アル・カイダに背を向けはじめた現地勢力

サイド・サリーム・シャハザード特派員(Syed Saleem Shahzad)
香港紙『アジア・タイムズ』オンライン版パキスタン支局長

訳・岡林祐子

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 ソマリアからイラク、レバノン、パレスチナ、アフガニスタンにかけて、混沌の弧が伸びている。そこでは国家が弱体化している。そして効果的な武器(ロケット弾など)を手にし、中央政府の統制が利かない武装グループの力が増している。これらの地域はアメリカにとって「第三次世界大戦」たる「対テロ戦争」の主戦場となっている。そうした見方がアル・カイダの側でも、「十字軍とユダヤ人」との死闘という戦略への傾斜をもたらしている。しかし現場に目を向けるなら、このような一面的な言い方では、矛盾に満ちた現実を言い尽くすことはできない。イラクでは、シーア派との血なまぐさい闘争に乗り出し、その宗教中心地を攻撃することも厭わないアル・カイダの逸脱に対して、一部のスンニ派抵抗勢力が行動を始めている。アフガニスタンでは、タリバンとアル・カイダの外国人戦闘員の間で、暴力的な衝突が起きている。タリバンが国内レベルの戦略(およびパキスタン政権との一時的妥協)を優先させているのに対し、アル・カイダ側は諸国の「不敬」なイスラム政権の打倒を目指しているからだ。[フランス語版編集部]

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 最近起きた2つの事件が示すのは、武装イスラム主義勢力の内部で深まりつつある対立だ。パキスタンのアフガニスタン国境地帯にある部族地域、南ワジリスタンでは、2007年3月、地元のタリバン勢力がアル・カイダ系のウズベキスタン・イスラム運動に所属する外国人戦闘員を虐殺した。ほぼ同時期に、イラク・イスラム軍とアル・カイダ勢力も熾烈な戦いを繰り広げた。2つの戦略の対立が、ますます激しくなっている。それは、イスラム主義に立った闘争についての2つの考え方の対立である。

 2003年以降、パキスタンとイラクには多数の外国人義勇兵が流入している。しかし、タリバン指導層と地元のイスラム抵抗グループが、喜んでいるとは言いがたい。「悪しきイスラム教徒」を主敵と見なすタクフィール主義に染まった急進的な戦闘員の流入は、むしろ不安をかき立てた。イスラム政府に対して戦争を挑む戦闘員たちは、彼らが守りに来たはずの当の住民を混乱に陥れている。

 2003年から2006年までの3年間、南北ワジリスタン、アフガニスタン、イラクという広大な戦場で、現地情勢は複雑化した。そのこと自体がアル・カイダの教義の影響を強め、地元勢力の影を薄くした。タクフィール派は、南北ワジリスタンでは、パキスタンの法治外の「イスラム国家」の出現を促し、大都市部における武力行動を繰り返した。彼らの最終目標は、欧米寄りのイスラマバードの軍事政権に対する反乱を誘発することだ。パキスタン軍はこれに対して、流血の軍事作戦をもって応じ、女性や子供も含めた数百人の非戦闘員を虐殺した。過激派は怒りを募らせた。タクフィール派に関しては、その時点ですでに多くのタリバン指導者が、専ら欧米を敵視するという1990年代にビン・ラディンがぶち上げた戦略を放棄して道を誤り、外国占領軍に対する民族抵抗戦争をパキスタン軍事政権への攻撃に変質させる過ちを犯した、と非公式に認めている。

 タクフィール派の主要な指導者の一人であるザルカウィは、ワジリスタンを離れてアメリカ軍が侵攻する直前のイラクに入国し、イラク抵抗運動の最も有名な指導者となった。彼は公然とビン・ラディンへの忠誠を誓った。このザルカウィを中心に、ほとんどが外国人からなる活動家グループが形成され、アル・カイダのイラク拠点となった。イラクは瞬く間に、ワジリスタンやアフガニスタンと同じような状況に陥った。

 フセイン政権の崩壊後、地元の抵抗勢力がすぐに活動を始めたわけではない。さまざまな部族、ばらばらの宗派グループ、フセインの党だったバアス党の旧党員、かつての共和国防衛隊の士官といった勢力が、戦闘態勢を整えるまでに数カ月を要した。その間にイスラム世界各地から、アル・カイダの黒旗を掲げた外国人戦闘員がイラクに参集した。彼らはマジュリス・アッシューラ(評議会)を結成し、地元グループがそれまで見せたことのないほどの実行力を発揮した。そうした状況を前に地元グループの側は、タクフィール主義思想に難色を示すぐらいのことしかできなかった。地元グループの中には、同じスンニ派のアル・カイダが、占領米軍に対する闘争を放棄して、シーア派の聖地を攻撃するという不埒な真似をしていることを遺憾としたものもある。

 2006年終わり、アル・カイダはイラクに「思想的に純粋」な首長国を樹立したと宣言した。この事実に見られるように、地元グループの戦略はタクフィール派の思想、そして同胞でも殺害する彼らの計画に対し、完全に従属的な立場に置かれた。占領軍に対する戦争は、悪夢のような無数の宗派間闘争に変わり果て、「国際派」戦闘員と地元抵抗勢力との決裂の種が飛び散った。

 この分裂を理解するには、アル・カイダの思想的変質を促した特殊な情勢について検討する必要がある。それは1980年代、アフガニスタンでソ連の占領に対する聖戦が繰り広げられた時期と、それに続く時期である。地元の抵抗勢力に加勢するためにアフガニスタンに押し寄せたアラブ人は「イエメン組」と「エジプト組」に二分されていた。

アル・カイダの原点

 「イエメン組」は、出身地のイマムに感化されてアフガニスタンに来たイスラム教徒からなる。戦闘時以外は、厳しい訓練にいそしみ、自炊を行ない、イシャー(一日の最後の祈り)を終えるとすぐに就寝した。アフガニスタンでの聖戦が終結に向かうと、彼らは出身国に戻るか、アフガニスタンやパキスタンに残留し、地元の生活に溶け込んだ。そこで結婚する者も多かった。アル・カイダのメンバーは、こうした者をドラヴェシュ(安楽な生活を好む者)と呼んだ。

 「エジプト組」にいたのは、もっと政治的意識が高く、思想的意欲のある者たちだった。大半がムスリム同胞団(1)に属していたが、同胞団の議会主義路線を拒否していた。こうした思想の持ち主には、医者やエンジニアなど学歴のある者が多く、アフガニスタンの聖戦によって絆を強めた。(後にビン・ラディンの右腕となる)ザワヒリを指導者とする非合法運動、ジハード団のメンバーだった元軍人も多い。キャンプ・デーヴィッドでイスラエルとの和平に署名したサダト大統領を、その3年後の1981年に見せしめに殺害したのが、このジハード団である。彼らは皆、アラブ社会の衰退の原因がアメリカとその中東における「傀儡」政権にあると確信している。

 「エジプト組」は、イシャーの後、将来について果てしなく論じ合った。指導者たちは門徒に対し、それぞれの出身国の軍隊に注力し、優秀な頭脳の持ち主の思想教育をすることが必要であると教え込んだ。

 アル・カイダの原点となったのは、1980年以降アフガニスタン抵抗運動を支援するため、アブドゥッラー・アッザームが創設したマクタブ・アル・ヒダマート(サービス局)だ。彼が1989年に襲撃されて死ぬと(2)、高弟の一人だったビン・ラディンが後継指導者となり、この運動組織をアル・カイダへと変貌させた。

 アブドゥッラー・アッザームの息子フダイファ・アッザームは、最近アンマンで我々の取材に応じて次のように説明した。「『イエメン組』の戦闘員の大半は、かなり未熟で、唯一の大志が殉教だった。彼らは共産党政権の崩壊後、アフガニスタンを去っていった。『エジプト組』は残留した。政治的野心が満たされないままだったからだ。後に、1996年にスーダンから戻ってきたビン・ラディンが合流すると、彼らはビン・ラディンをタクフィール主義者に変えようとした。その時まで、彼の頭の中には、アメリカの中東覇権に闘争を挑むことしかなかったのだ」

 アッザームはアフガニスタンとパキスタンで、20年近くをアラブ人戦闘員たちと過ごした。「1997年、イスラマバードでビン・ラディンに出会った時には、ソマリア人のアブ・オバディアと2人のエジプト人、アブ・ハフとサイフル・アディル(この3人は『エジプト組』に属していた)が付き添っていた。彼らの過激主義思想が彼に影響を与えたことを私は理解した。1985年、私の父がビン・ラディンにアフガニスタンへ行くよう求めた時は、ファハド国王の許可がなければ行かないというのが彼の返答だった。当時はまだワーリー・アル・アムル(最高権威者)の名目を立てていたのだ。9・11の後、彼がサウジの指導層を糾弾するのを見て、私は『エジプト組』がいかに彼に影響を与えたかを思い知った」

 2006年初頭、戦意にあふれた4万人以上の戦闘員が南北ワジリスタンに集結したのは、以上のような情勢下だった。アラブ人、チェチェン人、ウズベキスタン人らが、ワジリスタンその他のパキスタン都市部の活動家と合流した。アフガニスタンのタリバン指導層は、そこでジレンマに直面した。この活動家たちの大半が、アフガニスタンの占領軍と戦うよりも、部族地域でパキスタン軍と戦いたがっていたからだ。ウズベキスタン人の有名な活動家で、タクフィール派のイデオローグであり、南ワジリスタンを拠点とするタヒル・ヨルダシェフは、そうした戦略を優先させる方向のファトワ(宗教見解)を発していた。ワジリスタンのタリバン指導者、アブドゥル・ハリクとサディク・ノールも同様の意見を表明していた。さらに、南北ワジリスタンでイスラム国家が樹立されたことで、パキスタンのタリバンおよびアル・カイダと、パキスタン軍との紛争が激化していた。

パキスタンとタリバンの和平合意

 新たな衝突が起こるのは不可避と思われた。アフガニスタンのタリバン指導部は、パキスタン軍との紛争が、2006年春に実施する予定のNATO軍への大攻勢の延期につながりかねず、できるだけ速やかに回避すべきことを理解していた(3)。逃亡中のタリバン指導者オマル師は、パキスタンのタリバンとアル・カイダ派に対し、無駄に力を使わず大攻勢に集中するよう説得するために、ダドゥッラー師を派遣した(彼はアフガニスタン南西部の有能な指揮官の一人で、2007年5月に殺害された)。調停工作の結果、2006年9月5日にパキスタン軍と部族地域のタリバンの間で、外国人戦闘員の全員送還などを規定した和平合意が成立した。この停戦により、パキスタン政府は南北ワジリスタンのタリバン指導部と緊密に連携をとることができるようになった。ワジリスタンのタリバン指導部は、かなりの量の武器と資金に加え、イスラマバードへの丁重な招待状まで受け取った。

 和平合意は、タリバン指導部による状況認識の結果だった。アル・カイダとの協力を5年間続けた結果、アフガニスタンの抵抗活動は袋小路に入り込んでいた。たしかに、抵抗活動は以前より強力になってはいた。2006年の大攻勢は、基本をうまく押さえたものだった。住民に支持され、手製の爆弾を作り、イラクで学んだ市街ゲリラの技術を駆使した。アメリカとNATOの率いる連合部隊は、かなりの損失を被った(2006年の死者は約150人)。しかし、タリバンはカンダハル陥落、カブール包囲といった重要な戦略目標をひとつも達成できなかった。タリバン司令官たち自身も、彼らの組織態勢では、緊密に組織化された国家を相手に勝利は望めないと認めざるを得なかった。大衆を動員できるという発想はあったが、それが絨毯爆撃と支持者の虐殺を引き起こすことも分かっていた。したがって、解決策は、政府レベルの資源をよそで見つけることだった。彼らは当然ながら、かつて自分たちの後ろ盾だったパキスタンに目を向けた。その結果が、9月5日の和平合意である。

 ワジリスタンのタリバン指導部も、アフガニスタンのタリバン指導部も、和平合意という妥協に満足し、外国人戦闘員の追放についてはさほど問題としなかった。パキスタンから追放されれば大挙してアフガニスタンの抵抗活動に合流するだろうと考えたからだ。また、アル・カイダをはじめ、NATO軍との戦闘を二の次にする世界戦略を展開する連中をお払い箱にできることに、ことさら不満はなかった。

 逆に、アル・カイダの「世界戦士」たちにとって、この和平合意は受け入れられるものではなかった。彼らは、ワジリスタンに新しく築いた基地を拠点として、地域規模の紛争を複数の戦線で展開することを夢想していた。アフガニスタンで小競り合いを続けるという程度の展望が、イスラムとは名ばかりのパキスタン政権を派手に打ち破るという夢想に匹敵するはずもない。それに、アル・カイダは、新しい切り札を手にしていると考えていた。

 多くの外国人戦闘員グループが、ザワヒリのもとに集結していた。主にリビア人からなり、アブ・ライス・リビー師を司令官とするムカティラ団。同じくリビア人を中心とし、イブン・マリクが率いるジャブハ・ビッラ。エジプト人アブドゥル・ラフマン・カナディ(故人)が立ち上げ、現在はアブ・エザが指揮するマフディ軍。ジハード団から分かれたエジプト人中心の小グループ。エッサ師を司令官とするタクフィール派。ヨルダシェフの率いるウズベキスタン・イスラム運動などだ。パキスタン諜報部によると、アル・カイダは同時期に、9・11の後で休止状態に陥っていた資金ルート、とくにアラブ首長国連邦のそれを活性化させている。

ワジリスタンからイラクへ

 アル・カイダ指導部は、パキスタンとタリバンの和平合意が脅威となることを即座に理解した。タリバンがパキスタン諜報部の罠にかかることも危惧した。そのため、両者の対立を煽ることで、停戦を妨害しようと考えた。その機会は、2007年1月17日に訪れた。パキスタン空軍が南ワジリスタンの訓練キャンプを爆撃し、何人もの外国人戦闘員を殺したのだ。南ワジリスタンのタリバン指導者のうち和平合意を破棄するに至った者は少数だったが、パキスタンが合意を破ったと考えたバイトゥッラー・メフスドはその一人だ。ヨルダシェフも直ちに同調し、カミカゼ部隊10隊以上を派遣して、パキスタンの都市部を恐慌状態に陥れた。市民の被害は甚大だったが、合意は維持された。しかしながら、ムシャラフ大統領は、2007年3月にチョードリー最高裁長官の罷免決定による深刻な国内危機への対処を迫られるとともに、首都イスラマバードにタリバン式のイスラムを強制しようとする赤いモスク(ラール・マスジード)との紛争(4)に直面していた(5)

 合意が維持されたのは、パキスタン政府とタリバンの双方にとって、そのほうが都合がよかったからである。パキスタンの指導層は、これにより、アル・カイダが部族地域を掌握するのを妨げるような戦略を構築することができた。この合意は、アル・カイダの世界戦略にうんざりしたタリバンの幻滅とも呼応していた。アル・カイダの世界戦略は、アフガニスタンの抵抗活動を弱体化させただけであり、タリバンにしてみれば妄執でしかなかったからだ。

 以下の例が示すように、タリバンとアル・カイダの関係は緊張した。例えばハジ・ナジルの一件だ。タリバンの無名の司令官にすぎなかった彼は、パキスタン治安当局に厚遇されて資金と武器を与えられ、急速に南ワジリスタンの有力者にのし上がった。ナジルは外国人戦闘員に対し、武装解除するか、さもなくばアフガニスタンでNATO軍への攻撃に加勢するかの選択の余地を与えた。当然予想されるように、彼らはこの選択を拒否した。2007年3月には武力衝突の事態となり、140人以上が死んだ。その大半は中央アジア出身者だった。同様の紛争は、北ワジリスタンでも起きている。この時には、1980年代の反ソ抵抗活動における伝説的な指揮官だったジャラルッディン・ハッカーニーが、息子のシラジュッディンを派遣して、ダドゥッラー師およびタリバン政権時代のアフガニスタン最高裁長官ノール・ムハンマド・サキブを調停役に立てた。

 タリバン側の司令官たちは包囲を解き、外国人戦闘員がそれぞれ好きなところに向かうことを許可せざるを得なかった。彼らの多くは、タリバンから歓迎されそうにないアフガニスタンではなく、新たな約束の地たるイラクに向かった。彼らはその際に、2006年の終わりにワジリスタンを去ったものの直ちに拘束され、現在グアンタナモに拘留されているアブドゥル・ハディ・イラキーのような大物と合流した。

 アル・カイダが、南北ワジリスタンからイラクへと戦闘員を送り出すようになったのは、2003年のアメリカのイラク侵攻直後にさかのぼる。アル・カイダとタリバンの思想的、戦略的な対立が、この動きをさらに強めた。反米抵抗活動の一翼をなすイラク・ムスリム・ウラマー協会幹部のムハンマド・バシャール・ファイディは、次のように回想する。「ポール・ブレマーは(6)、イラクの文民行政官に任命されるやいなや、イラクの治安部隊をすべて解散させた。我々は代表団を組んで、ブレマーに会いに行った。そして、この決定が、誰でも我が国の国境を通過できるようにするものだと警告した。少なくとも、国境警備隊だけは維持すべきだった。ブレマーは我々に同意しなかった。彼の目には、治安部隊はすべてサダム側に付くものと見えたのだ。ありとあらゆる不心得者、それにイランやアル・カイダのテロリストがイラクに続々と集結し、それぞれ自分の目的を果たそうとするのを、間もなくイラク人は座視するはめになった」。ファイディはこうも言った。「私は今日では、このブレマーの政策は、アル・カイダの活動家をイラクにおびき寄せるための意図的なものだと思っている。アフガニスタンやワジリスタンよりもイラクでのほうが、簡単に彼らを殺害、拘束できると考えたのだ(7)

スンニ派抵抗勢力の変化

 アル・カイダは、闘争の主導権の掌握を通じて、イラクにおける闘争を世界規模に広げることに注力している。イラク民族としての目標を第一に掲げる抵抗活動の指導者は、これに対して懸念を強め、外国人戦闘員を追放したいと望んだ。両者の軋轢は、最近のアラビア語メディアにも暴露されている。衛星テレビ局アル・ジャジーラは、2007年4月、イラク・イスラム軍のスポークスマン、イブラヒム・シャンマリのアル・カイダとの決裂に関する談話を伝えた。2つの運動組織の目指すものはあまりに違っており、イラク・イスラム軍は状況次第ではアメリカと交渉するほうを選ぶだろう、と彼は明言した。

 2007年4月26日、在イラク米軍のペトレイアス司令官は、ワシントンで開かれた記者会見の場で(8)、スンニ派勢力が反アル・カイダ側に回りつつあることを示唆した。「スンニ派の反徒や、いわゆるスンニ派の抵抗勢力が、念頭に置くべき勢力であることに変わりはない。しかし我々は、スンニ派部族のうちに、イラクのアル・カイダに背を向けるようになった勢力に合流する者がいることも目にしている。彼らのおかげで、アンバール州や、わずか6カ月前にはしてやられたと思っていた他の地域の情勢が、相対的に上向いてきている」。ペトレイアス司令官はさらにこう断言した。アメリカは「スンニ派の部族長やかつての反乱勢力指導者と交渉を続け、その配下の戦闘員がイラクの合法的治安部隊の一員となって、過激派との戦闘に加勢するよう求めていく」

 ファイディは歯に衣を着せない。「非合法の民兵組織に加わった外国分子は一人残らず、抵抗活動にとって不幸の元凶となっている。彼らは自分たちの計画を進めるために、イラクを掌握しようと躍起になっている。アル・カイダには多数の諜報部員が入り込んでしまっているし、タクフィール派に見られるように宗教的に逸脱していることは言うまでもない。結局のところ、重いツケを払っているのはイラク国民だ。同様のことが、イラン諜報部の支援を受けているシーア派民兵組織について言える。彼らもまたイラク南部の掌握を望んでおり、これまでに殺害したシーア派指導者は約30人にのぼる。この地域のシーア派指導者は、占領軍に対する抵抗活動に加勢することを望んでいるが、イランの支援を受けた民兵組織に阻止されているのだ」

 ファイディによると、イラクで実行された大規模な作戦の大半は、イラク人抵抗勢力によるものである。しかし、実行声明を出すのが遅いために、国際メディアはアル・カイダの仕業としがちである。「ジェイムズ・ベイカーでさえ(9)、アル・カイダは抵抗活動の中の小さな歯車にすぎないと考えているのに。我々は、当初アル・カイダを大喜びで抵抗活動に迎え入れたことの代償を現在払っているのだ。アメリカの侵略後、我々は誰彼かまわず、侵略者との闘争への参加を説得しようとした。アル・カイダ戦闘員の第一陣がイラクに到着した時、我々は両手を広げて彼らを受け入れた。しかし、今日では、彼らのあらゆる行動が抵抗活動に重大な害を及ぼしている」

 イラクの抵抗運動にしろ、タリバンにしろ、その他のグループにしろ、アル・カイダを内部に受け入れた勢力は皆、そのツケを払うはめになった。だが、イラクにおけるアル・カイダとの決裂は、有利な代価をもたらすかもしれない。アメリカが個別の和平という考えを受け入れているように見えるからだ。アル・カイダ戦闘員を追放したスンニ派抵抗グループは、何らかの形でのイラク政府との権力分配という見返りを得られるかもしれない。

 東部戦線、すなわちアフガニスタン・パキスタンでは、ムシャラフ将軍の実質的なバックアップを獲得したダドゥッラー師が死亡したことで、情勢は不安定化している。しかし、パキスタン政府の目的は依然として、タリバン穏健派とアフガニスタン政府の間で、何らかの形での権力分配を妥結させることにある。そのためには、外国人戦闘員の全員退去が必要になってくる。タクフィール派は、新たなイスラムの地に向けた「遠征」を始めることになるが、その新天地からも追放されるのは時間の問題かもしれない。

(1) ムスリム同胞団は、1928年にエジプトでハサン・アル・バンナーが創設した組織で、アラブ各地に広がった。See Wendy Kristianasen, << Une Internationale en trompe-l'oeil >>, Le Monde diplomatique, April 2000.
(2) この殺害事件の真相は解明されていない。アッザームと決裂したビン・ラディンが黒幕だという説もある。
(3) サイド・サリーム・シャハザード「再攻勢に転じたタリバン」(ル・モンド・ディプロマティーク2006年9月号)参照。
(4) See Francoise Chipaux, << La Mosquee rouge, sanctuaire taliban de la capitale pakistanaise >>, Le Monde, 22 May 2007.
(5) 2007年7月3日、この宗教施設の神学生と警察との銃撃戦をきっかけに 多数の神学生が宗教指導者とともにモスクに立てこもった。一部の者は投降したが、最終的に7月10日から11日にかけて軍の特殊部隊が強行突入、少なくとも数十人の死者を出す事態となった。[訳註]
(6) ポール・ブレマーは、2003年5月から2004年6月までの間、イラクにおけるアメリカの総督の役割にあった。
(7) ブッシュ大統領は2003年7月2日の記者会見の席上、アル・カイダがこの戦争に乗じてイラクで勢力を再結集したのではないかという質問に対し、次のように答えた。「彼らがあそこで我々を攻撃するような情勢になっていると思っている者もいるが、私の答えは『かかってこい』だ。我々には、治安情勢に対処するのに必要な兵力がある」
(8) http://www.defenselink.mil/transcripts/transcript.aspx?transcriptid=3951
(9) アメリカで2006年12月に発表され、アメリカのイラク政策に関する一連の提案を行なったベイカー・ハミルトン調査委員会報告書(イラク研究グループ報告書)の結論部を示唆したもの。執筆には民主党と共和党の双方の代表者が参加したが、ブッシュ大統領は報告書の主要な結論を拒否した。同報告書はウェブサイト上で閲覧できる(http://www.usip.org/isg/iraq_study_group_report/report/1206/index.html)。


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2007年7月号)

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