下院選挙を控えたモロッコのイスラム主義政党

ウェンディ・クリスチャナセン特派員(Wendy Kristianasen)
ジャーナリスト、在ロンドン

訳・岡林祐子

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 モロッコでは、来る9月7日の下院選挙が、大きな節目となるのは確実だ。多くのアナリストが、現在は野党に留まる穏健イスラム主義政党、公正発展党(PJD)の大勝を予測している。同党幹部の一部は、トルコのエルドアン首相率いる同名政党AKPに関心を寄せ、その成功に魅了されている。しかし、もし選挙でPJD圧勝という結果になれば、モロッコの孤立を招き、先行き不安に陥るのではないかと危惧する者も多い。[フランス語版編集部]

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 「アメリカは、我が国のイスラム主義勢力を鼓舞し、各地に招待している。我々はそれを少々迷惑に思っている」。政府の上層部から、このような不満が漏れ聞こえる。「アメリカはモロッコに対して、厚意とともに困惑を感じている。アメリカ政府は我が国の近代化推進を評価しているが、その一方で、我が国がすでに民主国家であるという事実は、アラブ・イスラム国家は民主化される必要があるとするサミュエル・ハンチントン(1)の所説の基盤を突き崩す。アメリカは、我が国が実現しつつある進歩を直視したくないのだ」

 昨年末に、今年9月7日の下院選挙でイスラム主義政党が圧勝するとの観測が相次いだことで、こうした不満はさらに強まった。この予測は現実のものになるだろうか。カサブランカやラバトの道端や乗り合いタクシーで、誰でもいいから「投票に行くつもりですか」と尋ねてみればいい。誰もがまず笑って、それからどことなく誇らしげにこう答えるのだ。「投票なんかに行くものですか。それが何の役に立つというのでしょう。政党はみんな似たり寄ったり、古くさい手法も同じ、路線も同じ。それに、どっちみち選挙には不正があるんです」。違う意見も若干ある。「とはいえ、PJDは他の政党に比べてましですよ」。PJDとは公正発展党、イスラム主義を掲げるモロッコ第3の政党である。

 こんな意見もある。「まともなのはアル・アドルだけだ」。アル・アドル・ワ・イフサーン(公正慈善運動)は、モロッコでおそらく最大の政治勢力であり、同じくイスラム主義を掲げている。スーフィズム(イスラム神秘主義)の立場から理想社会を説き、貧困層、社会的に排除された層など、モロッコ庶民の支持を集めている。あらゆる暴力に反対するアル・アドルは、過激派の伸長を抑える対抗勢力となっている。他方、王制にも異議を唱えていることから、合法化はされていない(ただし容認されている)。創始者アブデッサラーム・ヤシン師(79歳)の娘で、スポークスマンの一人でもあるナディア・ヤシンは、2005年6月2日付の週刊アル・ジャディーダ紙で、「共和制」のほうが好ましいというセンセーショナルな発言を行なったために起訴された。判決はまだ出ていない。

 若者は政治から距離を置いている。新たに選挙権年齢に達した者のうち、有権者名簿に登録したのは3分の1しかいない。政府は新規登録者を300万人と見込んでいたが、登録したのは140万人だけだ。とりわけ女性を対象にして、登録を広く呼びかけたものの、あまり効果は上がらなかった。

 こんなふうに政治への関心は薄いが、誰もが9月の選挙の勝者はPJDになると予測している(2)。この党に投票するのは、どういう人たちなのだろうか。PJD書記局員で、ひげをきれいに剃り上げたラハセン・ダウディ(59歳)はこう言う。「PJDを心から信頼し、汚職に反対する支持者だけでなく、現政府に対する抗議票もあれば、『案外いけるかも、入れてみようか』という人もいる。

 「PJDは透明性を売りにしており、綱領もとても魅力的だ」と言うのは、カサブランカの弁護士ムスタファ・サービクだ。「PJDは他の政党に比べて群を抜いている。規律正しく、今のところは汚職とも縁がない。保守色の強いこの国では、『イスラム教徒の私に一票を』と言えることが切り札になる」。

 2002年9月27日に行なわれた前回の選挙では、PJDはあえて抑えめに出て、91選挙区のうち55選挙区にしか候補者を立てなかった。党内強硬派に属する有力幹部のムスタファ・ラミド弁護士は、こう説明する。「我々にとっては、まだ選挙は2度目でしかなかった。9・11事件が起こり、『対テロ戦争』が開始されたというタイミングで、空気は明らかに張りつめていた。政権と欧米諸国は我々に疑惑の目を向けており、経済界の反応も芳しくなかった」。この選挙のときは、アル・アドルがボイコットを呼びかけ、PJDの下部組織もそれに呼応した。にもかかわらず、PJDは10%の得票を上げて議席を3倍に増やし、定数325議席のうち42議席を有するモロッコ第3の政党になった(3)。従来の2大政党、人民勢力社会主義同盟(USFP、50議席)およびイスティクラール党(48議席)と大差ない数字だ。

 PJDは政治的制約があることを自覚して、慎重な態度を取り続けている。選挙にあたり、モロッコ(そして欧米諸国)の許容範囲を超えるほどの成果は上げたくないからだ。1991年12月に隣国アルジェリアで、野党のイスラム救国戦線(FIS)が勝利した第1回投票の結果を軍が無効とし、それに続けて内戦が勃発したことは記憶に鮮明だ。

 「テロの脅威」も選挙運動に影を落としている。45人の死者と100人以上の負傷者を出した2003年5月16日のカサブランカのテロ以降、その傾向は一層強まっている。当時、モロッコ社会はあらゆるイスラム主義勢力に背を向け、PJDの合法性を問題視する空気さえあった。ラミドは述懐する。「内相が私にPJDの院内総務を辞めることを強要し、党内は危機的な状況に陥った」

予想得票率をめぐって

 今年3月と4月にカサブランカで起きたテロ事件は小規模ではあったものの、アル・カイダを名乗るグループが国内に手を伸ばし、モロッコ自体を主要な標的とはしないまでも、イラクに赴く義勇兵の重要な供給源と見ている、という事実を改めて突き付けた。とはいえ、保守色の強いモロッコの場合、社会のはみ出し者の動員を狙う過激派に対し、PJDが防波堤になりうると専門家は見る。

 アメリカも同じことを考えているようだ。PJD全国評議会委員のムスタファ・ハルフィはこう述べる。「アメリカは、イスラムを敵視していないという姿勢を見せる必要がある。それが、他のアラブ・イスラム諸国にも適用できる穏健派モデルとしてPJDモデルを後押しする理由だ」。アル・アドルのアブデルワヒード・ムタワキル政策部長も同様のことを言う。「アメリカ人は定期的に我々に会いに来る。圧力を受けて面会をキャンセルすることもあるフランス人に比べて、彼らは賢明であり、テロリズムの影響力を抑えるために我々に何ができるか分かっている」

 不安を抱えた欧米諸国政府は、モロッコを民主化の試金石と見ている。2005年夏のエジプト人民議会選挙でムスリム同胞団が躍進し、2006年1月のパレスチナ立法評議会選挙でハマスが勝利を収めたのを見て、アメリカ政府はアラブ世界の民主化に関する物言いを変えた。共和党寄りのシンクタンク、国際共和研究所(IRI)が主導した世論調査の結果も、アメリカを安心させるものではなかっただろう。2005年末からモロッコで実施された秘密調査によると、PJDが47%の得票を上げ、USFPを大きく引き離して第1党になると予想されるからだ(4)

 この調査結果は、週刊誌ル・ジュルナル・エプドマデール2006年3月18-24日号にすっぱ抜かれた。モロッコ中の新聞雑誌の見出しに「イスラム主義の脅威」という言葉が躍り、その原因はアメリカにあると論じられた。PJD書記長のサアデッディン・オトマニが当時たまたまワシントンにいたことも、様々な憶測を呼んだ。しかも、トルコの政権を担う「ポスト・イスラム主義」政党、公正発展党(AKP)の代表団がモロッコを訪問した際、アンカラからの旅費をIRIが負担していた。モロッコのメディアの中には、これらすべてを内政干渉と断じるものもあった。

 次回選挙が近づくなか、諸政党の間でも王室内部でも、怒りの声は静まらなかった。IRIの調査結果のスクープに端を発する論争に対し、内相は早くも4月3日に対策として、政情安定を強調する独自の数字を発表した。それによると、有権者の62%は4大政党(USFP、イスティクラール、人民運動、PJD)のいずれかに投票し、それ以外の政党に投票するのは38%に留まる。PJDは、これまでに出た数字が逆風になるとの認識から、26-30%というかなり控えめな独自予測を発表して、モロッコの許容範囲を超えるような得票は望まないと繰り返した。

 この論争に先立つ2006年2月22日に、政府は選挙区の区割りを変更している。これは選挙結果に影響を及ぼす。議席総数が減り、鍵となる選挙区(PJDの支持層が集中する都市部)が分割される一方で、PJDの支持率が低く、伝統や民族を支持の基準とする農村部の議席数が増えたからだ(5)

 この措置は、PJDの比重を小さくすることを目的としている。また、政権が「得票操作」に走らずに済むと考える事情通もいる。おそらく王室は、PJDを少数派として連立内閣に参加させる心づもりだが、他の27政党、とくに左派諸党は、PJDとの連立に乗り気ではない。

 USFPとイスティクラール党を中心としたジェットゥ連立内閣の情報相で、政府報道官を兼務するナビール・ベナブダッラーは、進歩社会主義党(旧モロッコ共産党)に所属する。「あなたがた欧米人は、いつもイスラム主義勢力のことを話題にする。私に言わせれば、穏健派だろうと過激派だろうと似たり寄ったりだ。我々は一致して、今度の選挙が重要な変化をもたらすことはないと考えている。現在と同じ政党が絶対過半数を獲得する」。そして最後にこう言った。「現在の連立内閣に加わっている左派諸党がPJDとの連立を受け入れるとは思わない。いずれにせよ、我が党は拒否する」

 ラバトの閑静なオランジェ地区、国会議事堂から徒歩10分のところにあるPJD本部は、純白の豪邸である。宗教を示す表徴は何もなく、党のシンボルマークであるランプのほかには、モロッコの地図と国旗が掲げてあるだけだ。王室とも親交のある王制派のオトマニ書記長は、私たちに握手の手を差し出した。イスラム主義者が女性と握手で挨拶するのは珍しいことだ。「私は『イスラム主義者』という言葉を好まない。キリスト教民主主義者のように、むしろ『イスラム的価値基準』と言いたい。我々はリベラル派だが、自由市場が規制されることを望んでいる。我々の最大の課題は、経済の開放には改革、とくに行政・司法分野の改革と、良質の教育制度が必須だということだ。観光でカネを落としてもらおうとするなら、インフラの整備と有能な人間が必要になる。モロッコはまだ、そうした施策をやり遂げていない」

トルコの同名政党が示した「イスラム的価値基準」

 モロッコの経済状態は悪くない。過去5年間の経済成長率は5%程度(豊作に恵まれた2006年は8%を記録)、道路・高速鉄道網が発達し、住宅建設も進んでいる。2003年にはタンジール・メッド港の起工式が行なわれた。大きな収入源は観光業、そして在外労働者からの送金である。しかし、福祉制度は立ち後れている。貧困、失業、非識字率が高く、医療制度と教育制度は不十分だ。こうした大きな課題に加え、西サハラ紛争を抱えているうえに(6)、国際的な過激イスラム主義勢力の脅威にもさらされている。

 モロッコの政治勢力は、賢明な君主のもとで秩序ある民主化移行を進めるという方針に賛同している。王制の正当性に疑問を呈しているのはアル・アドルだけだ、とムタワキル政策部長は述べる。「我々は、国王が真に改革を望んでいるという考えを捨てた。国王が主権者であると同時に信徒の指揮者であるなどということはありえない。それは私がイスラム教徒を自称しながら、イスラムを信仰しないのと同じようなことだ」

 PJDは、国王の役割を徐々に変えていくという方針を受け入れているが、党内に異論もある(とはいえ今のところ紛糾はしていない)。改革を求める下部組織と、PJDを入閣させるつもりの国王との間で、微妙なバランスを取っていく必要がある。オトマニ書記長は言う。「2002年には、政府に参加すべきかどうかをめぐって、党内で議論になった。私は閣外に留まるほうがよいという考えだった。7つも政党が連立しているところに、8つめとして加わってどうなるというのか。議論は今も続いている。次の連立内閣に参加するという方針が決まったわけではない。選挙の結果がどうなるか、どこと連立を組むことになるのか、政策合意がどうなるか、どのような閣僚ポストが提示されるかによりけりだ」

 PJD幹部の中でおそらく王室と最も近い関係にあるアブデリラー・ベンキランの意見は違う。「我々には連立に加わる用意がある。我が党は開放的で、極めて柔軟だ。2002年の時点で参加すべきだったし、私は当時そう明言した。選択を誤ったのだ。もし参加を受け入れていれば、5月16日の事件(2003年のテロ事件)は起こらなかったかもしれず、起きた事件に対しても、分裂せず一丸となって立ち向かうことができただろう。今となっては、連立はより困難だ。5月16日の事件以来、我々に向けられる目は変わり、恐ろしげに見られるようになった。政府も攻撃的になった」。彼は状況が変わったと見る。「我が党はもはや駆け出しではない。人々から求められる政党であり、全選挙区に候補者を立てないことを釈明するのは困難だろう。追い風に乗っていた2002年と違って、我々に選択の余地はない」

 とはいえ、オトマニとベンキランが合意している点がひとつある。9月の選挙に続いて憲法改正を行なうべきだとする点だ。政治勢力の間では、国王に指名される首相と内閣の権限を拡大すべきだという考えが共有されている。「評議院」と称する第二院は廃止するか、あるいは地域代表制などに変更すべきだと考える点も同様だ。この点に関しては、ベンキランは慎重な姿勢を見せる。「我々は改革を求めて騒ぎ立てるつもりはない。改革は国王の同意のもとで進められるべきだ。もし5月16日の事件がなければ、改革はすでに行なわれていたはずだ」

 PJD執行部のラミド元院内総務の見方は異なる。「まだ時期尚早だと思う。どの選挙区にも候補者を立てるような必要があるのか。もし我が党が第1党になれば、首相の座は、民主主義に基づいて、我々に回ってくる。しかし、我々はそれを求めないだろう。我が国における執行君主制のもとでは、決定を下すのは国王だ。憲法改正が行なわれない限り、私は統治を担当することを望まない。我々は罠に陥らないようにしなければならない。国王は君臨すべきであって、統治すべきではない。民主化移行を成功させるには、国王を裁定者として、段階を踏んでいかなければならない。我々はそうするつもりだが、遅すぎるくらいのスピードで進めていく」

 PJDは大半のモロッコ人と同様に、政権上層部の汚職、票の買収、不正な集計、仕事をしない大臣といった現状の打破を望んでいる。トルコのAKPは「清廉潔白」によって支持を確立した。オトマニ書記長はこう述べる。「AKPは我々を元気づけてくれる。イスラム的価値基準を持った政党が政治に参加して、素晴らしい成果を上げられることの実証だ。我が党はAKPと良好な関係を保ち、情報交換を行なっている。とはいえ、我々は彼らよりもはっきりとイスラム的価値基準を打ち出しているし、モロッコはトルコと違って世俗国家ではない」

 たしかに、モロッコは公式にイスラム国家であり、国王は政治指導者であるとともに、「信徒の指揮者」と呼ばれる宗教指導者でもある。これに対してトルコは世俗国家であり、そこでは軍が、ムスタファ・ケマル(アタテュルク)の敢行した改革の守護者を自任している。

PJDは防波堤となりうるか

 AKPは、前身政党の福祉党からも、トルコをイスラム世界の牽引役と見なすイスラム・ナショナリズムからも、うまく脱皮を遂げた。ネジメッティン・エルバカンを指導者とする福祉党は、1年間にわたって連立内閣を率いた後、1997年6月18日に軍に倒されている。この政変後に結成されたAKPは、宗教を個人の問題と位置づけるようになった。同党の主要幹部の一人であるアブドゥッラー・ギュルは、2003年に次のように述べている。「我が党は保守的で民主的な政党だ。(・・・)宗教とのつながりは、個人レベルのものだ。(・・・)宗教上の規則を押し付けるつもりはない(7)」。AKPは2002年11月3日の選挙で勝利した後も、公務員および大学構内におけるイスラム式の服装を禁じた現行法を改正しようとはしなかったし、同党の女性議員はスカーフを着用していない。また、家族法の重要な改革を行なっている(夫はもはや家長ではなく、妻は夫の許可がなくても就労できる)。2007年7月の選挙も再びAKPの勝利となった。

 ベンキランはこう語る。「トルコのAKPは、政治の方面では我々よりずっと先に進んでいる。我々はいまだにダアワ、つまり布教の段階にある。AKPは手本となるが、しかしイスラムの教えに関して妥協しすぎだ。宴席でアルコールを出すなんて、恥ずべきことだ」。PJDの道徳重視傾向は、メディアで頻繁に論じられ、人々に不安を呼び起こしている。たとえばラミド元院内総務は、発言が反動的だと非難されている。本人はそれを否定して言う。「アルコールとドラッグを広めない限り、私は宴会に反対ではない。女性が男女混合の海岸に行ってはならないと発言したこともない。とはいえ、女性はイスラムに則った選択だってできるはずだ。銀行と同じように、二重制度があっていいはずだ。選択肢が複数あることこそが民主主義なのだから」

 PJDの女性議員であるバシマ・ハッカウィ書記局員(47歳)によれば、こうした主張は急進化ではなく、道徳性の要求の表れだ。「観光業を例に挙げよう。我々が自ら襟を正し、社会的な準備を整えない限り、観光が我々に多くをもたらすとは思わない。観光客が来るのは良いが、それでエイズが持ち込まれたり、マラケシュが子供買春や、売春組織、売春行為の横行する場になるのは良くないことだ。我々は第2のタイになりたくない。モロッコがそんなイメージを持たれるのを受け入れることはできない」。オトマニ書記長はPJDに向けられる懸念を緩和するために、同党が地方行政を担う市町村でアルコールが禁制というわけではないし、観光も衰えてはいないという現状を強調する。

 目下のところ、PJDには早急に解決しなければならない課題がある。ラミド元院内総務の意見に賛同し、党が(彼の更迭を受け入れるなど)政権にあまりに譲歩しすぎていると考える党員は、次回選挙の候補のうち、党内の4人の有力者を拒絶した。うち1人は、ラバトに隣接するサレ・メディナから立候補するはずだったベンキランである。執行部は下部組織の意見を聞かざるを得ず、最近になって党内合意がまとまった。4人の候補者は「再考」によって承認され、大規模な社会・経済改革をうたう綱領が採択された後、全選挙区に候補者を立てることが決定された(8)

 PJDは、政策の優先順位を見直すことになるのだろうか。選択の余地はどれくらいあるのだろうか。さしあたり打った手は、議員が2人しかいないリベラル政党、「市民の力」との同盟である。PJDは重要な選挙区であるカサブランカ・アンファを同党に譲ることにした。今度の選挙でPJDは初めて、他の2つのイスラム主義政党の挑戦を受けることになる。ひとつは、宗教について進歩的な路線を追求しているアル・バディル・アル・ハダリ(もうひとつの文明党)、もうひとつは、PJD出身の幹部が何人もいるファジラ(再生美徳党)である。

 モロッコの政治状況を見ると、ある矛盾がくっきり浮かび上がる。2003年のテロ事件以降も、非暴力の立場を取るイスラム主義勢力が、国際的なジハード主義勢力ともども伸長しているのだ。もしPJDが政権入りすれば、ジハード主義勢力に対する防波堤となりうるのだろうか。それともアル・アドルが、高齢の指導者ヤシン師の死後、方針を変えて政界の一員となるまで待つしかないのだろうか。

 ベンキランはこう語る。「我々が調停役になれるかどうかは分からない。イラクや他の場所で、イスラム教徒に対して不正義が行なわれるたびに、ジハード主義勢力の主張が受け入れられる余地が広がる。過激派の主張の大部分は意味をなさないが、時には意味のあることも言う。彼らが信念を主張するのは自由だ。我々には自由と民主主義があるのだから。ただ、一定の限界はある。テロを断罪することは、我々にとって政治的にリスクの高い行為だ」

 PJDのダウディ書記局員は、次のような警告と自問の言葉を述べる。「2003年5月16日の激震の後、いまだに余震が続いている。我々が負ければ、とても危険な状況になる。人々は過激主義に走ってしまうかもしれない。このような見通しを前に、我々が負けられるだろうか」。最初の答えが出るのは9月7日だ。

(1) アメリカの著述家。「文明の衝突」の思想を広めた。
(2) Cf. Nicolas Beau and Catherine Graciet, Quand le Maroc sera islamiste, La Decouverte, Paris, 2006.
(3) PJDは、これより10議席多く獲得していたが、王室と議席数の「削減」について協議したものと思われる。Cf. Michael J. Willis, << Morocco's islamists and the legislative elections of 2002 : The strange case of the party that did not want to win >>, Mediterranean Politics, vol.9, no.1, London, March 2004.
(4) この調査に関しては以下を参照。Cf. Avi M. Spiegel, << The pollbearer : A letter from Rabat >>, The American Interest, New York, Summer 2007 ; http://www.the-american-interest.com/ai2/article.cfm?Id=287&MId=13
(5) モロッコの下院選挙は、1選挙区あたり大体3人から6人を定数とする名簿式の1回投票で、すべての選挙区が比例代表制である。2007年の選挙では、全国統一名簿から選出される女性枠30人に加え、295人の議員が選出される。
(6) ハディージャ・フィナーン「西サハラを取り巻く情勢の変化」(ル・モンド・ディプロマティーク2006年1月号)参照。
(7) この発言は次の記事中に引用されている。Cf. Wendy Kristianasen, << Une democratie chretienne version islamique >>, Le Monde diplomatique, March 2003.
(8) << PJD : les luttes intestines >>, Le Journal hebdomadaire, Casablanca, 30 June - 6 July 2007.


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2007年8月号)

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