米ミサイル防衛の強迫観念

オリヴィエ・ザジェク(Olivier Zajec)
欧州戦略情報社顧問

訳・土田修

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 さる6月14日、北大西洋条約機構(NATO)諸国の国防相は、他方ではロシアからの協力提案を傾聴しつつも、欧州への米ミサイル防衛配備計画を暗黙のうちに了承した。アメリカの積極路線は、欧州連合(EU)の消極姿勢と対照的だ。それは、戦略的な分析というよりも「政治的な宗教」に根ざしている。ミサイル防衛に向けたアメリカ政府の強迫観念は、共和党も民主党も共有する。その起源は実に1950年代までさかのぼる。[フランス語版編集部]

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 フランス国民議会は2001年3月28日、米ミサイル防衛計画に関する詳細な報告書をとりまとめた(1)。ニューヨークのツインタワーが崩壊する6カ月前のことだ。この文書によれば、同計画は「戦略分析」というよりも「政治神学」に基づいており、その神学には以下の三位一体論があるという。「アメリカ合衆国の絶対的な安全保障という幻想」、「国境についての神話」(ここでは技術分野の国境を指す)、そして「善悪二元論」である。「悪の帝国とはもはや特定国家、すなわちソヴィエト連邦ではなく、相対的に変動する余地のある一定諸国を指す。現在は北朝鮮、イラク、イランであるが、将来的には他の国となる可能性もある」と、報告書は批判していた。

 2007年の初めに、アメリカの「国家ミサイル防衛(NMD)」システムの一部を欧州に配備する計画が発表されると、その意義をめぐって憶測が乱れ飛んだ。ポーランドに迎撃ミサイル、チェコにレーダーシステムを配備するというアメリカの計画は、モスクワの反発を招き、「古い欧州」の懸念を呼び、カヤの外に置かれた北大西洋条約機構(NATO)を不安に陥れた。

 新聞の論評は主にロシアの反応を取り上げて、冷戦時代を思い起こさせる無数の歴史的対比を言い立てた。しかし議論の核心はほかにあった。その手がかりは、例えば2001年のフランス議会報告書に示されている。つまり、アメリカは外から決して攻撃されないという観念に取り憑かれ、国境の守りに血道を上げ、国際政治の「道徳化」に走っているのだ。こうした観点から読み解くことが、9・11による事態の変化にもかかわらず、アメリカが常にミサイル防衛へと立ち戻っていく姿勢を理解することにつながるだろう。

 米ミサイル防衛構想は1957年、アメリカが外から攻撃される可能性を痛烈に意識したことに端を発している。スプートニク1号が地球の周回軌道に乗ったときのことだ。それが発した信号は、アメリカにとって弔鐘のように聞こえたに違いない。これに激しい精神的ショックを受けたアメリカは、自国を不可侵の孤島と考えることを止めなければならなかった。ソ連はこの宇宙開発での成功により、大陸間弾道ミサイルでアメリカ本土を攻撃する可能性を手に入れたからだ。

 早くも1957年にナイキ・ゼウス・ミサイル防衛計画が立ち上げられた。アメリカに飛来するミサイルを空中で破壊できるような、長射程の核搭載迎撃ミサイルの構想である。弾道ミサイル開発についての「アメリカの遅れ(ミサイルギャップ)」を訴えて1960年に当選したケネディ大統領は、就任後間もなく国策として、大陸間弾道ミサイル改良計画(2)とミサイル防衛構想を同時に進めた最初の大統領となった。1966年のセンティネル・ミサイル計画は、ソ連の標的になりうるアメリカの人口密集地域を守るため、大都市周辺に迎撃ミサイル格納庫を設置するというものだった。防衛対象とされる25の地点に核ミサイルを配備し、敵のミサイルを大気圏の内外で撃ち落すことが考えられていた。

 これに対し、自宅の近隣に核兵器があるなんて考えられない、とアメリカ市民は非常にネガティブな反応を示した。その結果、センティネル計画は1974年にセーフガード計画へと「発展解消」された。防衛対象は都市ではなく、大陸間弾道ミサイルの発射地点に変わった。しかし、ヴェトナム戦争で膨れ上がっていた1970年代の財政赤字と、セーフガード計画に必要な経費を突き合わせると、予算は一地点分しか取れない見通しだった。同じ時期、ソ連は迎撃ミサイルの格納庫をモスクワ周辺に建設している。アメリカと違って、この計画とガロッシュ・ミサイル配備の実現が、国民の反発によって妨げられるようなことはなかったからだ。

三たびの浮上

 1972年の弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約は(3)、戦略バランスを理由として、米ロがともに行ってきたミサイル防衛計画の進展を押しとどめることになった。しかし早くも1976年には、アメリカは内政、予算、技術的な実効性という事情から、ミサイル防衛システムを放棄した。対するロシアは、高性能とはいえないものの、モスクワ周辺に設置したミサイル防衛システムを維持した。かくして初期のミサイル防衛競争はアメリカの敗北に終わった。このときセーフガード計画の中止を余儀なくされたアメリカの若き国防長官が、ドナルド・ラムズフェルドである。以後アメリカのミサイル戦略は、大陸間弾道ミサイルの改良を含めた攻撃的側面を重視し、したがって防衛的側面は二の次にするようになった。だが、一時的に低迷したミサイル防衛計画は、1983年3月23日に劇的な変化を迎えることになる。

 この日の演説で、レーガン大統領は戦略防衛構想(SDI、通称スターウォーズ計画)を公式に発表し、核兵器を「時代遅れで無効な」ものにするという野望を語った。その達成のため、人工衛星と宇宙レーザー網を基盤とし、ソ連から発射されたすべての核搭載型大陸間弾道ミサイルを迎撃できる包括的なミサイル防衛システムを構築するという(4)。レーガンの演説は、軍拡競争を誘発し、膨張財政によるソ連体制の屈服の端緒となったことで、多くの人々の記憶に刻まれるものとなった。とはいえ、一定の留保は必要だろう。周知の通り、当時ソ連はミサイル防衛に関してアメリカよりも進んでいた。また、SDIの野心はすぐに下方修正され、1987年の時点では、ロシアからの第一撃に対してミサイル発射地点を防衛するという構想に縮小されている。

 1991年にSDIは「限定攻撃に対する地球規模の防衛構想」に改称され、迎撃すべき標的の数は減らされた。1976年にセーフガード計画の放棄に至ったときの論理がここでも再現され、SDIは短期間のうちに変質を被ることになる。1991年は、レーガン構想の勢いが失われた年だった。以後の国家ミサイル防衛法は、ならず者国家が発射した短距離ミサイルを迎撃する戦域ミサイル防衛へと、アメリカの努力を集中させることになる。1990-91年に第一次湾岸戦争に突入し、イラクのスカッド・ミサイル、特にイスラエルに対するミサイル攻撃が繰り返しマスコミで取り上げられたことが、教訓として働いた。こうして本土ミサイル防衛、すなわち二つの超大国の対立に基づいた大陸間ミサイル防衛構想は、戦域ミサイル防衛構想に席を譲った。

 以上の通り、1957年から91年の間に、実効性のある大陸間弾道ミサイル防衛システムを展開できたのはソ連の側だけだった。アメリカでは、鳴り物入りの政治的声明に続けて、さまざまなプログラムが次々と生まれたが、まとまりのある総合的な実戦システムに至ったものは一つもない。

 1992年に選出されたクリントン大統領は、本土防衛構想から戦域防衛構想への移行を公式に打ち出した。極めてレーガン的な戦略防衛構想を衣替えし、よりイデオロギー色の薄い弾道ミサイル防衛局(BMDO)を設置した。しかし、三たびミサイル防衛のテーマが浮上したのは、このクリントン大統領の任期中のことである。それは弱体化した民主党大統領と、1995年以降、思想闘争に勝利を収めた共和党が多数を占める連邦議会との力関係の結果だった。連邦議会が決め手に用いたのは、ラムズフェルドが委員長を務めた委員会が1998年に公表した報告書である。この報告書は弾道弾の世界的な脅威を再評価したもので、当事者の意図ではなく能力を基準に置いていた。

 同じ年、パキスタンとインドの核実験、北朝鮮のミサイル・テポドン1号、イランのミサイル発射が立て続けに起こったことで、ラムズフェルド委員会の分析の正しさが証明され、民主党は劣勢に追いこまれた。この成功を片手に2001年に就任したブッシュ大統領が、ミサイル防衛構想に新たな勢いを加えることになる。こうして、アメリカ戦略史上におけるミサイル防衛構想の第三幕が開かれた。その特徴は、ミサイル防衛というコンセプトを体系化し、また地理的な範囲を拡張して、敵のミサイルを発射直後の段階で迎撃するチャンスを高めようとすることにある。

アメリカ人の心理

 このように、ミサイル防衛という発想は、第二次ブッシュ大統領政権で初めて出てきたものではない。恵まれた地理的条件のおかげで、自国の領土が外から攻撃されないという確信が、常にアメリカ人の安全保障観の基盤にある。アメリカの初期、建国の父たちは天佑神助を信じ、自国を地上のエルサレムにたとえた。この文脈にしたがえば、アメリカの領土を侵害することは侮辱であるばかりでなく、自由の神殿に対する冒涜でもあるのだ。そのような挙に出た者は不敬であり、いわば天の怒りを受けるべきことになる。それに対する征伐戦争に打って出る場合、アメリカの戦略は、アントワーヌ=アンリ・ジョミニ将軍(5)の唱えたごとき攻勢の重視と、敵方を戦略的に壊滅させるという前提とに依拠することになる。

 事実、アメリカはミサイル搭載潜水艦、大陸間弾道ミサイル、戦略爆撃機という核戦力の三本柱により、ほぼ地球全土を攻撃することができる。しかし、アメリカ本土という聖域が外から攻撃されないことが保証されなくなった状況下で、この潜在的な攻撃能力にいかなる意義があるというのか。広島への原爆投下でパールハーバーという冒涜を拭い去ったのも束の間、アメリカは早くも1950年代には、自国の領土に到達する可能性のあるロシアの核弾道ミサイル能力と同居するようになった。それはアメリカの「明白な運命」を束縛する異端的な存在と受け止められた。アメリカは核抑止の立場から、世界の終末を回避するための相互確証破壊(MAD)理論に依拠した防衛戦略を強いられるはめになり、この異端の存在はなおさら苦痛に感じられた。このような核をめぐる複雑怪奇で煮え切らない状況は、アメリカ人の心情としては、悪と妥協する許しがたい事態でしかない。

 ゲーム理論の創設者の一人であるオスカー・モルゲンシュテルンは、1959年という時期に依然として、『米国防の問題』の中で核戦略における攻撃能力の重要性を主張していた。これに対してバーナード・ブロディは、同じ年に出版した『ミサイルの時代の戦略』で(6)、MADは「クレムリンが合理性を維持する能力に、アメリカの安全保障を依存させるもの」であり、道徳的に受け入れがたいと反論している(7)。こうした攻撃手段と防御手段のより良い配分という形而上学的な要求から、ミサイル防衛が絶対的な要請として導き出されてくる。それは、アメリカ人の心理が絶えず立ち戻る道徳上の必要事となっている。

 ブロディとモルゲンシュテルンとの論争が起こり、ケネディ大統領就任の少し前に当たる1959年は、重要な節目となった。核の時代における「道徳的」な振る舞いとは、アメリカが外から攻撃される可能性を宿命とみなすことではない。アメリカ人がしばしば、ピューリタンの牧師ジョン・ウインスロップによる「キリスト教的慈善のモデル」という1630年の有名な説教を引用するのは象徴的だ。彼はそこで、アメリカの驚異の運命を知らしめるために「丘の上の街」という表現を使った。それはマキャヴェリ的な物言いとはまったく異なる。アメリカは世界に再生をもたらす注目の的であって、諸国民の確立のために道徳的に振る舞うべきだという。ケネディも大統領就任の11日前に、この説教を引用している(8)。レーガンも何度も引用した。大規模なミサイル防衛計画の開始が、この二人の「道徳的」な大統領の政権下で行われたことは、意味深長である(9)

 現在のミサイル防衛計画は、こうした系譜を踏襲し、新たに反復したものだ。大統領に選出される前の2000年の演説で、ブッシュは攻撃用核ミサイルの数を「わが国の安全保障と両立しうる最少数」にまで削減することを目標にすると強調した(10)。同じ年、後にブッシュ政権の国防長官となるラムズフェルドは欧州諸国を歴訪して、ミサイル防衛の追求は「道徳上の問題」であり、技術上の問題ではないと発言している(11)。一期目の最初にブッシュ大統領が始めた核戦略見直しは(12)、国家的な良心の検証に似ていた。それは、ケネディやレーガンが任期中に遂行した浄めの儀式の繰り返しだった。

 議論のための一つの鍵となるのが、アメリカのミサイル防衛理論の根本には「政治神学」があると指摘した2001年のフランス議会報告だ。天佑神助を信ずる形而上学が大上段にあるアメリカ人の心理と、1957年以来、ミサイル防衛計画が幾度となく繰り返されてきた歴史からすれば、ワシントンが新たに始めたミサイル防衛計画を断念することはないと考えざるを得ない。古い欧州にとって、残された問題が一つある。アメリカのNMDの欧州配備を支持するのか、あるいは欧州独自のミサイル防衛を推進するのか。真の選択肢はそこにこそある。

(1) Rapport d'information no.2961 sur les projets americains de defense antimissile, enregistre le 28 mars 2001 a la Presidence de l'Assemblee nationale.
(2) ポラリス型ミサイルの増強や新しい戦略爆撃機の購入など。
(3) アメリカ合衆国は2002年6月、この条約から離脱した。
(4) ノーマン・スピンラッド「NASA版スターウォーズに隠されたSFの夢」(ル・モンド・ディプロマティーク1999年7月号)参照。
(5) 軍人、歴史家であり、ナポレオンの参謀の一員となった。1839年の『戦争概論』など軍事論について数冊の著作がある。
(6) Bernard Brodie, Strategy in the Missile Age, Princeton University Press, 1959.
(7) Jean-Philippe Baulon, Soixante ans de defense contre les missiles balistiques, Institut de strategie comparee, Paris, 2005 によれば、『ミサイルの時代の戦略』は「技術に対して並はずれた信念を持つか、さもなくば代わりとなる解決法を断念しているかでなければ、現在の防衛だけで事足れりとするはずがない」と述べている。
(8) 1961年1月9日、マサチューセッツ州ボストンでのジョン=フィッツジェラルド・ケネディの演説。
(9) ミサイル防衛計画の「道徳的」な正当化は、強烈な印象を与えた。「命を救う方が、命のために復讐するよりも、良いことではないか」とレーガンは1983年3月23日、テレビ番組でのスピーチで語っている。
(10) << Press conference on security matters at the National Press Club >>, Federal News Service, Washington, 23 May 2000.
(11) Quoted in Ivo Daadler and Karla Nieting, La Strategie de defense antimissile des Etats-Unis, Annuaire francais des relations internationales, Paris, 2002.
(12) 核戦略見直しの目的は、アメリカの核弾頭を7500発から最終的に2500発まで削減することにあった。


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2007年7月号)

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