「汎アラブメディア」の担い手たち

ムハンマド・エル・ワフィ(Mohammed El Oifi)
政治学者

訳・福島ひろこ

line

 サウジアラビア資本のアッシャルク・アル・アウサト紙に寄稿していたニューヨーク在住のエジプト人、モナ・エルタハーウィは、寄稿を打ち切られたことをインターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙上で暴露した(1)。この日刊紙は、特定の国ではなくアラブ全域の読者を対象とした汎アラブ紙で、「アラブの国際紙」と銘打っている。社主はリヤド州知事のサルマン王子であり、エルタハーウィは打ち切り決定を彼の意向によるものとみている。アラブ人の寄稿者が掲載紙の決定に楯突くのは異例であり(2)、多くのジャーナリストが事態を深刻視した。そして、サウジ・レバノン系ジャーナリズム界の重鎮であるジハード・ハゼン(3)とサミール・アッタッラー(4)を筆頭に、アッシャルク・アル・アウサト紙を擁護する論陣を張った。

 1990年から91年の湾岸戦争以降、バグダッドが壊滅状態になり、サウジの王族が汎アラブメディアを独占したことで、中東情勢に関してサウジ外交に都合のいい論調が幅を利かせるようになった。しかし現在では状況が変わり、サウジの影響力に翳りが生じている。第一に、96年11月にカタールの首都ドーハで設立されたテレビ局アル・ジャジーラの出現などにより、アラブのメディア事情が変化した。サウジとレバノンによる汎アラブ報道網の独占に終止符が打たれたのだ。第二に、9・11の影響がある。サウジ政府の対外的な地位は低下し、対アラブ政策と対イスラム政策に関してアメリカから注文を付けられるようになった。その結果、サウジ政府は国内問題に専念し、「サウジ第一主義」をうたわざるを得なくなった。サウジ・レバノン系メディアの汎アラブ志向に反する路線である。

 これらのメディアは、9・11以降に新自由主義的な論調を尖鋭化させた。その中核グループは、批判勢力から「クッターブ・アル・マリン」すなわち「海兵隊の御用ライター」と揶揄されている。彼らはアメリカの中東戦略を擁護し、アラブ世界における宗教・社会改革の必要性を主張する。その一方で、政治的変化を奨励することには否定的である。こうした傾向により、サウジは二重に得をすることになる。国内的にはイスラム主義反対勢力を封じ、政権に近い一握りの新自由主義勢力の求心力を高めることができる。対外的には、アメリカ寄りの論陣を張るサウジの王族、というイメージを演出することで、アメリカ側の厚意を引き出すことに成功している。

 サウジによるアラブメディア支配戦略は、1970年代初頭に開始された。当時の目的は、エジプト大統領ナセルがラジオ局「アラブの声」を通じて広めていたプロパガンダに対抗することだった。サルマン王子はメディア支配の重要性にいち早く着眼した。その主要な成果として、アッシャルク・アル・アウサト紙の買収が挙げられる。同紙は78年7月4日にロンドンで、サウジ国籍のアリ・ハーフェズ兄弟、ヒシャームとムハンマドによって創刊されており、創刊には、長い間サウジ諜報機関の上層部にいた「カマル・アダムとトゥルキ・アル・ファイサルの関与」があった(5)

 この新聞の論調は、サウジの外交政策の方向性を如実に反映している。例えば2003年のイラク戦争が始まる前、サウジ政府の慎重な姿勢に比べ、同紙の論調は際だって好戦的だった。ところがその頃、実際は両国政府の間では、アメリカ人ジャーナリストのボブ・ウッドワードが明らかにしたように(6)、当時の駐米サウジ大使バンダル王子の仲介により、イラク戦争開始に向けた調整が行われていた。つまり、サウジの真の外交政策は、政府の公式声明よりもアッシャルク・アル・アウサト紙上にこそ読み取れるのである。

「親アラブ派」と「欧米派」の二陣営

 もう一つの有力なサウジ資本の日刊紙、アル・ハヤト紙は、1946年に当初はレバノンの日刊紙として創刊された。創刊者は同国のジャーナリスト、カメル・ムルーウェである。保守派の同紙はサウジやヨルダンの王家に近く、欧米との同盟関係を支持する立場を取り、ナセルの政策や58年のアラブ連合共和国(エジプトとシリアの合併)の誕生に反対した。ムルーウェは66年に暗殺されたが、犯人はナセル配下の諜報機関だといわれている。同紙は76年、レバノン内戦の勃発後にいったん廃刊された。

 88年10月30日、カミルの息子のジャミールは、サウジの国防大臣の息子であるハーリド王子から資金援助を受け、ロンドンを拠点としてアル・ハヤト紙を復刊した。ハーリド王子は後に同紙の社主となる。この新聞は90年から91年にかけての湾岸戦争の最中に、フセイン体制を「悪玉」に仕立て、アメリカの介入を正当化するのに決定的な役割を果たした。また、クルド人やシーア派をはじめとするイラク反体制派に紙面を提供した。こうした特異な姿勢が、キリスト教徒のレバノン人による創刊という事実と相まって、同紙は批判勢力から「王子のために働く一握りの人々」という烙印を押されている。

 とはいえ、アル・ハヤト紙は現在にいたるまで多元的な新聞であり続けている。同紙には「親アラブ派」と「欧米派」の二陣営に大別されるジャーナリストたちが併存する。汎アラブ的な見地からの報道をうたっているが、主流を占めるのはレバノン系のジャーナリストであり、国民国家を称揚し、アラブの連帯感情を見下す傾向が強い。

 アメリカは、こうした「欧米派」の人々にアラブ世界とりわけイラクに関するメディア戦略を任せてきた。例えばラジオ局サワとテレビ局アル・フッラのトップには、アル・ハヤト紙のワシントン支局長経験者であるレバノン人のムワッファク・ハルブを据えた。また、1998年にチェコのプラハでラジオ・フリー・バグダッドを開局した際も、やはり同紙の記者であったクルド系活動家のイラク人、カマラン・クラ・ダリに運営を委ねた。2004年5月、任期を終えてイラクを出国する直前のブレマー行政官は、クラ・ダリと別の同紙記者ジャラル・マシュタの二人をイラクのラジオ局とテレビ局のトップに任命している。

 アル・ハヤト紙がアラブのメディア界に占める特権的な地位に対しては、妬みの声にとどまらず、実情を踏まえた批判も向けられている。その急先鋒は、同紙の副編集長を務めたパレスチナ人ジャーナリスト、ビラール・ハサンである。彼はアル・ハヤト紙が抱える矛盾の中核を浮き彫りにした。汎アラブ紙でありながら、その論調の相当部分を牛耳っているのは「急進的反アラブ主義」で知られるレバノン系ジャーナリストであり、彼らは「国民国家の価値を極端に称揚し、アラブ人の連帯意識ないし連帯感情に配慮しない。ましてイスラム教徒の連帯などは眼中にない」という。

アメリカの中東政策の情報源に

 中でもハサンが槍玉に挙げるのは(7)、「植民地主義を恩恵と考える」ようなアラブ新自由主義の筆頭に位置するレバノン人ジャーナリスト、ハゼム・サギエである。ハサンはその一方で、こうした新自由主義勢力に対し、同紙内部でも「憤りの叫び」を上げた者がいることを指摘し、アブデルワッハーブ・バドラハーンやダウード・シリヤンの名を挙げている。バドラハーンは辞職に追い込まれ、現在はアル・ジャジーラと同じくカタールの資金により、新たな日刊紙の創刊を準備中である。シリヤンの方はごく最近、サウジ資本の汎アラブテレビ局、アル・アラビーヤのナンバー2に任命された。アッシャルク・アル・アウサト紙の元編集長で、同局のトップに移ったアブデッラフマーン・ラーヘドの新自由主義路線との「均衡」を取るためだろうという(8)。このエピソードに明らかなように、サウジ系メディア界には単純に割り切れない側面もある。

 とはいえハサンの分析にしても、不十分だと言わざるを得ない。ハーリド王子(2005年8月1日に死去したファハド国王の甥)がアル・ハヤト紙の論調に及ぼす影響力について、言及されていないからだ(9)。サギエの激烈なアラブ民族主義批判は、確かに個人的見解によるものではあるが、アラブ民族主義との闘争というサウジ王家の方針から少しも逸れるものではない。同様に、イスラム主義とナチズムの類比というサギエの主張も(10)、国内のイスラム主義反対勢力の信用失墜と抑圧に一役買っている。ハサンの批判がハーリド王子の影響力にまで及んでいないのは、彼がサルマン王子の所有するアッシャルク・アル・アウサト紙の寄稿者でもあることと、無関係ではない。

 サウジ系メディアの新自由主義路線の尖鋭化は、アラブ向け広報戦略で失敗したアメリカの中東政策にとっても(11)、非常にありがたいものとなっている。メディアをめぐる両国の共謀関係を示唆するのが、アラビア語報道の翻訳を行うイスラエルの機関、中東報道研究機関(MEMRI)の方向性である(12)。MEMRIが翻訳する記事は、サウジ系メディアに執筆するジャーナリストのものに偏っている。この機関によって大量に配信されるアラブメディアの翻訳記事は、極めて巧みな情報操作の一環として、絶大な効果をもたらしている。

 サウジ王家から外交面での庇護、資金面での援助、配信面での物的支援を受ける汎アラブメディアは、アラブ世論の多数派の声を隠蔽している(13)。それにもかかわらず中東情勢の緊張が高まった際には、少数派意見にすぎないメディアの論説が、往々にして多数派の意見であるかのように世界に流される。彼らが築き上げた「架空のアラブ世界」は、世論と完全に乖離している。2003年のアメリカによるイラク侵攻や、2006年のイスラエル軍によるレバノンのヒズボラ制圧時に、これらのメディアが掲げた支持はそのようなものでしかない。アメリカの政界やメディアが中東政策の根拠としているのは、こうした誤った情報源なのである。

(1) Mona Eltahawy, << A perilous dance with the Arab press >>, International Herald Tribune, Neuilly-sur-Seine, 19 June 2006, http://www.iht.com/articles/2006/06/19/opinion/edelta.php
(2) Fawaz Turki, << How to lose your job at a Saudi newspaper >>, The Washington Post, 15 April 2006.
(3) Al-Hayat, Beirut, 9 July 2006.
(4) Asharq Alawsat, London, 14 July 2006, http://www.asharqalawsat.com/leader.asp?section=3&article=373135&issue=10090
(5) サウジのジャーナリスト、アブデルアジズ・ハミースが、ヒシャーム・アリ・ハーフェズにテレビでインタビューした際に用いた表現による(http://www.hishamalihafiz.com/tv_ar.htm)。
(6) ボブ・ウッドワード『攻撃計画 』(伏見威蕃訳、日本経済新聞社、2004年)。
(7) 以下の引用は、ビラール・ハサンのアラビア語著作『降伏の文化』(リヤド・エル・ライース・ブックス、ベイルート、2005年)79ページおよび135ページによる。
(8) 報道機関をめぐる同氏へのインタビュー(アラビア語)が、サウジ紙アル・メディナ2006年11月3日付に掲載されている(http://www.alarabiya.net/Articles/2006/11/03/28776.htm)。
(9) 同紙の寄稿家であったラフィーフ・ラハダルは、ハーリド王子の命令で寄稿を打ち切られている。See Barry Rubin, << What's wrong with the Arab liberal critiques of the Arab society ? >>, The Middle East Review of International Affairs, Jerusalem, December 2005.
(10) ハゼム・サギエ、アル・ハヤト紙(ベイルート)2006年7月20日付、http://www.daralhayat.com
(11) Art Levine, << Bad reception >>, American Prospect (online edition), Boston, 11 July 2005, http://www.prospect.org/web/page.ww?section=root&name=ViewWeb&articleId=10595.
(12) See << Desinformation a l'israelienne >>, Le Monde diplomatique, September 2005.
(13) アル・ハリーシを編者とするアラビア語著作『対イラク戦争に対するサウジの寄稿家およびサウジの報道機関の方向性』(アスバル・フォア・スタディーズ・リサーチ・アンド・コミュニケーションズ、リヤド、2005年)。


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2006年12月号)

All rights reserved, 2006, Le Monde diplomatique + Fukushima Hiroko + Okabayashi Yuko + Saito Kagumi

line
表紙ページ 本紙の位置づけ 有志スタッフ
記事を読む 記事目録・月別 記事目録・分野別
メール版・お申込 読者の横顔
リンク(国際) リンク(フランス)