科学は信仰であってはならない

ジャック・テスタール(Jacques Testart)
生殖生物学者、国立保健医療研究所(INSERM)研究部長

訳・斎藤かぐみ

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 2005年11月15日、遺伝子組み換えトウモロコシの苗を刈り取ったかどで、ジョゼ・ボヴェに禁固4カ月の実刑判決が下された。ボヴェら「刈り取り隊」がしたことは、どのような影響をもたらすか正確な予測のつかない事業に対する道理にかなった疑念の表明ではなかっただろうか。科学の進歩への一種の「信仰」が、研究の方向付けに関する開かれた議論を妨げている。教条主義に対する理性の闘いの行方はいかに。[フランス語版編集部]

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 宗教は、自らが打ち立てた教義に逆らい始めた精神の前進を拒絶することにより、科学の歴史に深い影を落としてきた。それが主にカトリックだったのも、近代科学の勃興期に権勢を誇っていた宗派だっただけのことだろう。聖なる異端審問以外の何ものが、ガリレオの口をふさぎ、ジョルダーノ・ブルーノ(1)を火あぶりにするような権力を備えていただろうか。幸いにも、科学の発展は工業諸国における民主制の発展を伴ったため、チャールズ・ダーウィンは同様の運命を免れることができた。

 だが、宗教が不敬な学者や冒涜的な理論を抹殺する力を失ったとしても、次善の策として、教区の信徒やさらには全住民に対して禁令を下すというのはよくある話だ。たとえばアメリカの多くの州では、改革派教会が現在でも、進化論の教育を聖書の物語よりも重視してはならないと主張している。イスラム教を国教とする多くの国では、物理の教育からビッグバン理論が外されている。カトリック教会は世界各地で、避妊や生殖補助への反対を続けている。食べ物をはじめとする合理的根拠を欠いた戒律が、イスラム教やユダヤ教ではいまだに唱えられていることも忘れてはならない。

 とはいえ、ソ連におけるルイセンコ主義と獲得形質の遺伝説なるものの歴史を振り返れば(2)、科学とその成果のコントロールに乗り出そうという権力が宗教に限らないことがよく分かる。実際には既成のあらゆる支配権力が、科学の否認あるいは道具化を試みている。科学が一般市民の精神的、物質的な生活に及ぼす影響力はそれほどに大きい。「科学的社会主義」が唱えられ、政党がこぞって「科学委員会」を設置するのも同じことである。

 ヨーロッパの政治権力は、科学を真理と富の重要な源泉として認知する道を選択した。とはいえ、それだけで科学が中立的で普遍的だということにはならない。研究者から提出された最近の革命的な学説に対し、学界のお歴々が示した硬直的な反応を見るがいい。現時点では証明されていないジャック・バンヴェニストの「水の記憶(3)」説や、後にノーベル賞を受けたスタンリー・B・プルシナーのプリオン説などへの反応だ。

 その時代の真理を不滅のごとく制度化し、科学の大典の番人として一段上に立った司祭たちで守りを固め、かねてパラダイムとなってきた教義に修正を迫るような新しい思想を力ずくで抑え込むというのは、イデオロギーの所業、さらに言えば宗教イデオロギーの所業ではないだろうか。経済学者セルジュ・ラトゥーシュの示すところによれば、進歩とは「自己明証的」な表象である。すなわち「輝ける永遠の真理はすでに眼前にありながら、闇によって封印されており、それがついに勝利を収めたのだという形でしか、進歩の出現は語り得ない(4)

 いずれにせよ、その時々の科学知識の総体だけで複雑な状況を説明し、解決を図ることはできないという事態に変わりはない。専門家の結論が「正しい」「間違っている」よりも「楽観的」「悲観的」と形容される実情からすれば、科学的な予測に確実性がないことは明らかだろう。そこでは再び主観性が舞い戻ってきて、科学的方法にあるとされる客観性を遮っている。

 楽観論者の論法はいつも同じであり、起きてもいないうちに最悪の事態を証明することなどできないと言う。しかし「楽観説」そのものに、たとえば人間活動が気候変動に及ぼす影響を否認する力などありはしない。今世紀中に起きる平均気温の上昇が5度や6度ではなく、2度におさまるという期待を与えるのがせいぜいのところだ。「楽観説」を採っても「悲観説」の場合と同様の慎重策が必要とされることは変わらない。自然環境の中への組み換え遺伝子の散逸や、原子力産業による放射能汚染についても同じことが言える。つまり、これらの現象はおよそ不可避であって、論点はそこではなく、許容限度を超える時期がいつになるかという問題に絞られている。楽観論と悲観論を分かつのは結局のところ、信仰の有無である。今はまだ思い付かない善後策がいずれは見つかるのだから、最悪の事態など起こるはずがない。そう楽観論者が信じるのは、信仰のゆえなのだ。

楽観論による判断ミス

 科学技術の信条に服した科学者は、厳密性よりも予言の方に傾きがちだ。フランスの科学機関の最高峰に立つ科学アカデミーは、健康被害のリスクについて過去20年にわたり、楽観論のせいで常に間違った判断を示してきた。石綿しかり、ダイオキシン、狂牛病しかり、遺伝子組み換え作物(GM作物)はもちろんのことだ。いずれの場合もアカデミーは技術革新を称揚し、「科学の進歩」を止めることはできないとの主張の下に、人々の無知迷妄を非難してきた。

 だが、われわれの運命が産業界や証券市場の利害で動かされているというのでもないかぎり、「科学の進歩」は必ずしも人類の進歩を意味しない。アカデミーがGM作物に関する呆れた報告書を出した際(5)、会員の利害衝突について審議するよう市民団体ATTACが議会に求めたが実現しなかった。アカデミー会員がなにかにつけ、真に科学的な論拠がない場合ですら「無知迷妄」を非難するのを見れば、問題がイデオロギーの衝突でもあるということがよく分かる。科学の市場化が宣教師然とした教条主義を導いたのだろうか、あるいは逆か。科学技術がなんら責任を問われることもないまま、危険をもたらすかもしれない人工物の発生源と化すとき、それがもつ実現能力は科学活動のイデオロギー性を露呈するとともに強化するものとなる。そして信念が精密で深遠な知識に格上げされる。科学のある種の側面は宗教的な態度に属すると言っても過言ではない。これは科学が標榜する合理性とは折り合いが悪い(6)

 不可思議さらには神秘的とさえ言える公式科学の信仰宣言によれば、あらゆる事象には遅かれ早かれ説明が付けられ、それらの説明が現実をくまなく網羅するようになり、影の領域や矛盾は完全に克服される。この観点から、神を信じる科学者たちの存在が、科学万能信仰に重要な位置を占めていることが特筆される。彼らは自分が非合理性と親密な関係にあることを許されたいとでもいうように、科学主義のきわめて敬虔な信徒となっている。あるいは、彼らが科学を万能と考えているのは、信仰者の抜きがたい習性からして、科学のうちに見出された宗教性を崇めずにはいられないからかもしれない。

 科学主義が宗教を助ける場合さえある。後に教皇ベネディクト十六世となるラッツィンガー枢機卿は、自己の人間観を「科学化」する意図をもって2000年にこう述べていた。「生物学について私がもっている知識によれば、存在は最初から自己の内に人間としての完全なプログラムを備えており、以後それを展開していく(7)」。ゲノムを情報というよりもプログラムと見なし、きわめて正統的な遺伝子科学に賛同した枢機卿は、そこで自由の位置付けについて、あるいは魂の位置付けについて思い煩ったりはしなかった。

 「家が燃えている(8)」さなかに、「臆病」な慎重原則(予防原則)を掲げて科学技術の発展を制御したがるような者は「無知迷妄」であると決め付けて、事態をますます悪化させるようなことがまかり通っている。しかし、技術の標榜する制御なるものを政治によって制御する必要があることの根拠は、ポール・ヴィリリオが言うように、科学技術とは知の大いなる不正使用であるという事実に求められる。われわれが築いている世界がますます不確実なものとなりつつあるなかで、楽観論をプラスの価値のように見なしてはならない。楽観論は信念に毛が生えたような程度のものでしかなく、現実逃避策を正当化することで自殺的な姿勢をごまかそうとしているにすぎない。

科学的な厳密性の否認

 科学技術が誘発するリスクの検討が促されるたびに、「選択肢はない」という断定が知性の働きを遮ろうとする。人類は自分の運命をどうにもできないというのだろうか。「科学固有の利益」を掲げて慎重原則を敵視する研究分野の最高責任者たちは、人類自身の利益にまさるような利益に関わる人間活動があると示唆していることになる。国際熱核融合実験炉(ITER)やGM作物に見るべき時流は「制御」だと思っている人々に対しては、これらの人工物は常に将来の利益を約束してみせるが、実際は逆に古いユートピア思想に連なるものではないかという反論を突き付けることができる(9)

 進歩の神秘と「世俗の摂理」信仰があるがゆえに、その信奉者が頑なな態度をのほほんと続け、他の人々が彼らにたて突けないでいるのは確かである。そのような信仰心が今でも見られるのは科学の分野だけだと言ってよい。科学知識のおかげで厳密性が勝利するという触れ込みの実に悲しい否認である。

 人々が受け身のままでいる理由の一つは(企業や研究所、地方や政府の)競争への犯罪的な加担である。誰もが他人に先んじようと同じ絶壁をめがけて走っている。もう一つはそれほど卑しくはないが同じぐらい情けない理由、つまり人類は技術進歩のチャンスを逃してはならないという心情だ。その根底には、進化についての不可思議な観念がある。われわれの種だけが動物の種の中で世界を変える能力を備えており(これは事実である)、自ら誘発した変化を制御する能力も備えている(これは今のところ証明されていない)という観念である。

 人間には自己の提起する問題をことごとく解決していく能力があるのだろうか。制御してみせるという意欲に見合った実力があるのだろうか。そうだと答えるなら、人類を超越した創造的な意思を認めることになるが、この仮定は通常の科学者のあり方に反する。それは違うと答えるか、少なくとも疑念を表明するならば、謙虚な姿勢で慎重に行動していく好機を得ることになる。

 科学への信念がことに明白に表れているのが遺伝子の分野だろう。アメリカの二人の社会学者の言うところ、「キリスト教の魂が個人と自我の継続を理解するための典型的な概念を提供するように、DNAは魂に似た実体として、神聖で不滅な遺物として、禁じられた領域として、大衆文化のなかに登場する(10)

 資金さえあれば筋ジストロフィーが治療できると示唆することで、テレビのチャリティー番組『テレトン』にたった1日で1億ユーロ(フランス医療研究の年間予算に匹敵)の寄付が集まってしまう。GM作物の栽培は、環境や公衆衛生、経済に関わるリスクの明確な分析がなく、今のところ消費者にまったく利益をもたらしていないにもかかわらず、やがて間違いなく利益になるという言い分によって人間社会に押し付けられている。

 「うまくいくさ」という賭けの姿勢は、楽観論以外ではあり得ない結論を証明に先行させたものであり、すなわち非科学的である。胚性幹細胞(ES細胞)について、2000年に社会党のジョスパン首相(当時)はこう述べていた。「希望の細胞のおかげで(・・・)身体不随の子供たちがようやく出歩けるようになり、打ちひしがれた男性や女性がようやく立ち直れるようになる(11)」。さらにはパンを増やすことさえできると言うのだろうか。それに類する奇跡を信じる姿勢からすれば、事前に動物実験を行って実行可能性と無害性を証明するという手続きでさえもなしでよいことになってしまうだろう。たとえば原子力産業やナノテクノロジーズ(超微細技術)についても、科学的な厳密性が問われることなく、社会的な選択が民主的に行われることもないまま、開発が続けられるという展望が示されるだろう。

科学から科学技術への変貌

 たとえば人権の発展の歴史と違って、生命倫理には「原則」がない(夢想や価値観としての目安さえない)という事態がいかに正当化され得るのか。奴隷制度が決定的に禁じられたことに比べ、人類の改造あるいは合意に基づく優生主義に対しては暫定的な措置しか(あるいは何の措置も)講じられていないのは何故なのか。もし生命倫理のルールは技術力に応じて見直してよいというのなら、倫理はもはや人生訓にすぎない。奇跡のような無限の進歩への信仰宣言をうたい上げることで、功利主義的な倫理が必ず逡巡を打ち破るという展開になってしまう。

 独自の流派を興した哲学者で、無神論の旗手たるミシェル・オンフレは、「体外受精、クローン、産み分け、遺伝子組み換えなど、ポストモダン医療の活性化に欠かせない技術の実用化になんらかの意味で貢献するものすべて」を支持するつもりでいる(12)。「科学それ自体は中立的である」と主張し、「技術否定的な選択肢」に反対する。ただ、彼がこうした確信に達したのは、ヒロシマおよび「軍の錯乱」として片付けられる他の失策を別とすれば「核エネルギーがこれまでに死者を出したことはない」といった事実に反する主張を行い、あるいは仮定が確信にすり替わっている次の二つの命題に見られるような取り違えを犯したうえでのことだ。「遺伝子組み換え革命は、新たな治療法への『取り組みを可能に』する。こうした治療法が、予知医療によって発症を『防ぐことになる』のである」

 技術への傾倒は、排撃しようとしているはずの神話の安易な代用になり得てしまう。そこで原則などというものが立てられれば、競争の力学に逆らうような状況の膠着を招くおそれがある。つまり、科学主義的な方向の生命倫理の下では、原則を立てようとする段階が次第にすっ飛ばされるようになる。そうなれば生命倫理の溶解が、すでに起きているように空間レベル(「医療ツアー」の誕生)や決疑論(13)のレベル(最初は理由を付した譲歩だったのが、妥協に妥協を重ねるうちに常態と化す)だけでなく、時間レベルでも進んでいく。生命倫理に欠けている世俗のヒューマニズムの定義を省みることを妨げているのが、科学のおかげで必ずよりよい世界が到来するという信念である。「科学は倫理より進み方が速い」というのは、実際には社会的な選択に対する科学技術の優越と支配を意味している。

 科学というものは、これまで理想化されてきたような純粋に合理的な構築物、すなわち、不測の批判への防備を施した観念群を指すのではない。人間が作り上げた道具である科学技術の力のほどと不足は現に示されており、人類という種の解放のために働かせるには肥大化の抑制が必要となる。1982年1月の全国研究大会の席で、シュヴェーヌマン研究大臣(当時)は「科学と技術に対するある種の偏見を退け、反科学運動にたがをはめること」を提唱した。彼の言うところの反科学運動にはタロット占い師と環境保護論者が一括りにされていた。その20年後、環境保護問題は認知を得るようになり、公式科学サイドからも憂慮に満ちた報告書が出されている。それでも科学主義はしぶとく存続している。1992年にリオデジャネイロで「持続可能な開発」に関する首脳会議が開かれた際、ノーベル賞受賞者多数を含む高名な科学者たちから「科学と産業の進歩に反対し、経済と社会の発展を損なう非合理的なイデオロギーの抬頭」を非難するハイデルベルク声明が発された。

 産業関係者や多数の研究者は、市場シェアを取れるような技術革新の実用化と普及を求めている。科学から科学技術への変貌には、この競争という動機が大きく働いている。とはいえ、解放の力となるべき科学が逸脱を始め、問題を解決する以上に新たな問題を作り出すことも多い人工物の生産へと向かい出した時点で、一般市民の抵抗が起きてもおかしくはないはずだった。

進歩の神話との絶縁

 歴史学者で社会学者のジャック・エリュールは、「科学と技術の法則が国家の上位におかれ、国民とその代表者の権限のかなりが剥奪された」ことを示した(14)。科学主義は実際には科学者だけの特質ではなく、社会に広く共有されたイデオロギーとなっている。何かを信じたいという欲求に対して宗教や政治の分野で信ずるに足るものが提示されなくなって以来、その傾向は特に強まっている。天国という神秘的な約束や、輝かしい未来という活動家の約束がすり切れた一方で、合理性という目新しい衣をまとった大文字の進歩の伸長は著しい。

 ほかに何を信じていいのか分からなくなった近代市民は、研究者が自分たちに代わって何を実用化すべきかの選択権を要求することなど考えもせず、科学技術の所産に対して受け身の姿勢に陥っている。踏み出すべき初めの一歩はここにある。科学技術が存在する以上、それは他のあらゆる人間活動と同じように民主化プロセス(透明性、公共の議論、対抗知識、合理的な選択肢、等々)に引き込んでかまわないと考えてみる必要がある(15)。物理学者ジャン=マルク・レヴィ=ルブロンはこう述べた。「教会はかつてガリレオを断罪したが、今では彼の後継者に関する懸念は、ある種の競争相手になるという点に絞られている。(・・・)知識に対するわれわれの関係を改めて世俗化すれば、今日のあらゆる教条主義に対して一定の距離を確保できることを認めようではないか(16)

 世俗性(ライシテ)は「市民社会と宗教社会の分離原則のことであり、国家はいかなる宗教権力も行使せず、教会はいかなる政治権力も行使しない」と定義される(ロベール辞典がこの定義とともに、神父を志しておきながら過激な科学主義者となったエルネスト・ルナンの文章を引用しているのは味わい深い)。科学が「高次かつ一定の社会集団に特有の原則との関連を含み込んだ信念と実践の体系」すなわちロベール辞典の「宗教」の定義に一致することを認めるならば、「知識に対する関係を世俗化すること」というレヴィ=ルブロンの提言の意味がよりよく理解できる。

 最近では、フランス国立農学研究所(INRA)の前所長ベルトラン・エルヴューが、「科学の非神聖化プロセス、絶対的な超越性の終焉、民主的で世俗的な社会における科学の再建の道は、いまだ完了を見ていない」と述べている(17)。このような意味で、研究者に対して、もっと謙虚で公共の福祉に配慮した態度をとるよう求めてよい。筆者らが「科学の制御」宣言によって(ル・モンド紙1988年3月19日付)、あるいはミシェル・セールが1997年に「学者の誓い」によって世に問うたのも、そうした趣旨のことだ。

 キーワードはここでもやはり、民主制である。ジャック・エリュールは、われわれを脱出不可能な「テクノファージ」の論理に陥れる技術の全体主義に言及し、世界規模の独裁体制が「技術の全面的な展開を可能にし、それが次々と生み出す途方もない問題を解決する唯一の手段」となることを憂慮した。近年は、科学の選択が一般市民の与り知らぬまま行われることがないよう、技術の開発が社会の求めに見合うようにするための道筋も開かれてきた(18)

 いずれにせよ、啓蒙時代から引き継がれてきた進歩の神話と社会が決別できるよう手助けする必要がある。科学とその所産に関しても人間は自由で平等だという考えを阻んでいるのが、この神話であるからだ。

(1) ジョルダーノ・ブルーノ神父は、三位一体の教義をめぐって高位聖職者と衝突し、1576年に異端宣告を目的とする審判が開始されると、ドミニコ会の僧衣を脱ぎ捨てた。
(2) ソ連の生物学者トロフィム・ルイセンコ(1898-1976年)は、古典遺伝学にあれこれと攻撃を加え、資本主義の実践に結びついているという「ブルジョワ科学」に対して、弁証法的唯物論に立脚しているという「プロレタリア科学」を置いた。
(3) ミシェル・シフ『ある科学の検閲の事例』(アルバン・ミシェル社、パリ、1994年)。
(4) セルジュ・ラトゥーシュ『メガ・マシン』(ラ・デクーヴェルト社、パリ、2004年)。
(5) ベルナール・カセン「遺伝子組み換え食品を推奨する学者たち」(ル・モンド・ディプロマティーク2003年2月号)参照。
(6) アンドレ・ベロン「一般大衆の『ポピュリズム』を嫌う科学者たち」(ル・モンド・ディプロマティーク2002年6月号)参照。
(7) 「枢機卿と無神論者」(ル・モンド2005年5月2日付)。
(8) 「家が燃えているのに、われわれはよそを見ている・・・」。2002年にヨハネスブルクで開かれた持続可能な開発サミットでシラク仏大統領が行った演説より。
(9) 「技術ユートピア:政治的なアリバイ、市民の子供あつかい、もしくは輝かしい未来」(『グローバル・チャンス』20号、シュレーヌ、2005年2月)。
(10) ドロシー・ネルキン、M・スーザン・リンディー『DNA伝説』(工藤政司訳、紀伊國屋書店、1997年)。
(11) 2000年11月29日、生命科学・衛生学に関する国家倫理諮問委員会がパリで開催した年次集会での発言。
(12) ミシェル・オンフレ『解剖学奇譚』(グラセ社、パリ、2003年)。
(13) 古典的な道徳神学や道徳哲学のうち、一般的な規範と実際の現実との板挟み的な状況について判断する分野。なかでも個々の事例に即して判定を下すという側面が強調されることから、俗に「こじつけ」の比喩としても用いられる。[訳註]
(14) ジャック・エリュール『技術屋システム』(カルマン・レヴィ社、パリ、1977年)。
(15) 市民科学財団(FSC)の覚書その2、パリ、2004年10月(http://sciencescitoyennes.org)。
(16) ジャン=マルク・レヴィ=ルブロン『試金石』(ガリマール社フォリオ評論叢書、パリ、1996年)。
(17) 『農業生科学』誌(カスタネ・トロザン、2004年9月)。
(18) 市民科学財団(FSC)の覚書、パリ、2004年10月(http://sciencescitoyennes.org)。


(2005年12月号)

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