フェルナンデス政権の発足

カルロス・ガベッタ(Carlos Gabetta)
ル・モンド・ディプロマティーク南米版編集長、ブエノスアイレス

訳・近藤功一

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 1983年12月10日、軍事独裁制に終止符が打たれたアルゼンチンで、アルフォシンが大統領となった。24年後の12月10日には、キルチネル大統領の妻であり、女性で初めて最高権力者に選出されたフェルナンデスが、同国の大統領に就任する。この出来事は、アルゼンチンの民主制が歩んできた道のりに思いを馳せ、その激動期を振り返る契機となるだろう。[フランス語版編集部]

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 2001年12月。アルゼンチンは深刻な危機に瀕していた。デ・ラ・ルア大統領は、民衆の圧力によって辞任に追い込まれた。そこから数えて(1カ月で4人の交代を経た後に)5人目のドゥアルデが、暫定政権を担った。ドゥアルデは2003年に大統領選を実施し、キルチネルが選出された。

 この2001年末の危機は、アルゼンチン民主制の強化の歴史の中でひとつの転機となった。対外債務は1983年以来4倍に膨れ上がり、180億ドルを突破、アルゼンチンは国際的にデフォルト状態に陥り、中央銀行の外貨準備は底をついた。市中銀行は顧客の預金を封鎖した。経済は麻痺寸前であった。

 1990年代を通じて、国営企業だけでなく油田やガス田も民営化し、ただ同然で売却したアルゼンチンは、新自由主義の優等生とみられていた。しかし国民の60%近くの生活水準は貧困ラインを割り込み、20%の国民は赤貧にあえいでいた。汚職や犯罪の指標は頂点に達していた。

 キルチネル大統領が行ったのは、ゲームのルールを変えることだった。対外債務の一部破棄を通告し、期限繰り延べを交渉した。国際通貨基金(IMF)の圧力などどこ吹く風だ。そして「ミラクル」が起こった。2003年以降、成長率は年間平均8%、財政は黒字化し、中央銀行の外貨準備は500億ドル近くに達した。好転をもたらした要因は、通貨ペソの切り下げ(ドゥアルデ時代に可決)、自国産品(農業、牧畜、エネルギー)に関わる国際相場の好転、産業振興策を基礎とした経済政策、そして社会問題への配慮だった。こうした政策は、危機の根幹を変えるものではなかったにしても、国民の生活条件を著しく改善した。

 2007年10月、弁護士で昔からの活動家、キルチネル大統領の妻であるフェルナンデスを選出したのは、その継続を求めるという有権者の意思表示だ。こうした変化の方向性を引き継ぐことを新大統領は公約した。これが、流血の軍事クーデタと政治社会危機の相次いだ約1世紀を経て、民政復帰24周年を迎えようとしているアルゼンチンの現状である。

 新自由主義の枠組みからゆっくりと脱出するにつれて、根本的な変革がもたらされた。20世紀を通じてアルゼンチン政治を牛耳ってきた3大勢力、軍部、急進党、ペロン党は、もはや存在しないか、解体の途上にある。

 軍部は1世紀にわたって、武力による調停役を自任した。アルゼンチンの軍事独裁制は、3万人の行方不明者の血の海を置きみやげとした。軍政は、早くも1976年に新自由主義への転換を主導しただけでなく、1982年にはフォークランド諸島に侵攻し、イギリス軍に蹴散らされるというお粗末をしでかした。

 19世紀末に創設された急進党(正式には急進市民連盟)は、民政移管期(1983年12月から89年7月)のアルフォンシン時代から崩壊の兆しをみせていた。大統領が場当たり的に政権を運営し、軍部の圧力への対抗が困難となってきたことで、党は弱体化した(1)。新自由主義路線を継続したデ・ラ・ルアが辞職に追い込まれた2001年、急進党は活動を停止した。

 ペロン党(正義党)は、メネム大統領(1989年から99年まで在任)の失脚の後、信用の失墜と党内の分裂で壊滅状態となった。メネム政権の新自由主義への肩入れは激しく、アルゼンチンとブッシュ(父)時代のアメリカは「肉体関係」にあったとディ・テラ外務大臣が言い放ったほどだ。

どういうモデルを目指しているのか

 アルゼンチン政界の再編は、ペロン党のフェルナンデスが選出された今回の大統領選をみれば明らかである。彼女に投票したのは、最近キルチネルによって創設された政党、「勝利戦線」に結集した草の根のペロン主義者たちだった。急進党は、ドゥアルデ時代に経済大臣を務め、同じくペロン主義を奉ずるラバーニャを候補に立てた。幾人かの有力幹部が取り仕切るペロン党の本流は、「正義・団結・自由戦線」という旗印を掲げたが、汚職体質は変わっていなかった(2)

 急進左派政党(毛沢東主義、トロツキー主義、共産主義)や急進右派政党(クーデタ主義、新自由主義)は、もはや象徴以上のものではなく、エキストラ的な役割しか果たしていない。社会主義者と自由主義者は、四分五裂したうえに混ざり合っている。社会党は、7月に初めてサンタフェという重要な州で議席を獲得したが、2派に割れている。今回の選挙で、キリスト教自由主義派はカリオを候補者とする市民連合(副大統領候補は社会主義者のジウスティニアーニ)を支持し、社会民主派はフェルナンデスを支持した。

 計算からか確信からか、フェルナンデスは立候補を表明するとすぐさま、ペロン主義のしきたりを退け、夫が始めた路線を踏襲した。お決まりのシンボル、延々と続く演説、そしてとりわけ縁故主義はお払い箱にした。それらを知る昔の世代はうんざりするだけだし、若い世代には何の感興も呼び起こさないだろうと確信したからだ。女性で初めて民主的にカサ・ロサーダ(大統領府)入りするかもしれない候補というだけでも、興奮をかき立てる要素だが、彼女はそれ以上の新しさを体現しようとした。選挙で押し立てたスローガンは「変化は始まったばかり」である。

 フェルナンデスは、左派に対しては、自分の目指す経済モデルは国家の強力な関与によって穏当化された資本主義であると言い切った。右派、特に企業経営者に対しては、自分の関心と責任は何よりも社会的な政策にあり、新自由主義への逆行はあり得ないことを了解させようと努めた。

 彼女の提案の基本は、2つのポイントに集約される。ひとつは立憲民主国家を再建すること、もうひとつは国家を調停役として資本と労働の間の「制度協定」を創設することだ。この協定は「社会経済建設モデル」であり、「1990年代の新自由主義時代に席巻した経済に対する、また資源と富の再分配経済モデルに対するアンチテーゼ」であるという(3)

 フェルナンデスは権力の分立を尊重すると公約した。実行できるのだろうか。そのためには、前任者のように大統領令や「臨時恒久」権限を使って統治することがあってはならない。キルチネルの場合、異常な危機の状況下で責務を果たさなければいけないという事情もあった。フェルナンデスがそうしたことはやめると明言したのは、期待を持たせる新風だ。彼女は「立憲民主国家の再建はマイナーな問題ではない」と宣言している(4)

追い風もあり、暗雲もあり

 彼女が「経済社会モデル」と名づけた企業・労働者・国家のトライアングルは、ペロン主義のかつての基本理念を思わせる。状況や時代によって成功あるいは失敗を重ねながら、この基本理念の実施は何度も試みられてきた。第2次世界大戦後のペロン時代には成功を収めたが、彼が1973年に再開を試みたときは失敗に終わった。そしてアルゼンチンは政治的暴力の時代に入り、ペロンの死によって危機的状況に陥って、1976年にクーデタが起こることになる。

 もしフェルナンデスが国家と政界を健全化できた場合には、彼女がその「経済社会モデル」を実現化した手法は注目に値することになる。というのも、1973年とは違って、結託できるような革命左派勢力あるいは大衆運動は、ペロン主義の内部にも外部にも存在しないからだ。1970年代にはかなり強力な組織として、国営企業の指導役を自任し、ブルジョワ層の組織化に先鞭をつけた経済総連盟(CGE)には、もう国家運営に影響を及ぼすような力はない。フェルナンデスが提案しているモデルに首を突っ込もうとする労働組合は、ごくわずかな例外を除いて、マフィア的で汚職に満ちた権威主義的な組織、つまり信頼できない組織を束ねているにすぎない。経営者については様々な有力機関があるが、それらは相互に両立せず、さらには対立する利害を持っている(5)。それに最近では、国際化の中で企業集中が大きく進展しているためもあり、フェルナンデスの構想は一筋縄ではいかないおそれがある。

 「立憲民主国家の再建」を実現するためには、抜本的な政治改革や新しい立法、そして真の文化変革が求められる。他方、「経済社会モデル」の実現には、独占の終焉、同業者団体への支援、規制の確立、そして中長期的な目標の明確化が必要となる。これらはどれも根本的な社会変化を伴うものであり、強い抵抗が予想される。

 フェルナンデスは健全化が多少は進んだ状況下で、国際的な経済環境も追い風となるようなタイミングで大統領に就任する。しかし、インフレ、エネルギー資源危機(アルゼンチンの石油とガスはあと10年ももたない)、国際金融危機といった暗雲も立ち現れている。

 ベネズエラのチャベス大統領らが推進する南部共同市場(メルコスル)、南部銀行、南部ガスパイプラインなどの地域協力構想に対し、アルゼンチン政府はこれまでのところ、明確な政策を示していない。キルチネル大統領の政策は、手探りと決断力のなさ、時には苛立ちの繰り返しで、明確に腰が据わっていたというよりも、ほとんど常にその場の思いつきに終始していた。11月にチリのサンティアゴで開催された南米首脳会議は、地域協力には豊かな潜在性がある一方で、課題も山積みだという現状を明らかにするものだった。

 市民社会は、フェルナンデス政権が公約を実施するかを見守っている。市民社会が期待しているのは、国家機構の強化、共和主義的な国家運営、社会の結束の強化、そしてより良い発展のあり方、つまり富の再分配、企業基盤の強化、汚職の徹底的な根絶だ。民間部門でも公共部門でも、口利き料などの便宜供与は問題の一角でしかない。価格の二重表示、水増し請求、税金逃れ、各種の投機的取引は、多国籍企業はもとより、どの企業でも日常茶飯事になっている。有権者が失望した場合には、アルゼンチンは政治的、社会的な動揺に舞い戻るおそれがある。

 フェルナンデスは45.7%の得票で首位に立った。そのほとんどは浮動票か「よりまし」な候補を求めての投票だった。彼女は有権者の半分足らずを代表するにすぎない。とはいえ、無能力と背信に明け暮れた時代は終わり、市民社会の大部分の願いと一致する政治刷新ムードの中で、また地域で吹いている風の向きに沿って、彼女は大統領の仕事を始めることになる。しかもフェルナンデス政権には、劇的な状況下で統治に当たったキルチネル時代と比べて、政策のより大きな自由度がある。かつてアルフォンシンは、新大統領が直面している課題で躓き、メネムとデ・ラ・ルアはごり押しとぺてん、ちょろまかしで乗り切ろうとした。彼女にやり遂げる力があるだろうか。移り気で酔いにくいアルゼンチン社会は、彼女についていくだろうか。

(1) アルフォンシン時代には、軍事政権の関係者に対する裁判が開始されている。国際的に大きな反響を呼び、厳しい量刑が下された一連の裁判は、模範的なものだったと言われ、よくニュルンベルク裁判と比較された。しかし、その後に軍部の圧力で中断され、新たな訴追を封じることを目的とした「訴因時効法」や「義務服従法」が制定されることになる。
(2) 正義党は執行部の選出に不備があったために裁判所より「凍結」を言い渡された。
(3) 2007年7月20日にラ・プラタで行った立候補確認演説。
(4) 同上。
(5) そういった機関としては、アルゼンチン農牧協会(SRA)、「大資本」を代表するアルゼンチン工業連盟(UIA)、アルゼンチン農業連合会(FAA)、中小企業の利益を擁護する中小企業会議(APYME)などがある。


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2007年12月号)

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