アルジェリア独立後の残留フランス人たち

ピエール・ドーム特派員(Pierre Daum)
ジャーナリスト

訳・近藤功一

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 1962年の独立にともなってアルジェリアを離れ、フランス本国へ帰還したピエ・ノワールたちは、この45年間、こんなふうに思い続けてきた。帰国は「やむを得ない」ことだった、「アラブ人」から身辺に危害を加えられる恐れがあったため、他にどうしようもなかったのだ、と。だが、20万人のピエ・ノワールは、独立戦争後も新生アルジェリアに残ることを決心した。今でも現地に暮らす人々の話を聞いてみよう。[フランス語版編集部]

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 2008年1月のアルジェ。セシール・セラの住む家を探すには、でたらめに付いている番地を頼りにしてはだめだ。それよりも誰でもいいから近所の人に尋ねてみればよい。「マダム・セラの家? それなら簡単、オレンジの木があって古い車が停めてある家ですよ」。セラは訪問者を明るく迎え入れてくれる。隣家のメザウルがきれいに手入れをしている庭には、錆びかけた1961年型のシムカ・アロンドがおかれている。「そうそう、この車で夫とドライブしたものだわ。毎週、みんなで釣りに行ったのよ、ガブリエールさんやクリポさん、奥さんたちと。夫の体力が落ちた1981年まではね。でも良い時代だったわ、本当に」

 快活でユーモアたっぷりの90歳になるこの御婦人の話を聞くと、アルジェのゴルフ地区でささやかな仕立屋を営んできた彼女の生活は、1962年の「革命」で何も変わらなかったように思える。「でもどうして、それで何か変わると思うのかしら」と、彼女は一言ずつ強調しながら言った。「みんなとうまくいっていました。こちらが敬意を払えば、アルジェリア人は敬意を払ってくれます。私は八百屋さんにも必ず敬語で話していました。それは今でも同じです」

 彼女の母方の祖母は1858年にアルジェリアのシェルシェルで生まれている。石工の彼女の父は、1920年代にアルジェに移住した。「父は1929年にこの小さな家を建てて、それから私はずっとここで暮らしてきました」。なぜ1962年にアルジェリアを離れなかったのか。「ここを離れる理由があるでしょうか。ここは私たちの国です。太陽、海、人々、美しいものばかりです。ここに残ったことで、一瞬たりとも後悔したことはありません」。夫のヴァレール・セラは、ピエ・ノワール(1)が経営する企業で旋盤工として働いていた。「戦争中は、よく営業のための出張に出ました。(アラブ人の)隣人に『妻と子供をよろしく』と言ってから出かけていました。何も問題は起こりませんでした。ただしOAS(2)が来たときは別です。彼らこそが混乱を引き起こしていたんです。『荷物をまとめるか、さもなくば棺桶に入るかだ』なんてことはありません。例えば義理の姉は、怖がって出国しました。でも断言できますが、誰も彼女を脅すようなことはありませんでした」

 1962年、工場が閉鎖され、ヴァレールは退職した。セシールは仕立屋を続けた。「1964年に、アロンドでフランスを回りました。万一のときのための下見です。でもピエ・ノワールたちは会うたびに、みな同じことを言いました。『なんですって、まだあそこにいるだなんて。あんな人たちと一緒に暮らしていくつもりですか』。それを聞いて、私たちはすぐさま帰途に就いたのです」

 セシールは、1962年にアルジェリアを離れなかった20万人のピエ・ノワールの一人だ(3)。驚愕の事実だろうか、いや、まったく理に適ったことだ。アルジェリア史の有数の専門家、バンジャマン・ストラも、この点を強調する。「フランスに帰還した人々は、自分たちや子供に身の危険があったから出国せざるを得なかったと信じ込もうとしてきました。でも、それはほんの一部しか現実に即していません(4)

 1962年、ジャン=ベルナール・ヴィアランは12歳だった。アルジェ近郊の小さな集落ウレド・ファイエット出身の父は金属加工会社の技術者で、母は教師をしていた。アルジェリア航空のパイロットだった彼は、アルジェ西郊の美しい港町シディ・フレジ(旧シディ・フェルシュ)に係留してある持ち船で私たちを迎えてくれた。「両親はいわゆるリベラル派でした。民族解放戦線(FLN)にも、仏領アルジェリア断固維持派にも与していませんでした。残念ながら超少数派でしたが、『ムスリムたち』に対する身分差別と、それに伴う信じがたい不正義を容認することを拒否した人たちです。当時のアルジェリアでどれほどの人種差別があったか、今日では想像もつきませんよ。ウレド・ファイエットでは、ヨーロッパ人はみな中心街の堅固なつくりの家に住んでいました。『ムスリムたち』は周辺地区のあばら屋です」。地面に差した葦を細い縄で結んで壁にし、屋根の代わりにトタンをかぶせた粗末な住居だった。「南アフリカではないけれど、同じようなものです」

去った者と残った者

 その年の1月、ある出来事が少年の目に焼き付けられた。「(アルジェ高台にある)エル・ビアール地区でのことでした。二人のフランス人がカフェのテラスでアニス酒を飲んでいたときです。アルジェリア人が通りかかりました。一人が立ち上がり、ピストルを出し、不運なこの男を撃ち殺しました。排水溝に血が流れているのを尻目に、再び友人の脇に戻ってグラスを飲み干しました。こんなことがあった後で、独立後も残留するのが怖いとこいつらが言うのは、それはそうでしょうよ」。他方、少年の両親にとっては「出国するなんて問題外でした。以前も以後も変わりありません。彼らがいつも望んでいたのは、みながまったく平等であることで、そんな暮らしができることに満足していました」

 9月になって、ヴィアラン家を除く2000人のヨーロッパ人は、ウレド・ファイエットを引き払った。彼らが住んでいた小さな家は、すぐに周りのあばら家のアルジェリア人に占拠された。「当たり前です」と、この元パイロットは語った。彼の母は孤軍奮闘して村の学校を再開した。1965年に、一家はアルジェリア国籍を取得した。「結局のところ、自分は何よりもアルジェリア人だという気持ちです。アルジェリア航空では、ごく普通の出世コースをたどりました。周りはルーツの違う者として私を受け入れてくれ、でもだからといって差別することはありませんでした」

 アンドレ・ブアナもまた残ることに何の不安もなかった。「私はオランのムスリム地区の一つ、ヴィル・ヌーヴェルで育ちました。両親がそうだったように、スペイン語を話しましたが、アラビア語のアルジェリア方言も話しました。友人がみなアラブ人でしたから。中心街に住んでいたヨーロッパ人とは状況が違うのです。ですから、独立時に何も怖がる必要などありませんでした」。現在70歳のブアナは、アルジェ西郊のカクシーヌ岬の粗末な家に住んでいる。収入のない40人ほどの年老いたピエ・ノワールにフランス領事館から支給される月200ユーロの年金で、多くの犬や猫とともに暮らしている。「でも、なんと言っても私にはアルジェリア人の友人がいます。昔の隣人たちが今はフランスに住んでいて、お金を少し送ってくれる」。フランスに戻った身内はどうなのだろう。「御冗談でしょう。1ユーロだって送ってこないし、もう連絡もよこしません。私がアルジェリアを離れなかったことを絶対に許さないんです」

 77歳になるフェリックス・コロジは共産党員だった。FLNとともに抵抗運動に加わり、(バトナ近郊の悪名高いランバエシス刑務所など)フランス植民地政府の牢獄に合計6年間投獄され、独立後は国営企業のエコノミストになった。78歳のアンドレ・ロペスは、オランから50キロ離れた町シグ(旧サン・ドニ・デュ・シグ)の最後のピエ・ノワールだ。祖父が始めたオリーブ会社を再建し、現在はキノコの缶詰を製造している。今でも頭の冴えた76歳のドニ・ゴンザレス神父は、「数世代続く真のピエ・ノワール」だ。OASから忌み嫌われていた著名なアルジェ司教デュヴァル師に倣い、「アルジェリア人のために残る」ことを選んだ。

 78歳のプロスペール・シュトリは、母の死後オランで最後のユダヤ人となった。彼が語るには、「3000人のユダヤ人が1962年の独立後もオランに残った」という。「彼らの状況が悪化し始めたのは、1971年に政府がシナゴーグを収用してモスクに改造し、最後のラビが去ったときからだ。しかし、みんな私がユダヤ人であることを知っているし、敬意を払ってくれている」

アルジェリア政府の姿勢

 ということは、フランス人でありながら、独立後のアルジェリアで暮らし続けることも可能だったのか。「もちろんです」と82歳になるジェルメーヌ・リポルは力をこめた。彼女は現在も、両親が1932年にオラン近郊のアルズーに開いた小さなレストランを息子と切り盛りしている。「こういう言い方だってできます。私たちにとって状況は変わっていないと。唯一本当に変化したことと言えば、アルコールの販売が禁止された1966年、ワイン貯蔵庫を閉鎖しなければならなかったときくらいです。それでも、お客さんにワインを出し続けることはできましたけれど」

 ピエ・ノワール、あるいは一部の人々が好んで使う言い方によれば「ヨーロッパ系アルジェリア人」へのインタビューを続けていくうちに、フランスで流布しているのとは異なった新しいイメージが浮かび上がってくる。ヨーロッパ人の抱いた不安には、はたして根拠があったのだろうか。アルキ(5)の場合は別として(6)、白黒を付けるのは難しい。確かに民族派の指導者には、不穏な発言も見受けられた。その第一は1954年11月1日のFLNの宣言であり、「イスラムの原理に沿った」民主的アルジェリアの樹立が謳われていた。その一方で、ほとんどのフランス系ピエ・ノワールは、戦争中にFLN指導部が彼らに安心するようにと何度も呼びかけたことなど完全に忘れ去ったようだった。ジャン=ポール・グランゴーは「そういう文書を読んで驚喜した」ことを良く覚えている。彼は19世紀にカビリアに移住したプロテスタントの教師の息子で、独立後はアルジェのムスタファ病院の小児科医となり、後に保健省の顧問に転じた。こうした呼びかけのうち最も有名なものは、1960年2月17日、チュニスに置かれたアルジェリア暫定政府が「アルジェリアのヨーロッパ人」に向けて発したものだ。「アルジェリアはすべての人々の資産である。(・・・)アルジェリアの愛国者は、二級市民となることを拒否し、あなたがたを優越市民として認めることを拒否するが、あなたがたを正統なアルジェリア人として認知するつもりがある。アルジェリアはアルジェリア人のもの、出身地にかかわらず、すべてのアルジェリア人のものである。この言い回しは絵空事ではない。共同生活の上に成り立った生きた現実なのだ」。出国しなかった者が感じた唯一の失望は、アルジェリア国籍の取得に関することだった。というのも、ムスリムには自動的に付与されたのに対し、彼らは申請手続きを取らなければならなかったからだ。ただし、それは1963年、つまり多くのピエ・ノワールが出国した後の話である。

 財産については、残留したヨーロッパ人が心配するようなことはほとんどなかった。三世代前からオランに暮らすギー・ボニファシオは、「私たちを家から追い出そうとする人はいなかった」と断言する。インタビューした他の人々もみな同様だった。新しい社会主義国家が1963年に公布した土地国有化令の対象は、大規模な土地、小規模だが更地になっているもの、またフランス人の土地については、残留しつつもアルジェリア国籍の取得を拒否した者の土地に限定された。しかしながら、オラン在住のジャニーヌ・ドガンばあさんは、今でもアルジェリア人に対して怒っていて、こう言い切る。「おじはブトレリス地方に30ヘクタールほどの土地を持っていました。1963年、アルジェリア人はおじに『アルジェリア人になるなら農地はそのまま持っていてよいが、拒否するなら没収だ』と言いました。おじは誇り高い人でしたので、拒否しました。土地は没収されました。もしアルジェリア国籍を取得していれば、そのまま持っていられたことは間違いないでしょう」

 アルジェリアにきわめて迅速に平和が回復したという事実も、これまであまり注目されていなかった。「私は1963年の夏にアルジェリアに来ました」。エクサン・プロヴァンスの地中海人間科学研究所の歴史家ジャン=ロベール・アンリは語る。「古い自家用車でアルジェリア東西を横断し、ものすごい僻地にも泊まりました。見るからにフランス人の顔をしていても、まったく平穏無事でしたし、敵意を感じることもありませんでした。人里離れた農地で暮らしつつ、まったく不安は感じないというピエ・ノワールとも会いました」。この時代についてのアルジェリアの著名な歴史家の一人、F・Sも「アルジェリアでは1962年8月に銃撃がぴたりと止みました」と断言する(7)。「まるで独立直後にアルジェリア人が、『望むものは手に入れた。さあ過去は忘れて、未来に取り組もう』と申し合わせたかのように」。 マリ=フランス・グランゴーも「ほとんどの家で犠牲者が出ているというのに、復讐心を向けられていると感じることはありませんでした。それどころか、アルジェリアの人々は感謝の念を表しすらしたのです。『私たちを助けるために残ってくれてありがとう』と」

出国者は何を恐れたのか?

 それならなぜ「アルジェリアのフランス人」は、このうえなく愛着を持った国を去ることを決心したのだろうか。フランスでこの質問を彼らにぶつけてみると、ほとんどの者が口にするのは恐怖という言葉だ。その背景には、戦争が終わる前の数カ月間、アルジェリアを支配していた暴力的な空気がある。特に1962年には、3つの悲劇的な出来事が起こっている。3月26日にアルジェのイスリ通りで起きた銃撃戦、7月5日のオランの虐殺事件、そしてヨーロッパ人拉致事件の頻発だ。

 「1961年終わりから62年初めにかけての暴力事件のほとんどが、OASのしわざです」と、ブアナは解説する。「OASのせいで、アラブ人とヨーロッパ人の憎しみの溝が広がったのです。OASがなければ、そんなものは生まれなかったはずです」。誰もが強調するのは、OASが犯した殺人に対してFLNが見せた寛容さだ。「アルズーでは、OASが幅を利かせていましたが、アルジェリア人がフランス人を脅すことはありませんでした」とリポルは語る。1954年から62年の間に100万人のヨーロッパ人のうち2200人が拉致されているが、その一部は「標的」を絞り込んだものだった。「私の村で誘拐されたのは、OASの活動家だけでした」とヴィアランは断言する。

 「ヨーロッパ人は恐怖を感じていました」とストラは分析する。「何に対する恐怖なのでしょう。無差別の報復です。しかも、フランス人の死者数とアルジェリア人の死者数の違いが、少なくとも1対10にのぼっていることは、かねてピエ・ノワールに知られていました(8)。OASがやって来たとき、ほとんどのピエ・ノワールは勇んで支持しました。だから彼らは、OASの暴虐への報復として、FLNの活動家が暴虐を働くことを恐れたのです。しかし、アルジェリア人の大多数は、復讐心をあらわにするようなことはなく、ヨーロッパ人が一斉に出国したとき、非常に驚いたのです」

 生命や財産に対する危険でないとすれば、彼らが一斉に出国した本当の理由は何だったのだろうか。ヴィアランは即座にこう答えた。「大多数のピエ・ノワールがアルジェリアを去ったのは、直接危険を感じたからではなく、アルジェリア人と平等に生活していくという展望に耐えられなかったからです」。1962年まで有産層だったプロテスタント系の家庭に生まれてアルジェで暮らし、その後はアルジェリア国家統計局の社会部長となったマリ=フランス・グランゴーは、表現はやわらかいながら同じようなことを語った。「アラブ人に統率されるという考えに、ピエ・ノワールはぞっとしたのでしょう。私たちは実際、優越感を持って暮らしていました。文明度が高いと感じていました。そして何よりも、ムスリムと普通に接点を持たずに暮らしていました。彼らはそこに、私たちの周りにいましたが、景色の一部でしかありませんでした。こうした優越感が、当たり前にありました。これこそが、植民地化の根底なのです。私自身、こうした見方を捨てるのに苦労しました」

 研究者のエレーヌ・ブラコは、ピエ・ノワールの存命者を調査するために、1992年から93年にかけてアルジェリア各地を回った。彼女は約60人の証言を集め、『もう一つの顔:独立アルジェリアの「ヨーロッパ人たち」』という本にまとめた(9)。この研究者は言う。「フランスに帰還した本当の理由は、考え方を改めることができなかったからです。アルジェリアのヨーロッパ人は、社会の底辺にいる人でさえ、ムスリムの上位層よりも上にいるという感情を持っていました。残留するためには、その日を境に、それまで命令したり馬鹿にしていた人たちとすべてを分かち合うことへと、切り替えができなければならなかったのです」

 驚くべき実例もある。アルジェリアで出会ったピエ・ノワールの中には、いまだに植民地主義的、差別主義的な発言をする人がいる。今もアルジェリアにいる理由は、アパート、ビル、会社といった財産を守るためであり、「アルジェリアは自分たちの国だ」と考えているからだ。

 こうした考え方の違いの必然的な結果として、アルジェリアに残ったピエ・ノワールの大半は、フランスのピエ・ノワールとほとんどコンタクトがない。ヴィアランは次のように語った。「1979年、アルジェリア人の妻との間に娘が生まれ、フランスに行きました。身内の者の言葉は『何だって、このアラブの赤んぼを抱っこしろというのか』でした」。ボニファシオは、フランスに行くとき、何人かの帰還者には会わないようにしている。「私たちのことを対敵協力者のように見るのです」と彼は嘆息する。「『よくあんなやつらと暮らしていけるものだ、あんな野蛮人と』と、何度聞かされたことか」。しかし、マリ=フランスは、にっこりと微笑みながら語った。「数年前から、多くのピエ・ノワールが、昔をしのんでアルジェリアに来ます。去年の夏、知人の一人は帰国するときに言いました。『もし知っていたら、残っていたかもしれない』と」

(1) 「ピエ・ノワール」という表現の由来については多くの仮説がある。時期的には遅く、アルジェリアのフランス人が帰還した頃に生まれた。この言葉は、1962年以前にアルジェリアで生まれたヨーロッパ人を指す(1870年のクレミュー法によりフランス国籍を付与されたユダヤ人も含まれる)。広義には、独立以前のチュニジアとモロッコで生まれたヨーロッパ系のフランス語話者も含める。
(2) 1961年に創設された秘密軍事組織(OAS)は、仏領アルジェリア維持を支持する最強硬派の組織である。ムスリムや穏健派のフランス人を標的として、白昼堂々と爆殺や暗殺を行った。OASはピエ・ノワールの大多数の支持を受けていた。
(3) Cf. Bruno Etienne, Les Problemes juridiques des minorites europeennes au Maghreb, Editions du CNRS, Paris, 1968, p.236 ff.
(4) こうした固着的な歴史観の新たな一例が、2006年11月にテレビ局フランス3で放送され、再放送を重ねたジル・ペレスの長編ドキュメンタリー「ピエ・ノワール:傷の歴史」である。
(5) アルジェリア戦争の際に補充兵としてフランス側についたアルジェリア人を指す。[訳註]
(6) 独立の際には数千、数万のアルキが容赦なく殺された。この点については以下の近著を参照。Fatima Besnaci-Lancou and Gilles Manceron, Les Harkis dans la colonisation et ses suites, L'Atelier, Ivry-sur-Seine, 2008. また以下も参照。<< Le hurlement des tortures >>, Le Monde diplomatique, August 1992.
(7) 彼は現在、文化省で責任ある地位に就いているため、匿名を希望した。
(8) アルジェリア戦争に関しては、あらゆる数値が論争の的となっているが、およその規模を示すために以下の数値を挙げる。フランス側では、1万5000人の兵士が戦死(さらに9000人以上が事故死)、市民2800人が殺され、2200人が行方不明。アルジェリア側では、15万人の戦闘員がフランス軍に殺され(さらに内部粛清の犠牲者が数万人)、市民の死者が約6万人、行方不明者が1万3000人以上、4万から12万のアルキが殺害され、100万人の農民が移住を強いられた。Cf. Guy Perville, << La guerre d'Algerie : combien de morts ? >>, in Mohammed Harbi and Benjamin Stora (eds.), La Guerre d'Algerie, Robert Laffont, Paris, 2007, p.477 ff.
(9) Helene Bracco, L'Autre Face, << Europeens >> en Algerie independante, Paris-Mediterranee, Paris, 1999.


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2008年5月号)

* 註(8) 「内部粛正」を「内部粛清」に訂正(2008年10月8日)

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