ヌーヴェルヴァーグ、乗り越えるべき遺産

フィリップ・ペルソン(Philippe Person)

作家

訳:にむらじゅんこ


 ヌーヴェルヴァーグが映画界に新風をもたらして半世紀が経った。伝説化され、絶対的なコンセンサスとなったヌーヴェルヴァーグは、やがて、新たな重圧と化して規範の色を強めていく。しかし、ヌーヴェルヴァーグの波にのみこまれたままのフランス映画界にも、ここ近年、変化が起き始めているようだ。[日本語版編集部]

 歴史の教科書を開いてみれば、戦後フランスという章には、第五共和制誕生の図版としてドゴール将軍の写真が掲載されていることだろう。そして、その横には、シャンゼリゼを流しながら『ニューヨーク・ヘラルド・トリュビューン』を売っているショートヘアの女の子の写真がある可能性が高い。写真の説明には、次のように書かれているだろう。「ヌーヴェルヴァーグ:ジャン=リュック・ゴダール監督『勝手にしやがれ』、ジーン・セバーグ」

 その誕生を象徴するのは1959年5月、当時27歳の監督フランソワ・トリュフォーのデビュー作『大人は判ってくれない』がカンヌ映画祭で絶賛されたことだ。ヌーヴェルヴァーグは、歴史上の一大事件とされる。それは、1960年代のあらゆる体制批判の予兆、映画界の若手旋風、美学上の革命、ポストインダストリアル・モダニズムの始まりとして位置づけられている。

 ずいぶんな重荷である。発端となったのは10本ほどの映画にすぎず、それらを撮った少数の監督たちは、なにか新しいムーブメントを一緒に起こしているという意識をほとんど持たず、なにか始動宣言を出したわけでもないのだから。1959年、ゴダールが『勝手にしやがれ』を撮り、彼の友人であった映画狂のクロード・シャブロル、フランソワ・トリュフォーが、『美しきセルジュ』、『いとこ同志』、『大人は判ってくれない』を次々に世に出したとき、彼らはまだ、自分たちの作品の社会学的な意義や射程などは気に留めてはいなかった。彼らには別の野心があった。観客の視線を変えること。この頃に出回りだした軽量カメラと自然光用フィルムを活用して、大物監督たちが撮影所に閉じ込めていた映画を解放すること。そして、パリの街頭の情景と、時代のみずみずしい空気を映し出すこと。

 ヌーヴェルヴァーグに歴史的意義があるとすれば、それはヌーヴェルヴァーグが紛れもなく、現代メディアによって作りだされる現象のさきがけとなったことだ。この呼称は、フランソワーズ・ジルーによって50年代の若者たちを指す言葉として発案され、1959年には主に映画について用いられるようになり、その後たちまち、ある種の映画の売り込み文句と化していった。低予算であることを別とすれば、それらの映画の唯一の共通点は、39歳のアラン・レネが年かさの部類に入るような若手の作品ということだ。以後、フランス映画界では、あれもこれもヌーヴェルヴァーグということになった。どこがどう、という点はあまり深く考えられることがなかった。

 トリュフォーも、ゴダールも、シャブロルも、雑誌『カイエ・デュ・シネマ』出身の他の監督たちも、そうした流れに異議を唱えようはしなかった。ほんの少し前まで手厳しい映画批評家だった彼らは、なにかしらの方針をうたうような文書を発表することもなく、あれもこれもヌーヴェルヴァーグ(新しい波)だという曖昧さに加担した。彼らは異議を唱えるどころか、1962年の引き潮の時までこの波に身をまかせ、自分たちと同じ道を歩もうとする若い未熟なライバルたち、のべ100人ほどの登場と退場に手を貸すという戦術をとった。撮影所を飛び出し、少人数で作業し、著名な脚本家を使わず、大物スターより若手俳優を起用するヌーヴェルヴァーグは、プロダクション側にしてみれば、低予算の映画を何本も作れる都合のいいシステムだったのだ。

 新設ポストの文化大臣に就任したアンドレ・マルローが、国立映画センター(CNC)を掌握し、製作費を前貸しする助成制度を創設したのも、これと同じ時期にあたる。マルローは、若手監督たちの輩出が、ドゴール政権のポジティブな面をひけらかす切り札に使えると考えていた。というのも、当時フランスの若者の中には、アルジェの街に送り込まれ哨戒活動にあたっている者たちもいたのだ。

 こうした状況の中で、何十人という無名の新人が、ヌーヴェルヴァーグの罠に自ら飛び込み、最初の犠牲者となった。作家主義映画といえば「デビュー作」という図式がここに生まれる。技術的に未熟で、自分語りに終始するような作風が、これぞ芸術性のしるしだと、かえって徹底的に誉め上げられる。ゴダールやトリュフォーは、自ら完全に遵守したわけではないものの、映画を作るのにシナリオは不要、テクニックの有無は関係ないと明言していた。これらの新人監督たちは、それを愚直に実行に移し、ほぼ全員が失敗した。彼らの作品を観て大衆は失望し、作家主義映画なんて退屈な素人映画でしかないと、以後は受けつけなくなってしまった。

芸術と商売の善悪二元論

 1962年、大波が過ぎ去ったヌーヴェルヴァーグの担い手は、『カイエ・デュ・シネマ』出身者のほかは、仲間のジャック・ドゥミやアニエス・ヴァルダ、一匹狼のクリス・マルケルやジャン・ルーシュらに限定されるようになった。これら監督の大多数は、驚くほど息の長い監督となり、ヌーヴェルヴァーグの精神を不朽のものとした。彼らの活躍は称賛に値すると言えるだろう。映画監督の地位を職人から芸術家へと昇格させることで、映画監督の基盤を不安定にしてしまったのだから。いまや映画監督は、書籍や絵画よりもずっと費用のかかる製作作業の全責任を負い、興行的な失敗のリスクに晒されるようになった。才能の有無にかかわらず、多くの監督を待ち受けるのは、孤独や社会からの疎外といった末路なのだ。ヌーヴェルヴァーグ以降に「作家主義」のジャンルで作品をものにした監督は、片手で数えられる程度しかいない。そして、成功を射止めた少数の監督も、モーリス・ピアラのように寡作に甘んじざるを得なかった。

 大量の作家主義映画が、観られることのない作品の墓場に葬り去られたという事実は、映画のあり方への疑問を提起せずにはおかない。しかし、ヌーヴェルヴァーグの精神に染まっていた『カイエ・デュ・シネマ』や、『テレラマ』、『ル・モンド』、『リベラシオン』、『レ・ザンロキュティーブル』は、芸術と商売を善悪二元論的に対立させる議論をひたすら展開した。これらの新聞・雑誌は、「観る側に多くを求める」映画を競って称賛し、娯楽映画に対して擁護することで、進歩的で反体制的でモダンという立場を安上がりに気取ることができた。結局のところ、ヌーヴェルヴァーグという曖昧模糊とした「流派」に意味づけを与え、その美や知の輪郭線を経験則によって描いてみせたのは、これらのメディアなのである。さらに彼らは、後継者を誉めそやし、系譜や争点、論争を作りだすことで、ヌーヴェルヴァーグを引き延ばしてきた。そして、ヌーヴェルヴァーグが広く大衆に観られないまでも、映画界の中心に鎮座するという状況を築き上げたのだ。

 「作家のポリシー」のエキスパートたちの衒学的な言い分によれば、トリュフォーの古典主義傾向も、ジャック・リヴィエットのハプニングも、どちらも正当化される。エリック・ロメールの恋愛遊戯は決して古めかしいものにはならず、シャブロルのブルジョワジーへの惑溺は温かく見守られ、ゴダールの映画論に突っ込みが入ることはない。このように批評家たちが無条件に支持してきたおかげで、助成金を交付する政府機関や、映画関係者を養成する学校でも、ヌーヴェルヴァーグの流れは確実に引き継がれている。要するに、製作され擁護されるべき作家主義映画、ヌーヴェルヴァーグの初期の作品の引き写しであるような作家主義映画のあり方について、一般的なコンセンサス、いやむしろ絶対的なコンセンサスが存在するのだ。

 トリュフォーがあの有名な評論「フランス映画のある種の傾向」を『カイエ・デュ・シネマ』で発表し、「フランス的クオリティ」をこき下ろしたのは、1954年のことだ。今日それに匹敵するような文章が、この間50年の遺産に楯突いて、書かれる可能性をはたして想像できるだろうか。国立高等映像音響職業学校(1)の入学志願者が「ゴダールには興味がない」と白状したとして、合格する見込みがいったいあるだろうか。ヌーヴェルヴァーグの後継者と目される監督の悪口を言う権利、例えば、アルノー・デプレシャンは過大評価されていると評する権利はあるのだろうか。

 「ヌーヴェルヴァーグの時代」を乗り越えられずにいることが、いまや、フランス映画の大問題のひとつである。2008年には、『壁の間で』がカンヌでパルム・ドール(最高賞)を受け、『エディット・ピアフ〜愛の賛歌〜』の主演女優マリオン・コティヤールがオスカーを受賞し、『シュティの国へようこそ』が史上最高の動員数を記録した。この2008年が例外的だったというような言い方は、50年間にわたり、いわゆる「商業」映画と「作家主義」映画を対置してきた不毛な論争を引き延ばすだけだ。

 映画館に閑古鳥が鳴いている時代に、ダニー・ブーンの『シュティ』のような大衆映画が、2000万人の観客を動員した。それに対して、美学的に見るべきものがなく、笑いを隠れ蓑に興行収入をねらうだけの映画は困ったものだ、というタイプの非難が再燃する。良質の伝記映画『エディット・ピアフ』は、主演女優のオスカー獲得をもたらした。それに対して、かつてトリュフォーが切り捨てた「フランス的クオリティ」の亡霊が、にわかにフランス映画に舞い戻ったとなじる声が上がる。フランスの作品としては1987年以来の受賞となる『壁の間で』のパルム・ドール発表の際、この年の審査委員長を務めたショーン・ペンは、ローラン・カンテ監督に「自分が生きる世界への意識をはっきりと表明している監督だ」と賛辞を述べた。それに対して、批評家として保守雑誌『アール』に寄稿していたトリュフォーやゴダールが忌み嫌っていた「左派フィクション」の再来にすぎない、という論評が出る。

地平を再び開く自由

 2009年現在の映画界の状況は、こうした「商業」映画と「作家主義」映画という二項対立を続けていくのに適しているとは言いがたい。2007年の公開本数は10年前からほぼ倍増で280本以上、フランス映画の製作は史上最大規模に達している。そして、少数の大手プロダクションによるフランス流の「超大作」か、おびただしい数の「低予算」の「小品」かに二極化している。この後者は、「芸術的・実験的映画」の基準からは、どんどん離れていっている。製作費を出してくれるテレビ局の注文に応えることが主な役割であるため、テレビ局が自社放映用に作る映画と同じ「フォーマット」に嵌められたものになるからだ。

 こうした状況の中で、二極化に対抗する企てを始めたのが、映画監督パスカル・フェランと彼女が率いる「13人クラブ」である。「映画界の様々な関係者のきずなを回復する」ために「中ぐらいの映画」、つまり消えかけている中予算プロダクションへの特別の配慮が必要だ、と主張している。見たところ無難な対案だが、ヌーヴェルヴァーグの遺産を爆破する可能性を秘めている。というのも、フェランたちのグループは、映画の質の低下を食い止める手段として、シナリオに関する助成を増やす必要性を主張しているからだ。

 周知のように、シナリオをめぐる問題は、ヌーヴェルヴァーグの中心問題だった。『カイエ・デュ・シネマ』の批評家だった監督たちは、「カメラこそペン」を信念とし、脚本家を軽蔑した。彼らが依拠した「作家のポリシー」は、そうした軽蔑を理論化するものであり、監督こそが視線の支配者で、映画の唯一の書き手であると主張する。映画界で支配的な思考からすると、映画の質のためにシナリオの優位に立ち戻れという主張は、ヌーヴェルヴァーグによって酷評された映画に立ち戻れという主張を意味している。それはまた、作家主義映画はヌーヴェルヴァーグ以外にもあり、アラン・レネやルイ・マルだけに限らないと認めることにもなる。ミシェル・ドヴィル、クロード・ソーテ、ジャン=ポール・ラプノーといった監督は、伝統的なフィクション映画をあざ笑うことなく、商売のルールと折り合いをつけながら、個人性の強い作品を展開してきた。言うまでもなく、これらの監督たちには、映画批評という「高尚」な仕事ではなく、下積みの助監督を長い間やっていたという欠点があった。そのため、彼らがヌーヴェルヴァーグの「認定証」を得ることはなかった。一つ世代が下のベルトラン・タヴェルニエやアラン・コルノーも同じ運命にあった。その一方、『カイエ・デュ・シネマ』出身のアンドレ・テシネは、ヌーヴェルヴァーグの一員に迎えられた。

 ヌーヴェルヴァーグはこうして、いがみ合う徒党や派閥へのフランス映画界の分断を助長した。そして、こわれそうな映画監督という新しい人間像も生み出した。つまはじきにされたと感じ、居心地の悪さを覚えている監督(モーリス・ピアラ)、呪われた芸術家という役回りを演じた監督(ジャン・ユスターシュ)などだ。助成審査委員会や有力メディアへの扉を開いてくれるラベルを手にしていなければ、映画を作りたいという望みは、往々にして果たせぬ夢に終わる。ヌーヴェルヴァーグは賑やかな登場から50年たった現在、恐らくは新たな重圧と化してしまっている。

 だが、映画を専攻する学生なら、デビュー作が最後の作品になる可能性が高いことを受け入れるよりも、きたるべきヌーヴェルヴァーグの一角をなそうと夢みるほうが意欲的になれるはずだ。「ヌーヴェルヴァーグはフランス映画に大立ち回りのホールドアップを突きつけた」と、批評家のセルジュ・ダネーも書いている。数人の若者が因習に逆らって、自分たちの世代を撮ることで世界的栄光に上り詰めた、あの伝説的な時代は、今後もながらく人々を魅了し続けるだろう。『勝手にしやがれ』の中でジャン=ポール・ベルモンドが「洗面台にしょんべんしていいかい?」とほざくのを聞いたとき、おのずと新しい地平が開かれていった。その地平が、今日ではむしろ閉じられてしまっている。これを再び開く自由は、ジャン・ルーシュやクリス・マルケルの教えを忘れずにいる監督たちの手のうちにある。

 フランス北部の郵便局を陳腐に撮影した『シュティ』の監督や、貧困地区の中学校のクラスを平板に撮影した『壁の間で』の監督を高みから見下す、という姿勢もあり得るだろう。だが、そこに今度は自分も迫っていって、ヌーヴェルヴァーグの後継者を自任する作家に期待されるプラスアルファを付け加える、という姿勢だってあり得るのではないか。もしそれがうまくいけば、ヌーヴェルヴァーグの遺産として、映画への過剰で、絶対的で、独特な愛だけを引き継いでいく権利が生まれるだろう。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2009年2月号)