国際会計基準という新たな錬金術

ジャック・リシャール(Jacques Richard)
パリ第九大学教授

訳・三浦礼恒

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 数年前から「国際会計基準」という言葉をちらほら目にするようになった。これを日本にどこまで導入すべきかという実務家の議論に加え、会計学者の間では企業資産の評価における原価主義と時価主義の「意味」に迫る議論も起きている。資産評価は「手堅く」行うべきなのか「未来志向」で行うべきなのか。そもそも企業の財務情報は誰のためのものなのか。原価主義の伝統をとる大陸ヨーロッパ型の会計方式を擁護する立場から、フランスの会計学者が現在の時流に一石を投じる。[日本語版編集部]

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 2005年1月1日から、欧州連合(EU)で上場されている全ての企業は、連結財務諸表の開示に当たって、国際会計基準審議会(IASB)という民間組織によって作り上げられた国際会計基準を遵守する義務を負う。フランスやドイツなど大陸ヨーロッパ各国の現行基準を塗り替えるこの措置により、会計という分野への関心が復活し、別の分野の専門家まで関心を向けるようになった。古くは1916年にヴェルナー・ゾンバルトによって「資本主義の存在にとって必要不可欠な条件」(1)として重要性が強調されていた会計制度は、しばしば十年一日の単なる技術と見なされ、面白味にも欠け、これまでは少数の地味で堅物の押し黙った経理屋だけの闘技場となっていた。それを激変させたのが2001年12月のエンロン事件である。にわかに経済学者たちは、会計制度が資本主義システムの根幹に、いかに不気味な影響を及ぼしているかを忖度するようになった(2)

 概略的に言えば、会計士団体が広く共有する定説は次のように要約される。つまり、企業会計はエンロンと「過ちをおかした」が、IASBの新たな会計原則を採用すれば、この事件によって提起された問題は解決できるという。会計の秘儀を司る者たちが雄弁に説教を垂れるのを聞けば、IASBがおひろめした新たなる知恵の殿堂はますます魅力的に見えてくる。「優れた」原則、「公正価値」による資産評価、近代世界の現実に適合した「より良い経済情報」が必要だという主張に対し、いったい誰が頭から異議を唱えることができようか。だが、これらの美しい言葉は隠れ蓑にすぎない。

 「会計原則」が登場すれば新時代が到来するという言い方は、それだけで既に情報操作のようなものだ。例えば、エンロン事件以前のアメリカには原則なき会計制度しかなかったと主張するのは難しい。「取得原価」の原則や「慎重」の原則(保守主義の原則)のような基本原則を重んじる概念枠の発展に当たり、アメリカは他国を牽引する先駆者の役割を演じてきた。「取得原価」の原則とは、資産の評価益を記載してはならず、資産価値の確定には売却を待たなければならないというものであり、「慎重」の原則とは、評価損は知られた時点で記載しなければならないというものである。アメリカで提起された問題は、これらの原則がなかったということではない。原則が適用されなかったり、企業の利益を優遇する妥協的な規制によって「加減」されたりしたことが問題なのだ。

 それに、原則を並べ立てれば「公正」な会計が確保できるなどというのは、呪文のたぐいに属することだ。歴史をひもとけば、「表現の忠実性」と初歩的な規制を基本とする独特の会計方式を極めたイギリスでは、表現の忠実性の名目の下に、「学」としての会計からかけ離れ、ただ決算の操作だけを目的とするような実務が発達を見た。例えば、本来は償却されるべきある種の資産が、損失の計上を避けるために自己資本から控除された。現実には、あらゆる法的活動と同様、明確かつ適切な規則と結びついた優れた原則が会計には必要なのだ。EUがIASBとともに推進している「原則」と称する会計基準により、株主と経営陣が操作を行う余地を拡大したところで、明るい未来は開けない。

 自分の犬を「始末」したい者は狂犬病だと喚き立てる、と俗に言う。「古びた」会計原則では近代的な金融手段に関わるリスクを考慮できないことはもはや明らかだという攻撃は、まさにこれと同じ手口である。

減価償却という方式

 20世紀において、取得原価の原則は慎重の原則と結びつけられた。この原則の下では、企業はあらゆる評価損(資産の市場価値が原価を下回った場合)に加え、考えられる全てのリスクを算入しておかなければならない。したがって、伝統的な会計方式には新たな金融リスクを反映する「力がない」という議論は根拠に欠けている。慎重の原則が遵守されれば、リスクの計上が単に可能になるばかりでなく、潜在的な負債の貸方への記載などを通じて義務づけられることになる。ではなぜ実務上、投機的な取引による損失リスクが多くの国では記載されないのか、と疑問の声が上がるだろう。理由は単純だ。企業と会計監査人が、伝統的な慎重の原則による厳格な処理の例外項目を増やすため、会計基準の作成者に圧力をかけてきたからだ。例えば、投機的な先物取引に関わるリスクは、契約の締結時には一銭も支払いが生じていないという白々しい口実の下、これまで除外されてきた。

 「公正価値」(あるいは現在価値)という新たな原則の追従者が不満に感じているのは、実際には、従来の会計制度では評価損しか記載されず、評価益を記載できないことだ。取得原価の原則の過ちは、リスクの有効な処理を妨げることではなく、過度の慎重を生み出したことにあるというのだ。この従来の「優れた」原則は、極めて実際的なやり方で、企業経営者にしみついた楽観主義の抑制を目指すものであったのに、ここ数十年にわたる切り崩し工作によって部分的に骨抜きにされてしまった。やがては決定的に葬り去られることになるかもしれない。今こそ「近代化」を敢行するために、この原則を完全に「始末」する必要があるというわけだ。会計基準をめぐる攻防には、莫大な金額が賭けられている。

 例えば、相場が100下がった証券Aと、150上がった証券Bを保有している企業があるとしよう。旧来の慎重の原則によれば、100の損失だけを計上しなければならない(評価益の方は計上しない)。新しい公平価値の原則では、差し引き50の利益が出現することになり、それだけ株主への増配資金ができる。つまり、公正価値が確立されたなら、会計原則に革命が起きるのだ。会計革命はこれが初めてではない。19世紀半ば以降だけでも2つの革命が起こっている。それらを振り返ってみることで、最近のパラダイム変更がいかなる性質を持っており、いかなる影響を及ぼすことになるかが看取しやすくなるだろう。

 1860年頃、債権者の利益保護に努める法律家と銀行家たちは、あらゆる資産への最低原価(最小の市場価値)の原則の厳格な適用を基本とする会計制度の考え方を広く確立するに至った。会計資本主義の第一段階と呼ぶことができよう。だが、この考え方は株主の利益を重視する人々を激怒させた。市場評価のない(あるいは低い)資産が「マイナス」要因となりがちで、投資サイクルの初期には配当を実施できないことになるからだ。この考え方によれば研究開発費(当然ながら市場評価はない)は速やかに費用計上しなければならなかった。

 長年にわたる激しい闘争と株主からの圧力の結果、最低原価(最小の市場価値)の規則の長期資産への適用を回避しようとする新たな考え方が、20世紀を通じて発展した。そこでは長期資産は「償却費」を用いて評価される。つまり、簿価を下回る市場価値の変動は算入せず、耐用期間に応じた減価が生ずる。この革新のおかげで、投資サイクルの初期から、より定期的な配当を実施できるようになった。これが会計資本主義の第二段階である。例えば、先に例とした研究費や特殊機材の費用は、投資サイクルの初期に急激に計上されることなく、投資サイクル全体に振り分けられることになる。

 だが今日、企業の巨大合併が進められ、そこに投入された莫大な資本への見返りが求められ、ますます性急で金に飢えた経営陣と株主が中心を占める時代には、この第二段階も時代遅れになっている。そこで、三点セットのすばらしいアイデアが生まれた。第一に、無形資産と金融資産を中心として、減価償却をまったく行わない資産項目を拡大する、第二に、評価益の記載を認める。第三に、評価益は公正価値によって算定する。この公正価値は市場価値を直接の基準にすることなく、専門家による将来の売却額の見積もりに基づいた将来利益から算出される。これが現在価値換算の段階、もしくは「保険数理的段階(3)」たる、会計資本主義の第三段階である。

「公正価値」の出現

 IASBの国際基準に関する文献の多くは、この革新によって以前の制度の不備が是正されると主張する。そこで「不備」というのは、資本主義的経営のリスクの算入や、業績の追跡ができないという意味ではない。経営陣と株主の増え続ける欲求を満たすには適さないという意味だ。

 新たな会計資本主義は、こうした目的を達成すべく、償却費の原則と慎重の原則という二つの「古来」の原則にカタを付けた。費用を計画的に償却(あるいは減価)するという原則は、のれん(事業の売り手が買い手に払わせる潜在的利益の額)や商標といった無形資産など、ある種の資産については風前の灯火となっている。商標は今や「無限定」の耐用期間があるとされ、必ずしも減価償却されない。マクロ経済のレベルで見ると、経営難の若干の企業グループの価値低下が強調される場合があるとしても、資本主義全体としては高い(見せかけの)収益が得られることになる。

 慎重の原則はどうなったかといえば、アメリカの新たな概念枠にもIASBのそれにも含まれてはいるが、本来の性質を失っている。もはや潜在的損失を算入し、可能的利益を除外することを義務づけるものではなく、「評価の際の判断の実施に当たり、一定の慎重性を加味する」という制約にすぎなくなっている。軽率の原則へと向かう道が開かれたのだ。

 こうして見てくると、公正価値が登場した理由は、公式の説明が言うほど単純ではないように思われる。公正価値を用いるようにすれば、経営陣をより良くコントロールし、株主により良い情報を提供できるようになるのだろうか。そんなことはまったく当てにならない。多くの場合、公正価値というのは実際には、将来の売却額の見積もりに基づいた「専門家の評価額」のことだ。客観的な市場価値が用いられる場合でも、単なる利益予想に基づいた余得の分配が認められている以上、経営陣は好きなように配当を実施することができる。

 株主に対し、より良い会計情報が提供されるというのも疑問である。株式相場を反映しただけで情報の質が上がるという考えが馬鹿げていることは明らかだ。既に株式市場で提供されたデータを帳簿に書き写すことが、いったいどうして情報の改善などと言えようか。

 パラダイム変更の真の理由は、実際には配当の側面にある。端的に言って、現代の株主と経営陣の関心は情報を増やすことではなく、短期的に資金を増やすことにある。このレベルにおいて、会計制度が重要な役割を演じるのだ。これまで2世紀近くにわたって議論されながら却下されてきた「公正な現在価値」が会計制度の中に組み込まれるという変化は、株主や経営陣に3つの基本的な利点をもたらす。まず、単なる評価益が正当化される。また、以前の原則では、配当可能利益の計上は投資サイクルの終期まで延期されるか、実際の売却に依拠するかだったのが、新たな原則によれば、現在価値への換算を通じて投資サイクル全体に振り分けることができる。さらに、もし発生すべき減価が「失念された」場合には、完全に架空の利益が生じることになる。

 例えば、10億ユーロの「のれん」を取得した場合、20世紀初頭に適用された規則によれば、投資サイクルの初期に10億ユーロが損失として記載され、20世紀の終わりに適用された規則では、20年間にわたり5000万ユーロずつが定期的な損失として記載された。今回の新たな規則の下では、その企業の将来の業績(の悪化)を見越して経営陣と会計監査人が必要と判断した場合を除き、損失として計上されることはない。極端な場合には、この投資が失敗に終わるまで損失計上が一度もされない可能性すら考えられるのだ。

 公正価値による評価法に異論が唱えられているのは事実である。また、今のところ、対象となる資産項目は限られており、国によっては利益分配に直接関係しない会計書類だけが適用対象とされている。だが、事態は進行している。この評価法が普及したならば、会計資本主義は最高の段階に到達したと言えるだろう。

エンロンに通じるモデル

 事態の推移は偶然によるものではない。IASBが信じ込ませようとしているように、これは中立的な専門家の会合を頂点とした清らかな世界で起きた話で、そこには善行と社会的利益をこころざす義務感があるというわけではない。ベルナール・コラスが強調しているように(4)、独立性、見識、中立性を備えた専門家というレトリックの裏側には、大きく異なる現実が隠されている。審議会レベルでの見事な権力均衡は、完全に見かけ倒しのものにすぎない。実際には、そこでは証券業界の統治方式が特権化されているのだ。ロンドンに事務局を置くIASBの委員14名のうち、10名はアングロ・サクソン諸国の出身である。他国の委員たち(フランスは1名)も彼らと立場の近い者であり、通常アングロ・サクソン系の大手監査法人に在籍したことのある専門家の中から厳選される。この手の組織では、ドイツ流の労使共同決定の擁護者や労働組合の代表を呼び入れたりはしないものだ。

 IASBは、諸国の現行制度の「収斂」に基づいた国際的な共通会計制度を構築しようとしているのだと自負している。しかし実際には、アメリカの企業統治の方式にほぼ完全に同調しようとしているだけだ。その概念枠はアメリカの制度の引き写しであり、現在価値を特権化する。ワシントンが「のれん」の計画的償却の原則を放棄することを決定すると、IASBもすぐさま「兄貴分」に追随した。公正価値こそ会計の特効薬になるはずだとIASBが宣言したのも同じ理由による。

 EUは2005年1月1日以降、会計制度に関する固有の政策を完全に放棄し、IASBに丸投げしている。将来の国際会計方式の要として、関係者の長期的な利益に配慮した伝統的な会計制度の「大陸型」近代版を提案することもできたはずなのに、試みることさえしなかったのだ。

 それにもかかわらず、アメリカの基準である一般に認められた会計原則(GAAP)への事実上の降伏をごまかすため、欧州委員会は自らが議長を務め、各加盟国の代表が参加する会計規制委員会を設置した。この委員会はIASBの基準が出るたびに特定多数決で決定を下す。委員会の作業の準備は、欧州財務報告助言グループ(EFRAG)という民間の専門家によって構成された別の委員会が担当する。

 IASBの新たな会計モデルは「エンロン的な思考法」の原則に連なっている。このモデルは第一に、合併で生じるある種の資産について減価償却の義務を廃止することで、資本の集中を優遇しようとする。同じ理由から、ミクロ経済のレベルでは収益、マクロ経済のレベルで富を人為的に底上げする。また、配当の前倒しと増額のみならず、短期的な経営を助長する。現在価値換算の技術に基づいた資産評価の技術が用いられることで、経営陣が成果の出るのに時間がかかる計画に乗り出そうという気を起こさなくなるからだ。

 このモデルはさらに、会計管理をより困難でより高コストのものにしてしまう。自分たちの基本的な利益を守ろうと、神聖同盟の下にほぼ一致団結した株主、会計監査人、公認会計士、そして財務部門の管理職は、債権者と従業員の保護を犠牲にする方向への事態の展開を歓迎している。それにてこ入れしているのが欧州委員会なのである。

 かつて1861年に、慎重の原則の熱烈な推進者であったデュパン検事長(5)が「分配するのは期待ではなく貨幣である」と叫んだのは、遙か昔のことになった。3度にわたる革命を経て、会計資本主義は最高の段階に到達しようとしている。何かしら「邪魔者」が現れれば別ではあるが、アメリカとIASBという「カップル」が極めて強力であるだけに、そうした人々の仕事は困難なものとなるだろう。このカップルは政治的にも財政的にも確固たる基盤を備えており、その宣伝手法は磨きぬかれている。「公正価値」や「経済情報」といった力強い言葉を繰り返し使い、「法律上」の(という表現は最高の侮蔑である)会計制度や「古いヨーロッパ」の「古い統治方式」をぼろくそにけなす。こうした宣伝手法はまさにイデオロギー的な集中砲火のようなものであり、抵抗するのは困難だ。

 その気になれば、現在でも見抜くことはできる。二重写本を引っ掻いてみれば下に隠れた文字が現れるように、「情報の改善」という遠回しの宣伝文句の下には、配当のつかみどりという薄汚れた現実がある。

(1) Werner Sombart, Der moderne Kapitalismus(近代資本主義), Duncker und Humbort, Berlin, 1969 (reprint).
(2) ミシェル・アグリエッタ、アントワーヌ・ルベリュー『金融資本主義の脱線』(アルバン・ミシェル社、パリ、2004年)、ドミニク・プリオン『新たな成長レジームにおける収益とリスク』(フランス経済企画庁、パリ、2002年)、トム・フランク「エンロンのあの手この手」(ル・モンド・ディプロマティーク2002年2月号)を参照。
(3) ジャック・リシャール「フェアバリュー、会計資本主義の第三段階か? フランスの場合」(雑誌『経済の分析と文献』95号、75-81ページ、および雑誌『労働総同盟経済社会研究センター報』96号、43-47ページ、モントルーユ、2004年)。
(4) ベルナール・コラス「IASC/IASBの抗し難からざる台頭について」(雑誌『経営と理解』75号、2004年3月、30-40ページ)、「会計基準:欧州連合は影響下にあるのか?」(雑誌『ソシエタル』46号、2004年4期)。クリステル・デコック=グッド、フランク・ドーン『国際会計基準:IAS/IFRSの実務』(エコノミカ社、2005年、パリ)も参照のこと。
(5) アンドレ=マリ=ジャン=ジャック・デュパン(1786-1865年)はフランスの法律家・政治家。文中の言葉は第二帝政下で、投機的な銀行家ミレスの不正疑惑事件に際して述べられたもの。[訳註]


(2005年11月号)

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