「ネオタリバン」の戦略

サイド・サリーム・シャハザード(Syed Saleem Shahzad)

香港紙『アジア・タイムズ』オンライン版パキスタン支局長

訳:日本語版編集部


 2008年9月20日、イスラマバードのマリオット・ホテルでテロ事件が起き、およそ60人が死亡した。パキスタン当局が9・11になぞらえる同事件は、この地域における紛争の歴史の転換点となるかもしれない。ブッシュ大統領がパキスタン国内のタリバン基地に対する地上戦を許可したことで、パキスタンは「テロに対する戦争」の主戦場となった。こうした紛争拡大は、ヴェトナム戦争をカンボジアに拡大した1970年代の米国政府の決定を想起させるが、勝利につながる見込みは低い。パキスタン人の大多数の反感を引き起こすだけでなく、「ネオタリバン」の大胆不敵な地域戦略との衝突を避けられないからだ。[フランス語版編集部]

 2003年以降、インド側カシミール地方に展開する組織に対し、パキスタン政府が締め付けを強めたことで、これらの組織がパキスタン側カシミール地方に設けていた基地は一掃された。戦闘員が徐々に移動した先は、アフガニスタン国境に近いパキスタンの部族地域、南北ワジリスタンである。彼らは1990年代に、パキスタンの諜報部門である統合情報部(ISI)のインド担当グループから、都市ゲリラ戦の最新テクニックを手ほどきされている。しかも、9・11の後でムシャラフ大統領が政治方針を変更し、米国政府の政策に同調したのを見て退役した少数の将校が、これらの組織に幹部として合流していた。

 カシミールの戦闘員がワジリスタンに移動した結果、アフガニスタンでは、占領軍に対する諸部族によるゲリラ戦が決定的な変化を遂げ、高度な軍事行動が見られるようになった。それは、ヴェトナム戦争中の1954年にディエン・ビエン・フーの戦いでフランスを打ち負かし、米国との戦争でも勝利を収めたヴォー・グエン・ザップ総司令官の「三段階」戦略を真似たものだ。まず、2008年春に大攻撃をかけた。それに続いて、治安部隊や敵国人を標的にした散発的な攻撃を行なった。それから第三の、つまり最後の段階として、都市部や首都カブールでも反乱行動を起こした。

 戦略の見直しと並行して、新たな同盟が形成された。アラブ諸国や中央アジアから集まった戦闘員と、パキスタンの国内組織であるパキスタン・タリバン運動が、この地域で手を結んだのだ。パキスタン・タリバン運動の指導者は、2008年9月にイスラマバードのマリオット・ホテルで起き、60人の死者を出したテロ事件の首謀者とされるバイトゥッラー・メフスードと、インド軍に対する闘争で鳴らしたマウラナ・イリヤス・カシミーリー(1)である。2人が共同で練り上げた軍事戦略は、アフガニスタン・パキスタン全域に加え、インドをも視野に入れている。

 9・11の後、南アジアのイスラム主義グループはいずれも苦境に立たされた。とりわけ、米国の求めに応じて各国政府が厳しく弾圧したことが大きい。そのため、これらの勢力はアフガニスタン戦線に集結し、欧米占領軍に戦いを挑むという戦略を取ったが、そうした戦略が実を結ぶまでに数年を要した。彼らはこれを「終末戦争」と呼んでいる。預言者ムハンマドのハディース(2)の中に、ホラサン(現在のアフガニスタン、パキスタンの部族地域、イランの一部にまたがる地域)で戦争が起こるという一節があるからだ。世界の終わりという終末論的な観点からすれば、義勇兵は中東地域に向かい、パレスチナでマフディ(世界の終わりにやって来る神の使者)を助けて「偽キリストの軍団」と戦わなければならない。

 これを聞いて世界中の、とくにトルコと中央アジアのイスラム教徒が奮い立ち、アフガニスタンの戦いに加わろうと、パキスタンの部族地域に集結した。アフガニスタンの戦いは、パレスチナの解放、そして地上におけるイスラムと正義の勝利の先駆けとなるはずのものだからだ。

 2008年春のタリバンの攻勢に先立って、その地ならしとなるような事件が、南アジアで相次いだ。パキスタン・アフガニスタン国境地域には、多少の偶然も働いて、中核的な指導者が各地から集まっていた。彼らの戦略の下で、それまで企てられていた低次の反乱行動は、従来とは比べものにならない本物の戦争へと変貌することになる。

誰がそこに合流しているのか

 この地域に最初にやって来たのは、イスラム聖戦運動の指導者カシミーリー師である。カシミールにおける武力闘争の英雄的存在であり、インドで2年間服役した経験がある。2004年1月に弾圧が激しくなった時には、パキスタンの治安部隊に拘束された。2003年12月25日にムシャラフ大統領の車列に対し、爆発物を満載した車で自爆テロを仕掛けた実行犯たちとの関係を疑われたからだった。

 彼は30日後、容疑が晴れて釈放されたが、大きな心痛を負っており、カシミール解放闘争から離れ、家族とともに北ワジリスタンに移り住んだ。彼の離脱は、カシミールの基地にいた戦闘員たちにとって、ここを離れてNATO軍との戦いに赴けというファトワ(宗教見解)にほかならなかった。こうして、数百人のパキスタン人のジハード主義者が、ラズマク地方の小さな訓練基地へと移動することになる。

 カシミーリー師に合流したのが、アブドゥル・ジャッバール司令官である。同じくカシミール地方で戦っていた非合法組織ムハンマド軍団の指導者で、9・11の後に何度も拘束され、最終的にはアフガニスタン国境に落ち着いて、戦闘に加わっている。

 ここには彼らに加え、パキスタン軍の将校たちもいる。1990年代終盤から2001年にかけて、カシミール地方の戦闘員を訓練するために派遣されていた将校たちで、北ワジリスタンに来るために退役した者もいる。2005年から急に増えた。2007年半ばには、カシミールから来た「国内移住組」のジハード主義者たちが、北ワジリスタンで大規模なネットワークを持つようになっていた。

 これらの新しい基地は、すぐに外国の戦闘員たちや(とくにチェチェン人、ウズベク人、トルクメン人)、地元部族の軍閥の好評を得るようになった。さらに、アラブ人イデオローグもやって来た。ここにいる新たなジハード主義者たちの大多数は、日々の宗教的義務を実践するにとどまらず、イスラムの教え、イスラム革命、そしてカリフ制の復活について揺るぎない信念を持っていたからだ(3)

 いくつもの思想勉強会が形成された。初めのうちは、エッサ師やアブー・ヤフヤ・リビー(4)などアラブの思想家が主導した。やがて、野戦司令官たちも議論に加わるようになり、しだいに結社のようなものができあがった。そこにはバイトゥッラー・メフスードや、シラジュッディン・ハッカーニー(アフガニスタンでソ連軍と戦ったムジャヒディン指導者の息子)、アル・カイダのアラブ人思想家たち、そしてカシミール地方にいた戦闘員たちの姿があった。こうして、2年も経たないうちにパキスタン国内に、アル・カイダを名乗る有力な分派が生まれた。それが、タリバン率いるアフガニスタン抵抗運動の戦略を激変させていく。

 こうした混成グループが形成された結果、一方では、アル・カイダのイデオロギーが、カシミール解放運動から流れてきた戦闘員に叩き込まれた。他方では、パキスタン軍から手ほどきされた軍事知識が、タリバンに伝えられた。この瞬間から、アフガニスタンという戦地は、「ネオタリバン」と呼び得る者たちの手に握られることになる。

 よく訓練され、極めて急進的な、新しいタイプの戦闘員が、2006年から2007年の間に部族地域全体にあふれるようになった。主な拠点が南北ワジリスタンであることは変わりないが、2006年までほとんどタリバンがいなかったモフマンドのような地域でも、2007年末時点で推定1万8000人に上る。隣のバジャウル地域では2万5000人を超える。

NATO軍の読み違い

 アフガニスタンに駐留するNATO軍の司令部が、こうした変化の重要性を認識していたとは思えない。しかし、ネオタリバンが最初に実力を見せつけたのは、2008年1月14日にまでさかのぼる。ハッカーニーのグループが、カブールのセレナ・ホテルを襲撃した事件である。アフガニスタンのゲリラ兵は、事を起こす際にインドの治安組織に潜入するのを常としたカシミールの戦闘員を真似て、警察官に変装したうえで、現地の治安関係者の共謀の下に攻撃を実行し、何人かの欧米人を殺害した。以後も、4月27日のカルザイ・アフガニスタン大統領の暗殺未遂など、同じ手法を何度も繰り返している。

 6月にはカンダハルの刑務所から、大胆にも400人以上のタリバンが脱走している。この事件もまた、カシミール地方やパキスタン軍の出身者が伝授したゲリラ戦法の一例だ。

 しかし、これらはサブの作戦にすぎない。メインの戦略は別の場所で展開されてきた。アフガニスタンのナンガルハル州と、パキスタンのカイバル地方である。NATOの物資の80%がここを通るのだ。タリバンは、これらの地域に密かに進出していた。2008年2月から、NATO軍の輸送隊を標的として、完璧に組織された攻撃が開始された。綿密に計画された効果的な攻撃に見舞われたNATOは、4月4日のブカレスト首脳会合の際にロシアとの間で、非軍事物資のロシア領通過を認めてもらう協定を結ばざるを得なかった。しかし、このルートは、NATOの財政を大きく圧迫するおそれがある。

 「パキスタンからのNATOの補給路を断つことが、我々の戦略の重要なポイントの一つである。2008年のうちにうまく実現できれば、2009年にはNATO軍を撤退させられる。しかし、もう1年必要になるかもしれない」とタリバン幹部の一人が匿名を条件に語る。この戦略を実現するためには、拠点から遠く離れたカラチ港や、カラチをカンダハルやカブールと結ぶ長い補給路の道筋まで出向いて、作戦を遂行しなければならない。2008年5月9日には、カラチからアフガニスタンへの石油輸送を手がけるパキスタン人が拉致され、今なお消息不明である。8月には、武器を輸送する隊列が、カラチを出発すると同時に、35人の集団によって攻撃され、タリバン側の情報収集能力の高さが証明された。ある欧米側の治安関係者によれば、アフガニスタン南部の一部の基地では何もかもが不足しており、「燃料不足のため、あらゆる活動とあらゆる攻撃を停止」したという(5)

 こうした新しい方針と、ネオタリバンを生み出したイデオロギー的、戦略的な同盟関係を、米国政府とNATOは過小評価していた。とはいえ、パキスタンの部族地域にあるアル・カイダの基地で、活動が再び活発になっていることは認識していた。2007年1月以降、米国の当局者はパキスタンの指導部に対し、タリバンの軍事的な掃討を図るだけでなく、物資供給の拠点を破壊せよと要請してきた。その一つがイスラマバードの赤いモスク(ラール・マスジド)だった。このモスクは男女の学生7000人を擁し、理事会はアル・カイダとタリバンへの忠誠を公にしていた。同様に、スワト渓谷、そこに隣接する部族地域、および北西辺境州で活動するイスラム法実施運動(TNSM)や、バジャウル、南北ワジリスタン、ゾーブ、チャマン、南西部バルチスタン州のパキスタン系タリバンも標的とされている(6)

 2007年1月から6月までの6カ月間に、米国政府の特使が少なくとも7回はパキスタンを訪問している。彼らはパキスタン政府に対し、米国の「テロに対する戦争」に国民を賛同させ、タリバン掃討作戦をやりやすくするような、総合的な対策を打ち出すことを強く要求した。そしてムシャラフ大統領に対しては、軍の指揮権を放棄して文民大統領になることを約束させるとともに、リベラル勢力および非宗教政党と協力するよう圧力をかけ、2008年1月に予定されていた国会選挙後に連立内閣を作れと促した(ベナジル・ブットが暗殺されたことで、選挙は数週間延期された)。そうした新体制ができれば、パキスタン軍もようやく、急進的な活動組織に対して効果的な作戦を繰り出すことができるようになるからだ。

 この新しい合意に沿って、米国と英国の仲介の下、ブット元首相とムシャラフ大統領との関係修復が進められた。アワミ民族党(ANP)、ムータヒダ民族運動(MQM)といった小規模の民族主義政党や、ファズルール・ラフマーン率いる宗教保守政党であるイスラム神学者協会(JUI)との間でも、同種の合意が交わされた。2007年6月には、タリバンとの大規模な対決に向け、万全の準備が整っていた。こうした政治的、軍事的戦略の目的は、2008年春に起きると予想されていたタリバンの攻撃の芽をつぶしておくことにあった。

次の段階の計画

 この反転攻勢の第一弾が、2007年7月10日に実行された赤いモスクに対する攻撃で、双方ともに重大な損害を被った。これに続いて、ペシャワールの基地から米国軍とパキスタン軍が出撃して、部族地域の拠点を叩くという共同作戦が予定されていた。米国メディアに暴露された両国軍の詳細な連携計画によると、8万5000人のパキスタンの民兵から選抜した精鋭部隊が、100人の米軍指導員の下で、攻撃の先兵となるはずだった。

 しかし、赤いモスクに対する攻撃の後、タリバン戦闘員たちはムシャラフ大統領に矛先を向け、パキスタン軍を集中的に攻撃した。2007年7月から2008年1月にかけ、一連の暴力事件により、パキスタンの社会、政治、経済は大混乱に陥った。

 2007年10月18日、亡命先から帰国したブットの一行が、カラチで襲撃された。米国の計画に対するネオタリバンの最初の反撃である。彼女は奇跡的に難を逃れたが、死者200人以上、負傷者500人以上の大惨事となった。ブットはパキスタンの政治指導者で唯一、赤いモスクに対する攻撃作戦を支持し、「テロに対する戦争」への賛同を公にしていた。

 ブットは2007年12月27日、ワジリスタンのタリバン司令官の命令に基づいて暗殺された。これにより、パキスタンにおける米国の計画は挫折することになる。その後の展開は周知の通りである。選挙は延期され、タリバンに対する軍事作戦は中断された。タリバン側は、綿密な計画にしたがって前進を続け、激しい攻撃に打って出た。パキスタンは、政府当局も収拾できないほどの、すさまじい混乱状態に陥った。

 こうした状況下で実施された2008年2月18日の国会選挙では、保守派のナワズ・シャリフ元首相が率いるパキスタン・イスラム教徒連盟シャリフ派(PML-N)が、予想を上回る高得票を得て、当初は連立内閣の一翼を担った(7)。選挙の1週間後、傷口に塩を塗るかのように、ラワルピンディの軍駐屯地で自爆テロが起き、ムシュターク・ベーグ中将が落命した。

 米国のパキスタン軍との共同行動計画をうまく阻止したネオタリバンは、春の攻撃に向けて態勢を整えるための時間を稼ごうとした。PML-Nが政権に参加していることを利用して、治安部隊との交渉を開始したのだ。

 NATOはこの戦術の意味をとらえそこね、対NATO攻撃が止んだものと見なした。そのため、2008年5月から始まった攻撃に意表を突かれることになる。5月から6月の間にアフガニスタンで死亡した欧米兵士の数(70人)は、初めてイラクのそれ(52人)を超えた。

 2008年7月7日にカブールで、インド在外公館に対する自爆テロが起き、40人が死亡した。この事件が示しているのは、タリバンが戦略上の優先順位を変えたということだ。彼らが目下優先しているのは、インド、パキスタンをはじめとする地域諸国に対し、米国の先導する「テロに対する戦争」への支持を思いとどまらせることだ。ワジリスタンにいる戦争イデオローグは、さらに大きな戦略も考えており、欧州における米国の権益に対する攻撃も視野に入れている。

 パキスタンがアル・カイダとタリバンの戦略の中核をなすという点で、識者の意見は一致している。アフガニスタン東部で続けざまに成功を収めたタリバンは、次の段階の計画に取り組んでいる。部族地域の戦闘員は、イラクへの移動や、死亡、拘束などでアラブ人が減る一方で、他の諸国の出身者が増えている。彼らが掲げる目標は、アフガニスタンとイラクから欧米の連合軍を追い出して、パレスチナの解放に向けた新たな戦線の足がかりを築くことだ。「世界の終わりのマフディ」の到来を待望する終末論で語られる新たな戦いが、そうすれば始まると彼らは信じている。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2008年10月号)