2008年8月のオセチア危機

ジャン・ラドヴァヌイ(Jean Radvanyi)

フランス国立東洋言語文明研究所教授

訳:三浦礼恒


 グルジア人とオセット人は、どちらも東方正教徒が多数派を占め、古くから密接な関係にあった(1)。例えば、ソ連の時代には、南オセチアでは両者の通婚はごく普通だった。しかし、統合・中央集権志向の強いグルジアのナショナリズムが盛り上がり、歴史的な大再編が起こるたびに、両者は血みどろの抗争を繰り広げてきた。初めて独立のグルジア共和国が成立した1920年、次いで1991年から92年にかけてガムサフルディア大統領の下で(2)、さらにシェワルナゼ大統領時代にも、グルジア軍は南オセチアの首都ツヒンヴァリに対して流血を伴う侵攻を行った。死傷者は多数にのぼり、大量の避難民が現在の北オセチアとロシアへ向かった。こうしたことが起こるたびに、グルジアの主権を認めない南オセチアの動きを(アブハジアに対してと同じように)支援して、グルジアを弱体化させる目的で、燃え上がったナショナリズムの利用と激化をロシアが図ってきたことには疑問の余地がない(3)

 1992年6月にロシアのソチ近郊ダゴムイスで調印された停戦協定により、この紛争を政治的に解決する可能性が残されたように見えた。南オセチアはグルジアの支配圏外に留まったものの、南オセチアにあるグルジア人の集落は温存された。独立国家共同体(CIS)の主導により、ロシア、オセチア、グルジアの3者からなる停戦監視部隊が組織された。だが、緊張は急速に高まった。

 ツヒンヴァリ郊外のエルグネチは、ロクスキー(ロキ)・トンネルを介してロシアとグルジアを結ぶ幹線道路沿いという戦略的な位置にあり、文字通りの「ブラックホール」となってきた。カフカス南部における密輸品の主要市場が発展して、主にロシアとトルコの商品が取引され、オセチアとグルジア双方の腐敗エリート層の大きな収益源となっていた。モスクワはやがて分離主義地域の住民にロシアのパスポートを提供し、前代未聞の状況を作り出した。グルジア側は、南オセチアの地位を議論するために設置された委員会の構成が不均衡だと訴えた。ロシア、グルジア、南オセチア、北オセチアという、4者のうち3者までがオセチア側にくみするものだったからだ。

 サアカシュヴィリ大統領は2004年1月の就任後すぐさま、南オセチアとアブハジアという二つの分離主義地域における完全な主権を取り戻す意向を明らかにした。もう1つの分離主義地域アジャリアのボスだったアバシゼを難なく追放し、モスクワからの抗議もなかったため、彼はそうした意向をさらに強めた。だが、エルグネチの市場の管理強化と閉鎖、グルジア人集落への支援拡大、親ロシア派で分離派のココイトゥイに「替わる」南オセチア政府トップたる親グルジア派サナコエフの擁立(2006年11月)など、グルジア側の様々な経済的、政治的圧力にもかかわらず、両地域の紛争は「凍結」されたままになっていた。

 グルジアはワシントンとブリュッセルの介入を求める要望を強め、とりわけロシアの平和維持部隊に替えて、欧州安全保障協力機構(OSCE)、北大西洋条約機構(NATO)、あるいは国連が部隊を派遣することを提案した。その一方で、グルジア指導層の一部は、欧米諸国の警告にもかかわらず、軍事オプションも排除していなかった。

 アメリカとトルコの支援によって、NATO基準に即したグルジア軍の近代化が加速された。二つの分離主義地域にきわめて近いセナキとゴリへの近代的な軍事基地の新規建設に対し、専門家は警鐘を鳴らした。2006年に欧州委員会のフェレロ=ヴァルトナー対外関係担当委員は、カフカス南部の3カ国、アルメニア、アゼルバイジャン、グルジアが過度の軍事支出を行い、紛争の危険を高めているとの懸念を示した(4)。この発言は物議を醸したが、そこには緊張の高まりに対するヨーロッパ諸国の危惧が表れていた。

軍事衝突に至るまで

 最近は事件が多発していた。2008年1月のグルジア大統領選の結果に対する抗議運動、グルジア人集落とオセット人集落の間でのロケット弾の発射や狙撃の応酬などだ(7月にはサナコエフ臨時政府代表の車列が攻撃されている)。しかし、2008年8月8日の晩に実施された大規模攻撃は、それらとはまったく性質が異なる。攻撃の対象となったのはツヒンヴァリ(市民に多数の犠牲者が出た)、そしてロシア停戦監視部隊の基地である。同盟国アメリカによる支援の可能性を過大評価したグルジアの大統領は、この小さな地方都市を電撃的に陥落させるつもりでいた。ロシアの介入を受けることなく、南オセチアにおけるグルジアの主権を力ずくで回復できると考えたのだ。この思惑がいかに間違っていたかは周知の通りである。

 モスクワは、常々グルジアの領土の一体性を認めてはいたが(CISの創設文書では、ソ連から受け継がれた国境線の不可侵を認める旨がはっきりと強調されている)、隣国グルジアに圧力をかけ、その欧米志向を阻止するために、地域紛争を組織的に工作に利用してきた。この戦略は従来まったく不毛に終わり、両国は関係をますます悪化させ、非難合戦に陥っていた。クレムリンの圧力(チェチェン国境から軍事介入するとの恫喝、空襲、アブハジアの経済封鎖解除)は、グルジアとアメリカの接近を加速させた。1997年にはアメリカの後押しにより、分離主義地域に関するモスクワの姿勢に批判的なCIS諸国が、GUAM(グルジア、ウクライナ、アゼルバイジャン、モルドヴァの頭文字)という連合を結成している。

 2002年にアメリカがグルジアに最初の軍事顧問団を展開したのは、この国がカスピ海から西欧に向けた石油・ガス輸送の鍵を握ることになったからだった(5)

 ロシアとグルジア間の危機は、2006年9月にサアカシュヴィリが4名のロシア軍将校を拘束したことが大々的に報じられ、モスクワが反グルジア・キャンペーンを展開し、グルジアの主要輸出品であるワインの禁輸措置を取ったことで、ますます悪化した。クレムリンは、ウクライナとグルジアを含めるようなNATOの新たな拡張に反対することを改めて明言した。プーチンはミュンヘンで演説を行い(6)、アメリカの指導層に対して明確な警告を発した。プーチンによれば、アメリカの指導層は、ソ連崩壊後の長期にわたるロシアの弱体化に乗じ、ロシアの影響力を削ぐために、この地域の地政学的な再編を企てている。ロシアとしては、ワシントンが自国の国境に関して絶対に容認しないはずの行動をロシアの国境に対して取ることは認めない。アメリカがミサイル防衛計画を推進し、2008年4月のブカレストでのNATO首脳会議でグルジアの加盟を加速させるよう圧力をかけたことは、挑発として受け取られた。

 以上のような状況下で、グルジアが南オセチアで軍事行動を起こしたことにより、クレムリンは主導権を取り戻すための予想外の口実を手にした。ロシア軍は、自国の平和維持要員と南オセチア住民の防衛の範囲を超えて、数日間で大きな成果を上げた。グルジア軍の新たな軍事施設を全滅させ、二つの分離主義地域における支配を強化したのだ。その一方でペンタゴンは、公式見解がどうであれ、サアカシュヴィリの介入計画を知らなかったはずがないのに制止しなかった。ロシアの責任を過小評価するつもりはないが、このグルジアの惨事が全体として示すのは、ロシアに挑み、ロシアが「近い外国」に持つ利害を否認するという、アメリカの対外戦略の行き詰まりだった。

EUの置かれている立場

 アメリカがグルジアに肩入れした結果、停戦に関する条件交渉ではヨーロッパ諸国が最前線に立ち、これらの「凍結された紛争」の分別ある解決に向けた協議に乗り出すことになった。しかし、内部に大きな分断を抱えた欧州連合(EU)の任務は困難に直面している。ポーランドやバルト三国などの新規加盟国は、NATOとEUへの迅速な統合を望むサアカシュヴィリを積極的に支持し、ロシアによる軍事介入を猛烈に非難した。他方、イタリアその他の国々は、グルジアのNATO加盟を加速させようとするアメリカの圧力へのいらだちを隠さない。これらの国々は、エネルギー分野に留まらない欧ロ関係の歴史的重要性を意識して、慎重な姿勢を取り、グルジア軍とロシア軍が当初の位置まで同時に撤退するよう呼びかけた。

 だが、EUが弱々しい提案しかできなかった最大の原因は、コソヴォが前例になったことだ。EUはロシアによる警告にもかかわらず、コソヴォの独立を認めてしまったが、それは世界の他の地域でも間違いなく援用されるだろう前例を作り出すことだった(7)。モスクワがどういう立場を取るにしても、南オセット人、アブハジア人、ナゴルノ・カラバフのアルメニア人が、この前例を援用しないとは考えにくい。

 コソヴォは唯一無二の事例だというヨーロッパの主張はあまり説得力を持たない。欧州近隣政策(ENP)の一環として調印された文書も、一貫性を大きく欠いている。グルジアおよびアゼルバイジャンとの間で締結された行動計画では(8)、領土の一体性は基本的な価値だと強調されている(第4.2項)。ところがアルメニアとの間で調印された文書では逆に、民族の自決が強調されている(第1項)。EU27カ国が、カフカス南部の紛争という微妙な問題について躊躇していることは明らかだ。

 EUのソラナ共通外交・安全保障政策上級代表は2006年に、アブハジア人とオセット人に関して、「彼らはグルジアへの残留を望むべきであり、したがって、グルジアはその方向で働きかけなければならない」と指摘していた。ツヒンヴァリに対するグルジアの軍事行動は、南オセチアの速やかな再統合という見通しを遠ざけるものでしかなく、EUによる調停をさらに難しくした。現地の状況が変化したことで、交渉はいっそう困難になっている。メディアがこれまでにつかんだ断片的な情報によると、8月の戦闘の結果、ツヒンヴァリ以遠のグルジア人集落は完全に無人となり、南オセチアの勢力バランスは根底から変化した(9)

 2008年8月9日、北オセチアの首都ウラジカフカスに赴いたプーチンは、ツヒンヴァリにおける真偽不詳の民間人の犠牲者数を挙げ(2000人近いと述べた)、オセット人に対して仕掛けられた「ジェノサイド」だと表現した。激しい爆撃をしておきながら、こんな言いぐさをするのは明らかに不適切だ。「サアカシュヴィリ大統領は、グルジアの領土的一体性に致命的な打撃を与えた」とプーチンは述べている(10)。二つの分離主義地域の独立をロシアは支持するという明らかな恫喝だ。

 だが、そうした路線を貫くことが、はたしてモスクワの利益になるのかは疑問の余地がある。独立承認という結果になれば、グルジア側はこのうえもない悲劇として受け止め、両国関係の正常化の目はなくなるだろう(11)。しかも、カフカス全域の決定的な不安定化につながりかねない。それが大カフカス山脈の北側にあるダゲスタンやカラチャイ・チェルケスなど、ロシア領内の小共和国に波及することは避けられない。

 さらに、今日のグルジアには、ロシアの庇護下に戻りたいという政治勢力は存在しない。こうした状況下で、国際的に承認された国境線を維持したグルジアの真の独立を保障する政治解決を提案できるのは、ヨーロッパ以外にない。そうした方向の提案がいくつも出てきている。例えば、欧州近隣政策の枠内で非武装中立国家とするなどだ。そうすれば、アメリカの対決戦略によって追い込まれた袋小路から、グルジアを救い出すことができるだろう。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2008年9月号)