人道支援と現地社会の溝、コンゴの場合

ミシェル・ガリー特派員(Michel Galy)

政治学者

訳:日本語版編集部


 キンシャサのヌガバ地区で、30人の子供たちが住むスラムは、一風変わっている。何もないが、雰囲気がいい。縦横3かける10メートルの「教室」と、猫の額ほどの「寄宿舎」は、四方がトタンで出来ていて、備品は手作りだ。2人の無資格の教師と、貧窮母子受け入れセンターという地元団体が、なけなしの予算で面倒を見ている。それでも、以前は路上生活をしていた孤児たちが、ここでは猛烈な勢いで走り回り、にぎやかに遊ぶ。その様子に、もっと惨めな生活を送る近所の子供たちは、あそこに混じりたいと思うのだ。

 このちっぽけなキリスト教系の慈善団体と、コンゴ民主共和国(旧ザイール、以下「コンゴ」)にひしめく大規模な人道支援組織には、どんな共通点があるだろうか。まさに何もない。それが問題だ。見捨てられた子供の問題に取り組む欧米の大規模NGOは、地元のボランティアたちを「人道支援の向こう見ず」とみなす。しかし、「ゾエの方舟」事件を見ても(1)、ビアフラ戦争(2)の泥沼の中で場当たり的に始まった国際人道支援の歴史を振り返っても、随分な言い方ではないだろうか。

 その種の批判に対して人道支援関係者は、数年前から「プロフェッショナリズム」を掛け声に、専門化路線をひたすら邁進している。フランスでは、有名なビオフォルス(3)などの「養成スクール」が、入学した若者たちに凄まじいスケジュールを課し、「実働要員」に仕立て上げる。彼らはそれと引き換えに、下っ端のままの現地スタッフとの上下関係を強化して、現地社会とはなおさら隔たっていく。この点は、彼らの中でも聡明な者なら認めるところだ。

 問題はハビトゥス(4)にある。夜行便で到着すると、腕のいい運転手付きのクーラー完備の四駆に迎えられる。入管を通り抜けた後は、ゴンベ地域にある瀟洒なウテックス・アフリカ地区へとひた走る。実に気分がいいものだ。この地区は植民地時代の白人居住区で、大規模NGOや国連機関、大使館が立ち並ぶ。人道支援組織がいかに素晴らしい努力を傾けているにせよ、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)や国連コンゴ監視団(MONUC)(5)と隣り合っているような立地は、無意味なものではあり得ない。

 ウテックス・アフリカ地区では、NGOのシンボルカラーを施した四駆がひっきりなしに行き交い(6)、「租界」の中に消えていく。その固く閉ざされた扉の前で、若い欧米の「ボランティアたち」がひしめき合って、無一文のキンシャサの人々に食糧、医療、仕事、地位などを分配する。だが、見えない境界線の逆側に身を置いて、あるフランスNGOの現地責任者が言うように、協力相手の地元NGOのことを所詮は「車両を駆る騎兵隊に圧倒された歩兵隊」だと片付けてしまうなら、そうした「人道支援の夢」は苦々しいものとなる。これらの組織の扉に貼られた求人広告に目を凝らし、四駆の巻き上げる埃や泥を浴びる者にとっては、色とりどりのTシャツに現地風のスカーフという白人の若者たちのロマン溢れる風采も、虚心坦懐に受け止められはしない。

 独自の儀礼や作法に従い、世界的なネットワークを備えた人道支援組織は、社会学者が「平行社会」と呼ぶものを構成しているのだろうか。コンゴの航空会社の事故頻発を尻目に、首都キンシャサからルワンダ国境に無料で素早く向かえる選択肢が、彼らにはいくつもある。とりわけ、欧州委員会人道援助局(ECHO)やMONUCの飛行機だ。この広大な国に陸上交通網が整備されていない状況では、地元民が怨嗟の念を抱くのももっともだ。難民キャンプのあるゴマやブカヴには、世界中から人道支援組織が集まっていて、素晴らしい景色の中に豪華ホテルや国連関係者用の邸宅が続々と建設される。地元の暴力団が懐を肥やし、仲間内で争うのも無理はない。

ノートパソコンに衛星受信機

 この手のことは、大いなるアフリカの空の下、今に始まったことではないと言うべきだろうか。人道活動家たちの振舞いは、植民地時代の「原住民担当官」に近いものがある。ただ、後者は少なくとも、名だたるフランス海外領土学院(EFOM)で、現地の慣習や言語を習得していた。今日では、出身地から離れた任地に配属されるアフリカ人官吏(コンゴには300を超える民族がある)も国連関係者も、そうした知識を身に付けてはいない。その上、MONUCの文官も含めた多くの幹部は(現地公用語の)フランス語を話せない。

 多くの失敗の原因は、言語や文化の問題でお手上げになったことにある。ゾエの方舟のメンバーが、予備知識もなしにチャドの親族関係調査まがいのことをした結果、収拾のつかない事態に陥った映像が思い浮かぶ。音楽が盛んなことで知られ、10あまりのラジオ局や民放テレビ局さえある(サハラ以南アフリカでは異例だ)キンシャサのような街で、「駐在スタッフ」がCNNや外国の衛星放送ばかり見る必要があるだろうか。孤独を感じたり、現地の状況に不安を覚えたりで、ホームシックになるにしても。

 先端技術の類も、村に住むアフリカ人と世界規模のシステムの一翼を成す若い専門家との、文化的なギャップを見せつけるものではないだろうか。奥地にやって来る若者たちは、ノートパソコンに衛星受信機を携え、最新モデルの車に乗り込み、「安全対策」用の騒々しい無線機まで持ってくる(植民地時代には、「白人は数えられる」、つまり白人だけが数に入る、という言い方があった)。そして、パリにあるNGO本部と「ネットワークで機能する」ことを鼻にかける。二つの社会の間にある大きな溝は、難民キャンプで暮らす「援助対象者」やアフリカの大都市に住む一般市民の目には、とんでもないものに見えるだろう。

 人道活動家の中でも聡明な人々は、このことをわきまえており、そうした慣行について自問する。とはいえ自分たちに「責任はあっても罪はない」と感じている。必ずしもコントロールできない組織拡大の流れに引きずられてきた、という理由からだ。1970年代に生まれた数々の小規模NGOは、今や国境を越えた巨大組織になっている。その一例がハンディキャップ・インターナショナルだ。1982年に2人のフランス人医師によって設立された「HI」は、今日では8カ国に「支部」を置き、60カ国で活動する。200人の本部職員、200人の「駐在スタッフ」、そして4000人の「現地要員」を擁し(この分野ではよくある比率だ)、7200万ユーロあまりの予算で240件のプロジェクトを切り回す。

 世界の医療団(MDM)のキンシャサ事務所の責任者、アルムネル・タリボ医師は、現地社会に不満がくすぶっていることを認めつつも、こうした事態は人道活動家の意に反して、いつの間にか生まれたように思えると語る。彼によれば、世界のどこでも尊敬を集める「フレンチ・ドクター」が、数箱の薬を携えて、やっとの思いで被災地に入った時代は過ぎ去った。今日では、圧倒的な規模を誇り、嫉妬と驚嘆を呼び起こす人道支援組織は、恰好の餌食にして潜在的なスケープゴートになっている。それゆえ、キンシャサで活動するNGOは、「安全性」を確保するためにゴンベ地域に集まり、庶民の住む地区からは距離を置く。

 だが、それは一体どんな安全だろうか。リベリアの首都モンロヴィアでは、人道支援関係者の家の門前で、安全対策だとアフリカ人たちが追い返されていた。同様に、多くのNGOはスタッフに、現地人とカップルにならないようにと言い含めている。現地の社会や地区に溶け込むという逆方向を選び取るNGOやボランティアはごく稀だ。しかし、ロニー・ブローマンのようなベテランの人道活動家に言わせれば、現地と交流し、土着化を図ることこそが、スタッフやプロジェクトを現地で受け入れてもらうカギとなる。

地政学的な偏向

 その一方で、コンゴでは非常に多くの地元団体や開発NGOが、どうにか活動を続けているが、あまり認知されていない。力を持ち、良心をみなぎらせ、批判を受け付けない「欧米の人道支援活動」に対し、これらの団体は苦い思いをつのらせている。キンシャサの女性NGO「共同の大義」を率いるジョルジェット・ビーブルは、腹立たしい気持ちでいっぱいだ。そして「すごく見下した態度をとる」人道支援組織について、独自の社会学的な見解を披露してくれた。

 何もかもが対象だ。例えば、ボランティアたちの用語を分析するなら、「逆側」に立てばたちまち解読できる。「現地パートナー探し」とは「従属化」のことだ。「個別調査」とは、資金を待ち受けるコンゴのNGO同士の「批判を増幅させ、分裂の種を撒き散らす」ものだ、と彼女は痛烈な皮肉をこめて語り、地元団体からの申し出を軽視した言動を非難する。「私たちのことをすぐ、恒久的存続しか考えていない強盗や泥棒みたいに扱うのよ」というのが彼女自身の言葉だ。そうした言動に対して、「自立を勝ち取るためには30年かけてもかまわない」と言う。

 確かに、しばしば聖職視されている人道支援は、慈善ビジネスと遠からぬところにある。キンシャサのムンデレ(白人)たちの活動も例外ではない。彼らの活動はごまんとある「ビジネス」、もしくはキンシャサ市民の名だたる言葉遊びによれば「コープ」(7)の一角を成すものだと言えるだろう。つまり、見捨てられた空腹の人々が、生き残るために必死になって行う事業のひとつだ。キンシャサ大学の人類学者レオン・マタンジラは、「政治、宗教、NGOが、コンゴで金儲けするための三つの早道だ」と言い切る。一種の「NGO化」が起きていて、社会という界を歪め、外国資金の獲得を志向する生活様式を生み出している。不正あるいは架空の「書類上だけのNGO」は、「資金提供者のあらゆる要求に適応している」だけだ。キンシャサを専門領域とする社会学者マルコ・ジョヴァンノーニによれば、「(国際)NGOの資金と一部のプロジェクトが、キンシャサの団体活動のあり方を変質」させ、「市民社会を壊滅させた」という(8)

 他の国でも見られるように、ここでも国家との関係は複雑だ。モブツ政権時代の政府間協力に代わり、今では国際NGOが行政機関とさまざまな協定を結ぶ。介入地域と活動内容は事前に自ら決めておくため、非常に甘い基準で団体登録が認められる。ジョヴァンノーニによれば、「NGOで仕事を見つけられなかった公務員たちは逆恨みするから、必然的に厄介な敵となり、何がなんでもプロジェクトを阻止したり妨害したりするようになる」そうだ(9)

 しかし、コンゴで活動する人道支援組織は、もっと重大な、地政学的な偏向に陥っているおそれがある。つまり、キンシャサと比べ、東部地域が優先されているのではないかということだ。ルワンダと国境を接する東部地域では、1994年にルワンダで起こったツチ族大虐殺と、推定300〜500万人の犠牲者を出した2回の戦争以来(10)、緊迫した状況が頻繁に起こっている。いくつもの武装集団(特にローラン・ヌクンダ将軍のグループ)が強力な圧力を維持し、住民は移住を余儀なくされている。

 こうした状況は、NGOや国際組織が東部地域で持つ特権的地位のある程度の説明にはなるが、キンシャサでは釈然としない感情を呼び起こしている。一方では、モブツ失墜後に基盤を固めた政治家や軍幹部が、体制の特権階級となり、国際援助とうまく馴れ合っている。他方では、東部出身のジョゼフ・カビラ大統領への反感が水面下で広がっているなか、批判的で権利要求的なナショナリズムが首都で拡大している。1000万人という過密人口を抱えたこの反体制的な大都市には、大統領とその政権、そして人道支援組織が、西部キンシャサの市民や、ここに逃げ込んできた国内「避難民」に比べて、東部の「外国人難民」ばかり優遇していると非難する声がある。

国連による改革が引き起こした動揺

 確かに人道支援活動は、現地政府の統治が微力、あるいは及んでいない国境地帯に関わる場合が多い。だからといって、行政機関を代行する権限があるものだろうか。そうした現状についての多数の証言が、公職者からも出てきている。まったくと言ってよいほど無力な政府幹部たちが、人道支援の地政学的な偏りへの驚きを表明しているのだ。

 地域による取り組みの差異は、他のアフリカ諸国にも見られる。例えばコートジヴォワールでは、2002年に起きた内戦前の一時期、NGOはこの国を互いの「勢力圏」に分割した。ドイツ技術協力公社(GTZ)が北部(特に基礎保健分野)、フランスの協力機構が南部である。マダガスカルでも、複数の金融NGOが分割によって棲み分けた。

 NGOはたいてい都市部、首都、幹線道路沿いのようなアクセスの容易な地域に集中し、山岳部、僻地、森林地帯のような「隔絶地」は放置する。例えばマダガスカルでは、問題があるのは沿岸地方なのに、ほとんどのNGOは、メリナ族の多い高地にある首都アンタナナリヴォ付近で活動する。他の国々でも、支援組織は同じ村や地域、地区に殺到する。最悪なのは、ワールド・ビジョン(11)のように資金潤沢な有力NGOが、他の団体や政府との一切の連携を拒むことだ。そうしたNGOは、シエラレオネ南部州でも見られた通り、それぞれが好きな所に好きなように入っていく(12)

 一体どんな権利があって、こうした行動を取るというのか。時には激しい民族・地域間の競合を考えれば、活動地の選択(資金提供者に合わせた、つまりは大規模プロジェクトに合わせたもの)は、重大な政治的影響を及ぼさずにはおかない。

 有利な団体登録を引っ提げたNGOが受け入れ国でますます大きな特権を得るのを見て、彼らが国際関係の主体のひとつとなったことに気付いた国連、欧州連合(EU)、国際部隊は、彼らの活動を誘導し、さらにはコントロールしようと腐心するようになった。この分野の監督を図る国連人道問題調整事務所(OCHA)が、その一例だ。OCHAが取り組んでいる改革により、開発関係者の狭い世界は、路線のいかんにかかわらず動揺した。「号令役」となる機関の指揮の下、荒っぽい競争や始末の悪い重複なしに、相互に連携することを求められたからだ。独立性を後生大事にしたければ、その代わり助成金はあきらめなければならない。この「脅し」の重みは個々の状況によりけりで、実際にはそれぞれの組織の財務構造に左右される。民間の寄付だけで成り立っている国境なき医師団(MSF)は、この「雑然とした仕組み」に加わらないという決断を下した。

 この改革の最大の批判者は、多くは当の人道支援関係者だ。人道支援の草分けとなったビアフラ戦争以降、彼らは分裂と自己批判を繰り返してきた。例えば、キンシャサで世界の医師団の「租界」を取り仕切るのは、マリ出身の若くて優秀なタリボ医師だが、幸い「民族別の統計」などないにしろ、彼のようなキャリアは珍しいと言わざるを得ない。責任者のポストは欧米人の駐在スタッフに、部下のポストは現地人に割り当てられるものだからだ。

 「代替」プログラムなるものも実施されている。「見込み」のありそうな現地のNGOを選び、訓練し、サポートする。時には設立までしてしまう。革新的ではあるが、当事者からも心許ないと言われる試みが、例えばコンゴのキヴ地方では保健分野で、国内の団体とともに進められている(13)。「現地パートナー」を必死に探すのは、必要で期待の持てる行動ではあるが、そこには自ずと限界がある。もともとの発想とプロジェクトは、常に「先進国」からやって来るからだ。過去の事例を見ると、この種の代替は一時的なものに終わる場合がほとんどで、資金提供者がいなくなるとすぐにつぶれている。

 緊急事態を前にして、批判が何ほどのものか。批判された人道活動家はそう言い返し、相手の側にポピュリズムや無理解があると決め付ける。だが、非難は「援助対象」の当の住民から起こっているのだ。アフリカの地元団体のメンバーが、謙譲と交流という方向を選び取っている以上、欧米の組織のメンバーも同じようにすべきではないだろうか。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2008年9月号)

* 註(7)および(8) 書名に関する記述を訂正(2009年1月5日)