チャベス、モラレス、そしてコレア

モーリス・ルモワーヌ(Maurice Lemoine)
ル・モンド・ディプロマティーク編集長

訳・近藤功一

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 2006年も終わりに近づいた頃、とあるサプライズが起きた。発信源はベネズエラではない。チャベス大統領の再選は、彼にまったく共感を示さない外国メディアでさえ予想していたことだ。一連の社会政策への支持を受けて、チャベスは12月3日に62.89%の得票率で再選を果たした。しかし、エクアドル大統領選でもまた左派の候補者、ラファエル・コレアが勝利するなどと、だれが予想しただろうか。そもそも彼のことを知っている人間がいただろうか。[フランス語版編集部]

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 エクアドル、そこはまさに火山地帯である。1990年6月、エクアドル先住民連合(CONAIE)による未曾有のデモをきっかけに、力強い先住民運動は噴火活動に入った。この運動は以後、10年あまりにわたり国家元首が8回も交代する不安定期を迎える国において、政治的動員力を持った唯一の社会組織として活動を続けることになる。

 たとえば2000年1月21日にマワ大統領が失脚した原因は、国民の不満が爆発し、一部の将校グループ(グティエレス大佐もその一員だった)の支援を受けつつ、先住民が行動を起こしたことにある。マワ大統領は、70億ドルにのぼる財政破綻の解決と金融機関の救済のために、銀行預金の凍結という安易な政策に走っていたのだ(1)。彼の追放後ただちに、民衆政府が形作られるが、1月22日に軍上層部の介入により、政権はノボア副大統領に委ねられる。ノボアはその見返りとして、通貨をスクレからドルに変更した(2)

 ひとまず終息したとはいえ、2000年の蜂起は、先住民勢力の影響力とともに、彼らが一部のメスティーソ(先住民と白人の混血)と共同で結成した政党であるパチャクティク党の影響力を強めることになる。他方、グティエレス大佐は2002年10月22日の大統領選に向け、「ナショナリスト、進歩主義者、ヒューマニスト、革命主義者」を自称して、「第2の独立を築き上げる」ことが必要だと訴えた。パチャクティク党は先住民の候補者を立てることを諦め、この元軍人の支持に回った。グティエレスは、11月25日の決戦投票で勝利し、先住民の出身者も政権に入った(3)。しかし、新大統領はすぐにみなを裏切って、国際通貨基金(IMF)と合意を交わし、構造調整計画を受け入れ、アメリカ政府とコロンビア政府に同調し、ハードな右派の政党キリスト教社会党(PSC)と結ぶようになる。

 それに対してパチャクティク党は、政策構想を掲げるよりも、入閣に向けて大統領与党と協定を交わすことを優先させたため、明らかに新自由主義的な閣僚の任命を阻止するよう圧力を掛けることもなかった。党幹部は支持基盤と疎遠になり、「金色のポンチョたち」と呼ばれるようになる。経済学者のラファエル・コレアは、この時期すでに懸念を示し、「経済分野に関して言えば、(このときの入閣によってパチャクティク党は)IMFと合意を交わすという恥ずべき行為を正当化してしまった」と語っていた(4)。グティエレス大統領は、任用や分断、抑え込みといった手段によって先住民運動の力を削いだ。彼らが政権から抜け、距離を置くようになったのは、2003年7月のことである。IMFや世界銀行との合意は、家庭用ガスへの補助金停止、国営の電力会社や電話会社の民営化といった事態をもたらしていた。石油部門の民営化も計画されていた(5)

 しかしながら、不測の事態によって政策決定者の意向がつぶれるのは、ラテンアメリカではよくあることだ。2005年4月20日には、今度はグティエレス大統領が民衆によって倒されることになる。デモには膨大な数の若者が参加した。シモン・ボリバール・アンデス大学トレド校で教鞭を執るウィルマ・サルガドはこう説明する。「1970年代には、石油輸出によって雇用が生み出された。私の世代は、社会のエスカレーターを享受できた。両親は私たちよりずっと貧しかった。私たちの子供たちは同じ希望を持つことができない。教育に投資しても、彼らが労働市場に出てみると、そこにはもうなにも残されていなかった」。疎ましいイメージが、この大学教員の脳裏をよぎる。「私たちは未曾有の危機の中にいる。ドル化政策は、これを唱道する人々が想像していたようにうまい具合にはならなかった。ドル化によって、国内の生産コストは近隣諸国よりも高くなってしまった。倒産する企業も増えた。とくに農業部門ではひどい。私たちが消費しているのは、アメリカ産のジャガイモ、コロンビアやペルーのスイカ、それに・・・」。消費を大きく拡大した国内経済の活況は、主に輸入、部分的には輸出に結びついている。生産能力や雇用の拡大は見られない。「乗用車を購入するための融資なら、48時間後には受けられる。3ヘクタールのジャガイモ畑に種を蒔くためならば、融資は得られない」と、ある農民は嘆いた。

 こうしてグティエレスは退場した。しかしながら、社会学者のウェルネル・バスケスに言わせれば、「このフォラヒードス(6)の蜂起は、真の社会運動というよりもむしろ、大統領のやり方は反道徳的だったと考えた一部の中産階級の再編だった。このときの社会運動は1カ月半で、政治的な提案もなく退潮に向かった」。もはやお馴染みの構図にしたがって、パラシオ副大統領が政権を引き継いだ。パラシオはコレアに経済大臣の椅子を用意した。

高まる社会的圧力

 中流階級出身で、カトリック系の学校で中等教育を受けたコレアは、コトパクシ州の先住民の村での1年間の勤労奉仕の後、ルーヴァン大学(ベルギー)、イリノイ大学(アメリカ)で高等教育を受けた。左派の「ヒューマニストでキリスト教徒」を自認するコレアは、チャベス大統領と交渉して、5億ドルの対外債務証券の売却話をまとめ、エクアドル産石油をベネズエラで精製する可能性についても話し合った。この経済大臣の発案で、政府は石油収入の使途を見直すことを決定した。国家予算の40%にも及ぶ債務の返済に充てる代わりに、一部は社会支出に振り向けられることになった。

 その頃、アメリカ政府の中には沈鬱な表情が見られた。貧しい者にとって迷惑千万なものがあるとすれば、それは他の貧しい者が自分の借金を返済しようとしないことだ。コレアは、こんなこぼれ話を語った。「この20年間の新自由主義政策が完全に破綻したのを見て、私は経済政策を根本から変えようとした。銀行、石油大手、アメリカ、IMF、世界銀行、米州開発銀行は、権益を守るために大統領に圧力を掛けた。そして私は彼の信頼と後ろ盾を失った」。コレアは、自説を曲げるかわりに、辞任する道を選んだ。

 自由になったパラシオ大統領は、政府から「ナショナリスト・フォラヒードス」勢力を一掃し、産業界と折り合いをつけ、コロンビア政府と和解した(7)。また、国際金融機関との関係を正常化し、アメリカと自由貿易協定の交渉に入った。2006年3月には、全国22州のうち11の州で非常事態が宣言された。「我々はアメリカの植民地になるつもりはない」と叫んで自由貿易協定に反対する先住民のデモが立て続けに起こり、道路が封鎖され、木々が折り倒され、タイヤが炎上し、麻痺状態になったからだ。

 そうした圧力を和らげるために、暫定大統領はすでに2005年5月15日の時点で、政府との契約が遵守されていないという理由の下に、米系多国籍企業オクシデンタル・ペトロリウム(OXY)を追い出し、7億8000万ユーロに及ぶ資産を没収する措置をとっている。これを受け、アメリカ政府は自由貿易協定の交渉をストップした。しかし、この措置は、2006年10月15日の大統領選を前にして、先住民を中心とした社会運動を出し抜くために、その大きな主張の一つであったOXYの追放を政府が自ら実施したものだった。

 一方にはハードな右派勢力、他方には少しばかり色あせた伝統的な左派政党という構図の中で、コレアは様々な進歩主義勢力の寄り合い所帯である新勢力「アリアンサ・パイス」を旗揚げした。ナショナリズムが色濃い同党の主張には、ベネズエラで進行中の出来事が随所に反映されている。

 選挙に勝つために、コレアは先住民運動の支持を必要としたが、やんわりと拒否された。かつてグティエレスと同盟し、分断と弱体化に追い込まれるという散々な過ちに懲りていた先住民たちは、メスティーソに猜疑心を抱き、殻に閉じこもり、もう「レンタルの政治家」は要らないと考えていた。「我々自身の候補者を立てるか、でなければだれも応援しない」。いくつかの州でアンケートを実施して、CONAIEの創始者ルイス・マカスとどちらを大統領候補、副大統領候補にするかを決めようというコレアの提案を、パチャクティク党は退けた。1990年代に存在感を示していたマカスは、しばらく影が薄くなっていたが、グティエレス大統領時代に農業大臣に任命されたことで、再び注目を集めるようになっていた。選挙による政界復帰を決心したとき、彼は大統領になることしか考えなかった。コレアの政治顧問のリカルド・パティノは嘆息する。「ラファエルはこんなふうに言ったんだ。そこに最大の勝機があるのなら、先住民運動を代表する同志の副大統領候補者になることを名誉に思うってね」

先住民勢力も決選投票で支持

 この国にどれほどの先住民がいるのだろうか。右派は10%、左派は25%、ユネスコでは45%という数字を挙げる。先住民は確かに、自由貿易協定やOXYへの反対闘争を成功に導くのに大きな役割を果たしている。しかし、彼らの指導者の一人がエクアドル社会全体の代表として認められる可能性は低い。「マカスとコレア」の組み合わせでは勝てないというのは周知の事実だった。「コレアとマカス」ならいけるだろう。パチャクティク党は分裂した。チンボラーソ先住民運動のデルフィン・テネサカ議長は、「マカスは社会組織の指導者であって、政治のリーダーではないとみなされている。議論の発端はそこにあった」と説明する。2006年6月23日、パチャクティク党の政治協議会が開かれた。13の州組織がコレア支持に回った。その他の州はマカス候補を擁立する。

 完全な分裂状態だ。メスティーソの活動家でさえもコレアに猜疑心を抱いていた。「出身はどこなのか。上流階級だ。下部組織との接点は一切ない」。コレアは、首都キトで最も学費の高い私立サン・フランシスコ大学で経済学部長を務めていたことを非難されている。チャベスがベネズエラから「友人」コレアへの支持をほのめかしたことで、話はさらにややこしくなった。ボリビアのモラレス大統領は、エクアドルに立ち寄ったとき、「先住民の同胞」マカスを激励した。しかし、マカスの主張の内容はコレアと大差ない。農地改革と制憲議会の必要性、プラン・コロンビアと帝国主義の拒絶、ベネズエラ、ボリビア、キューバとの連帯、自由貿易協定の拒否、世界社会フォーラムへの支持などだ。マカスは言う。「我々の運動は、包括的な政策課題への取り組みが必要であることを理解した。先住民問題だけに特化すれば、完全に行き詰ってしまう危険がある。それでは先住民の問題についても、国民的な問題についても、解決することはできないだろう」

 制度的革新国民行動党(PRIAN)の候補者アルバロ・ノボアは、バナナ王でエクアドル最大の富豪である。彼は汚い選挙運動を繰り広げた。チャベスとコロンビア革命軍(FARC)の傀儡コレアは「国民が共産主義、テロ、キューバへの賛同票を投ずるのを見ることはないだろう」というものだ。狙いは分断、票の細分化である。10月15日の第1回投票では、不正もあってのことだろう、ノボアがコレアを抑えて首位に立った。パチャクティク党とマカスは敗れ去った。エクアドルはボリビアではなかった。これら以外の諸政党は端役を演じただけだった。

 余興の時間はもう終わった。第1回投票の時点で、この国の人々のコンセンサスが政治システムの変革の必要性にあることが明白となった。市民運動は決戦投票で、大挙してコレア支持に回った。パチャクティク党、大衆民主党(MPD)、社会党(PS)、民主左翼(ID)、そしてCONAIEを含む200の社会組織などだ。11月26日、左派の候補者は56.67%の票を集め勝利した。

 パラシオ政権時代に改正された石油資源法によって、多国籍石油企業への課税は引き上げられている。コレアにとっては、まだ十分ではない。「5バレルの生産のうち、多国籍企業が4バレル持っていき、我々に残されるのは1バレルというような状況を許しておくわけにはいかない。そうした契約への政府の参加を見直していくつもりだ」。ベネズエラやボリビアと同じ政策だ。コレアは自由貿易協定に反対しており、エクアドルがプラン・コロンビアに関与することも、FARCを「テロリスト」組織とみなすことも拒否している。コレアの政党は前回の議会選で候補者を立てておらず、彼は議会に支持基盤を持っていない。そのため、6〜7カ月のうちに制憲議会を開いて、有権者に直接「共和国の再建」を訴えかけるつもりでいる。

 コレアは2006年6月にこう宣言している。「我々は『チャベス主義者』でも『バチェレ主義者』でも『キルチネル主義者』でもなく、21世紀の社会主義の一翼を成すものだ。それは調整と協力、補完の論理に足場を置き、社会正義、国の主権、天然資源の保護、地域統合を希求する社会主義である」

 彼の構想は、チャベス、モラレス、カストロが唱える米州ボリーバル代替構想(ALBA)に実によく似ている。

(1) 政府はその一部しか返却していない。
(2) スクレの名は、19世紀にスペインの支配からシモン・ボリーバルとともに南米を開放したアントニオ・ホセ・デ・スクレ元帥に由来する。
(3) ニナ・パカリは、ラテンアメリカ諸国で初めて先住民出身の外務大臣となった。
(4) Kintto Lucas, El movimiento indigena y las acrobacias del coronel, Tintaji, Quito, 2003.
(5) エクアドルは、ラテンアメリカで5番目の産油国である。
(6) 「無法者」の意。大統領が反対勢力を罵倒するときに使った語が、逆手にとって使われるようになった。
(7) エクアドル政府が、コロンビアを引き裂く紛争に対して中立を守り、エクアドル領内へのコロンビア軍の侵攻に抗議し、反乱勢力をテロリストとみなすことを拒否したことによって、パラシオ政権の初期にコロンビア政府との緊張が高まった。


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2007年1月号)

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