顔面移植手術をめぐって

フランソワ・ドラポルト(Francois Delaporte)
ピカルディ大学哲学教授

訳・岡林祐子

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 2005年11月27日、日常生活が困難になるほどの重傷を負った女性に対し、世界初の顔面の部分移植が施された。この手術について激しい批判が巻き起こったのは、なんら意外なことではない。執刀医のベルナール・ドヴォーシェルとジャン=ミシェル・デュベルナールの行為は倫理に反するものであり、華々しい成功を得ようとしただけだという批判である。いかにも、医学知識と道徳の番人にとっては、今回の手術はただならぬことであった。

 「倫理派」の信ずるところによれば、移植手術という技術の目的は、人命を救うこと以外にはあり得ない。人間は身体の障害とはうまく折り合いをつけていけるものだ。顔面の部分移植などという軽はずみな手術の対象にされたケースについても、従来のように何らかの人工的な補綴物を用いれば十分である。功を急いだ先走りの医療を試みるよりも、責任ある態度を採るべきだった。

 しかし、事態はそれほど単純ではない。それを理解するためには、歴史的な経緯を簡単に振り返る必要がある。器官の摘出に関する1976年12月22日の法律、通称「カイヤヴェ法」には次のように記されていた。「(・・・)遺体からの摘出は、治療目的または科学的な目的がある場合、これを実施することができる」。同法では、治療目的の範囲について明確に示されておらず、摘出可能な器官の種類についても限定されていなかった(1)。1988年に、国家倫理諮問委員会がこの点についての指針を示すと、その解釈に食い違いが生まれた。「救命に直結する可能性のある器官の移植と、結果の予測できない実験行為が異なることを看過してはならない」という指針(2)に対して、きわめて短期間のうちに、限定的な解釈が優勢となった。つまり、確実に人命を救うことができる器官しか移植は許されないという解釈である。こうして、生死にかかわり、表からは見えず、根源的な移植と、余計で、二次的で、付け足しの移植とが、厳然と区別されるようになった。重大で崇高な心臓外科手術に比べれば、外見の手術など表層的なものにすぎないとされたのだ。

 ゆえに、今回の顔面移植に対して、医療界の保守的な体質から、従来の治療法(人工的な補綴物)への過信に基づいた批判が起きたのは驚くことではない。変わり果てた女性の顔を前にした外科医の見解はまったく逆で、移植手術を試みないことは、危機に瀕した人を救護する義務に反する行為だと考えた(3)。もちろん、成功の見込みがなければ手術を行なうべきではなく、執刀医として予後の悪化を想定しなかったわけではない。しかし、慎重を期するあまり安全策だけしか採らないとしたら、新たな治療法の源泉となるべき医学知識のあり方そのものを否定することになる。安全な治療法を確立するためには、望むと望まないとにかかわらず、どうしても最初に誰かが危険を冒さなければならない。

 「倫理派」と現場の医師の見解は、障害の性質についても、手術自体の性質についても、徹底的に対立している。「倫理派」にとって、生命にかかわる器官の損傷は容認できないものであり、損傷した器官は絶対に取り替えなければならない。それに比べて、見た目が悪くなるというだけの障害ならば容認しうる。たしかに、心臓を移植すれば人命が救われるという主張は、間違ってはいない。しかし、価値というものは生きた存在の中にある。我々をこの世界に結びつける関係性と、器官や神経からなる生命とを切り離して考えるのは、おかしな話である。移植手術は後者の意味における損傷器官に限定すべきだと言うのも同様である。

 人はたしかに心臓のおかげで生きている。しかし人の生命は、隠喩としてのイメージを担った肉体によっても支えられている。手袋の指を裏返すがごとく、内面は表層において外部にさらされる。ムンクの叫び、心からの叫びがあれほど耐えがたく聞こえるのも、内面を人目にさらさないためではなかっただろうか。忘れてはならない。人の感情は、時々刻々の変化から生まれている。そして、移植手術を受けることにより、自己表現の力を取り戻すことができるのだ。

 今回の移植手術は、臨床実験のたぐいと見なすべきものだろうか。もちろん違う。治療法を評価するための臨床実験が、患者の合意によって行なわれたという事態であれば、むしろ問題はない。しかし今回の手術は、ある医療上の問題に対して、ひとつの解決法をもたらそうとするものだった。重大なケースである。ある治療行為の意義を認めない人々がいるからといって、その行為が治療目的の適切な手術の数に入らないことにはならない。

 初めての事例となる外科手術はひとつの実験である。だからといって、治療目的という性質が失われることはない。倫理学者のエマニュエル・イルシュは、今回の手術がまだ「純粋な実験」段階にある点を強調することにより、治療とはすべからく実験であるという明白な事実に思い至らせてくれた。そこで問うべき問題は、この手術が無害なのか、有害なのか、あるいは有益なのかの一点に尽きる。現時点で、ひとつだけ確かなことは、クロード・ベルナールが述べているとおりだ。「実験について、炉辺で話しているだけの人々は、科学のために何もしていない。それどころか、科学の邪魔をしている(4)

 安全策を主張する人たちにとって、今回の顔の損傷は手術するに値しない。患者にとってのリスクという点からして、免疫抑制治療が必要になることの方が病的な状態であり、ささいな不自由をなくす代わりに慢性的な病的状態を出現させるのは良くないからだ。したがって、そのような解決策を治療法として提供するのは、倫理にかなっておらず、採るべき処置は全体的な治療計画の中に位置づけて考えるべきだという。しかしながら、この議論は、本末が逆でなければならない。つまり、その処置が長期にわたる制約を患者に強いることになるという理屈のもとに、初めての事例となる手術を断念するのは倫理的ではないのである。

 「倫理派」のためらいは、救命に直結する移植手術に対する全面的な賛成と表裏一体の関係にある。あるいは、死の淵を遠ざける移植手術と言ってもいい。こうした見方をするならば、移植医療というものが、ある枠組みの中へと押しやられることになるが、その枠組みは早々に砕け散ってしまう。生命を救うことと崇めることの間には、たった一歩の差しかない。その一歩を踏み越えれば、生命の捉え方が、厳正というよりも何か抽象的なものに変じてしまう。たとえば、手段を問わない延命措置が施される。生命として、これほど不自然な状態はない。これも救命に直結する。これも死の淵を遠ざけている。だが、それはどのような生であり、どのような死であるのか。要するに「倫理派」は、形而上的な生命なるものに医療技術を服さしめている。それとは逆に、現場の医師は、医療技術を形而下の生命に役立てる。顔面移植手術の目的は、自然な状態を取り戻すプロセスにある。周到に準備を整えた執刀医の技量は、自然な状態を利用し、誘導し、そして支援する。患者の形質と機能の回復をはかるために。

 「倫理派」はさらに究極の問いを突きつける。どうしてまた、これほど弱々しい患者に対して、これほど重大な手術を施すなどという真似ができたのか。ドナーは自殺者であり、移植を受けた女性にも自殺未遂の経験があると複数の新聞が書き立てたほど、この患者は弱々しい。こうした報道がたとえ事実だとしても、手術に反対する理由にはなり得ない。一方が自殺を成し遂げ、もう一方が自殺に失敗したことで、予想もつかなかった状況が生じている。遺族にとっては、ドナーの死が、提供行為によって結果的に有益なものとなったように受け止められる可能性がある。移植を受けた女性にとっては、身体の一部を失ったという事実は、乗り越えるべき障害として生きられている。自分の姿に無関心ではいられなくなり、自己への配慮を取り戻す。姿を見せようとするのは、生きる理由があるからだ。

 手術に耐えるには精神的な安定が必要であるという議論は、理不尽であると同時に危険でもある。理不尽だというのは、自分の外見に無関心であることが、自己を律する能力があることだという話になりかねないからだ。障害を負った人が、普通の生活をその精神力に応じて切り開けるのなら、その人に移植手術は必要ない。危険な議論だというのは、性格の強さが手術を受ける権利を決める基準のひとつに数えられるなら、治療を受けられるかどうかが一種の能力主義に基づくことになるからだ。

 生命倫理と生命工学に関する現在の法規と問題意識に寄り添おうとするあまり、「倫理派」は奇妙な風説を広める羽目になってしまった。医者は可哀想な病人をいいように操っており、有益な臨床実験とそうでない臨床実験の境目がどこにあるかなどということは意に介していないという風説である。さしあたり、大学病院センターには、治療プロジェクトを最後まで見届けるための協力体制を組める専門家が集められている。だからといって、「悪魔に加担」した学者が誰かしら、そうしたセンターの中に秘密研究施設を置いているような可能性は低い。

 今回の顔面移植で、外科手術という行為が変に神聖視されることはなくなった。今日、家族たちは口々に言う。「どうぞ顔も使ってください」と。

(1) 1976年12月22日の法律は、1994年7月に成立した生命倫理諸法により無効となった。[訳註]
(2) 国家倫理諮問委員会の答申「脳死状態の患者に対する医学的・科学的な実験に関する意見書(意見書第12号)」、1988年11月7日(www.ccne-ethique.fr/scripts/base/avis.idc)。
(3) フランス法では、危機に瀕している人の救護を行なわなかった場合、刑法上の罪に問われる。[訳註]
(4) クロード・ベルナール『雑記帳』(ガリマール社、パリ、1965年)。


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2006年3月号)

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