非営利セクターの経済学に向けて

ジャン=マリー・アリベ(Jean-Marie Harribey)

ボルドー第四大学経済学助教授

訳:日本語版編集部


 並外れた深刻な金融危機のさなかで、まるで何事もなかったかのように攻撃が続けられている。攻撃の対象は、公共サービスや社会保障、労働法、つまり今まで収益性の論理や利潤への固執を免れていた領域であり、社会の絆や連帯を作り上げてきた規制である(1)。社会の絆や連帯は、不幸なことに費用を伴う。「義務的徴収」と呼ばれる税・社会保障負担は(銀行を救済するためでないかぎり)高すぎ、公共事業は(金融を救済するためでないかぎり)そもそも寄生的な性質のものだと主張するイデオロギーが、今日では支配的だ。どうすれば、この現状に挑むことができるのか。

 市場での売買の対象にはならないものの、税金や社会保障費を介して社会全体による代価支払いがなされるサービスが、非営利セクターでは生産されている。この非営利セクターに対し、有無を言わせず二重の懲罰が宣告されている。消滅の道をたどるか、縮小の道をたどるか、だ。民営化、公務員数の削減、富裕層への減税といった鉄槌が下される。この富裕層減税は、財政赤字をさらに膨らませるから、赤字財政全体の使途を不当視させるにも都合がよい。飼い犬を溺死させるのに、狂犬病を口実にするような論法だ。非生産的で、ひいては反生産的でもある世界金融の従者たちは、非営利セクターを耐えがたい重荷であると言う。自由主義経済学者は主人を代弁して、欧州連合(EU)平均40.9%の税・社会保障負担は高すぎ、フランスの44%に至っては法外だと、繰り返し言いはやす(2)

 理屈に合わない思考が、ほぼ世界中に広まっている。これに反論を加えていかなければならない。彼らによれば、非営利セクターの費用負担は営利セクターからの資金徴収によってなされており、営利セクターはクラウディングアウト効果(公共投資による民間投資の駆逐)と金利上昇に圧迫されている。こうした考え方から導き出された規範は、通貨政策を封印することだ。とりわけ、財政赤字のマネタイゼーション、つまり貨幣増発に訴えることは禁じられている。そのため政府は金融市場からの借り入れを強いられる。マーストリヒト条約からリスボン条約に至るまで、EUが定めてきた規範も同様である。金融危機対策として採択された最近の措置でも、こうした規範は見直されていない。

 10年前に、オルターグローバリズム運動が最初に掲げたスローガンは「世界は商品ではない」だった。「世界は商品であってはいけない」ということだ。資本主義が民間資本蓄積を拡大すべく非営利サービスの縮小を開始して以来、公立学校や皆保険制度をはじめとする非営利サービスは窮地に立たされている。自由主義経済言説のイデオロギーを引き裂けるような学問体系は、残念ながら存在しないのが現状だ。

 自由主義経済学におもねるとは思えない伝統的マルクス主義理論でさえ、そうした体系を構築するには至っていない。資本主義セクターで産出された剰余価値からの資金徴収により、非営利サービスの費用負担がなされるというドグマを堅持しているからだ。したがって、非営利サービスに携わる労働者は非生産的であるとされる(3)。こうした観点に立つならば、「非商品」は商品なしには成り立たないことになるから、世界の脱商品化は不可能になってしまう。また、対極に置かれた二つのセクターの労働者が連帯できる可能性もほとんどない。

非営利セクターは営利セクターに依存しない

 したがって、従来の経済学にかわる新たな概念ツールを鍛え上げることが課題となる。そのためには通常の考え方を徹底して脱構築していかなければならない。そうした考え方は、自由主義学派だけでなく、マルクス主義を名乗る思想家の多くにも共有されている。『資本論』の冒頭で示された商品に関する分析は、世界の商品化を批判するためのツールとして使えるのに、伝統的マルクス主義は砦になるはずのものを打ち捨ててきた。したがって、力関係の上で労働が資本より優勢になるにつれ拡大すべきものとして、非営利セクターを理論化する批判的経済学を立ち上げることが必要である。

 第一段階として示すべきことは、非営利セクターの生産が、経済を衰弱させるどころか、営利セクターの生産に付加されるという点だ。既にケインズの理論により、不完全雇用状態において限界消費性向(4)が1に満たないという条件さえ満たされれば、政府介入は乗数効果を引き起こすことが示されている。所得が低いほど効果は大きい。消費に振り向ける割合が高くなり、経済活動を刺激するからだ。さらに、均衡予算の下で財政支出を増やした場合でも政府介入は有益であることが、トリグヴェ・ホーヴェルモ(5)により示されている(6)。しかし、非営利セクターの費用負担が営利セクターの生産物からの資金徴収によってなされているという考え方は、これらの理論でも排除されていない。

 こうした考え方を排除するための道筋として、動態的な視野に立ち、現状では非現実的だが論理的思考のための「極論」として有効な仮定を考えてみよう。非営利セクターが徐々に拡大し、そこで生産される財やサービスの代価支払いが、税金を介して社会全体によってなされる、としよう。非営利セクターが生産全体に占める割合が100%の極大値に近づけば、消滅寸前の営利セクターからの資金徴収によって非営利セクターの費用負担をすることは不可能になる。

 相対的な衰退セクターによって拡大セクターの費用負担がなされるという所説は、このように論理的に成り立たない。この帰結を敷衍するならば、ある時点あるいは期間において営利セクターの生産が非営利セクターの生産の源泉になると主張する所説は、いずれも根拠がないと結論しなければならない。同様に、有形物だけを生産に含め、サービスは生産に含まれないとするソ連で主流を占めた考え方も、根拠薄弱なこと極まりない。

 労働の生産的性格というものが、独立して存在するわけではない。それは実際の社会関係に即して定まるものだ。それゆえ、ここで古いながら現代でも妥当な二分法を改めて考えてみる必要がある。第一は、アリストテレスである。彼は使用価値(必要を満たす能力)と交換価値(蓄積を可能にする能力)を区別した。使用価値は、交換価値には還元できない富を表象する(7)。第二は、マルクスである。彼は一般的な労働過程と資本主義的な労働過程を区別した。一方は使用価値を産出する労働であり、他方は商品価値や資本に対する剰余価値を産出する労働である。

 あらゆる現代資本主義社会における生産能力の利用形態は、主に次の三つの組み合わせである。主流を占めている一つ目は、資本拡大を目的とした商品価値の産出をもたらす賃金労働に関わるものだ。二つ目は、行政セクターにおける賃金労働であり、商品価値を持たないが貨幣的価値を持つ使用価値を産出する(教育、公衆衛生)。三つ目として、家庭内もしくは非営利セクターにおいて、貨幣的価値を持たない生産物を生み出す人間活動が存在する。ここで主張しておきたいのは、この第二と第三の形態が、第一の形態あるいは独立自営労働の生産物を減ずることによって生み出されているわけではないことだ(8)

税金の意味が誤解されている

 マルクスに立ち戻るべきだと述べたが、ケインズにも立ち戻って、期待という概念を敷衍してみよう。民間企業は、自社の商品に対して決済可能な需要に相当する市場があることを見定めた上で、生産の決定を下す。そこで投資を実施し、賃金を循環過程に置くことになる。商品が市場で売れれば期待の妥当性が認定され、売れ行きが悪ければ期待の間違いが判明する。行政セクターの場合はどうか。社会的に需要があることを予測した上で、投資を実施し、人員を雇い入れる。そうした予測の認定は、社会全体の決定という形で事前になされる。民間企業における期待と同じことだ。

 いずれの場合も、民間あるいは公共セクターの賃金および投資という形で貨幣が投入されることにより、経済が回り始め、商品性を持つ私的財と商品性を持たない公共財の生産が開始される。支給された賃金が商品購入のために支出されるのと同様に、公共サービスの生産後に支払われる税金は、教育や治安、司法や行政の持続が保証されることへの国民の同意を表す。したがって論理的な順序としては、非営利サービスに関する期待形成および行政セクターの労働者による生産活動は、サービス利用者による社会全体としての「代価支払い」という行為に先行する。

 「財政支出の費用負担は税金によってなされている」という表現が誤解のもとだ。その原因は、費用負担と代価支払いの混同にある。資本主義的な生産の費用負担は、資本の前渡しによって行われる。それは投資および賃金という形をとる。これらのマクロ経済における増大は、貨幣の創出によって可能となる。代価支払いは誰が行うのかと言えば、消費者が行う。では非営利セクターの生産に関して、税金はどういった役割を果たしているのか。それは社会全体による代価支払いにほかならない。自動車の購入者が自動車組立工程の「費用負担」を行わないのと同様に、納税者が学校や病院の「費用負担」を行うわけではない。なぜなら営利セクターにしろ非営利セクターにしろ、費用負担は生産に先行するからだ。代価支払いを行うのは、個人にしろ社会全体にしろ、生産が実施された後のことだ。さらに言えば、生産活動の増大によって所得が増大し、したがって貯蓄が増大する。それがまた、公共セクターでも民間セクターでも、出発点の投資に結びつくことになる。

 論理的な問題に対しては、論理的な答えを与えるべきだ。資本主義経済が貨幣経済である以上、まだ生産されておらず、それどころか当の徴収行為の産物だというものを、資金徴収の対象にすることなどできはしない。そんなことは論理的に不可能なのだから、順序を逆転させなければならない。非営利セクターの生産と、それに対応する貨幣所得は、ここで言われる資金徴収に先行するのである。この点こそ、自由主義言説のイデオロギーを博物館送りにする重要ポイントであり、次のように言い換えることができる。非営利サービス分野の労働者は、所得を産出し、それで自らの給料を賄っているのである。

 税金という形での代価支払いが、消費者による個人的な購買行為とまったく同様に、生産過程の継続的な再生産を可能にしているのは事実である。しかし、自由主義イデオロギーが見落としている点が二つある。第一に、資本家に一部を強奪されることになる貨幣的価値を産出しているのは、資本主義セクターの労働者であって、消費者ではない。非営利サービスの貨幣的価値を産出しているのは、非営利セクターの労働者であって、納税者ではない。第二に、厳密な意味での費用負担とは、資本主義的な生産および非営利セクターの生産に必要な貨幣的推進力を指す。この貨幣的推進力は、したがって、代価支払いとは区別されなければならない。

 つまり支配的な見解の言うように、公共サービス提供の出発点が、既存の何かからの資金徴収にあるわけではない。公共サービスの商品性なき貨幣的価値は、何かから吸い上げられたり、横取りされたものではなく、産出されたものである。それゆえ、公共投資が民間投資を駆逐していると言うのは、ルノー社の投資がプジョー・シトロエン社やヴェオリア社の投資を駆逐しているというのと同じくらい意味がない。公務員の賃金が民間事業所得の吸い上げによって支払われていると主張するのは、民間セクターの賃金が消費者からの吸い上げによって支払われていると断じるのと同じようなことだ。こうした主張は以下の事実を無視するものだ。資本主義経済は循環過程であり、その初発となる二つの行為は、商品性を持った財とサービスを生産する投資の実施という民間セクターの決定と、商品性を持たないサービスを生産する投資の実施という公共セクターの決定である。言い換えるならば、「義務的徴収」と呼ばれる税・社会保障負担は、非営利セクターの生産物によって既に増大した国内総生産(GDP)を対象としているのだ。

富と価値の再定義が不可欠

 税金が、既存の富からの吸い上げではなく、富の増分の社会的に負担された代価である以上、商業生産物(自由主義学派の言い方)もしくは資本主義的剰余価値(マルクス主義の用語)を対象とした「資金徴収」などという粗野な考えにとどまるわけにはいかない。確かに、ある事業に充当された労働や有形資源は他の事業には利用できなくなる。だからといって、ある事業に充当された労働のおかげで他の事業が成り立っていると考える理由はどこにもない。人間の必要を満たすのは、資本あるいは社会の采配の下で産出された有形または無形の使用価値である。ある種の使用価値が資本を介してしか手に入らず、その過程で資本の価値が増大するという事実は、営利セクターが非営利セクターを生み出すことを意味するわけではない。伝統的な考え方が固執するように、数の計算として、商品性のない貨幣的価値が商品性のある貨幣的価値に包括されることを意味するわけでもない。

 この点に関して、財政支出が国民経済会計上は消費の項目に記載されるという事実に惑わされてはならない。第一に、私たちの分析の対象は、インフラや設備、中間消費を除いた財政支出であり、支給された賃金によって算出され、使用価値の新たな産出と対をなす費目である。第二に、民間企業による賃金の前渡しと行政機関のそれを区別して扱う理由はどこにもない。どちらも雇用主の「支出」であることに変わりはない。当たり前だが、いかなる生産も費用を伴っており、それを見落とす理論は破綻する。重要なのは、二種類の費用を区別することだ。一つは、資本に対する剰余価値を産出する労働を可能にする費用であり、この種の労働の妥当性は市場によって認定される。もう一つは、使用価値を産出する労働を可能にする費用であり、この種の労働の妥当性は社会の民主的な選択によって認定される。

 ここまで来ると、資本主義の理解の中核となる社会関係の中に据え直さなければ、経済分析を続ける意味がない。富裕層は、貧困層のために支払いを行うつもりがないから、税負担の軽減を求める。その一方で通貨政策は、欧州中央銀行(ECB)とEUの条約によって封印されている。EUの条約は、加盟国がECBからの借り入れによって財政支出の費用負担を行うこと(9)、つまり財政支出を前倒しすることを禁じている。国家が設備や労働力の「最後の買い手」という役割を果たす機会を制限するために、「最後の貸し手」としてのECBの役割は封じられている。自由主義イデオロギーは、利潤をもたらさない生産の費用負担を貨幣増発によって行うことを嫌悪する。ただし国家が赤字の穴埋めのために、資本保有者から借り入れを行うのは別である。しかも、こうした資本保有者は、さらに追い貸しするための与信枠を銀行から受けさえする。というわけで、フランスの所得税収の80%以上に相当する金額が、債権者への利払いに充てられている。政治の管轄外に置かれた通貨政策が、インフレ率を監視するだけのものになった理由は、容易に見て取ることができる。証券保有者の金融所得を維持することが重要であるとともに、資本の手の及ばない使用価値の非営利的産出を促進しないことも必要だからだ(10)

 非営利セクターの富は、営利セクターから吸い上げられたわけではなく、利用可能または営利外の労働力や設備を利用するという公的決定から生み出された「増分」である。ここには二重の社会化が働いている。生産能力を社会全体で利用するという決定と、代価支払いの負担を社会全体に割り振るという決定である。有産層の妄想にとって、とりわけ新自由主義の妄念にとっては耐えがたい事態だ。

 非営利セクターの生産の謎を解明することは、富と価値の再定義につながっていく。社会の商品化を食い止めるには、富と価値の再定義が不可欠だ。自由主義理論は富と価値を混同する。資本主義に対抗する理論は、資本主義体制の下ではあらゆる価値が、資本を目的とした価値に還元されていくという事実に目を曇らされてはいけない。この点に関し、経済学やマルクス主義で伝統的に用いられている区分けを批判的に再検討することが、脱商業化の経済学には欠かせない。要は、経済自由主義やある種のマルクス主義を脱却して、マルクスの定義に立ち戻ることだ。この定義によれば、価値とは「労働が『社会的』労働力の支出として存在するかぎり」での「労働の社会的性格」である(11)。商品の領域外の社会的必要に応じた労働を認めることは、社会が厚生という「本物」の富を統御することにつながっていく(12)。こうした観点に立つならば、社会化された富が私的な富ほど豊かでないなどということはない。まったく逆だ。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2008年11月号)