競争原理に対抗するヨーロッパ

ベルナール・スティグレール(Bernard Stiegler)
哲学者、著述家

訳・逸見龍生

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 ヨーロッパに寄せられる世界の期待は大きい。ここ最近の出版物の傾向を見るかぎり、そう言ってよいだろう(1)。「もうひとつのヨーロッパ」を求める旧大陸の社会運動から上がる様々な声も、この期待を裏書きしている。ヨーロッパ構築の成否は、こうした期待に応える手段を確保できるか否かにかかっている。だが、実際には何が待たれているのか。

 世界が待ち望んでいるのは夢物語ではない。ヨーロッパに新たな産業モデルをつくりだすことである。このモデルの力で、西洋社会を蝕む全面的な個の喪失を阻止することである。集合体の構成員は、心的な個の獲得を通じ、その集合体に属する個として形成されていく。ジルベール・シモンドンは、こうした過程を指して、個の心的・社会的な形成と言った。心的な個の獲得は社会的な個の形成を助け、同時に、社会的な個の形成は心的な個の獲得に力を貸す。その意味でこの過程は動態的である。ヨーロッパが真の意味で建設されれば、同様の過程が生まれる筈だ。ヨーロッパの住民は、すでにヨーロッパ諸国の国民としての個の形成途上にあった。いまやこの動きは、ヨーロッパ規模での個の新たな心的・集合体的形成の動きの中に包摂されねばならない。

 だが、現代資本主義の下で産業を基軸とする心的・集合的な個が形成されている現在、個の獲得は前代未聞の危機に瀕している。脱昇華という深刻で危険な病にかかっているのだ。生産者と消費者のリビドー・エネルギーはあらゆる領域で絡めとられ、最後の一滴まで搾り取られている。個人や集団のリビドー・エネルギーは、強制的に消費活動の対象へと振り向けられている。その結果、消費を除くリビドーの対象にはエネルギーが投入されず、深刻な脅威が引き起こされている。特に危ういのは、これまで文明の構築を支えてきたリビドーの対象の領域である。

 脅威にさらされているのは、家庭や教育、学校、そして知識全般である。政治や法であり、そしてドイツ語の「ビルドゥンク」、すなわちかつて自己形成や教養と呼ばれたものの結実たる精神の崇高な活動である。リビドー・エネルギーの逓減は個の喪失となって現れる。これによって、資本主義的・産業的な個の形成は自己矛盾に陥り、自滅へと向かう。こうした流れはさらに、生存の可能性を個体から剥奪し、最終的には商品社会全体に致命的な打撃をもたらすところにまで行き着く。リビドーと昇華の存在は、市場と生産活動の双方にとっての根本原則だからである(2)

 ヨーロッパの構築と存立を望むならば、新たな産業政治(3)を通して、ヨーロッパが断固として個の全面的な喪失に対する闘いに乗り出すことがまず必要である。言いかえよう。世界全体がヨーロッパに期待し、ヨーロッパ人自身も同じく期待しているもの、それはヨーロッパが産業文明の概念を刷新することである。産業がつねに退行に行き着くとは限らないと明確に示すことである。

 しかし、EUが近年次々と打ち出してきたモデルはどれも例外なく時代遅れの産業モデルだった。あらゆる社会的実践を市場化し、市場が唯一の目標として掲げる消費行動の水準にまで引きずり落とそうとするモデルである。それゆえ人びとは、ヨーロッパ建設が逆にその解体の方向に向かっているとますます感じるようになった。

 脅威にさらされているというこの感情はさらに高まっている。ヨーロッパ内の国家間競争を絶対視するイデオロギーのかけ声の下で、人びとの生に直結する部門はことごとく市場として開発することが、唯一の目標として明白に打ち出されるようになったからだ。しかも、そこで起こりかねない各国の利害対立を調停する上位機関が用意されておらず、こうした機関の重要性を唱える声もない。だが何世紀にもわたって続いた国家間の諍いや、20世紀の両世界大戦によって、領土のほぼ全域が灰燼に帰した経験を持つヨーロッパ人は、国家間競争が自分たちをいずこへと連れていくか知り抜いている。ほぼこれと近い脅威も増しつつある。消費主義を唯一の目標して掲げ、その歯止めがきかなくなった結果、脱昇華の現状がいまや死の欲動の様相を呈している点である(4)。  

 個の心的・社会的な形成過程において、根本的に重要な役割を果たす要素のひとつは、疑いの余地なく競争である。国家統制経済の批判者たちは、個人の利害間の競争が経済活性化には必須の条件であると主張し、共産主義諸国に典型的に見られた当初予測を裏切る経済の沈滞、労働者のやる気の欠如を持説の根拠に挙げてきた。そのこと自体は正しい。

 しかし、超自由主義イデオロギーがここまで強化された現在では、資本主義の論理に基づく競争の組織化もまた、政治家がしばしば嘆くとおり、やる気の低下や「ペシミズム」を大規模に生むだろう。資本の寡占という弊害もある(5)

 ヨーロッパは建設ではなく解体に向けて歩んでいるのではないか。ヨーロッパの市民たちはそう恐れている。諸国間の競争を通じてヨーロッパを構築するという考え方に警戒しているからである。もっともなことだ。こうした考えは誤っているし、危険である。構成員となるべき人びとをもっぱら競争、すなわち対立状況に置いて、どうして共同体の構築が可能だなどと考えられるだろう。

 現在用いられている競争という概念は、古代ギリシア人たちが「エリス」と名づけた競合という理念を、極端に単純化している。経済政治共同体の内的なダイナミズムを生み出す原理は競合である。そのこと自体は了解できるし、今もその事実に揺るぎはない。しかし競合とは人びとに活気を吹き込み、個性の違いを超えた高みまで引き上げるべきものである。すなわち、人びとの集合体への包摂と個の形成のための最大の力たるべきものだ。

 したがって、新しい政治経済共同体において、今日の意味で言う競争は第一原理とはなりえない。ましてや唯一の選択肢でもありえない。同じ政治共同体を構成する国々の関係は、たんに経済交流や競争だけにはとどまらない。各国の利害を超えた高次の利害の一致が図られなくてはならない。それゆえ、かつてのハンザ同盟や、現在の北米自由貿易協定(NAFTA)をはじめとする地域独自の経済貿易圏と、政治的連合は明確に区別しなければならない。このとき必要なのは、まさしくヨーロッパという理念を、ヨーロッパを構成する多様な国に住む人びとが共有することである。ヨーロッパ独自の生存様式を確立することだ。

 ヨーロッパ独自の生存様式は、ヨーロッパ精神を体現するものでなければならない。このヨーロッパ精神もまた、理性というヨーロッパの典型的な遺産をなす理念から、歴史的に構築された。だが理性はただ純粋に形式的な概念ではない。フロイト以後、理性は欲望として理解されるべきもの、なにかしら人間を突き動かす力の具現とみられるようになった。欲望は昇華の力であり、この力の本質である。ヘーシオドスは「エリス」をめぐって若きニーチェを驚嘆させた叙述を残している。その中で彼は、この「エリス」こそ都市国家ポリスの力そのものだと書いている。より善きもの「アリストーン」へと向けて人びとの境地を高めていくのが「エリス」の役割だと考えていたからである。『仕事と日』(6)に登場する農民は、なるほど他の農民と競争し、競合している。だが、それはより善きものへと近づいていくためなのだ。

 より善きものとは、古代ギリシアでは神々を指す時に用いられた言葉である。同時にそれは、古代ギリシア人たちが「ディケー」(正義)や「アイドース」(羞恥心)と呼んだものも指している。これら二語は単に「徳義」を表しているばかりではない。法を発見した古代ギリシア人にとって根本的に重要な原理でもあった。

 「慎み」とも、時には「名誉」とも翻訳される「アイドース」は、「エリス」の基盤となる概念である。ヘーシオドスが書いているように、「アイドース」を欠けば「エリス」はもう「善きエリス」ではない。自己破壊の力と転じ、死の本能と同義となる。戦争へといたる道である。統合原理による歯止めがはずれ、たがが外れてしまうとき、競争がわれわれを導くのは羞恥心なき世界だ。効率性重視のかけ声のもとで、端的に低次の水準に同調するということだ。テレビ番組については、民放テレビ局TF1パトリック・ル=レイ社長の臆面もない発言がある(7)。テレビ番組も、社会政策関連の法制度も、そろって低きに流れるのだ。

 ヨーロッパは残念ながら数多くの戦争の舞台となってきた。ヨーロッパという政治的単位の構築は、まず何よりもこうした戦争が再び起こる可能性と敢然と闘うために必要なのだ。無制限の競争原理を基本として起草された憲法が、政治的単位の構築どころか新たな紛争の道へと国々を追いやりはしないか、ヨーロッパの人びとは懸念している。人びとは、ヨーロッパ憲法草案が描く「徳義」が、政治的連合の根本原理とあまりにもかけ離れていると考えている。なるほど、競合と競争をもたらす動的な原理も必要である。それなしには、人びとのやる気は削がれてしまうだろう。だがヨーロッパの政治的連合がまず闘っていくべき相手は、競合と競争を推進する原理が必然的に内包している分裂の可能性である。憲法第2条の中味を彩っている諸価値が、人びとの目に欺瞞に映るのはそのためである。そこに盛られたレトリックを信じることはできない。そこには人びとを突き動かすいかなる力の具現も見てとることはできないからだ。

(1) ジェレミー・リフキン『ヨーロッパの夢』(ファイヤール、パリ、2005年)などを参照。
(2) ベルナール・スティグレール「欲望、文化産業、個人」(ル・モンド・ディプロマティーク2004年6月号)。
(3) 例えば、精神のテクノロジーの産業政治のための国際組織である「アルス・インデュストリアリス」の掲げる目標がそうである。
(4) ナンテール市議8名を殺害したリシャール・デュルヌには「一度でいいから生きているという実感を味わいたい。だから何か悪を働かねば」との発言がある(ル・モンド2002年4月10日付)。
(5) 2005年4月14日にテレビ放映されたフランスの青年たちとの討論番組でのシラク大統領の発言などが挙げられる。
(6) ヘーシオドスの著作と伝えられる『仕事と日』の翻訳には、『仕事と日』(松平千秋訳、岩波書店、1986年)がある。
(7) 「広告のメッセージがうまく伝わるには、テレビ視聴者の脳がこのメッセージを受け入れる状態になくてはならない。私どもの放送の役割は、メッセージを受け入れやすいように視聴者の脳に働きかけることにあるのです。脳を喜ばせ、脳の緊張を解いてやる。広告と広告の間に番組が流れている間に準備期間を与えておくわけです。私どもがコカ・コーラ社に販売しているのは、広告メッセージを受け入れる態勢がすっかり整った、人間の脳の時間なのです」。『変化に臨む指導者』(ユイティエーム・ジュール出版、パリ、2005年)を参照。


(2005年6月号)

All rights reserved, 2005, Le Monde diplomatique + Hemmi Tatsuo + Saito Kagumi

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