アルメニア大統領選挙と非常事態の背景

ジャン・ギュエイラス(Jean Gueyras)
ジャーナリスト

訳・日本語版編集部

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 2008年3月1日、アルメニアの首都エレヴァンで、大統領選挙の結果に異議を唱える抗議行動が弾圧され、死傷者を出す事態となった。対米関係に緊張が走り、アメリカは経済援助の一部「停止」を検討しているという。対照的に、ロシアのプーチン大統領は、セルジ・サルキシャン新大統領の誕生を温かく祝福した。3月24日にはモスクワで首脳会談が開かれ、両国関係の将来についての協議が交わされている。[フランス語版編集部]

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 アルメニア当局の発表によると、3月1日夜、エレヴァンで、民間人7人と警察官1人が死亡、133人が負傷、負傷者の半数近くは警察官だという。デモ隊が抗議したのは、大統領選挙の「不正」である。非常事態宣言(1)が出されて以来、メディア統制が敷かれたため、死傷者数の裏付けを取るのは難しい。人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチは、アルメニア警察が、国際法で禁じられた致死性の武器を用いたと言う。デモ参加者100人以上が拘束され、「政権簒奪および暴動煽動」罪で裁かれる可能性がある。

 弾圧によって傷付き、20日にわたる非常事態宣言という乱暴な措置によって言論が封じられた国。それが、4月9日に大統領に就任するセルジ・サルキシャンの作り出した環境だ。2月19日の大統領選挙で得票率52.9%で選出されて間もなく、彼の信用は大きく損なわれた。当選の代償は高すぎたように見える。エレヴァンの有力日刊紙アラヴォドの発行人アラム・アブラミャンによれば、新大統領は結局のところ、友人ながらライバルでもあるロベルト・コチャリャン前大統領の二枚舌の被害者だ。「デモ隊に対する暴力行使は、コチャリャンがお膳立てした。それはサルキシャンの正統性を著しく損ねることになるだろう」。とはいうものの、2人の結び付きは極めて緊密だ。

 サルキシャンは、ナゴルノ・カラバフの出身である。アゼルバイジャンの自治州だったナゴルノ・カラバフは、アルメニア人が多数を占める。1990年代初頭に武力で「独立」し、さらに周辺地域の一部も占領している。

 1990年に「母なる祖国」アルメニアにやって来たサルキシャンは、内務相および国家保安相という要職に就き、2000年には国防相を経て、2007年4月に首相となった。彼が次々に出世したのは、同じナゴルノ・カラバフ出身で、考えをともにするコチャリャン前大統領の力によるところが大きかった。

 この2人の男は、自分たちを中央政界に引き入れてくれた共和国初代大統領、レヴォン・テル=ペトロシャンを1998年に追放した立役者でもあった。テル=ペトロシャンは、ナゴルノ・カラバフ問題で、敵国アゼルバイジャンに有利すぎる妥協案を示したことで、辞任に追い込まれたのだ(2)

 この2人はまた、1999年10月27日の虐殺事件への加担を疑われた。この日、自動小銃を持った5人の男が国会議事堂に侵入し、8人を殺害した。犠牲者には当時の有力者2人が含まれていた。1人は、ナゴルノ・カラバフ戦争での活躍により英雄視されていたヴァズゲン・サルキシャン首相であり、もう1人はカリスマ的で人気の高いカレン・デミルチャン国会議長である(3)

 彼らの殺害によって最も利益を受けたのが、首相のせいで純然たる名誉職にされていたコチャリャン大統領と、その盟友のセルジ・サルキシャン国家治安相だったことは明白だ。理屈からすれば、この事件を受けて、国家保安相は怠慢かつ無能の責を問われてもおかしくなかった。しかし、そのようなことは一切なく、彼は国防相に昇格すらした。

 つまり、10月27日の虐殺事件は、喧伝されるような過激派ナショナリスト集団の犯行ではなく、これまで名ばかりの存在にされていた大統領の復権をもたらす宮廷革命だったのだ。検事総長のガギク・ジャンギリャンは(4)、5人の殺人犯たちに黒幕がいたのかどうかを探るために公式捜査の範囲を広げようとしたが、すぐにこの事件の捜査権を取り上げられた。さらに、兄ヴァズゲンを偲んで首相に任命された弟のアラム・サルキシャンも、何の手続きもなしに解任された。こうして、野心家セルジ・サルキシャンの支援を得たコチャリャン体制の強化に向けて、大きく道が開け放たれた。

「予備選」となった国会議員選挙

 コチャリャン大統領の後継者問題が浮上した2年ほど前から、2人の間に仲違いの兆しが見られるようになった。憲法の規定により、大統領の任期は2期までである。しかしコチャリャンは、手下の者を大統領に据え、自分は絶大な権力を持つ首相に納まることを望んだ。つまり、ロシアでプーチンがやってみせた段取りである。

 ずっと以前から、相棒コチャリャンの後継大統領になることを夢見ていたサルキシャンは、この計画が気に入らなかった。2人のライバルはそれぞれ我を通すため、2007年5月の国会議員選挙で多数派を握ることを目標に据えた。2007年5月にサルキシャン国防相は首相に任命される。彼が選挙にあたって行なったのは、共和党の乗っ取りだった。まず単なる党員として入党し、やがて党首となり、強力な選挙マシンとして活用した。コチャリャン大統領のほうは、2006年に友人のガギク・ツァルキャンに創設してもらったアルメニア繁栄党の支持に依拠していた。ツァルキャンは、口だけは勇ましい大金持ちの財閥で、「馬鹿ガエル」とあだ名されている。5億ドルとも言われる莫大な資産と業績好調な企業40社ほどを所有するツァルキャンは、どんなものでも金で買えると思っていて、友人コチャリャンの勝利を確信していた。

 ツァルキャンがたっぷりと賄賂をばら撒いたにもかかわらず、5月12日の国会議員選挙では、共和党がアルメニア繁栄党に大差を付けて圧倒的勝利を収めた。新党首サルキシャンの下で、政府の機構を自由に活用できたからだ。事実上、この選挙は2008年2月の大統領選挙の「予備選」の役割を果たすものだった。コチャリャン大統領は投票で示された民意に、少なくとも表面上は従うほかなかった。大統領府と内閣の陰の報道官たちは、すかさずサルキシャンこそ大統領の「意中の後継者」だと言い募るようになった。

 共和党が、全131議席の過半数を占める地滑り的な勝利を収めたのは、選挙に付き物となった不正のせいだけではない。対立政党は、幹部たちの個人的野心のために機動性を失い、政治的に破綻しており、中には首相官邸に操られている者もいる。つまり、大統領の座に向けてサルキシャンが周到に進める歩みを妨げるものは何もないように見えた。

 2007年9月、初代大統領を務めたレヴォン・テル=ペトロシャンが立候補を突然表明し、彼の存在を忘れかけていた政治家たちは不意打ちを食らった。10年近くにわたる苦難の間、彼は細心の注意を払って政治的活動から身を引いて、大学で研究に専念していた。

 身近な友人や協力者から何度も懇請された彼は、あらゆる角度から詳細な現状分析を行なった後、いずれ時が来れば判断すると示唆した。そして数週間かけて国内を歩き回った結果、現政権の支持がどれほど低く、自分の政界復帰がどれほど望まれているかが分かったと明言した。彼は「政権の座にある犯罪人一味」、「マフィア体制」を下すために大統領選に立候補することを決意した。

初代大統領が対抗勢力に

 政権の完全な統制下にあるメディア全体から無視されたテル=ペトロシャンは、体制を批判し、自分の考えを表明する場として、公開の集会を何度も開催した。彼によると、政権による最大の犯罪は、ナゴルノ・カラバフ問題解決のために10年間何もしなかったことである。この解決なくして、アルメニアのまともな発展は望めない。彼は、かつて自身の失脚の原因となった妥協論に言及して、それが今や困難に、ひいては不可能になりつつあると述べる。「アゼルバイジャンは、油田の開発が進んでいるために、ますます割譲に応じようとしなくなるからだ」

 親トルコ的な姿勢ゆえに政府系メディアから「レヴォン・エフェンディ(トルコ語で「先生」の意)」と呼ばれる彼は、オスマン・トルコ帝国時代の1915年のアルメニア人虐殺という極めてデリケートな問題について、次のように立場を明らかにした。「ロベルト・コチャリャンと違って、私はこの問題をアルメニアの対外政策の要には適さないと考える」。そして「トルコはいずれアルメニア人虐殺を認めざるを得なくなるが、それには外交正常化と善隣友好が必要だ」と語った。さらに踏み込んで、アルメニア人は被害者意識を持ち続けるというかねてからのコンプレックスを脱却すべきだとも発言した。さもなければ、アルメニアは近代国家になれないだろうと言う。

 テル=ペトロシャンの集会での発言は、国内各地に配布された数千枚のDVDやユーチューブに流された多数のビデオを介して広まり、コチャリャン=サルキシャン連合に対する紛れもない宣戦布告の様相を帯びた。彼は1999年10月27日の虐殺事件に触れて、「不正と犯罪にまみれたアルメニア現体制の一元的なピラミッドは、カレン・デミルチャンとヴァズゲン・サルキシャンの悲劇的な死なしには存在し得なかった」として、次期大統領の重要な任務は、この悲劇の黒幕を探すことだと述べた。

 国民が小声でささやき合っていることを大声で唱えたテル=ペトロシャンは、とりわけ「あらゆるレベルで汚職が社会を蝕んでいること」と、政権と財閥が「情け容赦なく略奪を行ない」、アルメニア経済の最も収益の高い部門を分け合っていることを糾弾した。数ヵ月のうちに、この元大統領は弁論の力だけで、とくに若者たちの間に対抗勢力を作り出すことに成功した。大統領選の結果に対して、3月1日に流血の弾圧に遭うまで11日間にわたり、大規模な平和的抗議デモが続いたのはそのためだ。

 こうした彼のカリスマ性に対し、図らずも賛辞を送ることになったのが、強大な影響力を持つ検事総長アグヴァン・オヴセピャンの発言だ、彼が群衆を文字通り「催眠術」にかけたとして、魔女裁判もあり得るとすごんだのだ。

 大統領選挙を前に国民の抗議行動が高まるなかで、政権にとっては、決選投票にもつれ込むことなく第1回投票で勝利を決めることが絶対に必要となった(5)。不正を広げ、威嚇を強化するために、あらゆる手段が用いられた。しかし意外なことに、欧州安全保障協力機構(OSCE)の選挙監視団は、広範な不正を指摘できなかった。あるいは指摘したがらなかった。選挙監視団は、「若干の違反」があったものの、選挙結果に影響を与えるほどではないとした。ここ10年間、選挙のたびにOSCEが用いてきた曖昧な常套句だ。奇妙なことにOSCEは、選挙民主主義へと向かうアルメニアがこれまでに実現した若干の進歩に水を差すようなことは控えるべきだと主張している。

 選挙結果に疑義のある新大統領の下で、アルメニアは混乱と不安定の時代を迎える危険がある。テル=ペトロシャンが作り上げたと自負する「もはや恐れを知らない市民社会」は、簡単に引き下がりはしないだろう。サルキシャン大統領は、どうやら一筋縄ではいかない新たな対抗勢力を相手に、実りある対話を行なう如才なさと思慮深さを持っているだろうか。

(1) 非常事態宣言は3月20日に解除されたが、かわりに政治的な集会とデモを実質的に禁止する法律が施行された。
(2) See << Un "coup" pour rien en Armenie >>, Le Monde diplomatique, December 1998.
(3) ジャン・ギュエイラス「アルメニアはアゼルバイジャンとの紛争を解決できるか」(ル・モンド・ディプロマティーク2001年3月号)参照。
(4) 2001年に副検事総長に降格されたガギク・ジャンギリャンは、2月19日の大統領選挙の公正さに疑念を抱いたかどで解任され、その直後に「無認可の武器所持」を理由に拘束された。外務副大臣と4人の高級外交官を含む複数の政府高官も、テル=ペトロシャンを支持したせいで解任された。
(5) 選挙管理委員会は、サルキシャンが52.9%の得票率で当選したと発表した。テル=ペトロシャンは21.5%で第2位だった。


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2008年4月号)

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