バーレーンの進まぬ民主化改革

マルク・ペラ(Marc Pellas)
湾岸地域・アラビア半島安全保障問題専門家

訳・近藤功一

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 バーレーンで民主主義の進歩が達成された、とブッシュ大統領は一般教書演説の中で賞賛した。しかし3年前から国王を名乗るようになった首長は、自分の権力を全面的に保障するような憲法を発布して、民衆運動がつかみ取った僅かな自由に攻撃を加えている。恣意的な投獄が再開され、かつての拷問官が再び幅を利かせるようになった。そして主要な人権団体のひとつは解散させられてしまった。[フランス語版編集部]

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 「あなたは首相を汚職で糾弾しました。体制への反感を教唆し、誤った情報を流した容疑がかかっています。あなたを逮捕します」。厳重に警備された警察署に真夜中に出頭を命じられ、起訴事実を宣告されたバーレーン人権センター副理事長兼事務局長は、数年間にわたり投獄される可能性があることを知っていた。

 事の起こりは2日前の2004年9月24日に遡る。アブドルハディ・アル・ハワジャ氏は、「貧困と経済的権利」と題するシンポジウムで、国家の「経済破綻」、「富の分配における不平等の拡大」、政府の汚職と貧困ライン以下で生活している8万人のバーレーン人の状況には直接的な関係があるとの声明を発表したのだ。

 しかしながら新たな千年紀の幕開けには目覚ましいものがあった。2001年2月15日、ハマド・ビン・イーサ・アル・ハリーファ新首長は、政治システムの民主化、権力の分立、主権在民を謳った国民行動憲章草案を国民投票にかけ、25年にわたる重苦しい時代に終止符を打った(1)。それまでのバーレーンは独裁国家の仲間であり、大人も子供も拷問され、武器を持たないデモ参加者に実弾が撃ち込まれ、数百人の幹部や知識人が亡命を強いられ、激しい弾圧によって市民の1%が刑務所に入れられていた。そして、選挙で選ばれた議会が1975年に解散されて以降、憲法上の保障はなくなっていた。

 国民行動憲章の文言と精神は、新しい君主と反対勢力との間で議論が交わされ合意されたものだ。反対勢力は真の立法民主主義の復活と保障を条件に、現王家の世襲による君主制の確立、国王の行政上の大権を受け入れた。反応は予想に反して強いものだった。19万8000人の投票者のうち98.4%が憲章に賛成したのである。

 政治的開放によって、社会と制度が良い方向に動き出し、外国からの信頼が高まり、海外からの投資は増加し、停滞している第三次産業は息を吹き返し、貧困層と中間層の15%の失業者は職を得ることになった。しかし立憲的秩序への回帰に最も期待されていたのは、支配層による不動産その他の富の独占(2)に制限を加え、蔓延した汚職にブレーキをかけることだった。全体の65%から70%をシーア派が占める市民にとって、1783年にハリーファ家がバーレーン島に上陸してから2世紀以上にわたる汚職の蔓延は、自国が今も「占領下」に置かれて「戦利品」あつかいされていることを示唆するものだ。

 政治犯が釈放され、亡命者が意気揚々と帰国し、拷問の終結が宣言され、国家治安法(3)が廃止された熱狂の時期が過ぎ去ると、1973年憲法という制約はあるものの是認された枠組みの中で、将来の政党の存在形式と活動方式を定めるために、政府と反対勢力の間で対話が開始された。

 反対勢力が国民行動憲章採択1周年を祝おうとした2002年2月14日、首長は国王を名乗り、冷水を浴びせかけた。しかも憲法がいきなり公布され、その存在と内容、そして即日の発効を市民は朝刊で知ることになった。この新しい憲法は、「君主と主権を持った国民との間の社会契約」ではない。それは「欽定」だ。そこでは二院制の国民議会が設立される。40人の下院議員は選挙で選ばれるものの、1992年に設立された諮問評議会(上院)の議員40人は、首相、諸大臣、憲法裁判所や高等裁判所その他の司法官と同様に、国王によって選任される。

 両院で議決に相違があった場合に、下院に優先権はなく、国王は法案成立にあたり両院の3分の2の特別過半数を要求できる。つまり国王の一存で立法を阻止できるということだ。さらに万全なことに、国王個人には憲法を改正し、勅令を発布する事実上の大権が備わっている。

憲政の危機

 2002年2月14日の「憲法クーデタ」に続く数カ月の間に、選挙区の分割から、議会活動再開に先立つ政府活動の審議からの除外に至るまで、国王はきたるべき「民主主義のルール」を明示する勅令を続けざまに出した。それらの勅令の中には、バーレーンが批准した拷問禁止条約に反するものもあり、これによって1975年から99年まで拷問室を「盛り上げて」いた警官や国内治安担当員があらゆる刑事訴追から、また犠牲者やその家族による補償要求から免れることになった(4)

 それと時を同じくして、反対勢力はヨルダン、シリア、エジプト、パキスタン国籍の裁判官、警察官、公務員や湾岸協力会議(GCC)諸国(5)の出身者に対する国籍と投票権の付与増加を非難した。数万人分のパスポートを発給して、この措置に恩義を感じるスンニ派のバーレーン市民を増やすことが、国の社会構成と「人口構成」を激変させる要因とみているからだ(6)

 従って、主要な反対勢力であるイスラム国民合意協会(主にシーア派)と民主国民行動協会(世俗派)、ついで国民民主連合とイスラム行動協会が、2002年10月の議会選挙で候補擁立を取りやめると発表する形で「憲政の危機」を糾弾し、それによって選挙投票率の低下(7)を招いたことは驚くに値しない。

 2003年4月に政府管理下の2つの年金基金が不正にまみれ破綻した事件が起きると、調査委員会が創設され、直接関与している3人の大臣の事情聴取を勧告する報告書が出された。現国王のおじで、1971年の独立以来首相職にあり、手出しのできない人物であるハリーファ・アル・ハリーファにまで及ぶおそれがあったため、政府は2つの基金に対し、1600万ディナール(約45億円)と首都にある土地数カ所を無償提供した。下院議長で首相の庇護下にあるハリーファ・アッ・ダラニは、国家治安法の成立に抵抗した議会が解散となった前例を明らかに示唆して、下院議員たちに「船を揺さぶらぬ」ようにと求めた(8)。それに加えて、報道の自由への厳しい統制や集会の自由への圧力など、民主的活動への政府当局の締め付けは弱まらなかった。

 このような中、4つの主要な反対勢力は主導権を発揮しなければならないと考えた。彼らは王室に近い人物からの確証に意を強くして、2004年2月14日という象徴的な日に、アラブとヨーロッパの憲法学者の研究成果を発表する場として、政府の見解と異なる結論を導き出すことになる会議の開催を企画した。目的は、政府との対話再開および「憲政の危機」からの脱出を可能にするような提案を具体的に構想し、国際的反響を喚起することであった。

 しかし、実際はシナリオ通りには進まなかった。開催の数時間前に「憲政会議」は突如非合法とされ、ヨーロッパの法曹関係者や大学教員、議員、そしてNGO代表などの海外からの参加者は、マナマ空港に到着してすぐに恐るべき国家治安局によって国外退去させられた。会議場の予約は取り消され、300人の国内参加者は取るものも取りあえず、60年前から市民活動と文化活動の中心地となってきたクラブ・オルバに退散し、2日間の討議の後に、バーレーン政治は2002年2月14日以降、袋小路にはまり込んでいると激しく糾弾する旨の声明を発表した。

アメリカの変化

 アブドルハディ・アル・ハワジャ氏が逮捕され、バーレーン人権センターが解体され、クラブ・オルバが一時的に閉鎖され、抗議デモでの逮捕が再開されて以降、バーレーンの政治はめまぐるしく動いているようだ。アムネスティ・インターナショナルから良識の囚人と認定されたアル・ハワジャ氏は、2004年11月21日に禁固1年の刑を言い渡され、同日中に「国王の恩赦」によって釈放された。12月中旬、バーレーンでGCC首脳会議が開催されたが失敗に終わった。バーレーン政府による関税ダンピング(9)を大いに不満とし、ハリーファ家のアメリカびいきに学ぼうなどと思うはずもないサウジのアブダッラー皇太子が、出席を見合わせたからだ。1月終わり、21人の閣僚のうち首相を含めた10人をハリーファ家が占めて以降、結束した反対勢力が、昔から認められている君主への請願権を行使することは難しくなった。1973年に打ち立てられた原則への憲法の回帰を支持する請願が、王室によって「却下」されたのは事実だが、集まった署名は登録有権者の3分の1にあたる7万人にのぼった。請願運動が成功し、2005年2月10日に新たな憲政会議が開催され、そして現行憲法と選挙区割の下では次回の議会選挙に参加しないと反対勢力が発表すると、政府系新聞は「何もかもに反対する勢力」と「無秩序状態」に対する怒りに満ちた非難を表明した。

 こうした状況悪化の中で、政権と反対勢力との間でまだ対話ができそうな分野が、結社の権利、政党(現在容認されている政治団体には認められていない地位)を結成する権利、集会の権利に関わる新法の策定だ。準備中の法律に対して市民社会は個人と集団の諸権利の強化を期待しているが、逆に体制内の守旧派が、民主化に向けたハマド国王の所信表明を完全に骨抜きにする手段にしてしまうことを危惧する者もいる。

 しかし、ハマド国王が、おじでもある首相との関係上、どれだけ操り操られているのかはだれにも分からない。

 2003年の湾岸戦争と同国情勢の混迷化以降、ネオコン勢力に鼓舞されたアメリカ政府は、アメリカとイスラエルの友となる平和化された「大中東」を作り出すためにアラブ諸国の政治システムを民主化する戦略の必要性を唱えてきた。湾岸のアラブの君主制諸国は、土地や投資先、官民のポスト、地方での権力などの配分にあたり、縁故主義、部族主義、党派主義、恩顧主義を旨とするような慣行を捨て去るようになるのだろうか。選挙で選ばれる機関への権限委譲が実質的に行われていないバーレーンは、「民主的」変革の実験台以上のものになり得るのだろうか。民主主義の伝道に熱狂するアメリカ政府が、突如「なんらかの行動」を強要することになるのだろうか。

 これらの問いは少し前までは笑いを誘うようなものでしかなかった。つまり、「国家主権の伝統的かつ精妙な」均衡を崩し、ナショナリスト、共産主義者、宗教保守主義者を出現させる危険を冒すなど問題外だった。また中央軍司令部が軍事ドクトリンによって「21世紀に向けて中央地域(10)を仕立て直す」という壮大な任務を与えられているという現状からして、バーレーンを中央軍所属の海軍、特殊部隊、空軍の司令基地に変えた(11)一族を困惑させるなどもってのほかである。 

 しかしながら、ある報告書によって、こうした確信が議論の俎上に乗せられるようになった。アメリカ国防科学会議の報告は、「ムスリムの大衆をソ連に抑圧された大衆にたとえることはできず」、この大衆がアメリカの「自由ではなく政策を憎んでいる」ことを指摘する。アメリカの政策の中心的問題は、メッセージをうまく伝えられないことにではなく、ムスリム世界での「信頼の完全な欠如」にある。ムスリムは、「アメリカによるアフガニスタンやイラクの占領が民主主義を確立するのではなく、カオスと苦しみを生み出していること」をメディアを通して日常的に見ているからだ(12)

 イラクやパレスチナ自治政府に対してと「同程度」の要求を、同盟国であるアラビア半島諸国やエジプトに対しても突き付けない限りは、民主化という共和党政権の意図が誠実かつ現実的なものであると中東の人々に納得させるのは困難だろう。

 2004年11月29日、国務省スポークスマンがワシントンで行った記者会見で、パウエル国務長官とハマド国王の会談は「改革を推進し、個人の自由を保護することの重要性」に関するものだったと強調したのも、そういう趣旨だったと言ってよいだろう。この「重要性」がしかと認められれば、よどみきって使い古され、30年にわたる暴虐と失政によって信頼を失ったバーレーンの守旧派は、早急に退場を求められることになる。

(1) デヴィッド・ハースト「バーレーン民主化への第一歩」(ル・モンド・ディプロマティーク2001年5月号)、およびエリック・ルロー「湾岸の小国の目から見ると」(ル・モンド・ディプロマティーク2001年12月号)参照。
(2) 117平方キロメートルに人口67万人が住んでいる。うち3分の1が外国人。残りの国土594平方キロメートルの4分の1が軍事施設と石油施設、4分の3が4000人近くいるハリーファ家の所有。
(3) 裁判官が介入することなく、最大3年間にわたって市民を拘束することを許可した法律。この制限さえも遵守されないことが多かった。
(4) 2001年、ある国連のミッションは、政府が「明らかに身体的、精神的後遺症が残る元囚人のための」あらゆる補償請求を妨害していると嘆いている。
(5) GCCはバーレーンのほかに、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、クウェート、オマーン、カタールで構成されている。
(6) Saout El Bahrain / Voice of Bahrain, September 2002, http://www.vob.org
(7) 2001年2月の国民投票で97%あった投票率は、2002年10月の議会選挙では政府発表で56%、反対勢力によると49%まで低下した。
(8) このエピソードを語ったのは元議員で社会学者のアブドルハディ・ハラフであり(<< Bahrain's Parliament : the Quest for a Role >>, Arab Reform Bulletin, May 2004, volume II, no.5)、議員サイドが勝ち取った政府の譲歩として、関与した大臣に証人質問することができた(ただし議論は2つの基金の破綻に関するものに限るという合意の後だった)と付け加えた。
(9) 2001年10月以来「主要同盟国」の地位を獲得しているバーレーンは、ほぼすべての産業分野で両国間の関税を撤廃する自由貿易協定をアメリカ政府と締結した。GCCの6カ国は5%の関税を適用しており、これ以上の特恵条件を誰にも与えてはならないことになっている。
(10) 中央地域とは、ケニアからカザフスタンに至るまでの全長8000キロ以上、27カ国4億3000万人を包含した地域をいう。
(11) ジュッフェール海軍基地は、第5艦隊の参謀、「南西アジア」業務支援部、特殊作戦統率部隊を擁し、「世界で最も活動的な10ヘクタール」である(http://www.globalsecurity.org/military/facility/manama.htm)。空軍前方司令部はシャイフ・イーサ空軍基地に置かれている。
(12) Quoted by Thom Shanker in The New York Times, 24 November 2004.


(2005年3月号)

All rights reserved, 2005, Le Monde diplomatique + Kondo Koichi + Saito Kagumi

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