ボスニアは、その後どうなっているか

ジャン=アルノー・デランス特派員(Jean-Arnault Derens)

ウェブサイト「バルカン通信」編集長

訳:エマニュエル・ボナヴィタ


 元セルビア人勢力指導者ラドヴァン・カラジッチが逮捕され、旧ユーゴ国際戦犯法廷(ICTY)へ引き渡されたことを、サラエヴォは歓迎した。だがボスニアは、機能不全に陥った国家機構を改革することもできず、沈滞した状態にある。2008年2月17日のコソヴォ独立宣言は、ボスニアから「セルビア人構成体」が離脱するのではないかという不安を蘇らせた。バルカン半島の新たな地勢図の中で、ボスニアはすっかり忘れられた存在となっている。[フランス語版編集部]

 総選挙が行われる数日前の2006年9月末、ボスニア中部の小都市カカニのマイナーな市民団体に所属する活動家数人が、サラエヴォに結集した。驚く通行人の目の前で、彼らはペンキを入れた瓶を幹部会議長府の正面に投げつけ、警官に暴力的に取り押さえられた。この捨て身の行動は、ボスニアの国家機構の現状固守と膠着化を非難するためと思われるもので、サラエヴォの民主派の間にちょっとした共感を呼び起こした。それから数日にわたり、警察の乱暴な対応を非難するデモが続いた。しかし参加者は数百人規模にとどまった。

 とはいえサラエヴォの民主派勢力は、街頭行動を起こす機会を逃しはしない。路面電車の中で少年が残虐に殺される事件が起きたことで、2008年の冬から春にかけ、数多くのデモが続いた。この悲惨な社会的事件を機に、市政の無策と無責任を告発する声が沸き起こった。中心となったのは青少年と年金生活者であり、中にはチトー元帥の肖像を掲げる者もいた。こうした世論のささやかな目覚めは、政界に広がっている無気力感とは対照的だ。

 2006年10月1日の総選挙は、近年のボスニアにおける一つの転機となったはずだった。1990年にユーゴスラヴィアが分裂したときにできた民主行動党(SDA)、セルビア民主党(SDS)、クロアチア民主同盟(HDZ)という「旧型」の民族主義政党が、初めて表舞台から退くことになったからだ。しかし、その後も政治論争の質は高まらなかった。

 幹部会に送る代表を決める選挙では、カリスマ性を備えたハリス・シライジッチが、「イスラム教徒ボシュニャク人」の最大政党であるSDAの候補者、スレイマン・ティヒッチを打ち破った。シライジッチは戦時中に首相を務め、かつてはSDAに所属していた。彼が現在率いるボスニア・ヘルツェゴヴィナのための党(SBiH)は、「構成体をなくしたボスニア・ヘルツェゴヴィナ」、つまり統一国家としての再編を主張する(1)。そのため、シライジッチは民主派勢力や反民族主義勢力からも一定の共感を得た。また、イスラム共同体最高指導者のムスタファ・セリッチ師が支持を公言したことも、彼の勝利を後押しした。

 セルビア人側では、ミロラド・ドディクの独立社会民主主義者連合(SNSD)が、SDSを一掃した。ドディクは戦時中はセルビア人議会の議員だったが、ラドヴァン・カラジッチ率いるSDS政権に直接関与はしていなかった。13年にわたり逃亡を続けたカラジッチは、2008年7月に逮捕され、旧ユーゴ国際戦犯法廷に引き渡された。平和が戻った後、政治的にあまり傷つかずに済んだドディクは、体裁の良い「民主派」として、欧米諸国、特にアメリカの支持を得た。セルビア人勢力の方向転換を期待されてのことだ。

 戦争直後の数年間、ドディクが野党の民主派勢力に接近したことは事実である。1998年から2001年までは政権を担ったが、その後はしばらく不遇な時代を送った。次いで、2006年の選挙のときには、ボスニアのセルビア人民族主義というありがちな主張を躊躇なく唱えてみせた。とりわけ、スルプスカ共和国(セルビア人共和国)の自決権を掲げ、そのための国民投票の実施を約束した。

 この戦略は報われ、SNSDはかつてないほどの権力を手中に収めた。セルビア人共和国では、議会の絶対多数を獲得し、ドディクが政府首班となった。同党は国会でも第1党となり、ボスニア政府を率いている。

脅しは口先だけ

 ボスニアの新たな権力者になったドディクだが、サラエヴォに出向くことはあまりない。自分の縄張りであるセルビア人共和国の首都、バニャ・ルーカの方がお好みらしい。ボスニアの政治情勢は、シライジッチとドディクの対決の様相を帯びてきた。2人の姿勢は全く正反対のように見える。シライジッチは構成体をなくすことを主張しているが、ドディクは両構成体の権限強化、ひいてはセルビア人共和国の離脱を唱えている。

 2人の危険な対決のあおりで、他の政党は疎外されている。社民勢力は、明確な路線を打ち出せずにいる。クロアチア人は人口も少ないため、政治的な影響力をほとんど持っていない。ボスニア総人口に占めるクロアチア人の割合は、戦争前には17.5%だったのに対し、現在は推定10〜11%にすぎない。

 ボスニアに比べてずっと繁栄しているクロアチアの引力は、同国が数年後に欧州連合(EU)に加盟すれば、さらに強くなるだろう。しかも、ボスニアのクロアチア人政党は、党幹部が汚職問題で求心力を失い、挙げ句には2派に分裂してしまった。その結果、ボスニアのクロアチア人政党は、連邦側のいくつかの県を完全に押さえているとはいえ、国政レベルでは弱小勢力でしかなくなった。

 「シライジッチとドディクはそれぞれ自分のコミュニティを結集するために、不安をあおるという常套手段に訴えている。この2人のコンビは、スロボダン・ミロシェヴィッチとフラニョ・トゥジマンのコンビと同じように機能している」。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ人権ヘルシンキ委員会の委員長、スルジャン・ディザレヴィッチは、2人の関係をこう解説する。

 実際問題として、ボスニアの統一性が危機に瀕していると言えるのだろうか。確かに数カ月にわたり、ヴォイスラヴ・コシュトニツァ首相(当時)をはじめベオグラードの指導者は、コソヴォが独立すればセルビア人共和国も独立する、との脅しを振りかざしていた。ドディクも同じ論法で、何を根拠にコソヴォのアルバニア人には独立が認められ、ボスニアのセルビア人には認められないのかと言い立てた。しかし、2008年2月17日にコソヴォが独立を宣言した後も、バニャ・ルーカなどいくつかのセルビア人の町で、ごく小さいデモがあった以外は何も起こらなかった。

 ドディクの脅しは口先だけにすぎなかった。実際には、セルビア人共和国の独立を宣言するつもりは全くない。独立したところで国際的には承認されず、立ちいかなくなくなることを知っているからだ。また、セルビアへの併合も、ドディクにしてみれば好ましくない。ベオグラードの指導者との関係が良好とは言えないため、田舎のボスでしかなくなるからだ(2)

 コソヴォの独立は、ドディクにとって良いニュースだった。セルビア人共和国の離脱という脅し文句が、より現実味を持つようになったからである。ドディクは強硬な発言を続けながらも、欧米を安心させることを心得ている。他のセルビア人指導者なら、とんでもない真似をしでかしかねないが、自分がセルビア人共和国の首相でいる限りは「事態は動かない」というわけだ。この態度は一石二鳥だった。というのは、交渉上の立場を強めるとともに、自分が地域の「安定化」に欠かせない重要人物であることを欧州諸国に理解させたからである。つまり、彼の関与が取りざたされている汚職事件について喧嘩を売るべきではない、ということだ。ドディクは自分の政治的な支配力と、まともな対抗勢力の不在を最大限に利用している。

新しいミロシェヴィッチ?

 また、ドディクが築いた「体制」は、膨大な利益を上げている。この2年間、彼はセルビア人共和国を搾り上げてきた。電気通信会社(3)やブロドにある製油所などの民営化は、不正な手続きにより、ドディク自身と彼の友人や、SNSDの懐を肥やしたと見られる。さらに、ドディクはメディアにも手を伸ばした。公営テレビを掌握し、セルビア人共和国の主要な独立系日刊紙、グラス・スルプスケとネザヴィスネ・ノヴィネをも支配するようになった。

 バニャ・ルーカでは、ジャーナリストのスロボダン・ヴァスコヴィッチのような批判者は、ますます少なくなっている。「ドディク体制はラドヴァン・カラジッチよりひどい。盗みや脅しをもって統治方式としてしまった」と言う。この体制を支えるのは、バニャ・ルーカから約10キロのドディクの故郷、ラクタシ出身の10人ほどの小グループだ。これらの側近は、系列関係が複雑なインテグラル・インジェニェリングの傘下企業のあちこちで重役に就いている。同社は1990年代の初めにドディクが設立し、現在では公共事業を独占的に受注している。「国際社会はドディクを生み出し、今になってから、それが新しいミロシェヴィッチだったことに気がついた。唯一の違いは、もはやイデオロギーも民族主義も関係なく、権力と金だけが重視されていることだ」とヴァスコヴィッチは述べる。

 ビジネスになると、ドディクは他民族の政敵とも折り合いをつけることができる。その良い例がシライジッチである。エネルギーという重要分野の案件では、ときに協力者、またときに対抗者として、2人の名前が挙がる。ボスニアは、天然の給水塔にたとえることができるほど、水力発電所の好適地となっている。エネルギーは恒常的に不足しているから、ダムを増やしたいという誘惑は強い。今のところは、かつてないほどの市民の反対運動のため、バニャ・ルーカを通るヴルパス川の上流と、タラ川のモンテネグロ側国境付近の、2つのダム計画が中止に追いこまれた。しかし、他の場所での建設はまだ検討されている。

 環境に影響を及ぼしかねないこれらのプロジェクトを非難するのは、簡単なことではない。しかも、ボスニア経済はどん底にある。ここ数年に見られた大型投資は、連邦側のゼニツァにある製鋼所のアルセロール・ミッタルによる買収だけだ。ボスニアの失業率は労働力人口の推定40%以上を占める。民族別に分かれている労働組合は、提案を出すことも、労働者を守ることもできていない。この数年間にやむなくデモに打って出たのは、農家や年金生活者ぐらいでしかない。それぞれ数週間、サラエヴォの国会前でキャンプを張った。

 ドディクの寄生虫的な体制にとって、ボスニア政治の膠着状態は実に都合が良い。その一例が、最近の警察改革である。1995年以降、警察は構成体の管轄になった。それが国の分裂を促し、捜査の進行を妨げている。警察の改革(と統合)は、ここ何年もボスニア政治の争点として、新聞ネタを提供してきた。

 結局、ドディクはほとんど骨抜きになった改革を2008年4月に受け入れた。警察は別々のままにしておき、相互の「連絡組織」をつくるというものだ。このエセ改革法案に反対したSDAと社民勢力は「非和解的だ」と非難された。他方、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ上級代表や欧州諸国の指導者は、ボスニアが遂げた偉大な「前進」を歓迎した。その「ご褒美」として6月16日に、EUとの間で安定化連合協定が締結された。

サラエヴォの変貌

 言うまでもないが、警察改革をめぐる土壇場の妥協が見せかけにすぎないことを、EUが見抜かなかったはずもない。だが、諸国の対ボスニア政策は戦略を欠き、とにかく安定化の一つ覚えになっている。コソヴォの独立宣言このかた、外交官たちがバルカン半島で組み上げようとしてきた構造は不安定なものでしかなく、ボスニア国境の変更がないことを前提としている。この点からすると、ドディクはセルビア人民族主義の「形骸化」に成功した逸材ということになる。

 1995年12月にデイトン合意が締結された際、楽観的な人々は、時間が経つにつれて戦争の生々しい傷も癒され、政治的な膠着は打開されるだろうと思っていた。だが、そうはならなかった。斬新な構想が出てこない限り、ボスニアは沈滞し続けるほかない。EUの戦略は、近い将来に迫ったクロアチアの加盟や、地域安定のための重点国として、早められるかもしれないセルビアの加盟に、むしろ力を入れているようだ。その一方で、ボスニア、コソヴォ、それに2005年に正式な加盟候補国となったはずのマケドニアは、「みそっかす」として軽視している。

 このように状況は険しいが、サラエヴォ市街を歩くと、戦争による被害の面影がほとんど見られないことに気づく(4)。しかし、「正常化」という見かけの奥に目を凝らさなければいけない。現在の人口は約50万人と戦争前と同じぐらいだが、その中身は激変した。戦争前は、15万人のセルビア人が住んでいたのに、現在は2万人しか残っていない。多くのボシュニャク人も、戦時中あるいは戦争後に、サラエヴォを去った。かわりに増えたのは、セルビア人共和国から追い出されたか、過疎化する農村にいられなくなったかで、田舎や小さい町からやって来た人々だ。サンジャクというセルビアとモンテネグロにまたがる、ボシュニャク人が過半数を占める地域から来た人たちもいる。かつては都会的な気風に溢れていたサラエヴォで、「昔からの都会人」と新参の住民との潜在的な対立が生じている。

 3年前、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、戦争前に住んでいた場所に戻った難民・避難民の数が、100万を突破したと誇らしげに発表した。しかし、その多くは見かけ上の帰還にすぎなかった。戻った先の町や地域では、自分たちの民族はもはや少数派でしかなく、戻った理由は資産を売るためでしかなかったのだ。また、ヘルシンキ委員会は資産の交換取引が広く行われていることを指摘して、これを「民族浄化の最終段階」と表現している。例えばボスニア中部の小都市ドニィ・ヴァクフでは、こうした物々交換の結果、クロアチア人地区とボシュニャク人地区が完全に別々となった(5)

 現在のボスニアを形づくる単一民族ごとの小社会の中では、それぞれの民族主義政党が、権力を一手に集めている。民族主義を掲げる地方ボスたちは、戦争後の経済低迷の中で繁栄を謳歌してきた。彼らは建前としてはEU加盟を共通の目標としているが、その暗黙の必要条件は、彼らの財産、権力、特権が温存されることだ。こうした状況では、ボスニアは現状固守しか望めないし、国の前進を願う人たちは絶望するしかないだろう。

 欧米の外交官はと言えば、戦略を欠いたままだ。ボスニアは修復不能な「ブラックホール」の様相をますます強めている。しかも、国際的な監督下にあることの副作用は周知の通りだ。ボスニアの指導者にきちんと責任をとらせないことで、やりたい放題の人心煽動を許してしまっている。だが、他方では、ボスニアで新たな危機が起こるたびに、国際的監督の必要性が示されているように思える一面もある(6)

 ボスニアの若者の大半は政治に興味を示していない。25歳以下の若者の投票率は10%前後でしかなく、きたる10月の市町村選挙で急に伸びるとも思えない。学歴のある若者の最大の希望は国を出ることだ。自国のことをどう見ているかを、ある若者がこんなふうに表現してくれた。「戦争のトラウマから立ち上がれない国。だから再び暴挙に走ることもできない。精根尽き果ててしまった国。だから市民が本当の変革を断行することもできない」

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2008年9月号)