タイ南部、戒厳令から非常事態宣言へ

ジャン=クロード・ポモンティ特派員(Jean-Claude Pomonti)
ジャーナリスト

訳・瀬尾じゅん

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 イスラム教徒が多数を占めるタイ南部では、1年半以上も前からじわじわと反乱状態が続いている。政府はこうした「二級市民」の当然の不満に配慮するどころか、抑圧的な措置と非常事態宣言をもって応じた。政府の決定は、国王の周辺からも批判を呼んでいる。[フランス語版編集部]

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 ヤラーは、タイの最南部にある同名の県の県庁所在地で、イスラム色の強い町である。7月14日の日が暮れた直後、この人口16万5000人の町の中心部のあちこちに、バイクの隊列が現れた。手製の爆弾を投げつけた後、追っ手を振り切るために釘を車道にまき散らしながら走り去った。この同時攻撃は小型発電所、新規オープンの複合映画館、ホテル1軒、小規模スーパー2カ所など、人通りの多い場所を狙ったものだった。電気はすぐに復旧したが、死者2名、負傷者二十数名を出した。

 タクシン首相は即刻、ヤラー、ナラーティワート、パッターニーの3県に非常事態宣言を発令した。住民の5人に4人はマレー系ムスリムという地域である。この新たな抑圧的措置により、起訴なしでの30日間に及ぶ勾留、令状なしの家宅捜索や差し押さえ、自宅拘禁、メディアの検閲、電話や手紙の規制を行うことが可能となった。この措置に対する抗議の声を前にしたタクシン首相は、非常事態宣言の穏当で限定的な運用を心がけると表明した。しかし中央から遠く離れ、タイへの統合が進まない深南部で2004年初頭から続く危機的状況が、これによって新たな局面を迎えたことは確かである。

 2001年の選挙で楽々当選を果たし、2005年2月に圧倒的な強さで再選されたタクシン首相は、警察官僚出身で政界に入る前に電気通信事業で財を成した。彼はこの3月、国民和解委員会の委員長の座を、広く尊敬を集めるアナン元首相に託すことで、それまでの強硬姿勢を放棄したように見えた。「過去に犯した誤りは捨てるつもりだ」とまで言っていた。この一時的な穏健姿勢は、7月半ばに元に返ることになる。

 論理的には、アナン委員会の創設にともなって、まずは南部の一部にしかれていた戒厳令を解除するのが当然だったはずだ。この戒厳令は2004年1月、護衛4名が殺された武器庫襲撃事件と20あまりの私立学校への同時放火事件が起こった翌日に発令された。戒厳令が解かれたのは、ようやく2005年7月半ばになってからで、しかも「文民非常事態宣言」がそれに取って代わったにすぎない。つまり、以前は軍が握っていた権限を首相が奪い取ったということになる。5月以降、タイ族の仏教徒を個人的に狙い撃ちしたテロが増え、特に教育者が攻撃対象とされ、状況が次第に悪化しているのは事実である。

 この地域はマレー系ムスリムの居住地で、かつてのイスラム王国パタニの範囲とほぼ一致する。タイがシャムだった19世紀初頭、マレー半島に進出したばかりの大英帝国との協定に基づいて併合された。数十年にわたり反乱の舞台となったが、大多数を占める仏教徒のタイ族は、この地域にも次第にタイの行政制度や言語、学校を広めていった。しかしマレー族は彼らの話し言葉であるジャウィ語を使い続けている。コーラン学校も多く、そのいくつかは王族の保護を受けている。

 タイにおけるムスリムはタイ王国の人口6400万人のうち、推定230万人という少数派である。大バンコク圏では、出身民族もさまざまなムスリムが50万人の共同体を形成し、うまくタイへ統合されているかに見える。反対に、深南部のムスリム共同体の統合は進んでいない。民族的には均質で、隣国では多数派を占めるマレーシア連邦のムスリムと緊密な関係を保っている。発展から取り残されたままのタイ深南部は、それでも2004年の事件以前まで、すぐ隣のマレーシアのケランタン州に比べればマシな状況にあったと言える。ケランタン州は、25年前にイスラム主義政党が政権を握って以来、連邦政府からの財政援助をほとんど受けられずにいるからだ。

二つの機関の廃止

 タイ深南部のムスリムに見られる潜在的な分離独立主義をなだめるため、プレム首相(在任期間1980-88年)は問題の打開にあたる官民混合の組織、南部行政センターを立ち上げた。同時に文民、警官、軍人からなる情報機関であるCPM43を作った。こうして、タイ王国の深南部は比較的穏やかな時期が長期にわたって続き、1997年から98年のアジア金融危機を切り抜けた民主党がしっかり基盤を固めることとなった。

 2001年の選挙ではタクシン首相とその政党、タイ・ラック・タイ(タイ愛国党)が楽勝し(1)、民主党は国政レベルで壊滅状態に陥ったが、しかし南部では主要な地位を維持した。議会工作で多数派を固めたタクシン首相は2002年5月、南部行政センターとCPM43を解散した。ブリュッセルの国際危機グループ(ICG)が2005年5月に発表した報告書によると(2)、首相はこの二つの機関を「効果なし」と決めつけ、民主党という「野党の利益」に資するものであるとした。

 地元のムスリムの有力者と中央政府の代表を結びつける南部行政センターが廃止されたことで、イスラム地域の南部は首都バンコクとのパイプを断たれてしまった。情報部門の方は、ICGの表現によれば「腐った使えない官僚の左遷先と一般的にみなされている」県警察に移管された。このような空隙が生じたのは、2001年9月11日の襲撃と、2003年のアメリカ軍によるイラク介入によって、ムスリム世界がゆさぶられた時期のことだ。南部行政センターの業務は、戒厳令発令から3カ月後の2004年4月になってようやく「南部国境地方の建設」を担当する軍司令部に引き継がれた。

 しかも2004年1月の事件以前にも、取り締まりの甘いマレーシアとの国境をまたぐ密輸に精を出していた南部地方では、麻薬密売人に対する殺人的な撲滅キャンペーンの被害が特に大きかった。全国規模では、現在まで真相不明の状況下で、推定2500人が殺害されている。この死の商人に対する「戦争」は、アンフェタミンが小学校にまで出回っているタイ国内で、おおむね支持されていた。しかし、南部には禍根を残した。

 後に知られるようになったことだが、同じころ、マレーシアで結成され、インドネシア人が主流を占める地下テロ組織、ジェマア・イスラミヤ(JI)がタイを潜伏先としていた。1980年代半ば、JIの活動家とタイの少数のイスラム厳格主義者たちは、アフガニスタンとパキスタンとの国境地帯の訓練キャンプで関係を築いた。JIの資金がタイを経由して運ばれていた事実は知られている。この組織の中心的な作戦実行者で、アル・カイダの一員でもあったインドネシア人ハムバリが、2003年8月にタイ国内、バンコクの北郊で逮捕された。彼は現在アメリカによって、どことも知れぬ場所に拘束されているという。

 しかしながら、本質的には局地的なものである紛争に、これまでにJIが直接的な影響を与えたかどうかを知るのは非常に難しい。タイの情報部門は数カ月かけて徐々に再編されたが、相変わらず調査ルートは限られている。時には報復攻撃を予告する声明が見つかったこともあるが、テロ自体の犯行声明は出ていない。テロ攻撃の連携は高度化しているように見えるが、この地域の外には広がっていない。深南部の状況と連動したテロ行為が、例えば、プーケット地方など南西部の観光地や首都で起こったことはない。かつての分離独立運動の再燃、あるいは、新世代の「聖戦派」の台頭は、おそらく新しい勢力図の一部をなしているだろうが、そう断定する証拠も欠けている。

政府が手にした権限

 2004年6月に発表された研究で、タイの高名な歴史家、ニティ・イーオシーウォンは、民族・宗教的理由で自らを二級市民と感じているムスリムの蜂起において「庶民」が大きな役割を果たしたことを強調した。彼らの反乱が国内のほかの地方では支持されず、それが去る2月の選挙でのタクシン首相の大勝につながったことは事実である。

 これらの反乱の指導者たちの知られざる目的の一つは、南部から非ムスリム住民を追い出すことにあるようだ。個人を狙い撃ちしたテロでは、犠牲者の首を切り落とすという手口も用いられ、仏教徒が逃げ出すことを意図している。教師たちは武装し始め、パゴダは軍隊に護衛されている。目的は、街中でも、この地方の主要産業のひとつであるゴムの大農園でも、不穏な空気を生み出すことだ。さらに、わざと治安部隊から乱暴な反応を引き出し、ムスリムたちにどちら側に付くのかと踏み絵を迫る意図もありそうだ。

 実際、治安部隊の失態はすでに起きている。2004年10月25日のデモの弾圧で68人が死亡している。その大半は、トラックで拘束施設へ搬送される途中の窒息死であった。拘束者たちは、ぎゅうぎゅうに積み重ねられていた。それより半年前に警察の複数の派出所を狙って撃退された同時テロは、113人の死者を出し、そのうち108人を占める襲撃者のほとんどは、武器として大鉈しか持っていなかった。2004年1月以降の1年半で、紛争による犠牲者は800人に上っている。

 2005年7月10日、国民に人気が高く、現在は枢密院長を務めるプレム元首相は、政府に治安措置と個人の自由保護の均衡を回復させるよう要請した。さもないと「南部3県では暴力がいつまでも続く」と言い加えた。その5日後にヤラーの事件が起きると、タクシン首相は非常事態宣言を発令するという別の判断を下した。すでにそれ以前に、南部の状況に対処するため、軍はアメリカから7機の軍用ヘリコプター、2万4000丁の軽火器を購入する予算を獲得していた。

 政府が手にした広範な裁量権は、大衆の支持を得たとはいえ、エリート層からは激しく批判された。首相はメディアに規制はかけないなど、権限行使は控えめにするつもりだと訴えたが、状況はさらに悪化するのではないかとの懸念を突きつけられた。反対派の英字紙ネイションは「強力無比の権限」と非難した。国家和解委員会のアナン委員長は、委員会は作業を続けると発表し、南部における自由の尊重と「恐怖の緩和」を政府に要請した。

 選挙で与党勢力を伸ばしたものの、タクシン首相は2期目の当選以来、別の困難に直面している。経済成長が息切れし、7月に発表した経済活性化策は国民から冷ややかに受け止められており、金融スキャンダルが事態をさらに悪化させた。その上、ヤラーのテロを受けて首相が手にした広範な裁量権は、タイの歴史上最もリベラルな1997年憲法の精神と相容れない。

 タイ人権委員会のサネ・チャマリック委員長は「この政令は、憲法に真っ向から反するものである」とし、「権力の濫用」を促すことになると断定した。そして「政府には非常事態に対処するための特別権限を得る権利があるが、法律をまったく超越するようなことは許されない」と言った。軍事政権に反対した1976年の学生運動の指導者で、大学教員となったチャルーン・カムピラパップは、タンマサート大学で開かれたセミナーの際、こう発言した。「30年近く前、我々は、独裁者たちが採った措置について協議するためにこの教室に集まった。同じ問題を話し合うために、再びこの場所に自分がいることが信じられない。この政令は、過去に発されたどんな政令よりも市民の権利を脅かすものである」と。

(1) フィリップ・S・ゴラブ「タイ経済危機その後」(ル・モンド・ディプロマティーク2001年6月号)参照。
(2) << Southern Thailand : insurgency, not jihad >>, Asia Report, no.98, ICG, London,18 May 2005.


(2005年9月号)

All rights reserved, 2005, Le Monde diplomatique + Seo June + Hiroi Junnichi + Saito Kagumi

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