スンニ派イスラム主義諸勢力はヒズボラをどう見ているか

ベルナール・ルジエ(Bernard Rougier)
オーヴェルニュ大学政治学助教授、クレルモン・フェラン

訳・阿部幸

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 ベイルートでは、ヒズボラとアウン派の呼びかけにより、レバノン政府に反対するデモが続いている。この危機と前後して、シーア派社会とスンニ派社会との反目を煽ろうとする動きが強まっている。レバノンだけの話ではない。中東全域がそうした方向に傾いている。その一方で、地域のイスラム主義勢力の大半が、宗派によらず、イスラエルに立ち向かうシーア派組織ヒズボラを支持したことも事実である。[フランス語版編集部]

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 2006年夏、ヒズボラの書記長サイイド・ハサン・ナスララ師が「ウンマ(イスラム共同体)の戦い」と呼んだイスラエル軍とヒズボラの戦闘に際して、レバノンのスンニ派イスラム主義諸勢力の動きは鈍かった。彼らの宣伝ビラや声明文は、このシーア派イスラム主義組織をこぞって支持するというよりも、イスラエルによる爆撃の「野蛮さ」を非難する傾向が強かった。こうしたレバノン国内勢力のむしろ慎重な姿勢とは対照的だったのが、エジプトやヨルダンのムスリム同胞団である。彼らは夏の危機の間を通じて、ヒズボラとの連帯をデモその他によって表明し続けた。

 スンニ派イスラム主義諸勢力のうちに見られる態度の違いを理解するには、イデオロギー、宗派、政治のいずれを重視しているのか、地方、国、地域全体のいずれを活動範囲としているのかに即して、腑分けをしていく必要があるだろう。たとえばヨルダン、パレスチナ、エジプトのムスリム同胞団がヒズボラとの連帯を謳ったのは、イスラエルとの闘争という戦略上、イデオロギー上の要請に基づいている。それに対し、レバノンのムスリム同胞団の場合は宗派間の融合を最優先して、ヒズボラの段階的な武装解除を目指すシニオラ首相を支持した。

 一方には地域とイデオロギー、他方には国と宗派という基本的な分断線に加え、スンニ派イスラム主義勢力はいずれも、それぞれの社会のなかでシーア派に対するスンニ派の正統教義の番人を自任している。さらにもうひとつ、イラク危機という地域全体に関わる要因が絡んでくる。イラク危機をめぐっては、諸派の優先課題は入れ替わり、対立の構図が逆転する。レバノンのムスリム同胞団がイラク国内のシーアとスンニ両派間の接近を図るのに対し、エジプトその他の同胞団の指導部は、和解に向かう気配の薄いイラクのスンニ派勢力を支持する、という構図である。

 ヒズボラおよび広くはシーア派の活発な動きに対し、スンニ派イスラム主義勢力の側は、それに距離を置くグループと称賛するグループに分かれる。これを基本線として、中東のイスラム主義勢力の間には、連携と敵対の組み合わせが何通りも見られる。それがどのような状態に落ち着くかが、今後の情勢展開を決定することになるだろう。

 ヒズボラは1990年代初頭以降、近隣諸国のイスラム主義勢力にとって、イスラエルという強国に対する中東アラブ諸国の報復のしるしと映ってきた。「神の党」を意味するヒズボラは、レバノンのシーア派だけにとどまらず、広く大衆の支持を集めることに成功した。放送メディア(テレビ局アル・マナール)を極めて効果的に活用し、ナショナリズムとイスラム教を中核としたアラブ統一の理想を再び燃え立たせたからだ。体制の存続に汲々とするだけのアラブ諸国の政権は、中東におけるアメリカとイスラエルの数々の企てを前にして、この理想を守り通すことができなかった。2000年5月にヒズボラが「勝利」、すなわちレバノン南部からイスラエル軍を撤退させると、パレスチナの人々の間では、屈辱的なうえに効果もないような交渉という罠に陥ることなく、占領地を暴力行動によって取り戻すことができるのだという確信が強まった。こうして、いつの間にかヒズボラはパレスチナ指導部の規定するものとは異なる方向へと、パレスチナ闘争の意味を変えてしまった。と同時に、同じシーア派のイラン政権内の急進派が、イスラエルとアラブの紛争に介入する余地を作り出した。

 2006年夏のイスラエルとの戦争時、ヒズボラの徹底抗戦が民衆に巻き起こした政治的熱狂に対し、スンニ派諸国では様々なレベルで警戒反応が示された。内政・外政のレベルでは、サウジアラビア、エジプト、ヨルダンが「スンニ派アラブ三角形」を形成し、急進派勢力を抑え込もうとした。それらの勢力は、イランがヒズボラを通じて自国の世論に及ぼす影響力の表れにほかならないと考えたからだ。

 サウジの宗教機関に属するワッハーブ派のウラマー(イスラム法学者)たちの場合は、常に政治問題を宗教問題に還元しようとする保守的な立場から、中東アラブ諸国へのイランの影響力を押しとどめようとして、かねて「異端シーア派」に対してスンニ派が浴びせてきた非難を再び口にするようになった。サウジの大ウラマー、アブドラ・ビン・ジャブリン師は、イスラエルとヒズボラの開戦に際し、ヒズボラとのいかなる連帯も禁止するという宗教見解まで発している。

対イスラエル戦線のシーア派による独占

 ジハード主義のサラフィスト勢力にしてみれば、ヒズボラはすでに満員の市場に乱入してきた狡猾なライバルにほかならない。シーア派に対する彼らの見方は、ワッハーブ派の宗教機関のそれと同じである。ただし、この勢力は、本来のイスラム(サラフ)に近づいていると自負しているため、不信心な西洋世界との交流によって堕落したイスラム諸国政府に従う義務はないと思っている。西洋の影響の拒絶という彼らの主張は、イラン指導部の主張と時に似通う。しかし、イランとは異なり、彼らは闘争の目標を、イスラム教のカリフ制度の復活というユートピアの追求に置いている。(・・・)

 2週間にわたるイスラエルとヒズボラの戦争の後、アル・カイダの理論家たるアイマン・ザワヒリは、何らかの反応を示す必要に迫られていた。彼は不本意にも、ヒズボラと同じ土俵に立つ競争相手と見なされるようになっていた。ザワヒリは、「あらゆるムスリムはどこにいようとも、十字軍とシオニストによる戦争を受けて立つ」べきであると呼びかけた。ただし、レバノンのシーア派組織については一言も触れなかった(1)。この声明の意図は、すでにアフガニスタンとイラクでウンマの戦いが行われており、活動範囲がレバノン南部に限られたヒズボラには、自らの壮大な野心を実現するだけの力はないのだと示唆することにあった。

 スンニ派諸国で見られた警戒反応の最後の例が、ユースフ・カラダーウィ師のようなムスリム同胞団の大物が示した態度である。そこには、アラブ諸国のどっちつかずの世論がよく表れている。彼はヒズボラを政治的には支持すると表明した。しかし、すぐさま、中東全域におけるシーア派の攻勢と目される活動に対しては、スンニ派としての警戒心をあらわにしたのだった。

 ビラード・アッシャーム(大シリア)のスンニ派イスラム主義勢力の場合には、ヒズボラとの固有の対立軸がある。彼らにとって、ヒズボラとは何よりも、1980年代末にレバノン南部における対イスラエル闘争からスンニ派を排除した組織である。「イスラムとしての抵抗」を大義名分としたヒズボラの指導部が実際に推し進めたのは、イスラエルとの間に唯一残る戦線のシーア派による独占でしかなかった。イラン革命体制は1980年代に、ヒズボラを手先として「被占領地パレスチナ」との国境を手に入れた。スンニ派は、イデオロギー的にも社会的にも、シーア派に戦線を横取りされたかたちになり、スンニ派のアラブ大衆によるパレスチナの大義の支持という、それまで自明とされてきた構図は崩壊した。

 パレスチナの大義は、ヒズボラに擁護され、アヤトラ・ホメイニ師の宗教宣伝活動によってイスラム色を強めた結果、パレスチナ難民のみならず広くスンニ派勢力の手から逃れ去ってしまった。パレスチナ解放機構(PLO)の闘士が自分たちの村を取り仕切っていた時代には、パレスチナの大義の下で不遇を強いられていたレバノンのシーア派は、低強度のゲリラ活動を再開し、対イスラエル軍事闘争の当事者であるという栄誉を取り戻した。その一方で、スンニ派のアラブ諸国はだいぶ前から軍事活動を展開する能力を失っており、PLOは1988年以降、交渉による問題解決の道を探るようになっていた。(・・・)

 中東アラブ諸国のスンニ派イスラム主義勢力のはけ口となったのが、アフガニスタンにおける対ソ連戦争だった。類例のない地政学的情勢を追い風として、サウジとパキスタンによる支援の下に、彼らが宗教的な意義と軍事力と国際的な支持との融合に成功したのは、後にも先にもこのときだけである。しかし、ジハードを自己目的化する新たなイデオロギーがペシャワールから出現した結果、彼らは政権奪取の展望を描けなくなり、領土的、戦略的な基盤を失った。

二分されたレバノンのスンニ派

 1990年代には、スンニ派イスラム主義は、宗教上の正統性をめぐる果てしない議論によって疲弊していった。一方、イラン政府の支援を受けたシーア派イスラム主義は、シリアがレバノンに据えた新たな政治体制に合わせて、自らの革命的メシアニズムの論理を修正した。そして彼らはイスラエルに対するゲリラ活動を展開することで、中東の人々から広範な認知をとりつけるに至る。

 現在、スンニ派イスラム主義勢力が、シーア派を非難する中世の文献をそのまま引き写した文章をむさぼるように読んでいるのは、中東における戦略的な失敗の反動である。イスラエルに対する軍事活動能力を完全に失ったと感じられる現状のなかで、シーア派は「偽善者」だと繰り返し糾弾するという発想だ。アラビア半島から生まれたサラフィスト勢力が中東で影響力を増すにつれ、そうした傾向はさらに強まった。本来のイスラムへ立ち戻るという論理は、ほとんど必然的に、「拒絶者ども」たるラーフィドゥーン(2)との関係の険悪化に帰結する。

 2005年2月以降、レバノンのムスリム同胞団と一部のサラフィスト勢力は、ハリリ一族の政治的影響力の基礎を築いた故ラフィク・ハリリに対する評価には留保を残しながらも、この一族に同調するようになった。彼らにとって、中東におけるスンニ派の地位を守ることこそが死活的問題であり、それに比べればイスラエル・アラブ紛争は二の次にすぎないからだ。2003年3月以降、イラクではシーア派が権力を握り、レバノンではヒズボラがイデオロギー的、社会的、軍事的な影響力を拡大し、イランが地域大国として台頭した。これら一連の要因が重なった現状は、中東のスンニ派にとって最悪の将来を予見させるものだ。(・・・)

 とはいえ、これらの勢力のハリリ家への同調は無条件のものではない。そこには、スンニ派イスラム主義勢力の抱える矛盾が凝縮されたかたちで示されている。サラフィスト勢力は、確かにイデオロギー的には「強硬」な路線を譲らない。しかし情勢の変化から利益を引き出すことができると見れば、対立軸の順序を入れ替えて、それまでとは別の記憶や基準に訴えかけることもあり得るのだ。たとえばハリリ家のコスモポリタンな性格やサウジ王家とのつながりは、サアド・ハリリというレバノンのスンニ派の重要人物を攻撃する格好の材料になりかねない。あるいはまた、何か強烈な意味を帯びた問題が国境横断的な焦点と化せば、2005年夏の選挙以来レバノン政府を率いる政治連合のなかで、内部矛盾が一挙に噴き出すかもしれない(3)。その意味で、スンニ派イスラム主義勢力は、シリア体制にとってだけでなく、サアド・ハリリの側近グループにとっても脅威となる可能性がある。2006年8月に国連の多国籍軍がレバノン南部に展開して以降、サラフィスト勢力のイデオロギー的な方向性をどう制御するかという問題が最大の焦点となっているのも、そうした背景があるからだ。

 レバノンのスンニ派急進勢力のなかには、上記の勢力のように宗派と政治ではなく、イデオロギーとイスラム教全体を重視する選択をしたグループも現にある。彼らはレバノンの現体制下での政治参加を拒絶し、国連による国際的な解決を阻止し、イスラエルとの戦争状態を維持しようとする。そしてシーア派のヒズボラによるものであろうとイスラムとしての抵抗活動を支持し、国内イスラム主義勢力と反目する政府であろうとシリアの政府との連帯を目指す。同様の路線は、ダマスカスに拠点を置くハマスの政治局にも共有されている。このパレスチナ組織の指導部は、レバノンのスンニ派勢力が対イスラエル闘争という基本に立ち返って、シリア政府に対する態度を改めるよう説得を試みている。

 レバノン沿岸部のパレスチナキャンプ、アイン・ヘルウェやナハル・エル・バーレドのジハード主義勢力も、やはり同様の方針をとっている。彼らはスンニ派の本義に背かないよう、神学上の問題と戦略上の問題に区別を設けている。宗旨の面からすれば、シーア派を忌み嫌うことに変わりはない。しかし地域規模の闘争という火急の課題にあたり、西洋諸国の思い描く中東構想をつぶすためとあらば、暗黙の協定であれ、ヒズボラと手を結ぶことが正当化される。こうした見地から、アイン・ヘルウェのサラフィスト勢力は、レバノンとパレスチナの民兵の武装解除を求める国際的な解決案を非難する。その一方で、スンニ派としての名分を立てるために、パレスチナ難民キャンプへのヒズボラの影響力の拡大を警戒する。また、ハリリ家に同調したレバノンのスンニ派に対しては、同一宗派だからといって連帯することは一切あり得ない。1990年代を通じてパレスチナ難民を排除し続けた体制の責任は、ラフィク・ハリリにあると見ているからだ。

* 本稿は、次の近刊のある章からの抜粋である。Franck Mermier and Elizabeth Picard (eds.), Liban, une guerre de trente-trois jours, La Decouverte, Paris, January 2007.

(1) アイマン・ザワヒリの声明。アル・ハヤト紙(ベイルート)2006年7月28日付に再録。
(2) アリーより前の初期のカリフを認めないシーア派のことをスンニ派が指して言う蔑称。[訳註]
(3) その顕著な例が、デンマークのマスコミが掲載したムハンマドの風刺画に抗議して、2006年2月5日にベイルートで行われたデモ行進だった。参加者は、デモの際に車に火をつけ、キリスト教徒地区アシュラフィーエの教会に投石し、同じ地区にあるデンマーク領事館の建物に放火した。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2007年1月号)

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