ケニア政情不安の深い根

ジャン=クリストフ・セルヴァン(Jean-Christophe Servant)
ジャーナリスト

訳・日本語版編集部

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 「平穏に進行した」と在ナイロビ米国大使マイケル・レーンバーガーが語った2007年12月27日の「歴史的な選挙」から3日後、ケニアは火を噴いた。現職大統領ムワイ・キバキの勝利という明らかに不正のある選挙結果が発表されると(1)、あちこちで衝突事件が起こり、死者も出た。死者の数は700人を超える。「けしかけられた若者グループの暴行が、国民を恐怖に陥れたものだ」と、研究者のエルヴェ・モプーは語り、民族間の対立だとする一面的な見方を否定した(2)。警察が「射殺」を許可されていたことも、大量の犠牲者が出た一因だ。

 東アフリカの平穏きわまりない国でこんな事件が起こることを誰が想像しただろうか。欧米の大衆の想像を絶していることは確実だ。彼らにとって、この運命の選挙を迎えるまでのケニアのイメージと言えば、ピーター・ビアードの写真作品と『ライオン・キング』の風景の間をたゆたう夢のような「広大な空間」だっただろう。フランスのテレビ局TF1では、ケニアと言えば、男子禁制を決めた30人ほどのマサイ族の女性が暮らすトゥンガイ村のことだ(3)。素敵なフェミニズムに彩られた悠久のアフリカの美しい物語。これはグラビアにも仕立てられ、ケニア観光局の予算を逃すまいとするヨーロッパの雑誌に掲載された。

 しかしながら、動物保護区のバンガローやインド洋沿岸のホテルなど、年間100万人以上を呼び込んでいる観光施設は、現実とかけ離れた「別世界」でしかない。周辺諸国(エチオピア、スーダン、ソマリア、ウガンダ)だけのことと思われていた熱病は、2007年の成長率が6%、6年間で株価が800%以上も高騰し、大陸の花園、「アフリカの繁栄と安定のモデル」として国際金融機関に絶賛されていたケニアにも、同じように潜んでいたのだ。

 首都ナイロビのビジネス街から2キロ足らずのところ、150ほどあるスラム街では、社会問題の時限爆弾がかちかちと時を刻んでいた。この場末地帯は、サハラ以南アフリカで最も大規模で、かつ最も爆発の危険が高い地域として知られている(4)。ナイロビには2万人の外国人が住んでおり、人道活動(国連機関や国際NGOの地域本部)、報道活動(外国人記者がアフリカで最多)、経済活動(100社ほどの多国籍企業が東アフリカ新興市場攻略のための後方基地として活用)が集結している。このケニアの首都にも、暴力は潜んでいた。

 事件の直後、コロンビア大学教授のジャクリーン・M・クロップは指摘した。「植民地時代から、ケニアの歴史は暴力と抑圧の歴史だった。(・・・)エルドレト、モロ、ナロクなど、暴力事件が起きた場所の多くは、1992年と1997年の選挙の時も衝突があった。この時に移住を余儀なくされ、貧しさと身辺の不安を抱えて暮らしてきて、今回また被害に遭ってしまった人も多い(5)

 2007年秋、野党候補のライラ・オディンガが各種調査でトップに立っていた頃のケニアは、流血の夏がようやく終わろうとしていた。ナイロビのスラム街は、2006年にチャンガー(伝統的な密造酒)の闇取引の仕切りをめぐって、「タリバン」と呼ばれるルオ族の民兵団と、「多数」を意味する「ムンギキ」の名で知られるキクユ族の民兵団が交わした死闘にまだ揺れており、町中での処刑が相次いだ。手を下したのはクウェ・クウェ隊という政府の特殊部隊だ。この死の部隊は、ムンギキのメンバーと見たスラム街の若者に手当たり次第に発砲し、500人近くを殺害した。ムンギキの狼藉は、ケニア人権委員会によって糾弾され、ナイロビの治安の悪化の元凶だと全国的に報じられた。そして、スラム街に集住する60%のナイロビ住民が、大統領の出身民族であるキクユ族に対する恨みを募らせる原因となった。

政界の2人の首領の争い

 同じ頃、エルゴン山とケニア山のふもとにあり、1990年代初めの農地問題と強制移住問題が(6)、農耕を主とする多数派のキクユ族と牧畜を主とする少数派のカレンジン族の間に禍根を残していたリフトヴァレー州では、「有力な政治家たちに操られた」民兵が「住民を恐怖に陥れていた。その目的は、暴力による不安定化を引き起こして、地域住民の政党支持と民族構成を変えてしまうことである(7)」。そして2007年の秋が来て、不正行為が行なわれているとの噂が広がった。76歳の現職大統領が行政「改革」を進め、支持の多そうな地域に投票所を増設しているという噂だ。選挙管理委員会は、一部の委員を入れ替えるという措置をとった。

 先の大統領選は、40年にわたって争ってきたケニア政界の2人の首領が、「個人資産に物を言わせつつ、ずうずうしくも民族対立に見せかけた複雑な集合と離反の」システムを舞台として(8)、最終決戦に挑んだものであり、賄賂とカネにまみれていた。大統領選の候補者は全員、選挙管理委員会の前で、暴力に訴えることはしないと確約する行動規範に署名した。しかし、悲劇はすでに始まっていた。悲劇が起きることになるのは、「貧富の溝が拡大し、貧困が悪化するなかで、失望から蜂起が起きる(9)」という類型にぴたりとはまるような選挙区だった。過去に暴行を働いた連中は、罪に問われないことを確信して、キバキ陣営あるいはオディンガ陣営の立場で活動を再開し、裏工作に乗り出した。膨れ上がった期待と怒りの間で気持ちが揺れる国民に、カネを配り、怨恨の毒をばら撒いたのだ。

 人々は貧困化し、暴力行為の犯人は罪を問われず、確執が政争の具とされ、若者はストリートに投げ出される。これらを見ると、ケニア危機の源は、2007年末に続々と報じられたこととは違って、1994年のルワンダ危機よりも1990年代末のコートジヴォワール危機に似ているように思われる。ナイロビが英語圏の東アフリカの中で果たしてきた役割は、アビジャンがフランス語圏の西アフリカの中で果たしてきた役割と同様、地域の十字路だ。また、ナイロビの外国人コミュニティの大半は、アビジャンのプラトー地区やココディ地区にいた外国人と同様に、警護された高級住宅に閉じこもり、起ころうとしていることに目をつぶり、口をつぐむ道を選んだ。やがて、危機の本当の姿が明らかとなる。それは、持てる人々と見捨てられた人々との対立、「満ち足りた政治エリートと悲惨なケニア国民」との対立だ(10)

 キバキは、自分の出身民族であるキクユ族の貧困層から拒否されている。彼らは憲法改正に関する2005年11月22日の国民投票の時と同様に、ルオ族のオディンガの呼びかけに応じて、キバキに反対の票を投じることも辞さなかった(11)。大統領は2003年から2005年の2年間で、変化を期待したすべての人を失望させた。汚職対策委員会の創設や、24年間にわたるモイ政権時代の人権蹂躙に関する真実和解委員会の創設など、正義を回復するという約束は反故にされた。反汚職委員会に「君臨」したジョン・ギソンゴは、有罪の者を罰することもできないまま、2005年2月にロンドンへの亡命を余儀なくされた。2002年のキバキ勝利の立役者と見られていたオディンガが、大統領と同じキクユ族が主流を占める連立政権からの離脱を決意したのは、このタイミングでのことだった。62歳のオディンガは、抜け目のない百戦錬磨の利権屋であり、その「デマゴーグとしての政治的経歴は、とうてい無実とは言いがたい(12)

 キバキの顧問たちと同様、オディンガの顧問たちも、怪しげで火種になりそうな輩に見える。例えば、オディンガが勝てば副大統領にすると約束されていたムサリア・ムダヴァディ。モイ政権で財務大臣の職にあり、超弩級の公金横領スキャンダル、ゴールデンバーグ事件に関与した(13)。あるいは、あのリフトヴァレー州のカレンジン族の実力者、ウィリアム・ルト。モイ大統領の与党だったケニア・アフリカ民族同盟(KANU)青年部の代表として、1990年代初頭に頭角を現した。1992年の選挙でモイ再選を確実にするために、ケニア中央銀行が発行した紙幣、数億シリング(数億円)を個人的に流用した。オディンガの広報担当顧問の一人、米国人ディック・モリスの経歴もまた胡散臭い。2004年11月にウクライナの「オレンジ革命」もどきを演出した人物だ。彼はケニアの選挙戦の終わる前に、大衆の圧力によって解雇されている。

最大野党なき超党派内閣

 民主化の途上にある時期は、暴力的な緊張の危険が最も高まるものだ。急速に進むグローバリゼーションへの迅速な適応を強いられる場合はなおさらだ。キバキ政権の5年間は、国民の50%が1日2ドル未満で生活する社会における貧富の亀裂を深めた(14)。モンバサ、ナイロビ、キスムのスラム街では、グローバリゼーションの生き証人であり除け者でもある若者たちが細々と暮らしている(大半が40歳に満たない)。彼らは、この貧しい地区を取り仕切る底辺取引の、時には主役、大方は観客を演じている。ストリートの用心棒、ショバ代の巻き上げ、公共交通機関への恐喝、盗電、数少ない便所の縄張り化などだ。ナイロビのスラム街でキクユ族の若者を対象にフィールドワークを行なった社会学者のアウィンダ・アティエノは、選挙の直前に不安を口にした。「ムンギキは選挙時の一時的な熱病の症候にすぎず、何かもっと大変なことの荒々しい警告というわけではない。ケニアへの愛情から、そう思いたい(15)

 暴動後にケニアに派遣されたジェンダイ・フレーザー米国務省アフリカ問題担当次官補は、キバキとオディンガに対し、「ケニアの政体を強化するために、力を合わせて目前の問題」を解決しようと呼びかけた(16)。ケニアは米国の重要な戦略的パートナーとして、二カ国間援助で2007年には5億ドル以上を受け取っており、「アフリカの角」地域に跋扈するテロに対する米国の闘争において、前方拠点と位置付けられた国である。米国が設置を予定しているアフリカ軍司令部の受け入れ候補国の一つでもある。そして、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、スーダン南部、コンゴ東部にとっては海への出入り口となっているケニアの不安定化は、ただでさえガソリンと必需品の高騰によって打撃を受けている東アフリカの内陸諸国に波及して、これらの国々の経済の弱体化に影響を与えている。

 オディンガのオレンジ民主運動(ODM)は、すでに国会では多数派を占めている。1月7日にキバキが任命した小規模の超党派内閣の陣容は、昔から政権中枢にいた怪しげな政治家だらけである。内務大臣のジョージ・サイトティは、これまたゴールデンバーグ事件に関与したため、2006年に教育大臣を辞任せざるを得なかった人物である。エネルギー大臣に返り咲いたキライトゥ・ムルンギが2006年に辞職に追い込まれたのも、別の汚職事件、アングロ・リーシング・ファイナンス事件(17)に関する調査を妨害したからだった。

 キバキは現在の危機を矮小化しようと躍起になっている。彼は内閣の間口をもっと広げると約束したが、「オレンジ派」野党は入閣を拒否している。ケニアは統治不能に陥っている。誰もが窺っているのは、いつ破れるともしれない静けさが支配するストリートの状況だ。

 「2頭の象がサバンナで戦えば、苦しめられるのは草だけだ」というキクユの有名なことわざがある。ジャクリーン・M・クロップは次のように指摘する。「今度こそ、正義がなされることを求めるべき時です。過去の過ちを繰り返してはなりません。さもなければ、ケニアの民主化に向かう脆い道に、またひとつ障害物を増やしてしまうことになるでしょう」

(1) 同じ日に開催された国会議員選挙は、大統領選挙と違って大過なしと認定された。全222議席のうち、対立候補のライラ・オディンガが率いるオレンジ民主運動(ODM)が99席を獲得したのに対して、キバキの国家統一党(PNU)は43議席にとどまる。つまり大統領は法案を通すのに、現内閣には正統性がないと考える半数近い議員を相手にしなければならない。
(2) << Les tueries au Kenya surpassent les ethnies >>, Le Soir, Bruxelles, 2 January 2008.
(3) TF1が2007年11月11日に「7時から8時」中で放映したルポルタージュ『男子禁制』。
(4) See << Jeunes Kenyans entre derive mafieuse et revolte sociale >>, Le Monde diplomatique, January 2005.
(5) << Impunity and violence in Kenya >>, Review of African Political Economy, London, forthcoming.
(6) 独裁者ダニエル・アラップ・モイの政党たるケニア・アフリカ民族同盟(KANU)は、24年間に及ぶ政権の後、汚職と暴力的な抑圧(ルオ族やキクユ族の反体制派の殺害)を背景として、2002年にキバキの「虹の連合」に敗れた。
(7) << Deadly militiamen : The untold story >>, The Daily Nation, Nairobi, 9 April 2007.
(8) Jean-Philippe Remy, << Les demons liberes du Kenya >>, Le Monde, 4 January 2008.
(9) Paul Rogers, Losing Control : Global Security in the 21st Century, Pluto Press, London, 2002.
(10) Michela Wrong, << How Kenya lost its way >>, The New Statesman, London, 3 January 2008.
(11) 憲法改正に関する国民投票では、多数のキクユ族が、オディンガの野党の主張する「否決」が56%超を獲得するのに貢献した。
(12) See Gerard Prunier, Liberation, Paris, 15 January 2007.
(13) ケニアは1990年から1993年の間に、金とダイヤモンドの輸出補助金だとされた怪しげな支出により、6億ドルを失った。
(14) Jean Marc Chataigner and Herve Magro (eds.), Etats et societes fragiles. Entre conflits, reconstruction et developpement, Karthala, Paris, 2007.
(15) Awinda Atieno, << Mungiki : "Neo Mau Mau" and the prospects for democracy in Kenya >>, Review of African Political Economy, No.113, London, Autumn 2007.
(16) Agence France-Presse, 7 January 2008.
(17) この架空企業は2004年にケニア政府当局から、契約(偽造不能なパスポートなど)の代金として数億ドルを受領したが、契約が履行されることはなかった。


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2008年2月号)

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