サウジアラビア万華鏡

アラン・グレシュ特派員(Alain Gresh)
ル・モンド・ディプロマティーク編集部

訳・近藤功一

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 中東を専門とするジャーナリストの間で、こんな小話が話されている。「初めて行ったときには、記事がひとつできる。二度目には一冊の本を書けるのではと考える。三度目には心の中で、結局これほど複雑な現実を纏め上げようだなんて夢想にすぎないとつぶやく」

 「サウジアラビアについて客観的に語るおつもりですか」。2000年に情報省の副大臣が発したこの問いかけは脅迫のように聞こえた。それから5年後、このジャーナリストの行動は自由となる。国中どこでも訪れることができ、当局がメディアに語ることを禁止している一部の知識人を含め、どんな人とも会うことができる。

 「サウジアラビアについて客観的に語るおつもりですか」。ジェッダにある英字日刊紙サウジ・ガゼットの本社で、若い女性ジャーナリストが問いかけた。彼女はスカーフで髪を覆い、顔の下半分も隠していた。しかしながら、同業の西洋人を問い詰めるような彼女の態度に物怖じしたところはない。彼女は最近、サウジとリビアの困難な関係についての記事を発表した(両国の外交関係は数カ月間にわたって凍結されていた)。これは政府当局にとって好ましくない記事だった。その一方で、メッカで開催されたイスラム諸国会議機構(OIC)では、各国首脳や政府高官に会見して記事にしている。

 この問いにどう答えることができようか。これほど文化的に異なり、地域差もあり、様々なアイデンティティを抱え込んだ国について、どうすれば「客観的」な視点が持てるのか。言葉の壁はないにしても、根強い偏見や判で押したようなイメージ、安易な単純化に陥らないためにはどうすればよいのか。サウジアラビアは女性差別、厳格な宗教、公開斬首刑の国だと要約してしまってよいものか。さりとて、社会や政治の変化、数々の前進、様々な議論について述べるにしても、これらの悲しい現実を見て見ぬ振りをすることができようか。

 この国には、ジャーナリスト用の「定番コース」というものがある。お決まりの文句を繰り返す政治家、そして欧米の流儀を身に付け、英語を話し、ジャーナリストたちと同じ視点を持つ知識人や実業家に面会する。そこから同じ内容の記事しか生まれないのは不思議なことだろうか。いったいどうすれば、このコースを避けて「本当の国」を報道することができるのか。

 この「本当の国」は、その世界観の中にも日常慣行の中にも、イスラム教が深く浸透している。せっかちな評論家は、いわゆる「ワッハーブ主義」という言葉に要約してしまう。しかしながら、サウジには、スーフィや活発な少数シーア派など、様々な伝統を唱える宗派が混在している。スンニ派の「ワッハーブ主義」でさえもまとまりはなく、特にここ数年は、内部論争や分裂が激しくなってきている。異なった価値観の中で生活し、我々とは違う言葉を使い、欧米のメディアによるイスラム敵視を時に正当に糾弾し、不信感を向ける普通の人々の声に、我々は耳を傾ける必要がある。

 世界貿易機関(WTO)に加盟したばかりのサウジは、石油価格の高騰に沸いており、2005年の石油収入は一日5億ドル近くにまで達している。この国の富は目にも明らかであり、経済は活気に満ちている。株式市場は2004年に100%、2005年も同様の伸びを示し(1)、多くの世帯の収入源となった。2005年12月には国民のうち570万人が、ヤンブー石油化学公社の株を購入し、総額20億ドル近くを払い込んでいる。

 中流層や上流層は、比較的容易に欧米社会と接点を持つことができる。だが「一般庶民」や「肩書きのない者」たち、つまり政府がようやく存在を認めた貧困層はどうだろう。労働者の大多数を占めている630万の移民たち(サウジ国民は1970万人)はどうなのか。

 社会問題の広がりを知るのは困難である。詳細な統計が存在せず、労働組合運動もなく、そして広くは現地の社会科学の発達が遅れていることから、貧困の実態を推し量るのは難しい。ただ、メディアが思いがけない助け船を出してくれている。数年前から日刊紙が失業、貧困、売春、麻薬といった社会問題を定期的に取り上げるようになり、その傾向は2005年8月1日のアブドゥッラー国王の即位以来強まっている。公共の取り組みはエイズにもおよび、12月1日の世界エイズデーにはジェッダの町で救急団がパンフレットを配布しているのが見られた。

ある宗教指導者の家で

 新たに長期的な石油収入が入ってくれば、社会や教育、保健の問題が解決されるというのだろうか。第一の課題は、特に数万人の若者と、増え続ける女性求職者を中心に、すべての人に雇用機会を与えることである。彼らの期待、願望、そして不満が、この国の将来を決定付ける要素のひとつとなるだろう。

 水曜の夜、ホールや映画館、男女一緒に集まる場所もないリヤドの街中で、仕事のない若者たちが何千人もたむろしている。インターネットや衛星テレビで海外文化に触れている彼らの憂鬱は容易に推し量ることができる。軽犯罪や麻薬問題が増加しているのも不思議ではない。彼らの中には、週末になると、巨大な橋でサウジと結ばれたバーレーン島に憂さ晴らしに行く者もいる。2004年には1100万人がこの橋を渡り、その数はさらに増えている。みな地元では封じられている気晴らしを目的に出かけていく。

 一部の若者はより危険な道を進む。困窮した者ばかりというわけでもない。1980年代には政府の呼びかけとアメリカの支援もあって、多くの若者がアフガニスタンでの戦闘に旅立った。さらにボスニアやチェチェンの虐殺に憤慨する若者が続き、タリバンの訓練所に向かう者もいた。そして今日では、数千人の若者がイラクにいる。

 最初はソ連やアメリカを敵として活動を始めた若者たちの一部はやがて、特に1990年8月にイラク軍に直面したサウジが米軍に協力を要請すると、サウジ体制を敵視するようになった。それ以降、ジハード、イスラムの役割、また過激主義についての議論が噴出した。サウジ自体が一連のテロの標的となった2003年5月以後、議論はさらに沸騰している。2005年12月7日、8日にメッカで開催され、アブドゥッラー新国王が個人的成功を収めたOIC首脳会議では、イスラム教は「猛進、過激主義、偏狭な精神」を拒絶する中庸(ワサティーヤ)の宗教であるとの宣言が発された。

 この間の変化を誰よりも体現しているのが、サウジで最も人気のある説教師の一人、サルマーン・アウダ師である。ラマダンの期間中、衛星テレビ局MBCで連日放送された同師の番組は大成功を博した。番組では説教だけではなく、たとえば美しさのように、より広く私的で個人的なテーマも取り上げられた。一方で、保守派からは番組への批判も巻き起こった。アウダ師は、隣のモスクでアスル(午後)の祈りを指導して自宅に戻り、戸口で我々を迎えてくれた。広間では、3人の子供が家庭教師の授業を受けていた。「いちばん大切なのは教育です」と彼は語った。その書斎は簡素で、礼拝用の絨毯、本棚が置かれ、木を描いた絵が幾つか壁に掛けられているだけだった。

 カリスマのオーラを放っているアウダ師は、焙煎していないコーヒー、ナツメヤシの実、チョコレートを出しながら、「伝統と文明ですよ」と微笑んだ。同師は、サフワ(目覚め)運動の創始者の一人である。この運動によって1980年代の終わりから90年代にかけてイスラム教は刷新され、80年代初めには優勢と見えた自由主義者と「近代主義者」を抑えて圧倒的な優位を確立した。

 論争の舞台が文化の領域から政治の領域に移ったきっかけは、90年から91年の湾岸危機である。それ以降、サフワは対米関係と国内情勢を運動の推進力とするようになる。アウダ師は94年ついに逮捕され(2)、5年間投獄されることになる。獄中生活の反動なのか、ジハード主義をとるイスラム主義者たちが自爆に走るせいなのか、9・11テロゆえか、それとも即位前からアブドゥッラー皇太子が進めていた開放政策への応答なのか。理由はともあれ、アウダ師は変わった。教義の根本にはこだわりつつも、その説教はより含みのあるものとなった。彼は一部の者たちがイスラム教から好戦的な解釈を引き出していることを非難する。「非ムスリムとの関係は、コーランの中に定められています。しかし、学のない者は字が読めなかったり、文脈を知らなかったりする。ムハンマドと題された章の第4節には、『背信者どもに相まみえる(ラキートゥム)ときは、彼らの首を打て』とあります。しかし戦闘という文脈から離れてこのくだりを理解することはできません。ここでラキートゥムは出会うことではなく、戦うことを意味します。ここでイスラムの歴史を思い起こしてみましょう。預言者ムハンマド(アッラーのご加護を彼の上に)の時代には、ムスリムは攻撃を受けていました。しかし、彼らには指導者がおり、イスラムの教えに背く復讐をしようとはしなかった。ムハンマドが布教した23年間、戦闘でどれだけの死者があったかご存知ですか。20回の戦闘で250から300人です。今日では、もっと小規模の衝突ですら、これ以上の犠牲者が出てしまいます」

 2003年7月、アウダ師はアブドゥッラー皇太子が望んだ第一回目の国民対話(3)に参加した。同師はカメラが回る前でシーア派の宗教指導者と会談した。多くのスンニ派がシーア派を異端者、さらには非ムスリムとみなしていることからすると、勇気のいる行動であった。

インターネットを活用する若手官僚

 こうした非常に寛容な姿勢は、もう一人のサフワ運動の創始者であるが、改革の道をずっと遠くまで進んだアブドゥルアジーズ・ガーシム師にも見られるものだ。研究者のステファン・ラクロワは、ガーシム師らを「イスラム自由主義者」と形容する(4)。そう呼ばれた者たちのほとんどは、イスラムの総意から浮き上がることを望まず、この呼び方を拒絶している。過去に急進主義に接近した者も多く、現在はイスラムと政治的自由主義を結び付けようとする若者にとって、ガーシム師はひとつの拠り所となっている。

 ガーシム師は、イスラム法と法律に関する調査報告書を作成する法律事務所を経営している。落ち着きと確信を持って話し、家族と一緒に行ったフランス観光旅行にもう一度行きたいと楽しそうに語った。同師によれば、現在までの変化の中で「最も重要なものは、宗教に関わることが公に議論されるようになったことだ。国家は常に宗教機関を統制しようとしてきたが、現在では宗教機関の開放を望んでいる。そこにはビン・バーズ師とビン・ウサイミーン師という二人の大ウラマーの死という要因も働いている。押しも押されもせぬ権威が確立していた二人の死は、誰も埋めることができない空白状態を作り出した。その結果、政府が(90年に米軍に協力を要請したときのように)、宗教機関を利用することは難しくなった。というのも、人々は以前ほど宗教機関に信頼を寄せなくなっているからだ。大ウラマー会議は、メンバーの一部を死去前に退任させることを受け入れなければならなかった。これまで決して見られなかった事態だ」

 ハーリドは宗教省の官僚である。彼は広報会社を経営しており、空いている時間にはジャーナリストとしても働いている。宗教上の勤めは欠かさないが時代の変化に敏感な、新しい世代のムスリムの一人だ。1年半前、幾人かの友人とインターネットを通して、急進思想に引き寄せられる若者を「目覚めさせる」ためにハムラ・サキーナ(訳せば「平安のためのキャンペーン」となるだろうか)を開始した。

 「我々は1000人の人々と6万3000時間におよぶ議論を重ね、その中の590人の考えを多少なりとも変えることに成功した。ほとんどの議論は匿名で行われた。もちろん身の安全を守るためだ。対話者の中には怯えていた人もいる。我々はジハードの概念を、イスラム法の意味するところを、ムスリムが他者に対して取るべき態度を説明している」と彼は語った。

 彼はこんなふうに嘆息する。「自由主義者の中にさえ『白か黒か』の論理をとる者がいる。彼らによれば、自由主義とイスラムのどちらかを選択しなければいけない。我々はそうは思わない。我々はムスリムであって、自由主義者なのだ」

 対話の文化は容易には浸透しない。それは少しずつ形作られていくものだ。「我々と他者:世界中の文明との相互作用に向けた我が国の集合的ビジョン」。国王となったアブドゥッラー皇太子が2005年12月中旬に南西部アブハーで開催した第五回国民対話のテーマである。数十人の知識人と市民団体や宗教団体の幹部を集めたこの討論会は、今回初めてテレビで生中継された。

 アブハーに駆けつける予定のスハイラ・ハマド・ザイン・アービディーンはこんなふうに力説していた。「まず我々の間で対話することを学ばなければならないだろう。誰がカーフィル(不信心者)であり、誰がそうでないかを決定するのは、我々ではなく、神だけに属することなのだから」。彼女は「世俗主義者」として非難されており、それはこの国では無神論者とほとんど同義語である。しかしながら、政治的発言においても(シオニストの陰謀を何度となく糾弾してみせた)、宗教戒律を遵守することにおいても彼女ほど伝統的な人はいない。それでも、女性の権利の話となると、言葉が口をついて溢れてくる。

 「イスラムは、欧米の女性よりも大きな権利、多くの権利を女性に与えた。しかしながらサウジアラビアでは、伝統や宗教とは何の関連性もない考え方が支配的である。女性は自分のお金を使う権利を持っており、預言者ムハンマドの時代にはすでにそうなっていた。昔の女性は相談なしに取引することができたが、今ではマハラム(保護者)が必要だということになっている。我々が求めているのは、真のイスラムへの回帰だ。国家は我々と意見を同じくしており、抵抗は社会の中にあるのだ」と彼女は主張する。

国王を支持する女性たち

 女性の立場は変化しつつある。ほかの国と比べれば、サウジの遅れは明白であり、性別による差別は類を見ない。働いている女性の割合は非常に低く、多くの行動は父や夫の同伴が必要だ。しかし、この2年間で起こった変化は本物である。女性は、保護者の許可なしで身分証を取得できるようになった。実業界にも女性が増えており、海外視察団を率いることも珍しくない。

 最近実施されたジェッダ商工会議所の理事選挙は、歴史的な一日となった。新国王は即位後ただちに、女性が立候補できるよう、9月に予定されていた投票を延期した。複数のイマームによる反対運動にもかかわらず、2カ月後には12人の当選者の中に2人の女性が入っている。さらに、商工業大臣は任命理事6人のうち女性を2人選任した。

 自由主義的な知識人であるハトゥーン・アジュワド・アルファシーは、これを喜ばしく思っている。彼女は大学で働いているが、明確な理由もわからないまま、5年前から教鞭をとることを禁じられている。定期的に新聞に記事を書き、英語とフランス語に通じている。彼女はフランス旅行について語り、そこで海外に旅行したときはスカーフをすることを決意したと言う。「我々は、新しい国王を肯定的に受け止めている。国王は重要なシグナルを送っている。まず即位したとき、二組の女性グループに接見した。どちらも40人ほどで、一方は教育省の公務員、もう一方は知識人のグループで、バイア(忠誠の誓い)を立てるために来た。これは前例のないことで、テレビでも放映された」

 サウジ社会の実情は以前よりも見えやすくなってきた。夫婦間の暴力問題も表沙汰になっている。国民人権協会が公表した報告書によると、5000件もの人権被害が通報されており、その30%が夫の暴力に関するものだった。このことはメディアでも取り上げられるようになった。またジェッダの新聞は、母親による乳児の遺棄の急増という憂慮すべき兆候も報じている。

 社会問題が広く論じられるようになったのに比べると、政治面での変化はおぼつかない。それは国王の意思に左右され、今までの成果が明日にはだめになる危険がある。政治運営のルールは実に曖昧だ。こうした不確かさの証左となったのが、地方評議会の選挙である。

 この数年間、何度も予告されてきた地方選挙は、ようやく去年の2月から4月に国内の様々な地方で順々に実施された。178の市町村で評議員の半分が選出され、残りの半分は政府によって任命された。

 東部州での選挙戦は活発だった。ペルシャ湾岸の古い港町カティーフは、シーア派の政治と宗教の中心地である。5つの選挙区で148人の候補者が戦った。12万人の潜在的有権者のうち4万4000人が登録、3万5000人が投票し、最も投票率の高い地域のひとつとなった。イラクに近いこの地方は、王国のほかの地域と違って伝統的に政治意識が高く、それはかなり古い時期にさかのぼる。東部州には1950年代にこの隣国から、アラブ・ナショナリズム、共産主義、イスラム主義など、あらゆる政治的潮流が押し寄せてきていた。

 「私の得票数は2万4000だった」と述べるのは、シーア派宗教勢力に近く、当選を果たしたジャファル・シャーイブである。「選挙運動期間そのものは非常に短かったが、準備は長期にわたった。地方の選挙委員会は、どのように登録し、投票するのかを人々に説明するのに地道な努力を重ねた。登録を促すためモスクに赴いたり、投票所まで連れて行ったりした。100前後の集会が地方で開かれた。我々の選挙区のタルートでは、候補者同士の討論会が三回開かれた。それぞれの候補者が自分の公約を発表し、それから質疑応答に入るというものだ」。彼は「政府は投票に全く干渉していない」と認めている。

 すべての地域で選挙が終わってからも、評議会の内規と評議員の権限(主に諮問的なもの)が公表されるまでには8カ月かかった。その2週間後、政府は残り半数の評議員を大多数は能力に応じて選任した。カティーフでは、シャーイブが評議会議長に選出された(首長は政府の任命による)。他の地域では、官選の首長が議長職も兼任している。

改革派知識人への重罰

 ハサン・サッファール師は、カティーフの大きな邸宅の広い応接間に我々を迎え入れてくれた。優雅で細身の同師は、ひげをきちんと刈り込み、シーア派の権威であることを示す白のターバンを巻いている。態度は若々しいが、活動家としての経歴は長い。1979年のイラン革命に続くシーア派蜂起後の80年、同師は国外に逃亡した。戻ったのは王室と合意文書を交わした後の95年のことだ。言動の自由は大きくなったが、政治に翻弄される状態は変わらない。同師の著書の一部は国内で出版されたものの、他はレバノンでの出版を余儀なくされた。

 サッファール師は、第一に、シーア派が被っている差別に敏感である。「いいかげんに終わらせなければならない。確かに国民対話によって、スンニ派とシーア派の間の壁はいくらか崩れたが、まだ議論をしている段階でしかない。両者の接近を妨げているのは、宗教機関の保守派による強い圧力であり、それは時には我々の宗派でも見られる」と同師は認める。「私はアウダ師のようなスンニ派の重鎮指導者と会談した。彼の発言は前向きで、変わったという印象を受けたが、保守派から圧力をかけられており、自分の影響力を失いたくないとも思っている。スンニ派にもシーア派にも変化を促すような、共同の取り組みが必要だ」

 サッファール師は最後にこう言った。「我々は急激な変化を支持しているわけではなく、我が国がアルジェリアの二の舞になることは望まない。政府は様々な宗派に発言権を与えることによって、改革を促すような勢力関係を作り出すべきだ。政治のルールを定め、そこに加わろうという勢力を統合し、各派に責任を持たせるようにしなければならない。現時点では具体的な構想は出されておらず、幾つかの前向きなシグナルもまだ現実の動きには至っていない」

 同様に、知識人や活動家の中にも、どちらかと言えば悲観的な見方をする者が多い。2003年末、イスラム主義勢力を中心とする人々が、憲法改正を求める請願書を公表した。スポークスマンの一人であるアブドゥッラー・ハーミド教授の説明によれば、彼らは独自の勢力を形成しようとした。「我々は、絶対君主制から立憲君主制への転換を求めていた。リヤドの請願は、寛容、統一、ヒューマニズムの希求だった。起草の中心となったのはイスラムを拠り所とする人々である。なぜなら、体制の転覆を要求する者の足下をすくい、暴力を後退させるためには、民主化に賛同する宗派が自己主張することが重要であると考えたからだ。我々の考えによれば、民主性に欠け、憲法による統治のないような国家は、イスラム国家であるとは言えない」

 憲法改正の要請は、政権の目から見て行き過ぎだったのか。2002年から2003年にかけてアブドゥッラー皇太子の暗黙の同意の下に組織された改革推進運動は、イスラム主義勢力の「独走」による分裂のせいもあり、いずれにせよ容易に抑圧された。詩人のアリー・ドゥマイニーによれば、「我々は法を侵していないのだから、逮捕は不当だった。弁護の権利は蹂躙された。警察は我々が独房で弁護のために準備していた文書すら押収したが、幸いにも家族がコピーを持っていた。裁判官は審理の非公開を命じた」。第一回目の審理について、特にインターネット上などで政府に非常に批判的な記事が公表されたからだ。

 3人の男性に重罰が下された。マトルーク・ファーリフ教授(アラブ・ナショナリスト)は6年、ハーミド教授(イスラム主義者)は7年、詩人のドゥマイニー(旧共産主義者)は9年の禁固である。誰一人として罪は犯しておらず、暴力に訴えることもなく、3人とも平和的な改革を訴えただけだ。

 アブドゥッラー皇太子はなぜ介入しなかったのか。最もよく聞かれる説明は、政権内部で権力闘争が繰り広げられており、皇太子の権威確立が困難をきわめていたというものだ。その点は、彼が国王に即位し、絶大な人気を博している現在では変化したのだろうか(「陛下」の称号と手に口づけさせる習慣をやめさせたことは高く評価されている)。

 「釈放された後、我々は国王との私的な会見を望んだ。まだ不確かな改革の続行を促すために国王との関係を強化したかったのだが、公的な場でしか会えなかった。我々はそれぞれ一人ずつ短い会話の機会を得て、我々が国王とともに一致団結して改革の道を進んでいることを伝えた。国王は、我々はよき市民であり、自分の兄弟であり、息子であると答えた」とドゥマイニーは言う。彼はパスポートを速やかに取り戻し、再び海外を訪れることを願っている。

 万華鏡。それは「様々な色の破片を三面鏡の動きによって映し出す円柱であり、早い時期(1818年)より(感覚や印象などが)めまぐるしく移り変わる様を言う比喩表現として用いられた」と辞書にある(5)。ここまでの万華鏡的な探求の旅を終えて、読者はどんな印象をお持ちになっただろうか。今なお虐げられている女性か、それとも自由を獲得しつつある女性か。改革派の政府か、保守主義に閉じこもった政府か。行き詰まった社会か、動き出した社会か。どのような印象を持たれたにしろ、このささやかな素描により、「白と黒」では割り切れず、まだまだ新しい発見があるようなサウジアラビアという社会と国が、まだぼやけてはいるが色彩豊かなものとして映し出されたことを願っている。

(1) 困難な局面を抜け出した1999年3月と比べて、株価指数は10倍に跳ね上がった。1年前には1日あたり1000万株であった出来高が、現在は6000万株となっている。
(2) アウダ師と1994年の出来事に関しては、「サウジアラビア王室のたそがれ」(ル・モンド・ディプロマティーク1995年8月号)参照。
(3) 国民対話は2003年7月にリヤド(総論)、同12月にメッカ(知識人)、2004年6月にメディナ(女性)、同12月に東部州(若者)、2005年12月にアブハー(その他)で開催されている。
(4) See Stephane Lacroix, << Islamo-Liberal politics in Saudi Arabia >>, in Paul Aart and Gerd Nonneman, Saudi Arabia in the Balance, Hurst & Company, London, 2005.
(5) ロベール社『フランス語歴史辞典』(パリ、1992年)による。


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2006年2月号)

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