サッカー選手――フランスとアルジェリアのはざまで

ドミニク・ル=ギユドゥ(Dominique Le Guilledoux)

ジャーナリスト

訳:エマニュエル・ボナヴィタ


 2008年6月のUEFA欧州選手権の際、どのチームを応援するのかと尋ねられて、イタリア系のフランス大統領夫人カーラ・ブルーニ=サルコジは、「悩ましいわねえ」と答えた。それに引き比べ、アルジェリア系フランス人選手が両方の国への愛着を語ったとしても、微笑ましいと見てもらえるとは考えにくい。サッカーは過去50年にわたり、アルジェリア戦争、移民の流れ、郊外団地の閉塞感や、9・11後の過敏な精神状態など、今も生々しい歴史の一つ一つを反映してきた。[フランス語版編集部]

 サンテチエンヌのスタジアムで、モナコ所属のムスタファ・ジトゥニとアンジェ所属のアマル・ルアイが火花を散らす。ルアイがゴールを決め、ジトゥニがタックルする。「おいおい、最後の1分で俺に怪我させるなよ」「とにかく、プレイを続けろよ」。審判が試合終了のホイッスルを鳴らす。「一杯やる」という口実で、更衣室を抜け出した2人は、夜の街に消えた。手引き役は元プロ選手のムハンマド・ブメズラグだ。行き先はチュニス。飛行機でローマを経由して向かった。サンテチエンヌ所属のラシード・メフルーフィ、それに仏リーグでプレイする最も優秀なアルジェリア人選手10人のうち7人が、彼らと合流した。夜明けのチュニス空港で、駐機場に降り立った選手たちの様子を撮影したフィルムが残っている。アルジェリア民族解放戦線(FLN)のサッカーチームが、ここに誕生した。

 ときは1958年。ワールドカップの2カ月前のことだ。このニュースに世界は騒然とした。世界一のセンターバックと言われ、レアルマドリッドへの移籍を噂されていたジトゥニと、「頭の後ろにも目がある」と言われたメフルーフィが、フランス代表チームから欠けてしまったのだ。フランスのサッカーはトップ選手を失い、サポーターは驚きのあまり声を失った。これらの選手たちは崇拝されていた。のんきな性格で、スターの生活を送り、車を持ち、フランス人女性と結婚して、子供もいたのだから。世論は彼らに非常に好意的だった。こうしてフランスは、サッカーを通じて、アルジェリア戦争を実感することになったのだ。

 これらの選手たちの原体験は、1945年5月8日(ドイツの無条件降伏の日)にある。舞台はアルジェリアのセティフ。パリが解放されたことを、アルジェリア人たちと入植者たちがともに祝っていた。その場で自然にデモが始まり、緑と赤い三日月のアルジェリア旗がひるがえった。それは許しがたい兆候であり、まず警察官と軍人が、さらには一般市民も発砲した。死亡者は、選手たちによると4万人、歴史家のイヴ・ベノによると6000〜8000人にのぼる(1)

 フランス軍に徴集されていたアルジェリア人が、帰国後に目にしたのは、虐殺された家族の姿だった。サッカー選手たちが「ガキの頃」の思い出として語るのは、ペタン元帥(対独協力政権の首班)に対する入植者たちの敬愛の念だ。毎朝フランス国旗が掲揚されていた。「僕らにとっては、彼らは売国奴でしかなかった。アルジェリアにいるユダヤ人は、僕らの側の人間だった。だから守ってあげた」

 アルジェリアの若者はサッカーボールとともに成長していく。そして生まれ故郷を去り、植民地の原住民の身分から脱出し、地中海の反対側へ渡る。「美しきフランス、自由と正義の国」では、有名なクラブチームで実力を伸ばすことができる。それでも、あの傷跡は癒えず、1945年5月8日の悪夢は消え去ることがない。「独立を約束されていたはずなのに」という思いが高まる。チュニスの駐機場に降り立った選手たちが、世論に向けて訴えたのは、自分たちやFLNの戦闘員たちはナチス占領下のレジスタンスと同じだということだった。

 妻子も彼らと行動をともにした。FLNチームは中近東、東欧、それから中国を回って試合を行った。観客がそこで目にしたのは、生き生きとして、当意即妙で、繊細なテクニックを駆使し、見通しが抜群なプレイだった。ポジショニングが巧みで、うまくボールを取り戻してパスを回し、相手との接触を上手に避ける。一言で言えば流麗な、アルジェリア風のサッカーだ。1982年にマドリッドのワールドカップで、アルジェリア代表が2対1で西ドイツに予想外の勝利を収めた試合も、こうした特長を再現するものだった。このとき監督だったメフルーフィは、「選手たちが、我々のやり方をしっかり身に付けてくれたのが秘訣だった。相手よりも多少体格が良く、多少スピードがあったおかげもあるだろうが」と述べている。

再びの優勝

 かつてチュニスに亡命したメフルーフィは驚愕した。 「それまでは政治的な意識がなかった。全てを教えてくれたのが、FLNチームだった」。サンテチエンヌのスターは目を見開いた。難民キャンプがあり、残虐な戦争が続いていて、人々は月末のやり繰りに苦しんでいた。アルジェリアの独立後は、イスラム教に次ぐ第二の宗教たるサッカーの組織化に取り組んだ。前にも増して、工場の生活、失業者、ホームレス、出国を企てる人々などに大きな関心を向けた。「子供たちには、人生や政治のことを教えた」と言う。ヨーロッパのサッカー界で活躍する選手たちの意識の変化については、こんなふうに見る。「プロの選手は、他人の苦痛や不幸を気にも留めない。移民系のフランスの選手だって同じだ。彼らにとって大事なのは、できるだけ稼ぐことだ。遅かれ早かれ、お金がサッカーを殺してしまい、人々はスタジアムに行かなくなるだろう」

 アルジェリア人にとって1990年代は、イスラム主義の暴力と国家の暴力に翻弄された凄まじい時期だった。内戦は、最低でも10万人の犠牲者に加え、汚職の蔓延をもたらした。何十億ドルもが海外の口座に流出した。政権を担っていた将軍、大臣、大統領たちは、うまいこと切り抜けてしまい、しかも他方では、国内の「過激派」の資金源は、イラン、アフガン、サウジ、アルジェリア系などの組織だと言い立てた、と民衆は嘆く。

 しかし同じ頃、サッカーでは1982年の快挙が再現された。1990年のアフリカ選手権(CAN)の決勝で、ナイジェリアを1対0で破ったのだ。サッカー大国のひとつになったという誇りで、アルジェリア人は高揚したが、そこには複雑な気持ちもあった。アルジェリア・サッカー連盟は代表チームに、アルジェリア系フランス人や、仏リーグでプレーするアルジェリア人を呼んで、自国選手との混成にしていたからだ。観客はそれを歓迎したが、選手の間には溝があった。1982年のワールドカップの際には、日刊紙エル・ムジャーヒドほか、いくつかの新聞がナショナリズムを煽り立てようとして、メフルーフィ監督を批判した。「フランス人」を招聘しすぎ、優遇しすぎだというのだ。タブーを破ったメフルーフィの側は、最高のチームを作ろうとしただけだ、とコメントした。「1978年までは、我が国のサッカーは時代遅れだった。選手はサンドイッチ1個をもらって、練習は12時から14時の間だけ。我々は彼らに時間を作ってやったんだ」。と同時にメフルーフィは、元フランス代表の精神を失わずに、仏リーグの選手たちの成績についてもチェックしていた。

 CANの決勝でゴールを決め、アルジェリアを優勝に導いたのは、仏リーグのランス所属で、18歳までフランス代表チームにいたシェリフ・ウジャーニである。父親のアハマド・ウジャーニもプロ選手で、1959年にFLNチーム入りした。シェリフは言う。「フランス代表チームで、さらに活躍できる見込みがあった。でも、自分より優れたライバルが何人もいた。そのとき、アルジェリアが僕に声をかけたのさ」。両国のどちらの代表にもなれる可能性があった彼は、こんなふうに述べた。「アルジェリア生まれでない僕らは、あまり受けがよくなかった。選手たちとの間には、ライバル意識というのとは違うけれど、なんとなく気兼ねがあった。観客との間では、そんなことはなかったのにさ。それでも、チームメイトは愛想よく振る舞ってくれた」

 1970年代に仏リーグのパリ・サンジェルマンを牽引したムスタファ・ダレブは、フランス代表に選ばれたことを父親に報告する日が来るとは思ってもいなかった。アルジェリアで生まれ、生後9カ月で渡仏したムスタファ少年は、初のマグレブ出身のスター選手となったラルビ・ベン=バレクや、後にFLNチームのメンバーとなった選手らに憧れた。「フランス初のイスラム系サッカー選手だった彼らを見て、理想が現実になったと感じた。出身が違っても成功できるんだと分かった」。この仏リーグのスター選手は、アルジェリア代表となって、水を得た魚のように活躍した。「僕には国を思う気持ちがあった。だけどそれは、今日の移民には難しいだろうね」

 アルジェリアのサッカーはすっかり変わってしまったと、FLNチームの元メンバーらは言う。「汚職がクラブにも広がり、お金が神様に取って代わってしまった。政府から交付される資金はクラブの会長や役人が横領してしまう」。サッカー界では「誰も税金を払っていない」し、基本作業がなおざりにされている。「ナショナルチームのことしか考えられていないが、その要員となるのはクラブの少年たちだ。クラブを強化するためには、資金をネコババするかわりに、調査に力を入れ、サッカー場をたくさん造るべきだ。若者に充分な投資がされていない。我々の指導者は、サッカーがこの国に与えるインパクトをあまり考慮していない。もしブラジルにサッカーがなかったら、10年ごとに反乱が起こっているだろう。アルジェの政権は、サッカーの鎮静効果を分かっちゃいないんだ」

2001年10月6日の対戦

 逆にフランスでは、移民の多い郊外団地で少年サッカーにものすごく力が入れられているが、それがゲットー化の解決につながっているとはダレブには思えない。「若いやつらが本当の問題に直面するのは、試合が終わってからだ。スポーツや音楽は社会参加の一助になってきたが、それだけでは足りない」。何度となく実施された「郊外プラン」は何の変化ももたらさなかった。「彼らとフランスの間には断絶ができている。(・・・)住まいも仕事もないせいで、恥を忍んで生きていかざるを得ない。スポーツは結構なことで、何かしらの力にはなるかもしれない。それで足元がしっかり定まるのならってことだけど」

 こうした閉塞感は試合にも表れている。「ひどいことになっている。まるでフランスの命運が、サッカーひとつにかかっているかのようだ」。パリ・サンジェルマンの得点王だったダレブの見るところ、スタジアムで人種差別的な示威行動が起きたり、観客席の一角に極右勢力が入り込んだりするのは、皆に責任がある。「1985年までは、こんなことはなかった。クラブの幹部は、ああいう手合いの観戦を禁止しておくべきだった。暴言を吐かれたら、両チームの選手は直ちに退場するぞ、ということにすればいい。サッカーは人質に取られているが、この種のことで検察官が公訴を提起したなんて話は聞いたことがない。子供を養うために万引きをした母親は起訴されるのに!」

 現在はコーチをしているシェリフ・ウジャーニは「サッカーは社会の鏡だ」と言う。「統合」と言い方に彼は憤慨する。「どういう意味で言われるのか分からない。僕は法律をずっと守ってきた。歴史のせいで『あなたはフランス人よりアルジェリア人だと感じるのか』といちいち聞かれる。父親と母親のどちらかを選べ、というみたいにさ。僕はここで生まれたっていうのに」。この手の問題は、2001年10月6日に行われたフランス対アルジェリアの親善試合のときにも、マスコミでしつこく取り上げられた。この試合は、アルジェリアの独立以来初めての両国の対戦であり、両国の和解の象徴になると期待されていた。と同時に、郊外団地の若者たちがどういう反応を示すか、非常に懸念されていた。3週間前の9・11テロによって、過敏な精神状態が広がっていたからだ。ジネディーヌ・ジダンもまた、移民系のあらゆる若者たちと同様に、自分はフランス人だと宣言しろと詰め寄られた。1998年のワールドカップ以来、ジダンは統合の象徴として、メディアからも大学研究者からも、広告会社からも讃えられていた。しかしフランス=アルジェリア戦の当日、ジダンは不幸にも、「人生で初めて、フランスが負けてもがっかりしない試合になる」と日刊紙ル・モンドで発言してしまった。さらに、RTLラジオでも「我々フランス人、我々アルジェリア人にとって、素晴らしいイベントになることを期待している」と語っている。これを聞いたメディアの攻撃は素早かった。日刊紙フィガロのイヴァン・リューフォルはこう書いた。「ジネディーヌ・ジダンは、自分のルーツであるアルジェリアへの愛情を隠そうとしないが、ここはひとつ、はっきり言っていただきたいものだ。自分はフランス人以外の何ものでもない、と」

 こうした激しい苛立ちを生み出した精神状態について、歴史家のイヴァン・ガストーはこう解説する。「この試合は、彼らを受け入れる気持ちや友情を促すよりも、排除の感情を陰険に煽り立てるものとなった。どうしようもなく凝り固まった共和制の理想を振りかざして、アルジェリアという両親の国ではなく、フランスという自分が生まれた国を選べ、と迫るものだった」。両国の試合は、踏み絵として位置づけられてしまったせいで、大失敗に終わった。試合前の国歌演奏の際には、ラ・マルセイエーズに野次が飛んだ。弱い方のチームにエールを送るためだというのが、野次ったサポーターたちの言い分だ。フランスが4対1でリードしていた後半31分に、100人余りの若者がグラウンドに粛然となだれ込むという事件が起きた。その多くは「不公平なスコアへの抗議」を口にしたが、何人かは「ビン=ラディン万歳」という挑発的な言葉を吐いた。「We are football」協会の会長を務めるガストーの分析によれば(2)、「まったく馬鹿げていて、完全に無意味な行為だ。若いやつらはテレビに映ったり、選手に近づきたかったりしたんだろう。話にならないぐらい無意味で、統合に反対する勢力や、フランスの衰亡を言い立てる勢力に、付け込む隙を与えてしまった」

 ジダンは2006年12月にアルジェリアを訪問し、国家元首のように歓迎された。彼は引退したばかりで、訪問の目的のひとつは、アルジェリア地震救援のためのチャリティ試合で集まった資金が、きちんと被災者のために使われているかどうかを確認することだった。ジダンがアルジェリアのブーテフリカ大統領から叙勲された際には、FLNチームの元メンバーが参列した。「個人的にはあいつが好きだが、少し優遇しすぎかもしない。大統領がジトゥニも叙勲してくれればよかったのに」とルアイは言う。

 メフルーフィの見方はこうだ。「ジダンは大したやつだ。心の中にルーツを秘めている。FLNチームのことも父親から聞いていた。郊外団地で過ごした子供時代の心を失ったことはなく、サッカーが与えてくれたことに対して、今度は恩返しすべきだということを分かっていた」。コーチとなったシェリフ・ウジャーニは、CANでの優勝を飾って以来、アルジェリアに2回しか帰っていない。今は亡き父親の祖国が、1990年代の悲劇の後で再び前に歩み始めてほしいと、このフランス人サッカー選手は、はっきりしたランスなまりで述べた。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2008年8月号)