保護管理下に置かれた旧ユーゴ諸国

カトリーヌ・サマリー(Catherine Samary)
パリ第九大学助教授

訳・三浦礼恒

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 ポスト・デイトン協定の動きが始まったのだろうか。欧州連合(EU)では、コソヴォの地位をめぐる論議に加えて、西バルカンの旧ユーゴスラヴィア諸国全てとの間でEU加盟ないし加盟準備の交渉が始まっている。表面上の自己満足とは裏腹に、保護領状態が行き詰まりに陥った現状は、少数民族に対する差別の問題や、ヨーロッパ建設の中で国家がいかなる社会政策的な役割を担うべきかという問題を投げかけている。[フランス語版編集部]

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 欧州連合(EU)と旧ユーゴスラヴィア連邦各国の間で、壮大な駆け引きが始まった。これら諸国との加盟交渉が、支障なく進んでいるとは言えない。クロアチアとの間では、同国の旧ユーゴ国際戦犯法廷(ICTY)への非協力的な姿勢をデル・ポンテ主任検察官が非難したことで、交渉が止まっていた。しかし、この非難は人道に対する犯罪で起訴されているアンテ・ゴトヴィナ将軍が2005年12月8日にスペイン領カナリア諸島で逮捕されるのを待つことなく、10月5日に撤回された。それはトルコとのEU交渉開始に道を開くためだった(1)。マケドニアも同じく「加盟候補国」の地位を獲得している。セルビア・モンテネグロの場合は、欧州委員会が準備中の安定化・連合協定によって「潜在的加盟候補国」の地位を与えられることになるだろう。この地位はボスニア・ヘルツェゴヴィナに対しては、同国内にセルビア人が樹立したスルプスカ共和国の警察が「基準を満たさない」との理由から、10月初頭まで認められていなかった。この「論拠」が取り下げられたのは、デイトン協定という10年前の妥協から生まれた現行憲法の再協議を同共和国に承諾させるためだった。

 「バルカンの旧ユーゴ諸国が置かれた現状の矛盾、それは自国の多民族性を管理するためにヨーロッパへの統合を最も必要としている国々が、まさに、そのための準備が最も進んでいないという点にある」と、この地域を研究するジャック・ルプニクは述べる。「本質的な原因は、これら諸国が崩壊状態にあることだ。自国領の一部で起きている組織的な暴力行為を取り締まり、近隣諸国に不安の種をまくのを抑えられるような状況に至っていないのだ(2)」。確かに、スロヴェニアとクロアチア以外の旧ユーゴ諸国は、現在いずれも保護領(ないし準保護領)の地位にあり、統治の基本となる憲法的文書によって大国の管理下に置かれている(3)

 旧ユーゴ連邦において、自主管理に基づいた社会的所有権を見直そうとする気運が高まった時、国家というものが(逆説的にも自由主義勢力にとって)中心的な問題となった。どの国が、いかなる領土に基づいて、貿易で得た外貨を自国の収入とするのか。さらに大きな問題として、自分たちの社会的権利を重要視する国民の支持をいかにして取り付ければよいのか。1989年に旧ユーゴ最後の連邦首相となったアンテ・マルコヴィッチを支持した非民族主義的な自由主義勢力は、商業競争と民営化に基づいて旧制度を見直すのは連邦レベルで行いたいと考えていた。この考え方は91年まで国際通貨基金(IMF)や、連邦の分裂に反対する諸大国(ドイツとヴァチカンを除く)から擁護されていた。だが連邦内の支配的な国々が、連邦の分割を俎上に乗せてしまう。スロヴェニア、クロアチア、および角度は異にするがセルビアである。これら諸国にとって、自国に利益をもたらすような民営化の実現のためには、まずは国家を強化することが必要であった。

 既にスロヴェニアは連邦という沈みゆく船から離脱する91年以前より、独自の通貨を準備をしていた。他の連邦諸国と異なり、同国内に人口数の多い少数民族が存在しなかったのは事実である。だが、豊かな国になるためにはそれだけでは不充分だ。90年代を通じて、スロヴェニアは社会主義を標榜する全ての国のうち、自由主義の教えを採り入れることに最も消極的だった(4)。民営化に対する当初の政治的かつ社会的な抵抗は、この国が旧制度の下で獲得した成果に比例していた。生活水準は高く、失業率も80年代末期には2%にすぎなかった(対照的に、例えばコソヴォでは20%に達していた)。そして90年代を通じてスロヴェニア政府はブリュッセルの圧力にもかかわらず、外国資本を誘致するための賃金水準や資本税率の引き下げを行おうとはしなかった。

 スロヴェニア以外の全ての連邦諸国は旧ユーゴ連邦自体と同様に、多民族から構成されており、また発展の度合いも低かった。体制の官僚主義的な運営が無駄な出費を生み、利己主義を助長し、生活水準の格差を広げていた。そうした中で連邦の機能不全とそれに続く分裂の結果、どの国でも少数民族コミュニティがその国の多数派「国民」の押しつける国家政策と対立するようになった。この多数派は自らの足元を固めようとしており、できることなら連帯的な社会保障を犠牲にしてでも「自国」の領土を広げ(5)、民族主義を基盤とした正統性を拡張することを狙っていた。さらに悪いことに、90年代という転機の時代に、これら諸国では憲法の改定によって少数民族の地位の後退が法制化された。少数民族が憲法修正をボイコットする動きに出た理由はそこにある。

「原則」なき欧米諸国の対応策

 一部の旧ユーゴ諸国の独立宣言に直面した大国は、ただひとつの基準を根拠として(これを「原則」であると言いつのり)、それが飛び火するのを「封じ込め」ようとした。その基準とは、ひとたび連邦の解体が民族自決の一環として承認されたとしても、旧連邦諸国間の国境線は何が何でも維持するというものである。欧州共同体(EC)の要請によってフランスの法律家ロベール・バダンテールを座長として設置された委員会は、スロヴェニアおよび(アルバニア系政党が政権に関与していた)マケドニアの独立承認に好意的な見解を示したが、その一方でクロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナで進行中の紛争に関しては慎重に対処することを勧告した。旧ユーゴ崩壊時に提起された問題に応えられるような「モデル」が国際法の中に見出せなかったことは事実である。国づくりの問題に対して体系的かつ平等に対処していくためには、これら諸国の関係コミュニティ全てを関与させることを優先すべきだった。しかし現実は全く違う展開をたどった。

 例えばボスニアに対しては、戦争を回避できるのではないかという期待の下に、独立の是非を問う住民投票の実施が促された。だが、セルビア系住民は集団ボイコットを起こした。クロアチア系住民はそうした行動はとらなかった。ボスニア国内にセルビア系のスルプスカ共和国が樹立されていたのに対し、クロアチア政府の側では分離国家ヘルツェグ・ボスナ共和国を確立する意向を公言しない方針を採ったからだ。95年の夏、クロアチアが自国領内のセルビア系人口を5%を切るまでに減らす挙に出た時、アメリカに続いてヨーロッパ諸国もこれを黙認した。欧米ともに現実政治の変幻自在な「原則」をケースバイケースで適用していた。つまり、その時々の戦略地政学上の目標の前進を探りつつ、時には(紛争への介入を回避する「和平プラン」によって)爆発の「封じ込め」を図り、時には(デイトン協定のように)地域の強国に支えを置く。それはマッチ・ポンプの政策でしかなかった。

 ドイツがクロアチアとスロヴェニアの独立承認を決定した際、EUは「共通外交政策」を模索する大国然とした行動をとっており、92年1月にはドイツの選択に足並みを揃えた。アメリカは当初は静観を決めこみ、ヨーロッパと国連が困難に直面するのを喜んでいた。しかしボスニアとその後のコソヴォの危機の際には、ワルシャワ条約機構解体(1991年)以後の北大西洋条約機構(NATO)の再定義と再配置のために危機を利用した。ただし、地上戦には関わろうとしなかった。彼らにとっては住民の保護や民族自決の尊重や権利などはどうでもいいことだった。

 99年2月のランブイエ会議で、ヨーロッパはコソヴォに自治権を付与するという計画を提案し、アルバニア系独立派からは異論が出た。ベオグラードはこの計画を歓迎したが、アルバニア系住民が待望していたNATO地上軍の派遣は拒絶した(6)。ヨーロッパ諸国の政府は自らが主催した「円卓会議」の第一段階でアルバニア系住民とセルビア側の真の会合を実現できなかった失敗を認めるよりも、オルブライト米国務長官の「強気」の政策に賭けた。オルブライト長官自身もコソヴォ解放軍(UCK)に賭けていた。戦争開始から3カ月後、国連安保理決議1244号によって停戦が成立した。だが、この決議はデイトン協定と同じく矛盾を含んでおり、それは現在まで全く解消されていない。NATOの一体性は保たれ(ただし次の段階にイラクで示されたように弱体化した)、アメリカは広大なボンドスティール基地を建設することができた(今日ではこの地域のグアンタナモとして非難されている)。しかし、コソヴォは独立とは程遠く、国際的な保護下に置かれながら新ユーゴ連邦の一州という地位にある。

国境の相対化という考え方

 その6年後、ワシントンは新ユーゴ連邦のミロシェヴィッチ大統領から拒否されたものをセルビア・モンテネグロのドラシュコヴィッチ外相から獲得した。2005年7月18日に、「別段の合意のない限りはバルカン地域における全ての平和維持活動が完了するまで」NATO軍が同国内に駐留できるという協定が調印されたのである(7)。とはいえセルビア側としては(コソヴォのアルバニア系住民と違って)、セルビア・モンテネグロという最後のユーゴ連邦の枠組みの中にコソヴォを留めることこそが解決策だと主張することができる。NATO事務総長からEUの共通外交・安全保障政策上級代表に鞍替えしたハビエル・ソラナが、2000年終わりにミロシェヴィッチ政権崩壊・コシュトニツァ大統領就任を見た新ユーゴ連邦の中にモンテネグロを留めるようにしたのも、同じく従来の国境線を維持するため(安保理決議1244号を「守りぬく」ため)であった。セルビア人が「ソラニア」と呼ぶセルビア・モンテネグロなる国家を維持し、その中でベオグラードがコソヴォを「セルビアの一州」であることを改めて言明するという中途半端な妥協は、何の解決にもならなかった。そのような地位はアルバニア系住民にとって全く承服できるものではない。だからといって彼らが非アルバニア系住民を踏みつけにしてコソヴォを占有してよいはずもない。

 現実には、コソヴォでもボスニアでも、国際保護のための軍事機構と文民機構は立ちゆかなくなっている。多民族が「ともに暮らすこと」を促そうとせず、したがって住民に責任を持たせようともしていないからだ。ドミノ効果を恐れる欧米諸国は、保護領の制度を一般化したばかりか、各国の住民の権利に差を付けた。

 例えばマケドニアは、2001年のオフリド協定を受けて1991年憲法が修正された結果、アルバニア系住民が自分たちにとって極めて有害だと考える措置を阻止することのできる唯一の国となった。これは二重多数決の原則、すなわち民族コミュニティの数や空間的な配置とは無関係に、議員全体の多数と関係コミュニティを代表する議員の多数をともに要求する原則による(8)。警察のような機関におけるアルバニア系住民の比率の引き上げ、民族混成による地方行政の運営、テトヴォ大学などでのアルバニア語の地位向上といった施策も、事態を沈静化させる方向に作用してきた。とはいえ、使用されるのが母語であろうと他の言語であろうと、仕事口を見つけるのは難しい。新自由主義政策に直面した全ての社会と同じく、マケドニアでも社会的な危機がますます深刻になってきており、人々と政治的な代表者の間の隔たりも大きくなっている。オフリド協定は一定の成果をあげたとはいえ、このあたりに弱点があり、そうした問題に関してはマケドニアも他の諸国と同様の状況に置かれている。

 過去にバルカン地域ではひとつの解決策として、近隣諸国との国家連合的あるいは連邦的な関係構築の動きとともに、国境の相対化という考え方が提唱されてきた。各国内で社会的権利と民族的権利を増進させることによって、国境を相対化してしまうという考え方である。それは依然として今日性を帯びている(9)。こうした考え方を促進するためには、ヨーロッパのレベルで同様の原則に基づいた枠組みを作っていくことが必要だろう。だが現在、予算削減の動きの下でEUが打ち出している枠組みは、EU拡大の動きに逆行した一触即発の危険をはらんでいる。

(1) オーストリアはクロアチアと交渉を開始することをトルコとの交渉開始の条件としていた。[訳註]
(2) アンヌ=マリー・ル・グロアネク、アレクサンデル・スモラル編『カントとコソヴォの間に−ピエール・アスネール記念論集』(パリ政治学院出版会、2003年)所収論文「帝国に代わるものを模索する中央ヨーロッパとバルカン」参照。
(3) 保護領であると明言されているのはコソヴォだけである。だが、欧米諸国の直接管理下で起草され、施行されている憲法的な文書や協定がボスニア(1995年のデイトン協定)でも、マケドニア(2001年のオフリド協定)でも、セルビア・モンテネグロ(2003年の憲法的憲章)でも、統治の基本となっている。これらの全地域に外国部隊が展開し、現在は欧州部隊への転換を図っている。
(4) ジャン=ピエール・パジェ、ジュリアン・ヴェルクーユ『壁の崩壊から新たなるヨーロッパへ』(ラルマッタン社、パリ、2004年)参照。特にユーゴスラヴィアの転換期における国家、領土、社会関係の総論研究としては、『東西比較研究』35巻1-2号(パリ、2004年3-6月)117-156ページを参照。
(5) ヤン・リチャード、アンドレ=ルイ・サンガン編『壁崩壊から15年後の東ヨーロッパ−バルト諸国から旧ユーゴスラヴィアまで』(ラルマッタン社、パリ、2004年)第2部「不確実性と再編の狭間の旧ユーゴスラヴィア諸国」239-325ページ参照。
(6) ジョエル・ユブレシュト『コソヴォ:事実の立証』(エスプリ出版、パリ、2001年)参照。
(7) 『バルカン・アンフォ』102号(パリ、2005年9月)10ページ参照。
(8) この制度は、スラヴ系マケドニア人をマケドニアの唯一の建国民族とした条項を削除したことから導かれた。
(9) この点に関しては以下が必読。Revolutionary History, special issue, << The Balkan socialist tradition >>, Vol.8, No.3, Porcopine Press, London, 2004.  カトリーヌ・サマリー「はてしなき分裂か、ゆるやかな連合か」(ル・モンド・ディプロマティーク1999年5月号)も参照。


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2006年1月号)

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