訳・瀬尾じゅん
| ヒトラーの政策は長きにわたって強固な国民合意を享受した。それは大々的なプロパガンダと苛烈な抑圧政策によるものだった。これに対して歴史家のゲッツ・アリーは、ナチスがいかにして、ユダヤ人資産をはじめとするヨーロッパ各地での強奪により、ドイツ人に高い生活水準を保証していたのかを明らかにする。[フランス語版編集部] |
これは素朴な、未だに答えの見つからない疑問についての本である。いかにして、あのようなことが起こり得たのか。ドイツ人たちがそれぞれの水準において、未曾有の大衆犯罪を容認かつ実行するなどということが、いかにして起こり得たのか。特にヨーロッパのユダヤ人の大虐殺という犯罪を。国家によって煽り立てられた「ポーランド野郎」「ボルシェヴィキ」「ユダ公」など、あらゆる「劣等」民族への憎しみは、おそらくは必要条件の一部をなしていたにせよ、それだけでは十分な答えにはなり得ない。 ヒトラーが政権を握るまでの数年間、ドイツ人が他のヨーロッパ人に比べて特に強い怨念を抱いていたというたわけではない。ドイツ人の民族主義が他の国のそれと比べて特に人種主義的であったわけでもない。アウシュヴィッツとの関連を論理的に立証できるようなドイツ特有の道(Sonderweg)があったわけでもない。ドイツにごく早い時期から固有の外国人嫌い、民族絶滅を望むほどの反ユダヤ主義が育っていたという考えは、いかなる実証的根拠に基づくものでもない。道を踏み外し、あれほど忌まわしい結果へと至った背景には、はるか昔からの固有の原因があったに違いないという推測は間違っている。国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)による国家権力の掌握とその強化は、さまざまな事情の総体によってもたらされたものだ。なかでも最も重要な要因は1914年以降に見出されるのであり、それ以前ではない。 この研究で中心に置いたのは、国民社会主義体制下における国民と政治エリートとの関係である。ヒトラーの権力機構が確立当初から非常に脆弱であったことは論証されている。ここで問うべきは、この権力機構がいかにして、盤石とは言いがたいながら、12年間にわたって熱狂と破壊を続けるほどの安定を得たのかという点である。それゆえ、冒頭で一般論として提起した疑問(いかにして、あのようなことが起こり得たのか)を以下のように特化しておくべきだろう。現在から振り返れば、欺瞞的、誇大妄想的、犯罪的な性質が歴然としているようにみえるナチズムの企てが、いかにして、我々が今日説明に窮するほど大規模な政治的合意を得ることができたのか。 私は、説得力のある答えをもたらすことに努めるべく、国民に仕える独裁体制としての角度からナチス体制を考察する。ナチズムのこの特徴を他の特徴とともに明確に際立たせ、この重要な疑問への答えを最大限に提供してくれるのが、戦時中という時代である。ヒトラー、NSDAPの大管区指導者(Gauleiter)、多くの閣僚、次官、顧問らは、古典的な煽動家として振る舞った。いかにして国民全体の満足を保証・強化していくかを徹底的に考え抜き、日ごとに国民の支持、少なくとも無関心を買い付けたということだ。常に国民の過半数によって支持された総意的独裁体制の基盤は、このギブ・アンド・テイクにあった。ナチスの民衆福祉増進政策にとって何が避けるべき躓きであるかは、第一次世界大戦末期の国内体制瓦解の原因を分析すれば明らかであった。 そこで第二次世界大戦中、ナチスの幹部は次のような措置をとった。まず、食糧の配給にあたっては、特に貧困層にとって公平に感じられるような分配を心がけた。また、ライヒスマルクの安定を少なくとも表面上は維持することに尽力した。第一次世界大戦中のインフレや1923年のマルク暴落を思い出させるような懸念をつぶすためである。さらに、第一次世界大戦中にはなかった措置として、召集兵の家族に十分な報酬を与えることにし、召集前の手取り給与のほぼ85%を受け取れるようにした。イギリスやアメリカの召集兵の場合、家族の受け取り額は50%に満たなかった。ドイツ兵の妻や家族が戦争前より金持ちになっていることも珍しくなかった。休暇中の兵士は山ほどの土産を持ち帰ってきたし、占領国からは軍事郵便で小包が送られてきた。 このような既得権が保障されており、まだまだ拡大の余地があるという幻想を強めるために、ヒトラーは、農民や工場労働者、事務員や中・低級官吏からは、戦時税をあまり徴収しないことにした。これもまた、イギリスやアメリカとの根本的な相違点であった。しかし、ドイツの納税者の大半に税金を免除すれば、その分、高位所得者の負担を大きく増やすしかない。1942年の終わりに不動産所有者に課された80億ライヒスマルクの特別税は、第三帝国がこれ見よがしに実施した社会公正政策の驚くべき一例である。同様に、夜間や日曜、休日の出勤手当についても所得税が免除された。この措置は対仏戦勝後に定められ、ごく近年まで、ドイツ人にとって社会福祉上の既得権の一つとみなされていた。 ユダヤ人に対して、また人種主義的関連から特定した劣等民族や異民族(fremdvolkisch)に対して非情であったナチス体制は、その階級意識から、自国民中の弱者に対しては税負担が軽くなるように取り計らった。 言うまでもなく、富裕層(6000ライヒスマルク以上の年収があったのは当時の全ドイツ納税者の4%)の納税分だけでは、第二次世界大戦に必要な財源は得られなかった。それでは、戦費が史上最高額に達したこの戦争の資金は、国民の過半数の税負担を可能な限り軽減するという思想の下で、いかにして調達されたのだろうか。答えは明らかだ。ヒトラーは中産階級のアーリア人に負担をかけないために、他の集団を生活苦に追い込んだのである。 帝国政府はドイツ国民の歓心をかうために、諸国にますます高額の占領経費を要求したので、欧州の通貨は暴落した。国民の生活水準を確保するために、外地で数百万トンの食糧を強奪して自国兵に供給し、余剰分はドイツ本国に送った。ドイツ軍は占領国を犠牲にして糧食を得ていたとみられるだけでなく、経常費の支払いも占領国の通貨で済ませ、それでかなりを賄うことができたと考えられる。 ドイツ兵は外国、つまり四方八方に展開されていたから、占領国内でドイツ国防軍が受けた役務や、現地でドイツ国防軍のために調達し、あるいはドイツ本国に輸送する原料、工業品、食糧に関しては、ライヒスマルク以外の通貨で支払いが行われた。ナチスの幹部が明白に適用した原則はこうである。もし誰かが飢えのために死ななければならないとしたら、それはドイツ人以外の誰かである。もし戦時インフレが避けられないとしたら、その影響が及ぶべきはドイツを除くすべての諸国である。 本書の第二部では、この目的のために彼らが練り上げた戦略を取り扱う。ドイツの国庫を潤したもう一つの資金源は、ヨーロッパのユダヤ人の莫大な没収財産だった。これについては第三部で述べる。まずドイツ国内に住んでいたユダヤ人たちが、次いで連合国やドイツ国防軍が占領した国々に住むユダヤ人たちが、どのように財産を没収されたかをそこで説明しよう。(中略) 略奪的かつ人種主義的な大規模戦争に依拠した国民社会主義は、かつてドイツに前例のないほど広範な福祉増進政策等を通じて、紛れもない平等を生み出した。それは国民の支持を集めたが、同時に犯罪的なものであった。直接手を下さず、個人的に責任感を感じることはなかったとはいえ、大規模な犯罪がもたらす物質的な快適さと様々な便益を、人々は進んで受け入れた。多くのドイツ人は体制が自分たちに目をかけてくれているという気持ちを深めた。そして、それがまた絶滅政策の推進力となっていった。つまり、この政策は、国民の福祉増進に基準を置いていたのだ。国内でこれといった抵抗運動が起こらなかったことも、戦後に人々が罪悪感を抱かなかったことも、このような歴史的事情のなせるわざである。これが第四部の主題となる。 「いかにして、あのようなことが起こり得たのか」という疑問にこのように答えるとき、要するにファシストが悪かったのだと教え込めば事足りるといった姿勢は自戒しなければならない。ここに述べた答えを壁の上に大々的に張り出すのは難しい。この答えをドイツ民主主義共和国(東ドイツ)、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)、オーストリアの戦後ドイツ民族史と切り離すことはほぼ不可能である。しかし最低限、過ちを個人あるいは明確に限定される集団だけに帰そうとする根強い動きに疑問を付すために、ナチス体制を国民社会主義として把握することが必要であるように思う。そこで烙印を押されているのは、あるときは病んだ「カリスマ的」独裁者とその側近であり、あるときは(同じ社会環境に育った一つの世代に特有にみられた一時的な流行によれば)人種主義論者である。また別の者に言わせれば(以下に尽きると言うかどうかは別として)、銀行家や大企業経営者であったり、殺人狂の将軍や暗殺部隊であったりする。西ドイツ、オーストリア、東ドイツでは実にさまざまな防衛戦略が採られたが、それらはすべて同じ方向へ進み、大半のドイツ人に平穏な生活と安らかな良心を保証したのだった。(中略) アーリア化政策の受益者といえば、概してすぐに結び付けられがちなのが、大企業経営者と銀行家である。この印象は、1990年代を通して専門的な歴史家をメンバーとして欧州諸国や大企業に設けられたナチス時代調査委員会によって強化されたが、全体的な状況に照らせば誤りである。もう少し慎重な歴史記述では、アーリア化政策の受益者として若干の高位・中位のナチス党員が加えられる。さらに数年前から、普通の隣人たちにも照準が合わせられるようになった。そこにはドイツ人だけでなく、ポーランド人、チェコ人、あるいはハンガリー人も含まれる。彼らは占領者のために不埒な働きを行い、多くは報酬として「非ユダヤ化」された財産を受け取っていた。しかし、私的な受益者だけに焦点を絞るような理論は、いずれも道を誤らせ、核心となる疑問の脇をすり抜けてしまう。身ぐるみはがされ、命を奪われたヨーロッパのユダヤ人たちの財産はどうなったのかという疑問である。(中略) このようにドイツで1938年以降、私有財産の国債への転換を強要するという戦費調達法が実施されていた点は、アーリア化政策を法制、道徳、あるいは歴史記述の見地から取り上げた人々から看過されてきた。こうした偏見は、強奪行為が物理的に役立てられていた点についてドイツ首脳が語ろうとしないことと呼応する。ユダヤ人の資産を強制的に国債に切り替えさせたことに触れるのはタブーであり、具体的な収入額は秘匿されたままである。ユダヤ人迫害は当時の国民に、純然たるイデオロギー上の問題として喧伝され、認識されなければならなかった。無防備なまま、大規模な略奪的虐殺の犠牲になった人々は、唾棄すべき敵でなければならなかったのだ。 1943年、ドイツ国防軍の最高司令部は、あるリストを作成した。そこには兵卒を動揺させている政治的、軍事的な19件の問題が挙げられていた。これに対して士官たちは、できるだけ横並びの答弁を準備しなければならなかった。そのなかに、「我々はユダヤ人問題でやりすぎたのではないだろうか」という質問が含まれていた。答えは「くだらない質問だ! 国民社会主義の原則は我々の世界観(Weltanschauung)に由来するものだ。議論無用!」であった(1)。しかしながら、ナチスの教化に使われた答弁を史実と混同すべき理由はない。(中略) ドイツ国内に、このような政策に疑念を持つ者が非常に多数いたことは否定できない。それらの人々の多くがナチズムに引きずられたのは、党綱領の曖昧さゆえであった。NSDAPを支持したのは、ある者にとっては、この党が不倶戴天の敵、フランスに挑みかかっていたからであり、別の者にとっては、この若き国家が伝統的な道徳観を大きく断ち切っていたからであった。一部のカトリック聖職者は、異教徒であるボルシェヴィキ討伐の十字軍に従う兵力を祝福しつつ、教会財産の没収や犯罪行為たる安楽死には反対していた。逆に、国民同志(Volksgenossen)たるアーリア人市民のなかでも社会主義的な傾向の強い者は、国民社会主義の反聖職者的、反エリート的な側面に熱狂した。数百万のドイツ人の追随主義は、さまざまな局所的な親近感に依拠していた。そして、まさにこうした事態が、ばらばらの動機から忌まわしい結果を生み出すに至った追随主義を後から振り返って、歴史的な実効性はさておき「抵抗運動」として言い換えることを可能にしたのである。 ヒトラーを満悦させた強奪について述べた章に引いた俳優のヴォルフ・ゲッテは、ハインリッヒ・ベルと同じぐらいナチスのイデオロギーから離れたところにいた。彼は常々ドイツの政策が「吐き気を催す」ものであると思っていたし、「黄色い星マーク」をつけさせられた人間とすれ違うときには「どうしようもなく恥じ入る」気持ちになった。しかし、ベルと違って、安楽死を弁護する映画『告発する』については、「まっとうで適切な方向性」を持ったドキュメンタリーというのが彼の第一印象だった。「専横的な国家がこの考えを唱えるようになったとしたら」まずかろうとの疑念を遠慮がちに付け加えつつも、「不治の病に冒された場合」の安楽死の「必要性」を「傑出した映画性をもって描いて」深い感銘を与える作品であると受け止めた。だが彼は、個々のさまざまな政策に対する立場はともあれ、ドイツの独裁体制のおかげで、「桃源郷」のような街、プラハで恵まれた仕事と生活の機会を得ていることを常にありがたく思っていた。このように、ゲッテは、些細な個人的利益のみに気をとられ、政治的には無力化されていたのだ(2)。 他方、ヒトラーは、めまぐるしく行動を起こすことで、多種多様な国民の利害関係と政治的立場との不安定きわまりない混然たるバランスを、かろうじて取り続けていた。それが、ヒトラー体制の用いた錬金術であった。彼は、ほとんど絶え間なく決定を繰り出し、事件を演出することで、体制の崩壊を防いでいた。NSDAPの地位を高め、生え抜きの闘士である大管区指導者(Gauleiter)と帝国指導者(Reichsleiter)を閣僚以上に持ち上げた。権力機構を作り上げる彼の巧妙さは、1933年の政権掌握以後、一党独裁となったNSDAPを単なる国家の付属物に貶めなかった事実にも認められる。それどころか、後の東ドイツ社会主義統一党(SED)と違って、過去に比類のない成功をもって国家機構を動員し、この国家機構に「民族の高揚」に寄与するような創造性を発揮させ、極限まで国力を突き動かしてみせたのである。 多くの場合、ドイツの人々は、歴史が急ピッチで展開していくことに、最初はめまいを感じ、そして、酔いしれた。さらにスターリングラード攻防戦が起き、その影響が国内にも「じゅうたん爆撃」や今や明らかな恐怖という形で感じられるようになると、彼らは動転のあまり麻痺状態に陥った。空爆は、不安よりもむしろ無関心を引き起こし、人々は「われ関せず的な態度」をとるようになった。東部戦線で多くの死者が出ると、彼らの関心は日常の心配事に向かい、もっぱら息子や夫、あるいは婚約者から次に届く生存の徴候を待ちわびた(3)。 ドイツの人々にとってナチズムの12年間は、永遠に続く非常事態のように体感された。事件に次ぐ事件の嵐のなかで、精神の平衡と節度は完全に失われた。ヴィクトール・クレンペラーは、ズデーテン危機のただ中の1938年、食料品屋のフォーゲルが「全部映画のなかのことみたいですな」と言ったことを伝えている(4)。それから1年後、ポーランド侵攻開始から9日後に、ヘルマン・ゲーリングはラインメタル・ボルズィヒ社ベルリン工場の労働者たちに対し、まもなく「前進するエネルギー」にあふれた指導部を仰ぐことができるだろうと請け合った(5)。ヨーゼフ・ゲッベルスがこれを裏付けるように、1941年の春の日記に「一日中、すさまじいリズムである」「たぎり立った攻撃的な生活がまた始まった」、あるいは対英戦の勝利に酔い「一日中、熱に浮かされたような幸福感に浸っていた」と書いている(6)。 ヒトラーは、その体制の政治的均衡に必要な常軌を逸したリズムを維持するため、しばしば側近に対し、自分の死期は近いかもしれないとほのめかしていた。彼はまるで、手にした棒によってなんとかバランスを保っている仮初めの綱渡り師のようだった。棒の揺れはますます大きく、急激になり、やがてあたふたと空しく動き、彼はついにどうしようもなく落下する。それゆえ、ヒトラーが下した政治的、軍事的決定の分析にあたっては、将来についての誇大なプロパガンダを割り引いて、その直接の動機と短期的な効果に照らして位置付け直さなければならない。それが、分析をさらに適切なものとする。
*本稿は、2005年9月にフラマリオン社より仏訳が刊行される Hitlers Volkstaat. Raub, Rassenkrieg und Nationaler Sozialismus(ヒトラーの人民国家:強奪、人種主義戦争、国民社会主義), S. Fischer, Frankfurt, March 2005 からの抜粋である。
(1) ドイツ国防軍総務部、論点(1943年5月)、NA, RG238, box 26 (Reinecke Files). |
| (2005年5月号) All rights reserved, 2005, Le Monde diplomatique + Seo June + Miura Noritsune + Saito Kagumi |
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