フィリピン民主主義、裏切られてきた希望

ダヴィド・カンルー(David Camroux)
国際研究所(CERI)客員研究員

訳・日本語版編集部

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 2006年2月24日、グロリア・マカパガル・アロヨ大統領は非常事態を宣言する大統領令を発した。公式の理由は「左翼活動家と右派軍事冒険主義者」のクーデタの機先を制することだった。政府に不満をもつ士官たちが武装蜂起を準備していたのを発見したと政府は言明していた。大統領に抗議する民衆の翌週末のデモに軍人も加わって「オプラン・ハックル」という名称で行動を起こす手はずだったとされた。非常事態宣言後、逮捕の脅しを受けた6人の議員は国会議事堂に立てこもり、当局は反乱容疑の活動家の名簿を作成した。フィリピン共産党指導者で亡命中のホセ・マリア・シソンと民族民主戦線(NDF)の代表、ルイス・ハランドニの名もその中にあった。

 海兵隊の反乱は速やかに抑えこまれた。2003年7月の失敗に終わった反抗のとき、別のある精鋭部隊の300人がマニラ市の金融街マカティの商業施設を数時間にわたって占拠したのと同様だった。軍の反乱分子は叱責を受けて兵営に戻された。2名の上級将校、特殊偵察部隊長のダニロ・リム准将と海兵隊のアリエル・ケルビン大佐は、ともに1989年の未遂に終わったクーデタに加わっていたため「前科のある犯罪人」として逮捕状が出ていた。1週間後の3月3日、将校層との対話に取り組んだアロヨ大統領は非常事態宣言を解除しつつも、逮捕状、デモの禁止など一部の措置は続け、報道検閲の威嚇をちらつかせていた。

 この悲喜劇的な事件もまたフィリピン政治の芝居がかった側面を示すものだと言って済まされかねない。しかし、民主主義に拠って立つことを大いに誇りとする国でこのようなことが起こるなら、その深い理由を探る必要がある。かくも多くの希望を裏切られた国民はアジア諸国でも希である。

 アジアの植民地の中でいち早く1898年に独立をはたしたフィリピンの第一次共和国は間もなく押しつぶされた。フィリピンは米国の植民地となり、最初は暴力によって、続いて「親切」によって支配された(最初は銃、次は選挙)。その後1935年に自治権を得、1946年に独立をはたすまで植民地の時代が続いた。日本の占領(1942〜45年)が引き起こした破壊と、フク団による内乱(1)、そして1953年から57年まで大統領だった民族主義者ラモン・マグサイサイの死からかろうじて立ち直ったフィリピンは、アジアにおける冷戦ゲームの単なるコマになってしまった。アメリカ最大規模の国外基地(2000年に閉鎖)が置かれていたこの国の頂点に、何代も無能で腐敗した大統領が現れ、アメリカから巨額の支援を得ていたのである(2)

特権層支配と教会の役割

 フィリピンの政治は、地政学的要因や、個々の人物の行動に左右された要因以外にも、いくつもの特色をもっている。第一に、少数特権層による支配がある(3)。現在東南アジアと言われている地域のなかで、フィリピンは、植民地以前の村落(バランガイ)を超える規模の政治的構造をもたない唯一の国である。この国はまた、植民地化(スペイン、次いで1898年からはアメリカの)の影響が最も大きかった国でもある。初期の文化人類学者が村の「豪傑」と呼んだ者たちは、スペイン植民地時代のボスとなり、次いでアメリカ植民地時代および現在は地域指導者となっている。とはいえ、フィリピン政治が、未発達な「地方主義」で動いていると考えるのは間違いである。こうした地方主義は、スペインにより、そして特にアメリカによって徐々に導入されてきた政治機構の影響のもとで変化を遂げてきたからだ。

 19世紀末にはすでに現地エリート層が出現していた。大半が「メスティーソ」、すなわちスペイン人、中国人、マレー人などとの混血の彼らは、主として地主であり、貿易とプランテーションの飛躍的発展に乗って経済的支配力をもつようになった。彼らをとりたてることで、この唯一の植民地を民主主義のモデルケースにしようともくろんでいたアメリカは、彼らの経済的支配力が比較的強力な政治的権力も伴ったものになるように計らった。

 フィリピンにおける利益誘導型政治は、この時期に確立された地域的基盤にもとづく、理論的には民主主義、実質はエリート主義のシステムで動いている(4)。1907年に行なわれた初の議会選挙のときには、有権者は成人の総人口の3%しかいなかったが、フィリピン自治領政府として独立をめざし初代大統領を選出した1935年には14%になっていた。

 フィリピンの政治においては今なお少数の地主階級が不釣り合いに大きな役割を演じているが、工業とサービス産業の発展に伴って新しい有力者層が出現した。加えて、普通選挙と全国選挙によって、地域選出の政治家(市町村長、下院議員、州知事)と全国名簿から選ばれる政治家(上院議員、そして特に大統領)との間に分化が生じている。かつては、大統領候補といえば、ほとんどが名家の出か、地元に権力基盤をもつか、あるいはこの両条件を兼ね備え、上院を踏み台にするものだった。ところが、マルコス独裁体制の終焉(1986年)以降、ハイパーメディア化の時代の中で、全国的集票が必要となり、これが別の種類の候補にとってますます有利になってきている。つまり映画スターやテレビの有名人である。たとえば2001年に選出された上院議員24人のうち6人は全国的知名度をもつ元俳優、テレビ司会者、スポーツ選手だ。

 1987年憲法は、政治における世襲的特権を排除するねらいをもったもので、とくに議員の再選に制限を加え、下院の一定議席を政党別名簿で選出された議員に与えることにより、左派の独立議員が一応は議会に登場するようになった。だが、全体としては政治的特権階級の役割はむしろ強まっている。フィリピン調査ジャーナリズム・センター(PCIJ)の行なった調査によれば、2004年、下院議席の3分の2は少数の有力者一族で占められている。しかも、議員の資産は1992年の第11回議会から2001年の第12回議会までの間にほぼ3倍に増えている(5)。全国区政治家は資金と票を地域有力者に依存し、地域有力者は自分の利権を守るために国政にもメディアにも渡りをつけられる人脈を必要とし、かくして両者の間に相互依存関係が生まれたのである。

 第二の特徴は、社会に宗教が深く根を張っていることである。フィリピンでは、政治家の発言のなかに道徳的教訓が頻りに登場し、またカトリック教会が独自の役割をはたしている。教会の役割については曖昧な点がないではない。フィリピンで最高位の首座司教であるハイメ・シン枢機卿と司教協議会は1986年のマルコス、2001年のエストラーダの退陣を促進した。教会は、民間の選挙管理機関である自由選挙国民運動(ナムフレル)を援助し、信徒に投票を奨励することで、民主的政治過程に正統性を与えることに大きく貢献した。ただし、教会の姿勢には限界もある。カトリック教会は、さながら典礼を重視するように、民主的な「儀式」、すなわち選挙の実施を第一に考え、その結果までは顧みなかった。エヴァ・ロッタ・ヘドマンが最近指摘したように(6)、教会は、先に述べた少数エリート層と同様、権力をもつ支配的ブロックの一部として考えるべきである。大きな不平等を抱える社会において選挙過程のみを重視したために、教会上層部は、エリート階級の特権を強固に確立し防衛している制度の延命に図らずも手を貸してしまったのだ。

 とはいえ、フィリピン人の80%がカトリックといっても、教会の教えは必ずしも守られていない。たとえば、離婚は禁じられているが、婚外関係は珍しくなく許容されている。また、女性の35%が避妊をし、違法の妊娠中絶をする女性は年間40万人から80万人にのぼる(7)。しかも、主流のカトリック教会は、イグレシア・ニ・クリストという分派や、攻撃的な福音派のプロテスタント諸派の挑戦を受けており、教会自身の内部からも数千万の信者をもつエル・シャッダイというカリスマ運動が現れている。改宗した元不動産屋の「ブラザー・マイク」を指導者とするエル・シャッダイをはじめ、諸々のカリスマ運動は、アメリカのテレビ宣教師の影響を強く受けて、貧困は本質的には個人の問題であり、個人的努力と神の介在によって解決されるのだとする「繁栄の神学」を説いている(8)

軍の政治介入

 フィリピン政治の第三の重要な要素は、軍の政治への介入である。軍として指導的な役割を演じたことはないが、上級将校が教会とならぶキングメーカーとして重要な政治勢力をなすにいたった。その政治化を加速したのが、1972年のマルコス政権による戒厳令布告である。彼は「収奪政治」体制を維持するため家族や子分を軍の枢要な地位につけて特権を与えることで支持基盤を固めた。マルコスの失脚は、国防相ホアン・エンリレと副参謀長フィデル・ラモス将軍がコラソン・アキノ陣営に寝返ったことによって早められた。1986年にひとたび民主政治が回復されると、アキノ大統領、次いでラモス大統領は再び軍の将校層に依存するようになる。

 だが、政治介入は上級将校に限ったことではない。ウェストポイント米陸軍士官学校に範を取ったフィリピンの軍学校では文民権力への服従と民主社会の防衛が教えられてはいる。だが、安い給料で、ルソン島の共産党系ゲリラ新人民軍(NPA)やミンダナオ島のイスラム分離主義勢力を相手に、危険で士気を沮喪させる鎮圧作戦に従事させられる若手士官にとっては、マニラに居座って現場に来ない上層の将校連が享受している特権と富も、いいかげんな文民権力の迷走する政治も容認できるものではない。マルコス体制下で、これらの離反将校は国軍改革運動(RAM)を結成、それを指導したのがグリンゴことグレゴリオ・ホナサン大佐(後に上院議員)だった。急速にロビン・フッドのようなイメージを獲得した彼は、2006年2月24日に公表されたクーデタ容疑者リストの筆頭格である。最近では若手将校連盟(YOU)が同様の役割を演じている。

 フィリピンには、不幸な意味でいくつかの記録的数字がある。人権擁護団体カラパタンの調査によれば、政治的殺人事件が2001年以来400件あり、そのうち83件はバヤン・ムナなど2つの左派政党の政治家、約70件は農地や農業労働がらみの紛争に関わった農民または農民指導者、18件は労組運動家か労働者、26件は政治的囚人とされていた非武装のイスラム教徒、24件は弁護士や聖職者を含む人権活動家とジャーナリストが犠牲者である(9)

 この国は誘拐事件の発生件数でもアジアで有数の記録をもつ。2005年に警察に届出があった件数は44件だが、これは氷山の一角である。中国系フィリピン人の家族の大半は通報しないからだ。子どもの人身売買は年間6万人から10万人にのぼる(10)。これはただの犯罪活動ではなく、軍や警察の共謀、あるいは少なくとも承認のもとに民兵や暗殺部隊が関与している。勇気ある報道機関やNGOがこうした犯罪を告発し、犯人の名を明らかにしている。しかし、逮捕に至るのはわずかであり、有罪となる件はなおさら少ない。

 この国の政治にはある程度の暴力容認傾向が見られる。それが、2004年の選挙で運動中に殺された人が20人にのぼった原因のひとつになっているのは確かだ。政治の犯罪化も憂慮すべき要素である。ミンダナオ島のイスラム分離主義運動アブ・サヤフは誘拐によって得た身代金を自己資金とすることをなによりも優先しているようだ。新人民軍の場合も革命税を取り立てることが自己目的化しているふしがある。

中産階級と海外への出稼ぎ

 フィリピン政治の第4の要素は、中産階級が存在感を表すようになってきたことで、これはきわめて重要な点だと見做してよい。この階層を動員できたことが、ピープルパワー1と2のまさしくキーポイントだった。しかも、これらのサラリーマン層は利益誘導とは関係がなく、市民社会の諸活動の豊穣な基盤を形成している。

 じつに、この国は、世界経済の流れが国民経済にもたらす帰結を示す顕著な実例となっている。国内に捌け口がないため、国外に雇用を求めて出ていく「足による投票」(11)の道を選ぶフィリピン人がますます増えている。在外者数1000万を数えるこの国は、移民の数ではメキシコ、インドに次いで世界第3位である。2003年のアジア開発銀行の推算によれば、在外フィリピン人の本国送金額は約76億ドルで、GDP(国内総生産)の10.5%、輸出収入の20%に相当する(12)

 在外フィリピン労働者(Overseas Filipino Workers=OFW)からの送金は明らかに有益な効果をもたらしている。とくに1997年のアジア経済危機からの立ち直りはこの資金があったからこそ可能だったのであり、海外出稼ぎ労働者からの送金はこの国の外貨準備高の45%に当たる。国内消費の飛躍的増加も、これによってもたらされた。

 だが、この現象は社会的観点から見るとさまざまな代償も伴っている。単親家庭が増えていること、農村部の一部に送金依存症候群が見られること、生産的活動に投資するより奢侈品の消費に金をつぎ込む傾向など。もうひとつの帰結は看護師の慢性的不足である。断然報酬の高いアメリカやヨーロッパ、それに日本などの一部アジア諸国に雇用を求めて出ていってしまうからだ。こうした例はほかにまだまだある。

 政治的観点から見ると出稼ぎのコストはおそらくさらに高くつく。外国に行くのは最も高い資格をもち動機づけも確かな人たちなので、彼らの不在によって、この国を変えていく力をもった人材が失われるからだ。マルコス政権の転覆には在米フィリピン人の果たした役割が大きかったのだが、近年の傾向からは、OFWの新世代が本国の出来事に関心をもたなくなっていることが窺われる。在外フィリピン人も、たとえば有権者登録し投票することは可能だ。だが、2004年の選挙で有権者登録したのはOFW170万人のうち36万8000人にすぎない。投票した人はこれよりさらに少ない(13)

 この「フィリピンのケース」は、より広い意味で、二つの重大な問題を提起する。第一は、「市民社会」のメディアと諸団体が、社会正義の推進において、いかなる役割をはたしうるのかということだ。フィリピンのマスコミはアジアでいちばん自由で勇敢であり、エリート層の腐敗その他の悪業を暴露してきた。しかし、それが犯罪者の逮捕や起訴に結びついたことはなく、なによりも彼らを政界から追放するに至ったことはない。第二のより根本的な問題は、一定水準の経済民主主義なくして政治の民主主義は成立可能なのか、ということである。総人口の40ないし50%が貧困ライン以下の暮らしをしている国で、自由と友愛が最低限の平等なしに存在しうるだろうか。

(1) 最初は占領軍に対する反抗だったが、ついで大地主に対する反逆となった。
(2) アメリカの役割についての概論としては以下を参照。Amy Blitz, The Contested State : American Foreign Policy and Regime Change in the Philippines, Rowman & Littlefield, Lanham (Maryland), 2000.
(3) 最近刊行された次の2つの著作が対照的だが相補的な見方を示している。Eva-Lotta E. Hedman and John T. Sidel, Philippine Politics and Society in the Twentieth Century, Routledge, London, 2000 ; Patricio N. Abinales and Donna J. Amoroso, State and Society in the Philippines, Rowman & Littlefield, Lanham, 2005.
(4) John T. Sidel, Capital, Coercion and Crime: Bossism in the Philippines, Stanford University Press, (California), 1999.
(5) Sheila S. Coronel, The Rulemakers : How the Wealthy and Well-Born Dominate Congress, Philippine Center for Investigative Journalism, Quezon, 2004.
(6) Eva-Lotta E. Hedman, In the Name of Civil Society : From Free Election Movements to People Power in the Philippines, University of Hawaii Press, Honolulu, 2006. 第2章が指導エリート層について総括している。
(7) International Herald Tribune, 16 May 2005.
(8) See Katharine L. Wiegele, Investing in Miracles : El Shaddai and the Transformation of Popular Catholicism in the Philippines, University of Hawaii Press, Honolulu, 2005.
(9) James Petras and Robin Eastman-Abaya, << Philippines : The killing fields of Asia >>, Counterpunch, Petrolia (California), 17 March 2006, http://www.counterpunch.org/petras03172006.html
(10) The Nation, Bangkok, 17 March 2006 ; International Herald Tribune, 9-10 April 2005.
(11) 公共的に提供される社会条件の違いによる移住を、政治的な意思の表明として捉えた語。[訳註]
(12) Asian Development Bank, Enhancing the efficiency of overseas workers remittances, Manila, 2003 (http://www.adb.org/Documents). 非公式の送金を加えれば、この比率は30%に達する。
(13) Financial Times, London, 8-9 May 2004.


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2006年6月号)

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