ベルギー総選挙から5カ月、組閣はなぜ難航しているのか

ヴァンサン・ド=コールビテール(Vincent de Coorebyter)
社会政治研究・情報センター所長、ブリュッセル

訳・三浦礼恒

line
 2007年10月、キリスト教民主フランデレン党のイヴ・ルテルム党首が、ベルギー次期内閣の組閣担当者に再び任命された。同年6月10日の総選挙以降、彼はオランダ語系政党とフランス語系政党との連立を協議したが、最初の協議は不調に終わっている。両者の対立の最大要因は、連邦国家の新たな改革の方向性にある。フランデレン側は自治権拡大、さらには独立を主張しているからだ。[フランス語版編集部]

line

 2007年6月10日に国政選挙が行われたベルギーの情勢に、世界中が固唾をのんでいる。新たな体制変革をめぐる政党間の対立によって、組閣が止まってしまっているからだ。ベルギーでは、既に1970年から2007年の間に、5度にわたる改革が実施されている。この国は、オランダ語系とフランス語系の軋轢によって引き裂かれ、制度改革に狂奔しているのかと考えたくもなる。ベルギーという国は、その機構の大掛かりな改革を常に目指しているように見えるからだ。

 しかし、現実はもっと微妙だ。既に5回もの改革が行われている。ベルギーは、建国当初の区割りに由来する言語問題の解決に1世紀以上をかけた後、単一国家から連邦国家へと向かう道のりを一歩一歩、慎重に歩んできたのだ。

 ヴェルサイユ条約によって併合された二つのドイツ語系地区を別にすれば、ベルギーは二つの言語共同体に大別される。一方はオランダ語(フランデレン語)系であり、ベルギーの北半分を構成するフランデレン地域、およびブリュッセル圏の一部から成る。もう一方はフランス語系であり、その大半はベルギーの南半分を占めるワロン地域に住むが、ブリュッセル圏に住む者も多数いる。このようにフランデレンとワロンを南北に分かつ「言語境界線」は、公式には近年の改革で設定されたものだが、長年にわたって明らかな事実であった(1)

 1830年の建国時、ベルギーは中央集権的な機構を整え、フランス語を唯一の公用語とした。国民の半数を占めるフランデレン系は、新国家の国語が母語ではなかったため、行政や司法、軍隊などとのやり取りで困難をきたすようになった。しかもフランデレンでは、ある種の集団だけが流暢にフランス語を操った。フランス語が政治的・社会的エリートや大地主、企業経営者たちの言語だったからだ。1840年に開始されたフランデレン運動の闘争には、二つの原動力があった。一つは、オランダ語にもフランス語と平等な権利を認めさせること、もう一つは、社会的支配を象徴する言語を話すエリート層に対抗して、フランデレン系住民としてのアイデンティティと尊厳を確立することだ。

 オランダ語系住民は徐々に認知を獲得し、その一方で目指すべき体制をなかなか提示できずにいたが、ここで詳述する余裕はない。以下では過去の経緯から、現在の問題を理解する一助となる三つのポイントを挙げておこう。

 第一に、フランデレン運動とフランス語系住民との軋轢において、フランス語系住民は長いこと言語問題の存在を否定し、自分たちが支配力をふるっていることを認めようとしなかった。第二のポイントは、逆の方向の紛争が生まれたことだ。フランス語系の間には、オランダ語系が権利の平等を求めるだけにとどまらず、自分たちをフランデレン地方から一掃し、ブリュッセルに封じ込めようとしているのではないか、という感情が広がってきた。とりわけ、1968年にルーヴェン・カトリック大学のフランス語系学部がフランデレン地方から追い出された事件が禍根を残している。三つ目のポイントとして、言語境界線が設定され、フランデレン地域内の言語的な同質性が高まったことが、オランダ語系住民にとって不可逆的な既得権と見なされており、それが地域内の飛び地であるブリュッセルの地位を圧迫しているという現状がある。

 以上のポイントだけで連邦化というベルギーの変容が解明できるわけではない。ベルギーの連邦制では、立法権と行政権の一部が連邦構成体に委ねられ、連邦構成体はそれぞれ画定された領域内で独自の政策を行う。このベルギーの連邦制の特色は、独立した複数の国家が統一されたわけではなく、国内の分化に応じて構築されてきたという点にある。そうした分化は、言語問題の解決に長期間をかけた後も、進行を続けている。

 ベルギーの連邦化は、二つの主要な要求に対応している。オランダ語系住民は、文化や市民団体、教育、介助のように言語が関わってくる分野の政策について、フランデレンとブリュッセルにおける自治権を要求した。フランス語系住民の要求は、1960年以降のワロン地方の状況変化に呼応したものだ。

 それまで、ワロン地方はベルギーの最重要工業地帯だった。ワロンがフランデレンに対する支配的な立場を失った時期は、言語をめぐる緊張が頂点に達しており、フランデレン系の政治家が国政レベルで進めた経済政策は、多くのワロン系住民の目にはフランデレン優遇策のように映っていた。ワロン運動は20世紀を通じて伸長し、独自の経済・社会政策を実施するための自治機構への志向を強めるようになった。運動の一翼を担っていた労働組合は、これを機構改革という言葉で言い表した。

ブリュッセルと言語境界線

 これら二つの要求は、別個ではあるが相互補完的であり、ベルギー連邦制の特異性の一面を明らかにするものだ。つまり、ベルギーには1種類ではなく2種類の連邦構成体があり、ベルギー全土は二重に分割されている。これらの連邦構成体は連邦政府との間で、立法権とそこから派生する権限を分有する。連邦構成体の第一は「言語共同体」である。オランダ語系、フランス語系、ドイツ語系の三つがあり、教育や文化、スポーツ、言語、社会・保健政策(ただし社会保障は除く)といった「形のない分野」の政策を担っている。第二の連邦構成体は「地域」である。フランデレン、ワロン、ブリュッセルの三つがあり、経済、住宅、交通、土地整備、環境といった「形ある分野」の政策を担っている。さらにブリュッセル地域の場合には、主要な二つの言語共同体がそれぞれ独自の政策を推進しており、学校教育と公共サービスはオランダ語もしくはフランス語で提供される一方で、両方の言語で公共サービスの事業企画や予算手当を行う特殊な機構も設けられている。

 ベルギーの複雑な連邦制は、双方の期待に応えたものであり、さらなる深化を促進するような様々な要因さえなければ、現状のまま安定する可能性もある。第一の要因は、ブリュッセルの地位の問題だ(2)。地理的に見ると、ブリュッセルはフランデレン地域の南部に埋め込まれた形になっている。人口統計的に見ると、ブリュッセルはフランス語系の町であり、オランダ語系は人口の8分の1を占めるにすぎない。多数のフランス語系住民が、ブリュッセルおよび同市の歴史的中心部を取り囲む行政区に集中するようになったのは、かなり最近のことだ。こうした人口変化に対して、フランデレン運動は反対闘争を繰り広げた。ブリュッセル周辺の新興行政区が、「油の染みのような漸進的浸透」を通じて、オランダ語圏ではなく二言語圏として公認されるに至るような事態は、フランデレン側としては回避したいからだ。

 1960年代初頭にフランデレン運動の主張が通って、言語境界線が設定されることになる。以後、ブリュッセル地域は19の二言語行政区だけに限定された。その周囲の行政区は公式にはフランデレン地域に属するが、ここにもフランス語系住民は住んでおり、多数を占めているところさえある。こうした現状の下、ブリュッセルとその近郊に住む多数のフランス語系住民は、首都に課せられた「制約」に不満を持っている。他方、オランダ語系の政治家たちは、ブリュッセル近郊のオランダ語地区の「フランス語圏化」を食い止めるための闘いを繰り広げている。

 最大の争点の一つが、ブリュッセルとその近郊の一部(ハル・ヴィルヴォールデ地区)にまたがる二言語併用の選挙区および裁判区の分離というオランダ語系の要求だ。もし分離が実施されれば、ハル・ヴィルヴォールデのフランス語系住民は、選挙および裁判に関連する現行の権利の一部を失うことになる。フランス語系政党は対抗案として、二言語地域ブリュッセルの拡大を打ち出したが、オランダ語系政党が受け入れるはずもない(3)

 もう一つの不安定要因は、ベルギー連邦制の第二の特徴のうちにある。法の規定によるわけではなく、事実として存在するものだが、まさに決定的な特徴だ。それは、1970年代に始まる政党の分裂である。ほとんどの政党がオランダ語系とフランス語系の独立政党に分裂し、その後に環境政党が誕生した時も二つの別々の政党が結成された。

 このように組織された諸政党は、有権者の半数に対してしか説明責任を負わず、オランダ語系政党ならオランダ語系住民、フランス語系政党ならフランス語系住民の関心事を第一に取り上げる姿勢を強めている。さらに、ベルギーの政党は、言語の違いを超えてイデオロギー的に近い政党と交流するよりも、オランダ語系同士、あるいはフランス語系同士で交流を深めている。というのも、それぞれの連邦構成体での政治家の仕事は、フランデレンあるいはワロンの政策を日々練り上げることにあるからだ。

 確かに、オランダ語系とフランス語系の政党は、連邦政府レベルでの協力を維持しているが、以前に比べてやりにくくなっている。というのも、政治的な重心がそれぞれ異なるところにあるからだ。つまり、フランデレンでは右派に、ワロンでは中道左派にある。例えば、ワロンでは社会党と環境政党がフランデレンの2倍の勢力を誇るのに対し、フランデレンでは極右がワロンの3倍の勢力を擁している。

 オランダ語系とフランス語系の政党が距離を置いているのは、目指している制度改革の方向が両者で異なっているからでもある。1993年の改革により、連邦化が確立され、地域および言語共同体に新たな権限が付与された(4)。フランス語系政党の多くは、それ以上の改革は望まなかったが、オランダ語系政党は、連邦構成体に重要な権限を新たに付与することを求め、制度改革に関する五つの決議案を練り上げた。これらの決議は1999年3月3日に公式に可決された。なかでも最も論争の的になり、賛成票が相対的に少なかった決議の一つは、社会保障の二つの部門(医療および家族手当)の分離に関するものだ。もう一つは、ブリュッセルの行政の一部を外部から、つまりフランデレン政府とワロン政府によって管理するというものだ。

制度改革のゆくえ

 フランデレンは今日、経済事情が他の地域とは異なるという心情から、こうした要求を再燃させている。三つの地域の経済は極めて対照的であり、そうした彼らの心情は随所に認められる。オランダ語系の政治家は、フランデレン運動と一部の経営者団体の後押しを受けて、フランデレンが直面する問題についての不安を口にする。彼らに言わせれば、それらの問題を解決するためには、経済・財政・社会分野などの政策を、フランデレン固有の特徴に即したものにする必要がある。

 そうしたフランデレン側の分析は、口が先立っているようなところもあるが、彼らの現在の要求の中核をなすものだ。フランデレン系政党の大部分は、テーマに応じて力点の置き方を変えつつ、フランデレン地域の権限拡大を求めている。対象分野は医療、家族手当、失業手当、法人あるいは個人が払う税金、鉄道の整備など、要するにフランデレンの繁栄の条件を形づくる分野である。そして、要求している自治権が与えられない分野に関しては、代案あるいは暫定措置として、連邦政府の決定への連邦構成体の関与を提案している。

 こうしたオランダ語系政党の要求は、フランス語系政党に不安を与えている。フランス語系政党によれば、オランダ語系政党の要求は、一定の社会保障給付を介した南北連帯的な財政移転を打ち切ろうとするものだ。言い換えれば、フランデレン地域のニーズと財力には適合するが、ワロン地域とブリュッセル地域のそれには適合しないものだ。フランデレンには、アントヴェルペン港の周囲に鉄道を整備したり、法人税を引き下げたりできる財力がある。それに対してワロンとブリュッセルは、住民も政府もそれほど豊かではない。

 以上のように、ベルギーは前代未聞の状況のうちにある。連邦構成体の自治権拡大に関する要求は、以前は両方の側から出されていたが、今ではフランデレン側だけから出されている。また、重要な要素として、労働組合はフランデレンへの権限委譲という要求に反対している。超自由主義的な政策に向けた地均しで、異なる地域の労働者を互いに競争させるための手段だと見なしているからだ。また、組合ほどではないが、財界にも反対の声はある。大企業にしてみれば、重要な規則が地域によって異なるような事態は避けたいからだ。

 ベルギーの連邦制は、周期的に再開される建設工事のようなものだが、現在の状況はなかでも特殊である。フランス語系政党は、じっくりと慎重に協議したいと望んでいる。同じ問題に関してオランダ語系政党は、自分たちの制度改革構想が先送りされることを懸念しており、改革案の概要を協定文書化することで、新内閣を拘束したいと考えている。そして、フランス語系政党もオランダ語系政党も、それぞれ民主的な正統性を有している。今回の選挙では、オランダ語系住民の25%が、ベルギーという体制の終焉を望む政党に投票した。また30%が、フランデレンの独立もしくはベルギーの枠組みにおける極めて広範な自治権の付与を求める政党連合に投票した。同じ選挙でフランス語系の主要政党は、現行制度の維持を訴えて、フランス語系住民の支持を得ている。

 とはいえ、これらの政党はお互いに意思の疎通に努めざるを得ない。というのも、ベルギーの連邦制は少数者を手厚く保護しており、なかでもフランス語系は人口の40%を占めているからだ。連邦内閣が下院において、フランス語系政党の多数、オランダ語系政党の多数という二重の多数派の支持を受けることは必須である。その一方で、数の上では多数派となるオランダ語系だけでは、制度改革法案を通すことができない仕組みも設けられている。したがって、事態を変化させるためにはオランダ語系とフランス語系の同意が必要で、双方の志向が異なる場合は組閣交渉が長期化することになる。

 決裂というシナリオもあり得なくはない。様々な社会集団がそれを望んでいる。特にフランデレン地域に多いが、ワロン地域にも独立あるいはフランスへの編入を求める声がある。政治危機が長期化し、例えばベルギーが統治不能になった場合には、袂を分かった方がいいという結論が出る可能性もあるだろう。だが、この国は過去に、長期にわたる緊張の後に大規模な協定を成立させるという経験を積んでいる。きたるべき制度改革は、連邦構成体だけでなく連邦の機構をも強化するという、前例のない方向性を目指すものになるのだろうか。それが、今日まだ答えが出ていない問題の一つである。

(1) ル・モンド・ディプロマティーク1995年8月号のベルギー言語区分地図を参照。
(2) See Pierre Pean, << La bataille de Bruxelles >>, Le Monde diplomatique, September 2002.
(3) 2007年11月7日、オランダ語系政党が過半数を占めるベルギー下院の内政委員会は、この地区の分離を決議した。それに対してワロン議会は、委員会決議に続く手続きを停止させる効力のある動議を可決しており、両者の対立が組閣交渉をさらに紛糾させることが懸念されている。[訳註]
(4) See Florence Beauge, << La Belgique en ses habits federaux >> , Le Monde diplomatique, February 1994.


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2007年11月号)

All rights reserved, 2007, Le Monde diplomatique + Miura Noritsune + Nimura Junquo + Saito Kagumi

line
表紙ページ 本紙の位置づけ 有志スタッフ
記事を読む 記事目録・月別 記事目録・分野別
メール版・お申込 読者の横顔
リンク(国際) リンク(フランス)