ラテンアメリカの年金改革

マヌエル・リエスコ(Manuel Riesco)

代替発展国民研究センター(CENDA)エコノミスト、サンチアゴ

訳:日本語版編集部


 フェルナンデス政権が提出し、2008年11月7日にアルゼンチン下院を圧倒的多数で通過した年金国有化法案は(1)、国内で猛烈な反発を呼び起こした。強奪だと言う者さえいた。資本の国外流出が起き、ブエノスアイレスに加え、マドリードでも株価が急落した。マドリードで大いに懸念を呼んだのは、アルゼンチンの民営年金ファンド管理機構、AFJPに資本参加している複数のスペイン企業への影響である。

 アルゼンチン国内では、国有化反対派が、政府はAFJPの保有する280億ドルを手中に収めて、好き勝手に使える資金とし、深刻な財政問題への対策(対外債務の次回の返済関連など)に充てたいのだと主張している。しかし法律には、この資金の使途は年金給付に限定され、その管理は両院委員会の監督を受け、経営者・労働者・年金受給者・公務員・銀行・議員からなる協議会に諮られることが明記されている。

 今回の改革は、14年に及ぶ民営化に幕を引き、AFJPの圧倒的優位に終止符を打つものだ。政府はこれにより、積立方式の運用プラン対象者の期待に応え、民営ファンドではうまく達成できなかった公益事業を遂行する姿勢を打ち出した。つまり、全国民にちゃんとした額の年金を保障するという事業である。

 加入者950万人を要する民営年金ファンドのAFJPでは、二つの選択肢が用意されていた。一つは、保険会社に原資を渡して、終身年金を受け取ること。もう一つは、原資がなくなるまで少しずつ取り崩すこと。ある日ぱったり収入が途絶えることを恐れ、ほとんどの加入者は前者を選択した。

 年金の額は、加入時の契約で諸々の基準によって定められるが、払い込まれた原資の額や、運用利益、寿命といった変動要因にも左右されることになる。実際の年金額が当初の予測と一致することは稀で、ほとんどの場合は不充分な額にとどまり、とんでもない少額になってしまう場合もある。

 アルゼンチンは今回の改革により、賦課方式に回帰した。賃金額と加入年数を基準とする単純な計算方式であり(2)、ラテンアメリカで年金民営化前は多くの国で採用され、先進国の大半では現在でも採用されている方式だ。改革後は、ほとんどの加入者が賃金の6割以上に相当する年金を受け取れるようになる。

 お隣のチリは、世界で唯一、年金民営化への全面的移行を25年以上にわたって実施してきた国であり、いわば実験場となってきた。年金改革が実施されたのは1980年のことで、ミルトン・フリードマンの学説の直接的な影響下で、ピノチェト軍政が強行した。議会や反政府派の意見聴取はなかった。主導したのは、積立方式こそ理想的だと考えた自由主義エコノミスト、ホセ・ピニェラである(3)

 チリは当時、深刻な危機を脱したところで、経済の再生と急速な成長のさなかにあり、これといった景気後退もなかった。賃金はめざましくとは言わないまでも着実に上がり、社会保障の原資も自動的に積み上がった。と同時に、国有企業が民営化されたことで、高収益の投資機会が提供されていた。

 現在では株式相場の暴落により、金融トレーダーは弱気になり、運用利益は夢物語と化したが、1990年代から2000年までの間、チリを含めた新興国の株価と通貨は、巨大な投機バブルから著しい利益を得た。チリの年金ファンド管理機構AFPは、25年近くにわたり、毎年10%前後の高収益を稼ぎ出した。

積立方式の失敗

 一見すると、チリには積立方式の優位を証明する最適条件が備わっていたように見える。だが今日、チリ国民は、AFPが約束を守れないことを実感している。最低賃金が156ユーロ相当という国で、何百万もの人々が、月額8から16ユーロ相当という少額の年金しか受け取れずにいる。

 いったい何が起きたのだろうか。1981年以降、賦課方式にとどまることのできた3.8%の国民(軍人や警官など)と、独自の口座を運用している3.5%の国民を除き、チリの現役人口は積立方式年金への加入を義務付けられている。しかし労働市場があまりに不安定になったため、毎月の払い込みを実行できているのは賃金労働者の11%にすぎない。AFP自身が公表した統計によれば、払い込み回数は、全加入者の3分の1が5カ月に1回、半数が3カ月に1回、3分の2が2カ月に1回に満たない。

 新興国の大都市圏では、フォーマル部門とインフォーマル部門の境目があいまいになってきた。何百万もの労働者が、短期雇用、失業、フリーの仕事を繰り返しながら、安定した雇用を探している。女性の身分は特に不安定で、賃労働と家事の間を行きつ戻りつの状態だ。経済と社会がこうした状況では、潤沢な運用利益を想定した制度を維持することはできなくなる。

 年金制度に対する批判を了解し、左派野党などからの提案を受けたバチェレ大統領は、2008年初めに政府の保障する「セイフティネット」の設置を決定した。年金額が315ユーロ相当に満たないAFP加入者には、下位の賃金所得の6割にあたる月額120ユーロ相当の公的連帯手当が追加給付される。こうした措置が決定されたという事実によって明らかになったのは、積立方式の年金政策は、最良の条件下でさえ国民の重要なニーズに応えるものではないということだ。積立方式を採用したチリでは、退職者の3分の2が無収入状態に置かれている。

 アルゼンチンで可決された年金改革には、女性への配慮が盛り込まれている。早期退職権が維持されるとともに、年金額の計算式には男性と同じものが用いられるようになった。男性より寿命が長いことから、実に3分の1にのぼる女性が、原資が同額でもAFJPから受け取る年金額は、男性の3分の2にしかならなかったからだ。

 女性の年金に関しては、チリの制度が問題点を浮き彫りにする好例である。ある女性医師が、1981年に年金ファンドに加入して、最大額を欠かさず払い込んだとしても、年金額は550ユーロ相当にもならない。同様に最大額を欠かさず払い込んだ既婚男性なら、945ユーロ相当を受給できる。もしもチリの一部の医師と同じように賦課方式のままだったとしたら、彼女の年金額は1100ユーロ相当になっていたはずだ。積立方式の年金原資のかなりの部分が金融危機に呑み込まれる前でさえ、似たような例が多数にのぼっていたという事実から、チリの民営ファンドがなにかと女性に不利に働いてきたことがわかる。

 2008年10月30日、チリの年金局は、民営ファンドが被った損失額を公表した。1年も経たないうちに、原資総額の26.7%、1980万ユーロ相当もの資金が失われた。ハイリスクのファンドでは35%、さらには45%にものぼった。あおりを受けた年金受給者は半数を超える。

 「企業は去り、政府はとどまる」。主要な民営年金ファンドが破綻した今こそ、アルゼンチン大統領のこの言葉を思い起こす時だ。この破局的な出来事は、終身年金をもらうつもりで原資を民営ファンドに預けていた何十万人ものラテンアメリカ人を、苦境に突き落としたのだから(4)

幹部の巨額報酬

 アルゼンチンとチリで大規模に事業を展開していた保険会社は、これらの企業がアルゼンチン政府に投げた言葉をそのままお返しするならば、保険加入者からの「強奪」の最大手である。1年間で68.7%の株価急落を被ったアイエヌジーは、再建のためにオランダ政府から100億ユーロ以上の資本注入を受け、一部国有化された。メトロポリタン生命保険(メットライフ)の株価は52.7%、プリンシパルの株価は63.1%下がった。現在チリで民営年金を受給している28万人については、この3社で4割以上のシェアを占める。

 他方、政府から旧来の賦課方式で年金を受けている者が79万6000人(5)、公的連帯手当の受給者が53万3000人いる。つまり全体の4分の3が公的年金を受けていることになる。

 アルゼンチンでは、AFJPと保険会社が、預かった原資を国際金融グランドカジノに注ぎ込んでいた最中に、各社幹部のお手盛りの報酬が公表され、国民の怒りを買った。14年にわたり、「役務給付」報酬費120億ドルのうち3分の1以上が、主要幹部の報酬にあてられていた。同じ費目のうち2番目に金額が大きかった使途は、営業部長に払われたコミッションだった。チリでも事情は同じである。

 金融危機のさなかの2007年、AFJPの150人の幹部は、預かった原資の27%の損失を出しておきながら、2億ペソ(約50億円強)にのぼる報酬を懐に入れていた。平均的な年金の30万5000人分に相当する金額だ。AFJPと保険会社がせしめたボーナスやコミッションをさておけば、いちばん強烈な数字はAFJPが手にしてきた払い込み金、年間150億ペソ(約4000億円弱)という金額である。

 同様の脱線はチリでも見られた。1981年から2006年の間の積立金総額279億ペソ(約40億円)の3分の1が、AFPと保険会社の報酬に充てられていた。残りの3分の2は、AFPの幹部が重役を務める一握りの大手企業グループに投資された(6)

 フェルナンデス大統領は年金の民営化を「略奪」と呼び、政府としては、こうした濫費を終わらせるつもりでいる。国有化により、190億ユーロ相当の資金が救い出された。すかさず、サンチアゴの保守系日刊紙エル・メルクリオが書き立てた。資本保有者となった政府が、民間企業およそ40社の役員の任命権を握ることになりかねないと、世論に注意を喚起したのだ。同じ権限がAFJPに握られていた時には、同紙は何の懸念も示してはいなかった。

 世界中の金融グループが年金制度に多大な関心を向ける真の理由は、国民の賃金から払い込まれた年金原資という膨大な資金にある。まさしく打ち出の小槌である。このことを歴史家のロビン・ブラックバーンは、年金民営化の歴史についての重要論文の中で書いている。「世界の賃金マネーに手を掛けることが、金融資本主義の究極の願望だ(7)」。この論文には、オバマ次期米大統領から経済分野の補佐役に指名されたローレンス・サマーズが、世界銀行のチーフエコノミストだった時に果たした役割についても書かれている。サマーズは、年金民営化を新興国に勧奨する調査報告を書かせている(8)。年金の民営化は、部分的にしろ、多くの国で実施された。一部のヨーロッパ諸国やブラジルのような大国では、世論の抵抗のおかげで民営化を免れた。全面的な民営化に踏み切った唯一の国がチリだった。

 歴史家のエリック・ホブズボームによれば、資本主義が今回の危機後も生き延びるのは間違いない。しかし民営年金ファンド管理機構は生き残らないだろう。アルゼンチンのAFJPの終わりは不可避となった。メキシコのAFORE、ウルグアイのAFPA、チリやボリビア、ペルーのAFPはまだ存続しているが、これらがアルゼンチンのAFJPと同じ運命をたどるならば、ラテンアメリカや他の国々の何百万人もの年金生活者はホッと一息つくことだろう。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2008年12月号)