オーストラリアに横取りされる東ティモールの石油資源

ジャン=ピエール・カトリー(Jean-Pierre Catry)
ジャーナリスト

訳・内藤あいさ

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 オーストラリアで2004年10月9日に行われた総選挙の結果、アメリカの忠実な同盟国であり、イラク戦争を支持しているジョン・ハワード首相(保守党)の4期目の続投が確定した。太平洋の強国として君臨するオーストラリアでの同政権の長期化は、東ティモールの懸念を呼び起こす。この地域の最貧困国である東ティモールの海底油田はオーストラリアに横取りされており、ハワード首相はこれまでずっと、いかなる国際調停をも拒否してきたからだ。[フランス語版編集部]

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 2004年5月に出した報告書の中で、国連のアナン事務総長は東ティモールが「税収の減少と貧困の蔓延により、社会と経済の発展を著しく阻害されている」と述べた。石油と天然ガスというティモール海の潜在的資源の開発に「予想以上に時間がかかっている」という(1)。国連はその一方では、将来の資源収入を当て込んで、東ティモールが融資を受けることを勧めている。この地域の最富裕国オーストラリアが東ティモールの資源に手を出すのをやめさえすれば、必要のない融資である。

 1972年、オーストラリアはインドネシアと交渉して両国間の領海線を画定した。当時の基準では、領海の決定にあたって大陸棚(2)が重視されたため、オーストラリアが85%を占有し、インドネシアにはたった15%しか与えられなかった。東ティモールの宗主国であったポルトガルは同様の解決法を拒否したため、オーストラリアと東ティモールとの領海線の画定は後日の合意に委ねられることになった。この時に残された水域が「ティモール・ギャップ」と呼ばれることになる。

 75年にポルトガルが東ティモールから手を引くと、インドネシアは東ティモールを侵略し、併合した。この時、ジャカルタ駐在のオーストラリア大使、リチャード・ウールコットが本国に送った密電の内容が後に明らかにされている。「領海線に関して残っている『ギャップ』を埋める」合意に達するには、「ポルトガルや独立後の東ティモールよりもインドネシアを相手とする方が容易と思われる」。国連の総会と安全保障理事会がインドネシアによる侵略を非難しため、オーストラリアは抗議が落ち着くのを待ち、79年にこの占領国との交渉を開始した。国際的にはこの間に200カイリの排他的経済水域という基準が優勢になっていた。2国間の距離が400カイリに満たないときは中間線が領海線とされる。81年、オーストラリアはこの基準をインドネシアとの漁業水域の分割に関して受け入れた。しかし、海底資源に関しては拒絶した。

 「中間線」の基準は、82年に国連海洋法条約(60カ国の批准により94年に発効)によって承認された。インドネシアは89年、自国に有利となるはずの同条約の発効を待つことなく、オーストラリアに「ティモール・ギャップ」の資源の大部分を譲渡する旨の条約に調印した。インドネシアが代わりにオーストラリアから得たのは、東ティモールに対する主権の法的な承認である。これは国連決議に違反する行為となる。

 ポルトガルは、オーストラリアをハーグの国際司法裁判所に提訴した(91年から95年まで係属)。インドネシアが裁判管轄を認めなかったため当事国の一つが不在のまま、管轄権が否認される結果に終わった。しかし裁判所はオーストラリアに対し、インドネシアとの条約は独立後の東ティモールを拘束するものではないと警告した。

 89年のオーストラリアとインドネシアとの条約で線引きされた「ギャップ」は協力区域とされ、その大部分(ZOCA)は両国が収入(採掘許可に対する権利金)を均等に分けることになった。国際基準として認められた中間線の考え方に従えば、この水域の収入はすべて東ティモールのものとなるはずである。しかも、領海線をまたぐZOCAの縦方向の外周線が西側のラミナリア・コラリナ油田や、東側のグレーター・サンライズ油田の80%を外すように引かれたため、この点でも東ティモールの権益は侵害された。

 98年にインドネシアのスハルト大統領が失墜し、東ティモールの独立に向けた扉が開かれた。独立が実現した場合、承継国という概念が決定的な役割を果たすことになる。もし、東ティモールがここでインドネシアの承継国となれば、交渉に当事者として参加したわけでもない89年の条約を引き継ぐことになる。逆に、国際司法裁判所が予告したように同条約が無効とされるならば、境界線のことも含めた全面的な再交渉が可能になる。

 東ティモールのグスマン大統領とアルカティリ首相は領海線について再交渉する意志があることを明らかにした。2000年1月、国連東ティモール暫定統治機構(UNTAET)はオーストラリア政府と東ティモールの代表者との合意を実現させた。東ティモールは承継国とはならない。UNTAETは「違法なものを合法化することを望まない(3)」。1989年の条約は、東ティモールの独立後に再交渉されることになった。

見せかけの寛大さ

 24年にわたってインドネシアによる占領に抵抗した東ティモールは、2002年5月19日、国連によって組織された住民投票を経て独立国となった。インドネシア軍と民兵は撤退する前にインフラ施設の75%以上を破壊した。東ティモールはいまや国家として独立した。しかし、それはアジアで最も貧しい国だった。

 にもかかわらず、複数の石油企業連合(うちコノコフィリップ社とウッドサイド社がそれぞれ中核となった2つが著名である)は、ZOCA内にあるバユ・ウンダン油田への開発投資を進めようとして、この油田に関する合意を早急に交わすよう求めた。この新しい国家に対して援助を行っている国々も、同様の圧力をかけた。オーストラリアとの間で半分ずつの収入が東ティモールに入るなら、2005年以降の援助額を減らすことができるからである。

 オーストラリア政府は寛大に見せかけた発言の背後で、東ティモールに対し、あまり欲張るとすべてを失うことになりかねないと知らしめようとする。2000年9月のアジア太平洋石油会議で、オーストラリア北部特別地域のダリル・マンジー大臣は「交渉の結果が6対4になるか、5対5になるかは不明だが、我々はこの点を議論することにやぶさかではない」と述べた。さらに、ZOCAを除いても10倍の埋蔵量があるオーストラリアにとって、バユ・ウンダン油田は死活的なものではないとも付言した(4)。つまり、もし東ティモールが条件をのまなくても、オーストラリアには他に開発できる油田があるということだ。ダウナー外相も、権利金収入の分配比率を変更するというのなら「東ティモールへのオーストラリアの支援プログラム全体に影響を及ぼすことになるだろう」と脅しをかける(5)

 この問題に関するUNTAETの責任者であるピーター・ガルブレイス氏は、国際司法裁判所に提訴するといってオーストラリアを恫喝し、バユ・ウンダンの権利金収入の90%を東ティモールに譲渡させた。オーストラリアには残りの10%に加え、同国北部ダーウィンにある天然ガスの加工・輸出用のインフラと、これに関連した雇用が残されることになる。東ティモール側がこの分配案に同意したのは、バユ・ウンダンの権利金収入の90%だけでも、20年にわたって年間1億ドルが流れ込んでくることになるからだ。予算総額7500万ドル、そのうち40%を国際援助に依存している新生国家にとっては大金である。基本インフラ、通信、教育、衛生など、何もかもをこれから整えなければならないのに、一人当たり94ドルという低予算しかないのだから。

 とはいえ、90%という比率が適用されるのは、合意によって共同石油開発区域(JPDA)と改称されたZOCAの中にあるバユ・ウンダン油田に限られる。この区域外の西側にあるラミナリア・コラリナ油田(オーストラリアが一方的に開発を進め、日量15万バレルを生産)と東側にあるグレーター・サンライズ油田については何も変わっていない。もし領海線が東ティモールの主張通りに見直されれば、これらの油田を含めた東ティモールの埋蔵量は3倍になる(6)。専門家の多くは、東ティモールの主張には法的に根拠があると見ている。それでもなお、オーストラリアは大陸棚を基準に据えて、この主張に反論する。

 こちらに理があると言い張るオーストラリアの政府幹部は、自らの行動によって馬脚を現した。2000年、司法省のウイリアム・キャンベル国際法担当課長は、交渉による解決が好ましいと述べ、交渉やその結果に関して「国家が統制を失う(7)」ことになる裁判による解決に反対する立場を明らかにした。東ティモールが独立する2カ月前にあたる2002年3月、オーストラリア政府は国際司法裁判所の管轄から脱退した。ドイツのハンブルクにある国際海洋法裁判所での審判も拒否している。司法的な救済の線が消えた以上、あとは弱肉強食の論理があるのみだ。

 オーストラリア政府は東ティモールが独立してから18カ月もの間、領海線を画定するための交渉に応じようとせず、最初の会合についても2004年4月まで引き延ばした。東ティモールは、会合を月例にするよう主張したが、これに対し、オーストラリアは時間と人員の不足を口実に、半年おきにするとの主張を押し通した。その間も、オーストラリアはラミナリア・コラリナから一日当たり1万ドルの利益をあげ続けていた。

グスマン大統領の訴え

 石油各社は、グレーター・サンライズへの開発投資を可能とするような合意を2004年末までに交わすよう求めている。この油田はティモール島から95カイリ、オーストラリアから250カイリ、つまり中間線よりも東ティモール側に位置しているが、JPDAの東側の境界にまたがっていることから共同開発の対象に含まれる。領海線の再交渉がないまま、オーストラリアはこの油田の80%を占めるJPDA外の区域の利益を独占している。これに対し、東ティモールは残り部分の90%、つまり利益全体の18%しか享受していない。

 2004年4月に行われた援助国会議の直前に、グスマン大統領は怒りに燃えながら世論に訴えかけた。「もし、強力な大国である隣国が(融資の)返済に充てるべき資金を盗み取っていくならば、我が国は債務漬けになってしまいます。我が国は世界の債務国リストに連なることになってしまうのです」。ダウナー外相はこの発言を不快に感じたというポーズをとり、逆に東ティモールがオーストラリアのイメージを害したとして非難した。オーストラリア政府は、(バユ・ウンダン油田の)権利金収入を90%も譲り、さまざまな援助に1億7000万ドルも支出しているのだ。しかし、非政府組織オックスファムのオーストラリア支部によれば、同国がその間にラミナリア・コラリナ油田の開発によって得た利益は10億ドル以上にのぼる。

 「ティモール海ジャスティス・キャンペーン」に結集したオーストラリア人たちは、新しい領海線が画定されたときに両国間で分配するよう、問題の区域の収入はそのための口座に凍結しておくことを提案した。政府はこれに対し、教会からの批判に耳を貸さなかったのと同様に、少しも耳を貸そうとしない。既に2000年12月の段階で、上院外務・防衛・経済委員会の報告書は、まったく顧みられなくなっていた。そこには、「現行の国際法を考慮した名誉ある行動をとれば、オーストラリア政府は東ティモールから好意を得るのみならず、東ティモールが海外からの援助への依存を縮小できるよう、経済的な基盤を提供できることになる」と書かれていた。

 石油各社は、オーストラリアと東ティモールの合意が2004年末までに得られなければ、グレーター・サンライズ油田に対する投資を断念せざるを得ないと通告している。しかし東ティモール議会は、オーストラリア政府が向こう5年以内に領海線問題を解決すると約束しないかぎり、合意を批准しない姿勢を示している。

 この問題をめぐる議論は、2004年10月9日のオーストラリア総選挙が近づくにつれて過熱していった。野党の労働党は、自由党(LPA)と国民党(NPA)の連立政権が東ティモールとの交渉で柔軟性を欠いていると非難し、マーク・レイサム党首は交渉の再開を同党の公約とした。主導権を取り続けなければならないと感じたダウナー外相は、1996年のノーベル平和賞受賞者で現在は東ティモールの外務大臣となっているジョゼ・ラモス=ホルタ氏を招き、問題の政治的な側面に関して論議した。世論調査によれば、自由党が国際司法裁判所による裁定を仰ぐことを拒否している姿勢に対し、かなりの国民は違和感を持っていたが、選挙では最終的に同党が勝利を収めた。

 1999年に国連軍の指揮を執ってくれたオーストラリアがいなければ、東ティモールが自由を得ることはなかっただろうと、ラモス=ホルタ外相は2004年5月に発言している。オーストラリア政府による支援がもはや将来は不要になるなどと言明することは誰にもできない。ダウナー外相はすかさず「東ティモールは世界で最も近い友を失うことになるかもしれない」と釘をさした(8)。8月11日に共同記者会見を開いた2人の外相は楽観的な見通しを示した。いずれ細部を詰めるべき暫定案として、領海線を変えないまま、東ティモールの取り分を増やすという解決策である。ダウナー外相は「東ティモールにとって主権は重要な問題ではなく、むしろ収入の方が重要だ」と言い放った。

 ラモス=ホルタ外相にとっては、裁判で決着を付けることができない以上、「現実主義」が重要である。しかし彼は公の場で、「主権の問題を10年から20年にわたり棚上げにし、収入の分配に力点を置く」というのは彼個人の意見にすぎず(9)、合意を批准するかどうかは東ティモール議会の権限に属することである、とも述べている。

(1) United Nations, S/2004/333, New York, 29 April 2004.
(2) 大陸塊のうち海面下にあり、沖合いに向かって緩やかに傾斜し、約200メートルの深さに達するまで広がっている部分を指す。海洋中で最も資源が豊富である。
(3) UNTAET, Public Information Office, Dili, 19 January 2000.
(4) Dow Jones Newswires, Paris, 26 September 2000.
(5) Reuters, 9 Octobre 2000.
(6) Dow Jones Newswires, 7 June 2004.
(7) Energy Asia, Shanghai, 24 July 2000.
(8) Time, New York,10 May 2004.
(9) Green Left Weekly, Canberra, 25 August 2004.


(2004年11月号)

* リード文の文責「フランス語版編集部」を追加(2004年11月24日)
* 第六段落のタグごみを削除(2005年9月4日)
* 最終段落「できなく以上」を「できない以上」に訂正(2005年9月4日)

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