にもかかわらず啓蒙時代は、情報公開一般、特に書物の自由な閲覧の擁護のために、今なお最も優れた弁護人であると私には思える。

 今日の研究図書館、バーチャル図書館にも、原則と現実との矛盾は、18世紀と同様、存在するのだろうか。私の同僚の一人は、パーティに出席すると、慇懃無礼にこうたずねられることがよくあると言う。「司書とはまた素敵なお仕事ですね。どういった感じのお仕事なのでしょうか」。彼女はいつもこう答えるそうだ。「何よりもまず金と権力が関わる仕事ですわ」と。

著作権法の誕生

 われわれ図書館に関わる者の多くは、公共の大図書館を築く原理原則を喜んで受け入れている。ボストン図書館の入り口の上には「Free to all(万人に開放)」という言葉が掲げてある。ニューヨーク図書館の大理石には、ジェファーソンの次の銘句が金文字で彫られている。「人間の条件を改善し、美徳を増大し、人間の幸福を確保する最良の方法は教育であると私は信ずる」

 われわれの共和国は文芸共和国と同じく、教育という礎石の上に建てられている。ジェファーソンにとって、啓蒙の光輝は作家と読者、書籍、そして図書館、特に議会図書館、(ジェファーソンが住んでいた)モンティセロ文庫、ヴァージニア大学図書館から生まれたものであった。言葉の解放力へのこの信頼は、合衆国憲法第一条にも明記されている。著作権は「一定期間」のみしか認められず、「学術および技芸の進歩」というさらに上位の原理に従う。建国の父祖たちは知的営為に対する正当な報酬を獲得する著作者の権利を認めたが、彼らはまた、優先されるべきは個的利益よりも公共の利益であることを、強調しもしたのだ。

 相異なるこれら二つの価値のもつ重みを、どう評価したらよいだろうか。合衆国憲法の起草者たちは、著作権が1710年に英国で「アン法」と呼ばれる法で発案されたことを知っていた。この法の狙いはそれまでの出版社がもっていた絶大な力に制限を与え、「教育を鼓舞する」ことだった。この法によって、著作者は自己の著作物に対する全面的な所有権を、14年間の期間にわたり、1回のみ更新可能な形で与えられることになった。出版社たちは、自分たちの寡占形態を弁護しようと、排他的で永続的な出版権が慣習法により保障されていると主張した。数度にわたる訴訟を経て、1774年、ドナルドソン対ベケット事件において、出版社側の敗訴が確定した。

 13年後、米国合衆国憲法起草の際、英国で支配的であった見解が採り入れられた。28年間の著作権期間は、著作者ならびに出版社の利益を保護するには十分に長いように思われた。この期間を超えれば、重んじられねばならないのは今度は公益である。1790年、同じく「教育の鼓舞」を目的として制定された最初の著作権法は、英国のモデルに倣って、保護期間を14年間、1回のみ更新可能と規定した。

 今日の著作権は、どれだけの期間存続するのか。1998年のソニー・ボノ著作権延長法(パブリックドメインになるところだったディズニーの有名キャラクターにちなんで「ミッキーマウス法」とも呼ばれている)によれば、著作権は著者が存命中存続し、さらに没後も70年間続く。これは事実上、著作者と権利承継人の個別利益が、1世紀以上にわたって最優先されるということだ。ゆえに、20世紀に発刊された米国の書籍の大部分は、まだなおパブリックドメインにはなっていない。インターネット上の文化遺産の無料閲覧は、大部分の出版物の保護期間の起算点となる1923年1月1日以前の著作物に限られる。民間企業グループが株主の利益のために、書籍のデジタル化を引き受け、パッケージ化し、販売でもしない限り、この状況はまだしばらく続くだろう。さしあたりわれわれは、シンクレア・ルイスの1922年刊行の小説『バビット』はパブリックドメインだが、1927年に刊行された『エルマー・ガントリー』のほうは2022年まで著作権で固く保護されるという、およそばかげた状況の中にある(1)

 建国の父祖が唱えた原理原則論から離れ、今日の文化産業の営みに視点を移すことは、啓蒙の高みからグローバル資本主義という低所に足を踏み入れることである。ブルデューがしたように、知の社会学を用いて現在の状況を検討したならば、われわれが生きている世界は、ミッキーマウスによって支配されていると確認することになるのかもしれない。

 かつての文芸共和国は、職業的な知の共和国へと変貌した。この共和国は言葉の最良の意味におけるアマチュア、すなわち単なる市民で知識を愛好する人々に対して公開されている。情報公開は至るところで実現している。オープン・コンテント・アライアンス、オープン・ナレッジ・コモンズ、オープンコースウェア、インターネット・アーカイヴのようなサイトや、ウィキペディアのようなアマチュア性を前面に出したサイト等で、デジタル化された論文が無料でネット上で入手できるようになった。知の民主化は、少なくとも原典へのアクセスという点に関しては、今やもうすぐそこまで来ている。啓蒙主義の理想が実現しつつあると言えそうな状況だ。

 このように言うと、米国人に典型的な嘆き節から、同じくきわめて米国人的な手放しの熱狂へと、私がいつの間にか調子を変えようとしているのではないかと考える読者がいても、無理はない。この両者を弁証法的に結びつける方法もたぶんあるだろう。ただし、商品化の脅威が迫ってきているのでなければ、の話だ。グーグルのような企業が思い描く図書館は、必ずしも知の殿堂を意味するわけではない。むしろ、たやすく開発できる「コンテンツ」の鉱脈と見なされているのである。数世紀にわたって、膨大な努力と巨額の資金をかけて築かれた図書館のコレクションを大規模にデジタル化することが、取るに足らぬ額で可能となる。きっと数百万ドルほどであろうが、いずれにしても、コレクションの発展のためこれまで投資された金額と比べれば、お話にもならぬ額である。

端末は1台だけ

 図書館が存在する目的は、「学習の鼓舞」すなわち「万人に開かれた」学習の確保という公共善を促進することにある。他方、企業を設立する目的は、株主を儲けさせることにある。実利経済が公共の利益にもなると考えれば、それはそれでよろしい。とはいえ、図書館の資産の商業利用を認めれば、根本的な矛盾をそのまま放置することになりかねない。つまり、万人が無料で閲覧できるという方向ではなしに、コレクションをデジタル化してネット上で販売するというのは、学術雑誌が民間出版社に管理を任せたのと同様のミスを繰り返すことにほかならない。しかも、それは遙かに大規模なものとなる。公共の知識を私有化する道具として、インターネットが利用されることになるのだから。ここでは、公共の利益と私的利益の断絶を埋めるために、何か見えざる手が働くわけではない。断絶を埋められるのは公衆だけだ。だが誰が公衆を代表するというのか。「ミッキーマウス法」を可決した議員たちではないことは確かだ。

 啓蒙思想を議会で立法化するなどということはできない。だが公共の利益を保護するルールは作ることはできる。図書館が代表するのは公共の利益である。図書館は企業ではないが、コストは考慮しなければならない。何らかのビジネスプランは必要である。その戦略は、電力会社コン・エジソン社がニューヨーク市で建物間に電力を通すため、街路掘削工事を行なったときに唱えた、「われわれは掘らねばならぬ」というスローガンを思い出させなくもない。「われわれはデジタル化しなければならぬ」と図書館司書たちはいう。だがどんな方法でもよいというわけではない。それは公共の利益のために、すなわちコンテンツについて市民に対する責任のあることを踏まえながら、実行されなければならない。

 ウェブを啓蒙思想と同一視するとしたら、それはやはり素朴な見方であろう。ジェファーソンが考えたよりもはるかに広範囲に知識を流布する方法を、まさにウェブはもたらしたのである。だがインターネットがハイパーリンクを通じて少しずつ作られている間、大企業は高みの見物をしていたわけではない。大企業は、あわよくばゲームを支配し、それを掌握し、所有しようと狙っている。むろん企業同士はしのぎを削っているが、競争は熾烈をきわめ、弱小企業は振り落とされていく。生き残りを賭けた彼らの闘いから生まれるのは、法外な権力を備えた寡頭支配体制であり、そこで追求される利益は、公衆の利益とは百八十度異なるものだ。

 民間企業グループが公共財を金づるに仕立て上げるのを、手をこまねいて見ているわけにはいかない。なるほど、われわれはデジタル化しなければならない。だがわれわれはとりわけ民主化しなければならないのだ。すなわち、われらが文化遺産に対するアクセスを公共化しなければならないのである。ではいかにしてか。ゲームの規則を書き直し、私的利益よりも公共の利益を優先させ、建国初期の共和派のひそみに倣って、デジタル版の知の共和国を創設することである。

 それにしても、こうしたユートピア志向への急変はいったいどこから生みだされたのか。グーグルからである。この企業は4年前、大学図書館の蔵書目録にある著作物のデジタル化を開始し、1セントたりとも求めることなく、研究文献をまるごとウェブ上にのせ、パブリックドメインになった著書をアマチュアに公開したのである。今日では例えば、オックスフォード大学のボドリアン図書館蔵書、女性作家ジョージ・エリオットによる傑作小説『ミドルマーチ』1871年初版をデジタルファイルで無料で閲覧し、ダウンロードすることができる。グーグル・ブック検索のページ上の、慎ましいと言えば慎ましい広告から収入を得るグーグルも含め、そこでは誰もが得をするのだ。

 グーグルはまた、著作権によって保護された書物もますます数多くデジタル化し、その抄録をウェブ上で公開してネット利用者の検索に供している。2005年9月と10月、巨額の逸失利益に目を剥いた著作者と出版社らのグループがグーグルに対して集団訴訟に踏み切り、自分たちの財産権の保護を求めた。2008年10月28日、数多くの折衝を重ねた結果、両者は和解に達し、あとはニューヨークの裁判所による認可を待つばかりとなっている(2)

 この文書によると、著作権を保有する著作者および出版社の利益を代表するブック・ライツ・レジストリー社という企業が創立されることとなった。グーグルは、大学図書館が提供する絶版書を手始めに、巨大な複合的データベースへのアクセスを有料化する。高校や大学、様々な機関は「機関ライセンス」を購入することによってデータベースに接続できる。公共図書館には館毎に「パブリックアクセス・ライセンス」が発行され、データベースに無料で接続できるが、接続端末とするパソコンは1台だけに限られる。このパソコンをどうしても使いたくて行列をつくるのが嫌な利用者がいる場合に備え、そのようなニーズに備えた有料サービスである「コンシュマー・ライセンス」が、当然ながら用意されている。またグーグルは、ブック・ライツ・レジストリー社と提携し、上の収入の37%を自社に、63%を著作権保護団体に配分しようともしている。

合意書の解読

 グーグルは、パブリックドメインとなった著作物のデジタル化を並行して進めており、こちらは従前通り無料でダウンロードできる。2008年11月までに同社がデジタル化作業を終えたとする700万点の著作物のうち、100万点がパブリックドメイン、他の100万点は著作権が存続中で書店で購入可能な書籍、そして残りの500万点は著作権によって「保護」されているものの絶版となったか、探索不可能な書籍である。「ライセンス」により商業利用の対象とされる大部分の書籍は、この最後のカテゴリーに属している。

 だが著作権が存続中の多くの著作物について言えば、その著作者や権利承継人、あるいは出版社が別な決定を下さない限り、データベースから排除されたままだ。これらの書物は昔ながらの紙媒体で販売されるか、あるいは「コンシュマー・ライセンス」を通じてダウンロードされたり、電子書籍の形でパッケージされるかして、デジタル化形式で商品化されるかのどちらかとなる。

 要するに、グーグルと著作者ならびに出版社との間の合意書を読み、この合意書にどんな哲学が盛られているかつらつら考えてみると(本文で134ページにおよびさらに15個の付帯書からなる書類を前にして、それはたやすい作業ではない)、驚愕せざるを得ないのだ。ここで創設されようとしているのは、まさに世界最大規模の図書館になりかねない何ものかである。なるほどデジタルの図書館にすぎないが、しかしこの図書館は欧米諸国の数々の権威ある図書館の存在意義を台無しにしてしまいかねない。さらに言うならば、グーグルは、アマゾンが一介の街の書店にすら見えてくるようなデジタル帝国の覇者として、世界の書籍ビジネスの最大手の地位に上り詰めるかもしれないのだ。

 世界中のネット利用者たちが、マウス・クリック一つで米国有数の大学図書館の富にアクセス可能となるという事態に、どうして無関心でいられようか。グーグルの魔術のような技術は、閲覧者が自分の好きな本に思うがままにアクセスすることを可能とするだけでなく、尽きることのない検索の可能性を開いてもくれる。条件付きではあるが、このプロジェクトに提携する図書館は、紛失したり損傷した著作物のデジタル・コピーを使って蔵書を更新することもできる。グーグルはまた、障害を持つ閲覧者がアクセスできる形で本文を提供することも合意した。

 残念なことに、公共図書館でファイルに自由にアクセスできるのが保証されているのは1台の端末のみ、というグーグルの約束からすると、利用者数の多い図書館をはじめ、需要が満たされる可能性は低い。この約束にはさらに制限がついている。著作権のかかっている文書をプリントアウトしようと考える閲覧者は、規定の料金を払わねばならない。とはいうものの、小規模の町営図書館でも、いまやニューヨーク中央図書館よりも多いバーチャルな蔵書を持つことになる。なるほど、グーグルは啓蒙主義の夢を実現するといえるのかもしれない。

 だがそうなるだろうか。18世紀の哲学者たちは、寡占状況を知の普及に対する大きな障害と見なし、書籍の自由な流通を邪魔だてしたロンドンの印刷業組合やパリの書店同業組合を批判していたのだった。

 グーグルは同業者組合ではないし、自社を独占企業とも考えていない。同社は情報へのアクセスの促進という、賞賛すべき目標を追求してさえいる。だがグーグルは、その署名した合意案によって、どんな競争でも制覇できる企業になった。米国で権利行使可能な著作権を保持する著作者や出版社の大多数に対し、自動的にこの合意内容が適用されることとなった。むろんこの合意規定に参画しないという選択肢もあるが、権利者ひとりひとりの同意が得られなければ実現されない以上、他のどんなデジタル化プロジェクトだろうとまず不可能である。まだ2年ほど先のことと思われるが、グーグルのこのやり方が判事たちのお墨付きを得るとしたら、カリフォルニアの巨人は米国で刊行されるほぼ全書籍のデジタル化権限を、一手に掌握することになるはずである。

 こうした結末が不可避だというわけではなかった。われわれはアレクサンドリア図書館の現代版として、国立デジタル図書館を創設することもできたのだから。だが、公権力が事態の推移に呆然としている間に、グーグルがイニシアチブを握った。同社は法廷で主張を行なうかわりに、単に書物をスキャンし、しかもそれをきわめて効率的にやったため、その利益にあずかろうとする輩が出てきた。著作者と出版社が著作権料を取り立てようとするのに呆れるのは誤りだろうし、彼らの集団訴訟の是非を性急に判断することも差し控えるべきである。だが、ニューヨークの裁判所の判断はまだ示されていないものの、合意案の当面の目的があくまで当事者間の利益配分であって、公益の擁護でないことは議論の余地がない。

デジタル社会の岐路

 この事件の帰趨として予測できないことの一つは、グーグルが現実に独占的地位を得るかどうかだ。もはや鉄鋼やバナナの独占ではなく、情報へのアクセスの独占という新しいジャンルが問題なのである。同社に真のライバルは存在しない。マイクロソフトは数カ月来、自社の書籍のデジタル化プロジェクトを放棄したままだし、オープン・ナレッジ・コモンズ(旧オープン・コンテント・アライアンス)やインターネット・アーカイヴのような同業他社も、グーグルに比べればものの数ではない。これほど大規模にデジタル化を行なうのに必要な手段を唯一持っているのが、グーグルである。同社が著作者や出版社と行なった調停案のおかげで、グーグルは合法的に大きな資力を持つこととなった。

 グーグルのこれまでの行動からすれば、同社が自らの力を濫用することはなさそうだ。だが現在の経営者たちが自分たちの持ち分を売却したり、引退したりしたらどうなるだろう。将来の見通しとして、このデジタルデータベースにどのような価格が設定されるかが、この問いに対する答えを決める第一要因だ。実際、今回のような形でなされた合意によって、同社は「1、個別の著作物およびライセンス毎の権利者の取り分は、市場価格に見合った形で調整すること、2、高等教育機関を筆頭に、公衆に広範なアクセスを保証すること」という大原則の遵守を約束しつつも、顧客それぞれと自由にライセンス価格の交渉ができるようになった。

 グーグルがその利用者の利益よりも自己の収益のほうを優遇するとすれば、何が起こるだろうか。合意書の文言を信ずるならば、何も起こらないはずだ。ただ、権利者を代表してブック・ライツ・レジストリー社が動き、グーグル側に新たな価格設定を求める可能性はありうるが、ブック・ライツ・レジストリー社が価格のつり上げを拒否するなどということはありそうにない。他方、グーグルがより低廉な価格を設定する選択肢もありうる。しかし、学術雑誌の出版社たちと同じ戦略をグーグルが取らないという保証はない。最初は魅力的な価格で顧客を惹きつけておいて、餌にかかったら最後、価格をできる限りつり上げるという戦略である。

 市場自由化論者は、市場の自己調整機能が働くはずと反論するだろう。グーグルがあまりに行き過ぎれば、利用者は購読登録を取りやめるだろうから、おのずと価格も下がるだろう、と。だが少なくとも合意協定調印者たちの構想に従えば、「機関ライセンス」の付与に関わるメカニズムにおいて、需要と供給の間に直接の相関性はない。学生と教員、司書たちが自ら支払いするわけではないのだから。

 支払いの当事者は図書館である。もし図書館が購読登録更新に必要な財源を見つけられなければ、グーグルのサービスに「依存症」となった閲覧者たちの抗議の声を招くおそれが出る。図書館側はむしろ、紙媒体書籍の買い入れ数を減らすなど、他の支出の切り詰めを選ぶだろう。出版社側が専門誌の価格を高騰させたときに図書館が取った対策も、実際にそうだった。

 将来を予測することはできない以上、われわれができるのは、合意書の内容を注意深く読み、そこから仮説を導き出すことだけだ。もし、米国の大規模図書館に蓄積されてきた資産に適切な価格でアクセスできる仕組みをグーグルが作るならば、われわれも賞賛を惜しむまい。結局のところ、まったくアクセスできないよりは、たとえ価格が高くとも、膨大な著作物を閲覧できるほうがよいではないか、とも言えるかもしれない。その通りだ。だが、2008年秋の合意案によって、一企業にあらゆる権力が集中することによって、デジタル世界のこれまでのあり方は根本的に転覆させられた。

 ウィキペディアを別とすれば、グーグルはすでに、記事や写真、洗濯機や映画館の入場券にいたるまで、ネット上の情報に米国民の大多数がアクセスする仕方を支配するようになった。有名な検索エンジンに付属するグーグル・アース、マップ、画像検索、Labs(英語)、ファイナンス、アート、フード、スポーツ、ヘルス、チェックアウト、アラート、そして開発中の他のサービスなどがこれに加わる。グーグル・ブック検索はいまや史上最大の図書館となり、史上最大規模の書店を創りあげつつある。

 合意書の上記の解釈が正しかろうと誤っていようと、同意条項の各文言は互いに緊密に結びつきあっており、全体を通して理解されねばならない。いまやこの合意案に大きな修正を加えることは、グーグルにも、著作者や出版社にも、またニューヨーク連邦地裁にもできない。情報社会と呼ばれるものが大きな岐路に立とうとしている。いまわれわれが均衡を回復させなければ、私的利益が公共の利益よりもはっきりと優先される事態が生じる可能性がある。そんなことともなれば、もはや啓蒙の夢は永久に手の届かぬ夢となるだろう。

この記事の原文は『ニューヨーク・レヴュー・オヴ・ブックス』誌2009年2月12日号に掲載された。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2009年3月号)

* 小見出し「合意書の解読」の二つ前の段落「〜2005年9月と10月、「巨額の逸失利益〜」中のカギカッコを削除(2009年4月4日)