西洋思想によって照射された中国思想

フランソワ・ジュリアン(Francois Jullien)
パリ第七大学教授、現代思想研究所所長

訳・斎藤かぐみ、にむらじゅんこ

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 魅惑と恐怖、あるいは拒否反応。私たちは中国を前にした時、この先も揺れ動くことになるのだろうか。西洋を基準としたカテゴリーにはめ込むことをやめようと考えるならば、この国についての知的理解を支える条件をもっと整える必要がある。責任の一端は中国学研究界にもあるだろう。研究者はたいていは、思想的な運動から離れたところで学界向けの特殊専門的な知識を生み出すだけで、問題提起を行ってこなかった。そうしたなかで、中国についての言説がメディアに溢れ返っている。「人間的成長」がどうこうと陳腐な文句をならべてみせる。筆書きされた漢字を見るだけで舞い上がる。孫子(1)の論だの風水の作法だのを聞きかじった企業経営者が、征服の夢をまくし立てる。そんな風に「中国熱に浮かされて」いるような言説も少なくない。

 こうした閉塞状況から抜け出すことができるだろうか。中国が世界の舞台に堂々たる復帰を果たしつつある現在、この問題は差し迫って重要である。学問の中に閉じこもろうとすることも、イデオロギーに染まった言説に傾くことも退けるならば、哲学的な問題提起と中国研究者としての仕事との相互作用を追求していくしかない。言うまでもなく、慎重と忍耐の要る作業である。型にはまった考え方とメディアの喧伝から離れるならば、中国理解をめぐる問題は難題となる。以下に論じる中国の西洋化過程における現行の課題と限界という問題も、その例に漏れない。

 歴史を振り返ってみよう。中国が好んで西洋と遭遇したわけではない。西洋の方が二度にわたり、最初は16世紀、次いで19世紀に中国にやって来た。最初の遭遇は宣教師を介して、どちらかと言えば平穏裡に進行した。宣教師たちは、少し前にアメリカ大陸の先住民を改宗させた時と同じように、さしたる抵抗もなしに現地住民を教化できると考えていたが、すぐに落胆した。二回目にやって来たのは、宣教師ではなく大砲である。目的はもっぱら経済であり、阿片貿易が絡んでいた。中国はこの劇的な状況下で、ヨーロッパからの「借用」を大急ぎで進めるという苦渋の選択に追い込まれた。つまり、西洋が圧倒的優位に立つ分野(経済、技術、科学)では、西洋に学ぼうとしたのだった。

 なぜ、そうした過去の歴史に立ち戻る必要があるかと言えば、現在の中国の抬頭だけを見ていると、この時の傷跡が見えなくなるからだ。中国は現在もなお、世界との関係構築において、この古傷を引きずっているからだ。19世紀以前にも、中国が何度となく征服を受けていることは事実だが、かつての征服民族は辺境の遊牧民にすぎず、彼らの望みは結局のところ「文明化」つまり漢人化されることだった。これに対し、ヨーロッパの諸民族は中国史上初めて、中国を打ち負かすだけでは満足せず、自己の文明を押し付けてきた征服者である。20世紀初頭、最悪の従属状態におかれた中国で、壮大な問題が提起された。いかにして西洋に追い付き、追い越すことができるのか。こうして、科学と政治を手始めに、西洋モデルの移転、西洋モデルへの順応が続々と進められた。

 現在、西洋化の過程はどこまで進んだのか。中国は西洋にほぼ追い付き、今では追い越しにかかっている。この過程で、西洋からの借用と、それに相対する中国の「伝統」らしく見えるものは、どのように連結しているのだろうか(ミシェル・フーコーを踏まえてなお、私は「伝統」という言葉を使いたい。伝統はまさに「外から」感知されるものであるからだ)。今日、中国はうまく二つを共存させているように見える。あるいは一方は他方の後景に、陰に留め置いていると言った方がいいかもしれない。毛沢東の言う「二本の足で歩く」、つまり西洋の足で前に進みながら、もう一方の足を支えにするという状態だ。こうして現在のように、二つが共存し、重なり合う体制が作り上げられた。例えば医療には、中国式と西洋式の二つがある(料理も同様だ)。ヨーロッパ由来の外科術による手術を受けることもできれば、鍼や薬草で治療してもらうこともできる。大学を見ても、西洋哲学科と中国思想学科が併設されている。頭の中に二つの「キーボード」が次第に備わったような具合である。

 中国人の物事の運び方は、今では私たちと同じであるという反論をよく聞く。私たちと同じように計画を立て、同じようにモデル化を行っているではないか、と言う。確かにその通りだ。しかしながら、彼らが私たちの体系の整合性から引き出したリソースを存分に利用する一方で、数千年にわたって自分たちが構築してきたリソースにも立ち戻れる可能性を温存していることを忘れてはならない。二つのリソースを使い回せるというのは、現在の中国人が手にした大きな利点であり、戦略的に活用されている。

 二つのリソースの効果は、国際関係を眺めわたせば、様々なところに見て取れる。例えば中国で契約交渉中のヨーロッパ企業があるとしよう。滑り出しは上々かもしれない。相手先企業の責任者も、パリの理工科学校やカリフォルニアのスタンフォード大学の出身だろう。彼らは英語に堪能で、モデル化思考も手慣れているなど、共通点が多い。ところが、安心して話が快調に進む法律経済的ビジネス英語という「業界言語」に収まっていたと思いきや、いつの間にか何かが動き出し、流れの途中に入り込んでいることに(時に遅まきながら)気付く。状況(あるいは「状況の潜性」と言った方が正確かもしれない)が少しずつ変わっていく。一方の立場は強くなり、もう一方は動揺して立ち往生するはめになる。

「隔たり」から対話へ

 中国人は二重文化性に非常にうまく適応しており、それが何をもたらすかもわきまえている。事態の進展は目覚ましい。今日、中国の書店には「中華精神」にちなんだ本が多数ならんでいる。「要はこういうことだ。あなたがた西洋の論理というやつもあるが、それとは別に『我々の思想』もまた存在する」という主張を聞くことも稀ではない。平行線的な見方が強まり、中国とヨーロッパの隔たりが広がる。10年前の中国はまだ、西洋文化をくぐり抜けるという屈辱を忍ぶほかなく、黙して受け入れるという風潮があった。それが現在では、「あなたがたヨーロッパの規範は、もう過去のものだ」という言説が広まりつつある。

 ヨーロッパの絶頂期は過ぎ去ったと多くの中国人が考えている。その時期のヨーロッパの多産性は、一定の拡大条件に支えられていた。しかし、それらの条件はもはや存在しない。中国が「静かな変革」によって世界の新たなリーダーのひとつになりつつあるのは、必然の結果である。しかも中国は、派手な(逆に言えば制しやすい)立ち回りによって存在感を増そうとはしていない。独自の流儀で、淡く、茫洋と、徐々に、見たところ力の入らない形で、存在感を増している。中国人の観点からすれば、要は世界史が正常な展開に立ち戻っただけのことにすぎないのだ。彼らの見るところ、長期にわたったヨーロッパ文化の暴走期という歴史上の括弧が閉じられるだけのことで、それ以前の歴史を続行する潮時である。

 14-15世紀まで、中国もヨーロッパと同じぐらい(むしろ中国の方が)技術的に発展していたことを忘れてはならない(木造帆船、火薬、印刷術などを見るがいい)。ジョゼフ・ニーダム(2)によれば、16世紀の時点でも、ヨーロッパならばレオナルド・ダ・ヴィンチのような技術と数学に長じた者が、中国にもやはり存在した。その一方で、ギリシャ(アルキメデス)に由来する「モデル化」の操作は、中国では生まれなかった(生まれるはずもなかった)。それはヨーロッパでは、ガリレオとともに新たな飛躍を遂げた。数学は以後、中国に見られたような演算手続きの集積にとどまるものではなく、神が世界を書くのに用いた理想言語に変わり、私たちに自然を制圧する足がかりを与えることになった。

 もちろん、中国は決して「動かずにいた」わけではない(物事は遠くから眺めれば、動かずにいるように見えるものだ)。中国は常に変化してきた。変化を表す「化」という語は、中国思想の鍵でさえある。しかし中国は、キリストを事件と見なし、ガリレオを事件と見なす西洋ほど、事件や断絶というものを特別視してこなかったと言ってよい。中国からすれば、それらは度はずれた突発事であり、いわば文明の軌道逸脱に見えるのではないだろうか。そう考えるなら、中国の古傷が何を意味するかがよくわかる。私たちの文明の最も最近の「軌道逸脱」、つまり近代科学とその技術的応用は、あまりに度はずれたものであったため、これを前にした中国はひとたまりもなかった。屈服するほかなかったのだ。

 とはいえ、中国がまだまだ「屈服する」には、つまり私たちのモデルに順応するにはいたっていない分野もあるのではないだろうか(少なくとも政治の分野はそうだ)。私が中国思想をヨーロッパ思想に対して「構築」していると非難する人々がいる。民主政と自由に対する中国人の新たな希求を過小評価し、さらには押し隠すことになると言う。それに対する私の立場をはっきりさせておきたい。第一に一般論として、方法論について述べよう。私は中国思想を「構築」しているわけではない。私が心がけているのは、中国思想とヨーロッパ思想との隔たりを作動させ、それぞれのリソースを浮かび上がらせ、両者の間に対話を生み出すことだ(それに、思想は常に「隔たりによって」進展するものではないだろうか。アリストテレスがプラトンから隔たり、カントがヘーゲルから隔たったように)。私が論じる「中国思想」は、ひとつの実体ではない。私は常に文献学者として、歴史の中に位置付けられた個別のテキストから出発する。「中国思想」とは私にとって、単純に中国語で表現された思想を意味する(ギリシャ思想はギリシャ語で表現された思想を意味する)。

 研究対象のテキストに関して同時代の帝政期の註釈を用いるのも、当然ながら、その帝政のイデオロギーに信服しているからではない。註釈の事業は帝政とともに始まり、帝政下で行われたもの以外の註釈が存在せず、対象テキストについて(自分の空想を投影しようとするのでなく)中国式の解釈に立ち入ろうとするのであれば、それらの註釈をたどっていくのが適切であるからだ。このような方法が、続けて自由に解釈の腕を振るい、註釈の依拠するイデオロギーを論難する妨げとはならないことは言うまでもない(拙著『迂回と接近:中国とギリシャにおける意味の戦略』を見られたい)。

 他方、私は哲学者として、概念を用いる権利を要求する(概念の道具なしに哲学することができるものだろうか)。概念を用いるとは、歴史とそれがはらむ緊張や複雑性を看過したり、軽視したりすることではなく、理論上の問いを立てるということだ。大別すれば、中国学の方法は二通り考えられる。ひとつは、主要な著者(今日では荘子が脚光を浴びている)について、伝統的に書き継がれてきた「生涯と著作」をはじめ、中国で作り上げられた標目をそのまま踏襲する方法だ。もうひとつは、ヨーロッパに対する中国の外部性(事実を示す観念である外部性、もしくは「異所性」であって、構築された観念である「他者性」とは異なる)を利用して、理論対象の精錬に踏み込んでいく方法であり、私はこれを「外部光学」と名付けている。第二の方法は、そうした二重の光源から出発して、私が「人類の自己反射」と呼ぶ作業へといたる。

自由と中庸

 例えば、自由の観念を例にとってみよう。西洋において、政治的要請としての自由の観念の起源はどこに求められるのか。周知のとおり、ギリシャ時代である。ペルシャの大王という侵略者との戦いに敗れた場合に、ギリシャの都市国家が失うおそれがあるもの、自由はまずそのようなものとして考えられた。自由(エレウテリア)の観念は、この戦いの中で、つまり外敵に直面して作り上げられた。それに対して、諸侯が立ち並ぶ時代の中国は、都市国家時代のギリシャと同様の状況におかれたことはない。中国の場合は、独立を守るために団結して戦う必要がなかった。都市国家の崩壊が決定的となった時代のギリシャの哲学者、とりわけストア派の哲学者は、束縛からの解放にこそ人生の目的があると述べ、この要請が西洋では後世にわたって内面化されていく。同様の内面化の動きが、中国の思想家に見られることはなかった。

 古代中国の思想家は、内的な自由よりも「自律」に依拠することにより、つまり自らにしかるべき掟を与えることにより、「融通無碍」とでも呼ぶべき思想を展開させたように思われる。それは、すべてに対して可能性を開いておくということだ。というのも、賢人が懸念するのは、物事の一面にのみ関心を向け、他の面を見落とすはめになる偏向であるからだ。孔子について、こんな風に言った者がいる。「出仕した方がよい場合には出仕し、辞した方がよい場合には辞す」。ここにすべてが語られている。知恵とは、それだけのことでしかなく、すべてはそこに尽きる。「彼の知恵とは、時機の知恵である」と、孔子について孟子は述べた。すべては「時機」の問題である。言うなれば臨機応変の機会主義、あるいは「中庸」の問題と言ってもよい。ただし、ヨーロッパで俗に言われる意味での「中庸」とは違う。

 ここで言う「中庸」は、古今東西に普遍的に見られた知恵を指すわけではない(中国のある種の基本文献を訳す際に、この語が用いられてきたとはいえ)。中国的な意味における「中庸」を捉えるためには、少なくとも二つの方法がある。まず、両極端の間の均衡点として捉えてみることができる。例えばアリストテレスが言うように、気前の良さというのは吝嗇と浪費の中間にある美徳の頂点(アクメー)であるという捉え方だ。しかし、こうした幾何学的な発想は、ほどなく弱々しい発想にすり替わってしまう。つまり、「過度に走ってはいけない」と格好を付けた凡庸さであり、なまぬるく、ぱっとせず、引け腰で、危険を冒そうとしない知恵にすぎない。

 この点については、中国はなかなか興味深い。中国の賢人の中庸とは、両極端に等しく開かれつつ、双方に振れることができる状態であって(この「等しさ」こそが「中」である)、慎重に中間を採ることでも、どちらか一方だけを採ることでもない。私がしばしば論じてきた17世紀の思想家、王夫之はこう述べている。父親の死後、3年間の喪に服したからといって、長すぎるということはない。また、宴席で酒量を気にせず杯を重ねたからといって、すなわち飲みすぎとは言えない。賢人は「時機」に応じて、喪に沈むことも酔いに沈むこともできるものである。もう片方に開かれてあるために、もう片方に沈み込まないことが大事だ。なぜならば、逸脱というのは、酒を飲む日があることではなく、飲まずにはいられなくなること、つまり酒に執着した状態にとどまることにあるからだ。さもなければ、酒のない状態に戻る可能性は閉ざされてしまい、依存してしまうことになる。

 しかし、こうした「融通無碍」の下で、自由が展開するいかなる余地があるだろうか。自由はヨーロッパにおいて、束縛からの解放を理念として掲げ、隷属や人間性喪失を拒否することを通じて勝ち取られたものである。それは政治の「諸形態」の構築によってのみ、成しえることができた。 中国に欠けていたのは、この理念性という背景である。ヨーロッパを築き上げた理念性は、私たちにはあまりに馴染み深く、疑問に思うことすらない。とりわけ私たちは政治的な自由について、プラトンからモンテスキューにいたるまで(すでにヘロドトスの時代から)、「諸々」の政体の比較を通じて、それに好意的な政治形態とそれを脅かす政治形態とを対比させつつ、絶えず考えてきた。中国においてはどうだろうか。考えられてきたのは君主政、それだけである。天子の善し悪し、秩序の有無、それ以外にはない。貴族政や民主政といった他の形態を探したところで見つかるはずもない。

 それゆえ中国には、秩序を保つためには統一的な権力が必要だという通念がある。それは過去においては天子であり、現代においては党である。 共産党が引き起こしたあらゆる惨禍にもかかわらず、民主政への希求をさしおいて、今日でも共産党が一種の基準系であり続けている理由はそこにある。

 このような中国人の考え方を推し進めていくと、「権力の座にあるのが暴君だったらどうするのか」という問いに対し、干渉せずに成り行きにまかせると答える者さえ出てくる(後3世紀に活動し、中国史上最も傑出した思想家のひとりである王弼の著作による)。暴君が人民を虐げるがままにさせ、そうした暴虐の果てに墓穴を掘って、行き過ぎによって転覆するまで放置するのがよいという考え方だ。これは、反乱の正統性を掲げ、新たな政治モデルの確立を謳う革命の思想からはかけ離れている。

 革命という思想がヨーロッパから来たものであることは、是非もない事実である。中国は、革命の思想を生み出さなかった。19世紀の終わりに私たちから借用したのだ。もちろん、中国語にも、この観念に対応する訳語はある。しかし、中国語の「革命」は本来「授権を絶つ」という意味である。つまり、堕落した王朝をより優れた他の王朝に置き換えるということだ。飽くまで道徳の問題である。何らかの構想に基づいて社会秩序の諸条件を変革するわけではないという意味において、それは革命の問題ではない。ここに中国の悲劇の核心がある。中国は、権力・権威の関係に絡め取られている。したがって、すべてが政治的であり、何事も政治を免れることはできない。中国はその一方で、政治的なるものについても、それがもたらす解放力についても、思考をめぐらせることがなかった。唯一の出口は、道家が行ったような竹藪への隠遁である。しかし、そこも所詮は危うい辺縁にすぎず、天子の影を逃れることはできない。

超越性と包摂性

 中国とヨーロッパのこうした隔たりが、また別の隔たりと交錯する。ギリシャにおいて、いかなる思想家も避けて通れなかった問題があるとすれば、それは真理の問題である。このことは懐疑派にも、さらにはプロタゴラス(3)のようにあらゆる真理基準を退けた思想家にも当てはまる。批判あるいは幻滅を姿勢とする場合も含めて、すべては飽くまで真理とその要請に従った関係のうちにある。私たちは、そうした思想を引き継いでいる。一方ではパルメニデスが唱えたような存在と真理との接合(4)、他方ではプラトンが唱えたような真理と意見との分離に立ち戻ることなしに、ヨーロッパの哲学は理解することができない。それに加えて、ヨーロッパでは対決という価値が、試金石の役割を果たしてきた。ある考えを主張しようとする言説がある場合、それが真理であるかどうかを検証するには相対立する二つの言説が必要であるというのが、ギリシャの大いなる思想である。それでは、中国のように、こうしたことが問題にされない場合はどうなるのか。古代中国思想の主要文献をひもとけば(儒学であれ道学であれ)、真理は問題にされていない。中国における知恵は、真理に基づいて決着の付けられるものではない。そもそも知恵とは「決着を付ける」ものではない。

 中国でも古代末期には、議論が行われ、反論が戦わされていた。 諸々の立場が、なかでも人間の本性の問題をめぐって形成された。しかし、当時の議論に関わっていた思想家は皆、彼らにとって不毛な偏向、さらには一種の陥穽と思われたものに対して、警戒心を抱いていた。真理なるものは常にひっくり返される可能性があり、反論の果てしない応酬を引き起こし、つまりは活力を消耗させるだけのものではないか。賢人は、ある見解を他の見解に対して擁護したりしない。とりわけ、他人と異なる考え方を採ろうとはしない(思い起こせば、哲学的に思弁するというのは、異なる考え方を採ることである)。賢人は、あらゆる見解を自分の見解のうちに包摂し、「皆と同じように」考えるのである。

 こうした「融通無碍」は、道教の「道」の包摂性と照応する。しかし中国の場合にも、ギリシャの思想家と同様の概念を論じた思想家もいたという意味で、こう言ってよければ「ギリシャ的思想家」が存在した。その筆頭が後期孟家である(5)。彼らは幾何学や光学に関心を持ち、定義を作り、反論の手順を練り上げた。後期孟家は、中国語で「当」と称する「適合性」の発想、つまり真理に関する見事にスコラ哲学的な定義につながるような発想も持ち合わせていた。だが、後期孟家はそこで終わってしまった。成り行きや変化、つまり状況をめぐる思考から、真理を抽象することはなかった。それに加えて、彼らの思想自体が「根付く」ことなく、たちまち歴史にかき消されてしまった。中国人がヨーロッパ的な論理を初めて知り、そのあおりで後期孟家に再び関心を向けるようになったのは、20世紀初頭のことでしかない。

 以上の見地からすると、ヨーロッパの力、あるいは多産性は(私はここで他者性ではなく「リソース」の観点から述べている)、現象や経験、そして力関係の次元を超えて、知解と理念の次元を作り出したことにある。もちろん理由はほかにもあるが、このことは、ヨーロッパにおいて知識人というものが生まれ、それが中国では阻まれたことを理解する一助となる。知的、政治的な反体制的立場は、力関係とは別の次元に立脚することなしには構築されえないものだからだ。現象界を超えた「別の次元」に多少なりとも依拠することができないなら、正義や真理といった(本質たる)超越的な価値の作用を欠くならば、歴史について判断を下し、歴史との実存的な断絶を図ることはできない。

 こうした「背景」による所与、束縛あるいは多産性を念頭におくことなしに、現在、中国で起きていることを理解することはできない。確かに、目が見えて耳が聞こえる以上、中国にも反体制派が存在することを認めないわけにはいかない。しかし、彼らが現在にいたるまで、代替的な勢力になりえなかったことを、いかにして説明できるのか。あらゆる圧制に付き物の警察国家的な論理を考えるべきだというのは、もっともな反論だろうし、中国の政権と全体主義の犠牲者は数しれない。しかし、こうした純粋に歴史的な認識だけで、この問題を論じ尽くすことはできない。ヨーロッパにおいて、審判者と批判者を自任する主体という立場の出現を可能にした条件を考慮すべきだろう。中国では何千年にもわたり、あらゆる事柄を調整や調和、すなわち「道」の視点から思考してきた。文人層は何世代にもわたり、暗示的に斜めから語ることを好み、間接的な言い回しをよしとする政治言説を培ってきた。中国において、「私は糾弾する」と簡潔に、公然と言うためには、いかに多大な努力が必要とされることか。

 *本稿は、アラン・グレシュ、マルティーヌ・ビュラールとの議論をもとに、ティエリー・マルシェースによって文章化された。

(1) 前5世紀の兵学家。『兵法』で知られる。[フランス語版編集部註]
(2) イギリスの研究者(1900-95年)。中国科学史に関する百科全書『中国の科学と文明』を書き上げた。[フランス語版編集部註]
(3) ギリシャのソフィスト(前485-411年)。[フランス語版編集部註]
(4) ギリシャの哲学者、パルメニデス(前6世紀後半〜5世紀半ば)は、真理(アレテイア)を存在と、意見(ドクサ)を非存在と同一視し、両者の間に根本的な区別があるとした。[フランス語版編集部註]
(5) 儒家や道家の思想と対立する中国の思想家、孟子(前470-391年)の思想の流れを汲むのが孟家である。[フランス語版編集部註]


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2006年10月号)

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