モロッコに足止めされたアフリカ人たち

ソフィ・ブハーリー(Sophie Boukhari)
ジャーナリスト、在ラバト

訳・近藤功一

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 ヨーロッパの域外国境で密入国を食い止める対策が敷かれたことにより、多くの周辺諸国が移民の巨大な滞留地帯と化している。モロッコには、アフリカからスペインに向かう途上で足止めされた移民と政治難民がおよそ1万人いる。以下のルポが伝えるのは、そうした人々の現状だ。母国を去り、大都市に流れ着き、次々とエスカレートする暴力の犠牲者となる移民たち。彼らはモロッコ政府と欧州連合(EU)の駆け引きの狭間で身動きがとれなくなっている。[フランス語版編集部]

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 色紙や十字架、野花で飾られたテレビのダンボール箱を即席の祭壇にして、何人かのキリスト教徒が集まっている。少し離れた場所では、地面に置かれた石がメッカの方角を指し示す。ここはモロッコ北東の国境に位置する町ウジダ。大学キャンパスの奥まった一画で、この町に足止めされているサブサハラの移民たちは、自分たちの運命を信じ続けるために祈らずにはいられない。彼らは言う、「私たちは神の手のうちにある」と。

 この非公認の移民キャンプ地に、300から400人が暮らす。地元の団体や国境なき医師団(MSF)による支援や、近所の女性たちの助け、また物乞いや賃仕事、闇商売などのわずかな収入で何とか生活している。眠る場所は、細い木の枝やキャンパスの壁から吊るしたビニールシートの下だ。衣服は粗末で、ろくに食べることもできず、警察の取り締まりや、キャンプ内を取り仕切るマフィアの支配に翻弄される。

 ここの住人たちの主な出身地は、ナイジェリア、カメルーン、ギニア、セネガル、マリ、コートジヴォワール、コンゴ民主共和国(RDC)だ。ダルフールから逃れてくる人もいる。年齢は18から30歳で、フランス語圏と英語圏のグループに分かれて暮らす。多くは少なくとも中学校を卒業し、手に職もある。もともとは、職人、商人、工場労働者、公務員、農民、医者、エンジニアなどだった。

 ウジダ一帯は、ヨーロッパに「活路を求めて」旅立つアフリカ人たちにとって、だいぶ前から最後のステップとなってきた。ここを越えれば、より平穏で格段に豊かな「地球の向こう側」に行くことができる。メインルートは初期の頃はジブラルタル海峡だった。次にヨーロッパへの入り口と目されたのは、モロッコの中にあるスペインの飛び地、セウタとメリリャである。この飛び地は植民地時代の遺制である。植民地時代には、地中海を渡る人々の流れは北から南へと向かっていた。

 2002年6月、セビーリャで開催されたEU首脳会議で、当時のスペイン首相アスナールを中心としたいくつかの加盟国が、不法移民対策に非協力的な移民輩出国や通過国に対して、資金援助をストップすると脅しをかけた。彼らが追求する目標は、EUの周りに防疫線を張ることだ。近隣諸国を下請けとして、移民や難民を足止めさせ、それに伴う人権侵害の責任も押し付けようというのである。

 狙い撃ちされる形となったモロッコは、この新しい支援条件を公式に受忍した。地中海諸国向けヨーロッパ基金(MEDAプログラム)の最大の受益国として、その20%を受け取っているモロッコにしてみれば、一大事である。EUからの供与額は、融資を別にしても年間総額1億5000万ユーロにのぼる。

 2003年11月、モロッコ政府は非正規移民に関する法律02-03号を公布した。フランスの法律から着想を得た同法は、政治亡命者、妊婦、未成年の強制送還については認めていないものの、取り締まりが最優先という内容だ。モロッコ政府は実施機関として、内務省内に移民と国境警備の担当部署を新設し、1万人以上の要員を配置した。

 2004年以降、EUとモロッコは連携して、ジブラルタルのルートを遮断した。スペインの飛び地セウタとメリリャについても同様に、2005年秋の流血事件以後はほとんど侵入不可能な要塞と化し、周囲の森はモロッコ軍によって徹底的に捜索されている。移民ルートは、南方に移った。20人から40人乗りの小船「パテラ」でアンダルシアの沿岸に向かうかわりに、100人以上が乗船できる「カユコ」で西サハラからカナリア諸島を目指すようになった。

 さらに2006年には、数万人がモーリタニアのヌアジブ、セネガルのダカールやサン・ルイから、カナリア諸島への到達を試みた。西サハラのルートに比べ、航海はより長く、より危険であり、スペイン当局によると去年は6人に1人が溺れ死んでいる。しかし費用はこちらのほうが安い。アイウン(西サハラ)では1000から1300ユーロとられるのに対して、500ユーロで済む。

30回以上の強制送還

 モロッコ経由がなくなったわけではない。2つの地元団体が運営する移民支援事務所のジェルル・アラジュによると、このルートはセウタとメリリャの惨事で一時さびれた後、再び活発となった。この数カ月、ウジダには毎晩アルジェリアから新たな移民が到着し、ヨーロッパを目指す途中で不意打ちをくらった先客と混ざり合う。「毎週1、2回は強制送還がある」とアラジュは証言する。強制送還されていくのは、海上で臨検にあったり、難破して救出されたり、その暇もなくウジダや他のモロッコ各地で警察の一斉検挙にやられた者たちだ。妊婦、子供、難民、亡命申請者であっても例外ではない。真夜中に、彼らはみな13キロ先のアルジェリア国境まで連れて行かれる。

 多くはすぐにモロッコ側に戻ってくる。その間に、アルジェリアとモロッコの軍隊や、ウジダの貧民窟のチンピラ集団、あるいはナイジェリア人の強盗に身ぐるみ剥がされる。NGO組織によれば、強姦も頻発している。そのうえ、強盗団に誘拐監禁されれば、国に残っている家族が身代金を要求される。

 またウジダには、モロッコで機会を待ちながら、何年も足止めされている古株もいる。34歳のアルフォンスは、2002年8月にRDCを出発した。「私はキンシャサで農学部の最終年度の学生でした」と彼は語る。「私は反ジョゼフ・カビラ派でした。友人たちが逮捕され、追われていることを知った私は、川を渡ってブラザヴィルに向かいました。家に寄って小さな娘に別れを告げる時間も、荷物を持ち出す余裕もありませんでした。その時は、ヨーロッパへ行こうなどと思いもしませんでした」

 3年前からアルフォンスは辛抱強く待っている。ナイジェリアからアルジェリアまで様々な「計画」を試した末に、とりあえずウジダに落ち着いた。そこから何度か、森の中に潜伏してスペインの飛び地を目指したり、仕事を探しにアルジェリアに行こうとした。これまでに30回以上も強制送還にあっている。うち2回は、うまくメリリャに入り込んだ後のことだ。「携帯電話も金も、すべて取り上げられてしまう。トラックに乗せられ、南に12時間走る。そして砂漠に捨てられる。黒人に対する侮蔑以外の何ものでもない」。今日、彼は理工系のモロッコ人学生のために期末の論文の添削、入力、校正などをして暮らしている。

 アルフォンスは、インターネットを通してRDCの改革のための闘争とともに、モロッコで暮らす移民の権利を求める活動も続けている。「ここでは、私たちは怯えて暮らしています。私は不眠症になってしまいました。警察の手入れがいつあるかしれません。金品を取り上げられ、殴られ、一部屋に800人が押し込められて息もできないほどです。私が求めているのは、権利を持つ権利ということに尽きるのです」

 この大学キャンパス内の移民キャンプで、ギュスターヴの評判は非常に高い。彼はネットカフェに「オフィス」を構えている。人道支援物資の分配を安全に実施できなくなったNGO組織との間に立って、仲介役を果たしているのもギュスターヴだ。「みんなに平等に行き渡るように努力しています。中には他人のものを掠め取ろうとする悪いリーダーもいます。昨日、そのうちの一人から殴られましたが、そんなことでめげたりはしません」と彼は言う。

 この春、ウジダのキャンパスは大きな緊張に包まれている。移民の出入りの季節(4月から9月)が近づき、様々な工作が再開されたからだ。2人のナイジェリア人の「議長」が縄張りをめぐって争っている。「何年か前までは、リーダーはインテリでした。経済学の先生だったり、小児科医だったり。キャンプの運営は立派な人たちがやっていたのです」と、ある人道支援関係者は説明する。「しかし時が経つにつれ、人々はますます絶望感に駆られ、他方で政権の姿勢はさらに厳しくなってきました。今では最も乱暴な人間が幅を利かせています」。一握りの連中が闇ルートを押さえ、弱い者から巻き上げ、従わない者を締め上げる。彼らは国境地帯を荒らし回る強盗団の後方基地の役割も果たしている。数百人の移民がキャンパスを避け、周辺の農家の廃屋や森の中の掘っ建て小屋に隠れているのも道理である。

 アリーもその一人だ。「ここのほうが落ち着くんです」と、この24歳の若いガンビア人はきれいな英語で語る。「もう疲れきってしまいました。いろいろと考えています。国を後にしたのは2005年7月15日のことです。2004年まではすべてがうまくいっていました。おじが学費を払ってくれて、バンジュール大学で経済を勉強していました。やがておじが亡くなって、援助してくれる人もなかったので、退学せざるを得なくなりました。送金事業をやっている会社で働き始めましたが、そこは2カ月でなくなってしまいました。勉強が好きでしょうがなかったので、稼いだ金で情報処理の勉強をしました。さらに勉強を続けたかった私に、ある友達がヨーロッパでならできるのではと言ったのです。となれば、彼と一緒に出発するしかありませんでした」

相場の2倍の家賃

 セイドゥは500ユーロをかき集め、セネガル、マリ、アルジェリアを経て、モロッコにやって来た。彼は次のように語った。「2005年秋、メリリャの柵を大人数で突破しようという計画に参加しました。しかしひざにプラスチック弾を受け、スペイン人に捕まり、モロッコ側に追い返されてしまったのです。ウジダまで送還され、それからアルジェリア国境を越えてマグニアに行きました。ひざが悪く、そこでじっとしていなければなりませんでした。アラビア語を話す私に、アルジェリア人は優しくしてくれました。イスラム主義者たちがアルジェまで連れて行って住む場所を世話してくれ、3カ月間そこにいました。しかし彼らは警察から監視されています。ある日、私は逮捕され、すぐ釈放されました。イスラム主義者の一人が、100ユーロを私に手渡し、立ち去るようにと言ってきました。そこでモロッコの森の中に戻ってきたのです」

 「4人の仲間ともう一度、メリリャの柵に挑みかかりました。2人は成功しましたが、私は捕まり、再度ウジダ近くのアルジェリア国境まで送還されました。2006年12月のことです。痛めたひざでは、柵をよじ登ることは諦めざるを得ません。他のやり方を試みるために金を工面しました。アフリカには私の居場所はないのですから」。彼の仲間の22歳のカメルーン人は説明する。「手持ちの資金を使い果たし、手ぶらで国に帰ることなどできません。何か解決策が見つかるまでここにいます」

 ウジダのルートが再び活発になったのは、それまでなかった闇ルートが発展したことによる。ただ現実には、すべては持ち合わせ次第である。ヨーロッパに入るためには、まず資金が、その次に運が必要となってくる。スペインの飛び地の柵を乗り越えるという大概は失敗に終わるやり方は、貧しい者の方法でしかない。1000ユーロある者は、リフ山脈のルートを採る(モロッコ北東の沿岸地方からスペインのアルメリアに向かう)ことができる。運よく誠実な案内人と穏やかな海に出会えればの話だが。

 同じ金額で、車かトラックに隠れてセウタかメリリャに入る方法もある。「飛び地には、麻薬やタバコの密輸がはびこっています。移民を運ぶのもそのひとつでしかありません」と、ある人道支援関係者は語る。今日メリリャでは、アフリカ諸国やモロッコ経由でやって来たアジア系移民が、サブサハラ出身者より多くなっている。「彼らは出発時に大枚をはたきます。一人につき1万ドルという場合もあります。そして非常に組織立った闇ルートを持っています」

 しかし多くの場合、ウジダにひとまず来た者が目指すのは、大西洋側の町だ。「セウタとメリリャの事件以来、2つのはっきりとした傾向が見て取れます」とMSFモロッコのハビエル・ガバルドンは説明する。ひとつは移民の定住化、もうひとつは移民が犠牲者となった暴力事件の増加であり、移民が起こした事件もある。暴力事件の30%近くがアフリカ人の密売人に起因するもの、35%がモロッコの治安部隊によるもの、31%がモロッコ人の犯罪者によるものだ。「強制送還される時に性的暴行にあう例が増えている、という憂慮すべき事態もみられます」と彼は付け加えた。

 モロッコにいる約1万人のアフリカ人移民の80%近くが、主にラバト、次いでカサブランカに集まっている。首都ラバトは、いまや様々な移民ルートの足場として、西サハラやカナリア諸島へ行くには必須の経由地となった。アフリカ人はそこで相場の2倍の家賃を払い、しかも払えなければ痛めつけられる。それぞれのコミュニティーには、拠点地区、リーダー、掟、ネットワークが存在する。「新参者が古参者を食べさせるという構図です」と、移民受け入れセンターを運営するカトリック系NGO組織カリタスのグウェナエル・ド=ジャクロは説明する。「入居するには、50ユーロの『ショバ代』を払わなければなりません」。仕事に就く道がない移民たちは、生き延びるために闇経済を発達させていく。

 「すべてが非常に組織化されていて、その傾向はますます強まっています」と「世界の医療団」のピエール・タンテュリエは言う。「議長」たちは大金を懐に入れている。彼らはグループをまとめ、「子分」たちと「周旋屋」、つまり出入国をアレンジするのに必要な、警察や軍隊も含めたコネを持った人々との取引を仕切っている。

 その他の移民たちは、出発費用を工面するために、できる限りのことを試みる。国に残った家族から仕送りを受ける者もいれば、物乞いをする者、野菜や服を売る者もいる。そして偽札、売春、身分証偽造などの闇取引もある。

フランソワーズの話

 こうした仕組みはますます苛酷になり、弱者の生活は地獄のようだ。第一に女性たちだ。寝る場所あるいは10ディルハム(150円弱)硬貨一枚のために売春せざるを得なくなっている。2004年に来た29歳のコンゴ人、フランソワーズは説明する。「私たちが国を出たのは、どうしようもなかったからです。もちろんこんな生活を望んでいたのではありません。いつも追い払われ、ウジダに打ち捨てられ、強姦されるような生活。いつも男性の後ろに隠れ、その代わりに体を要求されます。そして妊娠するか病気(エイズのこと)になるか。いつこの悲惨な状況から抜け出せるかは、神のみぞ知るです」

 フランソワーズの足取りは、女性の移民に降りかかる悲しいほどよくある苦難に満ちている。「私は政治的な理由から、RDCを2001年に出ました。21歳の時のことです。父はモブツ政府の軍人でした。カビラが政権を取ると、父は北部のキサンガニに派兵されました。ある日、反政府勢力が野営地を襲撃して武器を奪い、父は彼らの側に寝返りました。すると、カビラの報復が始まったのです。キンシャサの自宅にカビラの手下がやって来ました。母は目の前で強姦され、おばは殺されました。私はショックで半身が麻痺してしまいました。近所の人が病院に連れて行ってくれ、1年以上も入院しました。退院したら、家族はブラザヴィルに行ったと知らされました。母は私のためのお金を友人に託しておいてくれました。そのお金を持って、母を探しに出たのです」

 フランソワーズは家族を見つけることができなかった。彼女は家族を探しにカメルーンまで行き、そこで斡旋組織に拾われて北を目指すことになった。「知り合いはなく、先に進むしかなかったのです。ニジェールで、ある男性が私たちをジープに詰め込みました。マリ人、ナイジェリア人、そして女性も2人だけいました。出発です。しかし運転手は私たちを砂漠の真ん中に置き去りにしたのです。遠くにアルジェリアのジャネットの町の光が見えました」

 「黒人でも白人でもない男性が来て、すべてを奪われ、強姦されました。私も、他の女性たちもです。私は血を吐き、窒息しそうでした。しかし先に進むしかありません。ジャネットまで歩くと、『兄弟たち』が私を病院に運んでくれました」。そこで出会った女性が、フランソワーズの世話をしてくれた。「彼女はアルジェに住んでいて、一緒に連れて行ってくれました。家事をし、彼女の美容室を手伝いました。給料ももらい、良くしてくれました。一年間そんなふうに過ごした後、モロッコに行くことを決意しました。2004年のことで、身分証のない者にとって当時はモロッコが最も安全な場所だったからです。アルジェリアで検挙されれば、数千キロ押し戻されることになりますから」

 「2005年、セウタの柵を突破しようと男たちが出発しましたが、私にはできませんでした。あるグループと、夜間に海側から試すことにしました。モロッコ人の先導役たちが、浮き輪代わりにタイヤのチューブを渡し、3人ずつ紐でしばって、曳っぱりながら泳ぎました。でも私の先導役は寒さで手を放してしまったんです。凍りつく海の中に5時間もいました。一人の若いカメルーン人は目の前で溺れてしまいました。明け方になってようやく漁師が私たちを救ってくれました」

 数カ月間、森の中に隠れ住んだ後、フランソワーズはみなと合流してラバトへ来た。「身を隠しながら20日間歩き続けました。2006年2月24日にここに着いたのです」。彼女は今では一人でやりくりし、男性やマフィアを避けて暮らしている。あるモロッコ人女性の台所の隅を月150ディルハム(2000円強)で借りて、そこで寝泊りしている。市民団体や教会の助けも受けながら、もぐりの美容師の仕事から入ってくるわずかな金で暮らす。

 フランソワーズは、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)から難民申請の資格があると言われて申請書を出している。2005年ラバトにUNHCR事務所が開設されてから、月平均100件の申請がある。RDCとコートジヴォワールの出身者が多い。今日までに難民として登録されたのは400人弱で、認定率は17%である。

 しかしながら、フランソワーズが警察の検挙にあわずに済んでいるのは、書類上の身分で保護されているというよりも、目立たないようにしているからだ。モロッコは社会保障の大幅な赤字を強調し、UNHCRやEUが求める難民保護制度の導入に乗り出そうとしない。その結果、難民は滞在許可証も労働許可証も持つことができない。たとえヨーロッパへ渡るのを諦めたとしても、モロッコで新たな生活を始めることもできない。さらに、法律02-03号やジュネーヴ条約で難民の保護が謳われているにもかかわらず、検挙されてアルジェリア国境まで送還される可能性が常に付きまとっている。

 法律家のムハンマド・カシャニに言わせれば、いいかげんに治安一辺倒の発想を断ち切って、包括的な視点で移民問題を捉えるべきだ。「根本的な原因のレベルで行動を」起こさなければならないと彼は言う。そのためにまず必要なのは、アフリカがはまり込んでしまった危機からの脱出に向け、我々が真剣に努力することなのだ。


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2007年5月号)

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