グルジア新政権の危険な賭け

ジャン・ラドヴァヌイ(Jean Radvanyi)
国立東洋言語文明研究所、国立学術研究センター、
およびロシア・センター教授

訳・三浦礼恒

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 またもや、カフカス地方が火を噴いている。ロシア領内では、チェチェン人たちが東隣のダゲスタンでも、西に連なるイングーシや北オセチアでも、血なまぐさい襲撃事件を起こしている。南隣のグルジア領内でも、若き大統領サーカシヴィリが北部の南オセチアと北西部のアブハジアの統治権を取り戻そうと企てていることで、カフカス南部で新たな戦争が勃発するおそれが急激に強まってきた。

 この地域を分断する様々な紛争は、古くからの境界線を越え出ていく。チェチェンでは、エリツィンが大統領だった時代から、モスクワによって荒々しい弾圧が加えられてきた(1)。行方不明者の数は増え続け、主に男性を標的とした村全体の「浄化」作戦が繰り返される。その結果、一部のチェチェン人グループは殺人テロに走るようになった。

 それが頂点に達したのは2004年9月3日、北オセチア共和国の町ベスランで発生した人質事件である。この襲撃は生徒と教師、そして保護者でごった返していた小学校を狙って計画的に実行された。ロシア特殊部隊による襲撃の最中に、無差別的な虐殺が起こり、少なくとも339人の死者を出す事態となってしまった。この許し難い行為に対して、ロシア政府は自国外のテロリストの拠点に対する予防的攻撃も辞さないと発表した。同様の攻撃は既に2002年にグルジアで実行されている。

 その一方で、アメリカが後押しした民衆デモによって2003年11月にシェワルナゼ大統領が失脚してから、グルジア国内の風向きは大きく変化している。2004年5月初頭には、南西部のアジャリア自治共和国のグルジアへの完全な再統合が無血で実現し、グルジア政府は自国の領土全体の統治権を取り戻すという正当な意欲を強めるようになった。分離主義的な緊張をはらんだ他の2つの地域、アブハジア自治共和国と南オセチア自治州も、同様に再統合されるのではないかと期待したくなる。とはいえ、ベスランの襲撃事件とグルジアの抱えた障害を考え合わせると、カフカスという鍋がどれほど煮え立っているかを再認識せざるを得ない(2)

 ソヴィエト帝国が瓦解して以降、ロシアとアメリカはこの戦略地域における決定的な影響力を、一方は維持するために、他方は獲得するために、競い合ってきた。ワシントンは、カスピ海の石油資源への主要な経路であるだけでなく、ロシアと中東の間に位置する重要地域であるカフカスに、長期的な投資を続けてきた。そして、ブッシュ大統領とプーチン大統領がこの地域の安全保障に共同で対処するとの意向を表明してきたにもかかわらず、両国の競合関係のはざまで、これまでカフカスの紛争はひとつも最終的な解決を見ていない。これらの紛争はくすぶり続けており、地域全域に火をつける危険がある。その筆頭が、大カフカスの南北を貫くオセチア地方である。領土の一体性の回復は、腐敗に対する闘いとともに、グルジアのサーカシヴィリ大統領が最も力を入れる分野となっている。

 ソ連からの独立を宣言したグルジア中央政府と、スターリン時代に同国内に設置された3つの自治州・自治共和国の指導者とが対決した1991年から93年の紛争以後、これらの地域に関しては、グルジア政府の統治が部分的もしくは全面的に及ばなくなった。以来、国土の22%以上を占めるアブハジア、南オセチア、そしてアジャリアはまさしく「ブラックホール」となり、あらゆる密売の温床となった。アルコール、タバコ、石油製品、武器あるいは麻薬の密売の結果、凍結されただけで解決はされていない紛争の最終的な解決は妨げられてきた。密売による不法収入は、これらの分離主義地域の指導者の主要な資金源であるだけでなく、実際には現地のあらゆる勢力の間で暗黙のうちに山分けにされてきた。そこにはロシアの駐留部隊や、また各種情報源によればシェワルナゼ前大統領の派閥も含まれていた。

 2004年1月にグルジア大統領に選出されたサーカシヴィリは、1991年の紛争時から自国領内の小さな自治共和国アジャリアを実効支配してきた最高会議議長アスラン・アバシゼの一派(彼は息子のゲオルギーをアジャリアの首都バトゥーミの市長に据えた)の排除に着手した。「アスラン・パシャ(太守)」の異名をとる彼は、グルジア政府が虐殺を行うつもりだとして非難した(彼は権力の座に就いてから12年の間、グルジアの首都トビリシに一度たりとも赴かなかったが、真の分離を表明することもなかった)。しかし彼は徐々にグルジア政治の中で重要な位置を占めるようになり、その政党はシェワルナゼの政党に次ぐ第2党にまでなった。奇妙な黙約が2人を結びつけていた。サルピ(トルコとの陸の国境の重要な通行地点)の検問所の収入と大規模な石油積出港であるバトゥーミ港の収入は、トビリシの一部の政府幹部の懐を潤すだけで、国家予算には組み込まれなかったのだ。2003年の秋の政変の際、アバシゼ議長はシェワルナゼ前大統領を救うための選挙協定を結び、彼を積極的に支持した。それだけにサーカシヴィリ新大統領はこのおかしな現状に不満を抱いている。

アブハジアと南オセチアの場合

 アジャリア内部でアバシゼ議長の人気が下がることを確信していた新大統領は、2004年の春、シェワルナゼを辞任に追いこんだ時と同様の揺さぶりを企てた。つまり、外部勢力の支援を受けた学生と運動家によるデモ行進、下級幹部に対する圧力、バトゥーミ港の一部封鎖、境界線付近での軍の動きなどである。これにより徐々に緊張が高まった。公然たる紛争が勃発し、バトゥーミ基地に駐留するロシア軍が関与するという可能性を予測する者もあった。4月末にアバシゼ議長の命令によって、この自治共和国とグルジアの他の地域を結ぶ2つの橋が破壊されたことで状況は一変した。これは分離独立の意思を初めて表明する行為であったが、住民の大半は反発した。アジャリアの住民であるアジャール人は、この地域がオスマン帝国に併合されていた時代(1517〜1878年)にイスラム教徒となったが、それでも自分たちをグルジア人の国民共同体の一員とみなしている。それゆえ、アジャリア自治共和国がグルジアに再統合し、アバシゼ議長がモスクワへと去ったことは、何年も続いた専制体制がようやく正常化したとして、人々に歓呼で迎えられた。

 世界中がこの流血なき勝利を歓迎した。そしてグルジア大統領は、この第一の快挙だけで満足しない決意を固めており、最初の任期を終える前に他の2つの地域も再統合するつもりだと宣言した。だが、それは非常に困難な仕事だった。

 1990年代前半から既成事実となっていたアブハジアと南オセチアの分離には、一連の歴史的要因と地政学的要因が絡み合っている。正教徒のオセット人は、19世紀に起きたカフカス戦争の際も、ロシアにとって貴重な同盟者となった。第一次世界大戦の後、ボリシェヴィキの指導部は、ロシアとトランスカフカス地方(アルメニア、アゼルバイジャン、グルジア)を結ぶ主要ルートの2つを臨むオセット人とグルジア人との紛争を利用しようと企てた。カフカスのこれら3カ国が一時的な独立を見た1918年から21年にかけ、ボリシェヴィキはグルジアを弱体化させるためにアブハジアと南オセチアの独立運動を支援した。スターリンが両者に自治権を与えたのも、グルジア自体の独立の気運を抑えこむためだった。

 ペレストロイカとそれによる「主権のパレード」が起き、次いで1991年にグルジアがソ連から独立すると、アブハジアとオセチアは自治権を確認し拡大する好機と捉えた。両者はモスクワから変わらぬ支持を得ていたが、そこには根本的な曖昧さが残ったままだった。ロシアは一方ではチェチェンなど自国内の分離独立運動を懸念していたため、両者のグルジアからの分離独立を公然とは推奨しなかった。他方、モルドヴァやアゼルバイジャンのような近隣の新しい独立国については、これら諸国へ影響力を及ぼす貴重な手段として、それぞれの国内の分離独立運動を後押しした。

 ロシアはアブハジアに関して公式には中立を保ち、紛争の決定的瞬間に介入したことさえある。たとえば1993年10月、アブハジア側の策略に引っかかったシェワルナゼを救った(3)。ロシアはその一方で、コサック人などカフカス北部の勢力が介入し、アブハジアに味方することを助長した。この曖昧な態度は、停戦交渉の際にも維持された。アブハジアの場合には国連、南オセチアの場合には欧州安保協力機構(OSCE)の承認の下に、当事者でもあったはずのロシアが両紛争地域に派遣される平和維持部隊の中核となったのだ。

 グルジア当局はこの態度を糾弾し、モスクワは状況を膠着させておきたいのだと非難した。だが、グルジアのメディアがなりふりかまわず煽り立てた反ロシア・キャンペーンには、グルジア政府自身の曖昧な姿勢を隠蔽するという狙いもあった。グルジア人はこれまで一度も、自国領内に暮らす少数民族の不満の原因を本気で考えてみたことがなかった。グルジア人はしばしば、アブハジアのアブハズ人もオセチアのオセット人もグルジアへの移住はかなり最近のことにすぎないという根拠のない主張を挙げて、自分たちの軽率な行動を正当化しようとする。というのも、民族主義者のガムサフルディア、元共産党幹部のシェワルナゼという2代にわたるグルジア大統領の決定(略奪に変じた軍事侵攻、南オセチアの自治権の停止)が、独立運動の急進化に大きく寄与しているからだ。

 アブハズ人とオセット人の心理は、再統合前のアジャール人の心理とはかけ離れている。まず、彼らはグルジア人ではないし、グルジア政府の二枚舌を信用していない。また、両者はこの12年のうちにロシア経済に大きく統合されている。モスクワのルシコフ市長の一族などロシアの投資家が、ソ連時代にアブハジアの大きな財産であったホテル群を買収している。さらに気がかりなのは、両地域の住民のおそらく80%近くがロシアの市民権を持っている点であり、これは前代未聞の状況である。アブハジアと南オセチアのロシア連邦への編入という選択肢は、グルジア政府もロシア政府も公式には否定していることから実現の可能性は低いものの、両地域の指導者たちによって公然と唱えられている。

緊張の高まり

 サーカシヴィリ現大統領はといえば、前任者たちの民族主義的な主張とは一線を画そうとしているように見える。2004年5月26日に国民に向けて演説を行った際、彼は「非対称的連邦」という以前にもあった考え方を持ち出して、ロシア連邦内で北オセチアが享受しているのと同様の権利をグルジア国内で南オセチアに与えるつもりだと述べた。しかし、新政権の神がかり的な言葉遣いには(五つの十字が入った新しい国旗の採用ともども)、不安を呼び起こされずにはいられない。シェワルナゼの退陣、アバシゼの退陣が、それぞれグルジアの守護聖人である聖ゲオルギウスの祝日(4)と重なっていたという事実の強調も、笑話として片づけるのは難しい。その一方では、必要とあらば戦争に訴えてでも次なる成功を得てみせるという好戦的な主張をしているからだ。

 カフカス山脈の両側に位置する南オセチア自治州と北オセチア自治共和国(5)は、ロシア、グルジア両国にとって重要な争点となっている。両オセチアは北オセチアの首都ウラジカフカス(「カフカスを支配する者」の意)とグルジアの首都トビリシを結ぶ2本の主要なカフカス横断ルートを臨んでいる。このルートがあるために、南オセチアの州都ツヒンヴァリ近くのエルグネチに地域最大の闇市が形成され、ロシアやグルジア、アルメニアの商品と密輸品で溢れかえるようになった。北オセチアでは、東隣のイングーシが返還を求める領土をめぐって1992年10月に軍事衝突が起きた際に、ロシア政府が北オセチアの側に付いた結果、数千人のイングーシ人が追放された。そして新たなチェチェン戦争が開始された当初より、ロシアの地域司令部は北オセチアに置かれている。北オセチアが数多くのテロ行為の標的になっているのは、このことから説明できる。

 2004年5月末にグルジア政府がエルグネチの闇市への通行を遮断するという決定を下すと、南オセチアは騒然とした。小麦粉や種子は引き渡すという巧妙な措置もとられたが、休戦地域へのグルジア軍の介入が緊張を高めないはずはない。オセット人にとっては、数百人の被害者を出し、数千人の南オセット人の北オセチアへの追放を引き起こした過去の軍事介入(第1次グルジア共和国による1920年の介入や、ガムサフルディア初代大統領による1991年の介入)を強く思い起こさせるものだった。

 両軍に人員と武器が流れ込み、地域一帯のグルジア人の村とオセット人の村が爆撃を受けた。欧米諸国が自制を訴え、ロシアの部隊が介入することで、ようやく8月末に一時的な平穏が取り戻された。ロシアとグルジアは衝突の原因が相手にあると非難しあい、サーカシヴィリ大統領は国際会議の開催を要請した。

 チェチェン人によるベスランの流血の襲撃事件は、このように既に非常に緊張した状況下で発生した。この事件をアル・カイダに関連づける有力な証拠はないが、テロによってチェチェン紛争を近隣の共和国に拡大させようとする計画的な企ての一環であることに疑問の余地はない。6月にはイングーシが、7月にはダゲスタンが標的となっている。北オセチアの首都ウラジカフカスでは、オセット人とイングーシ人の間の紛争が未解決のままであることから、危険が高まっている。たとえイングーシ人難民が自分たちの村に帰還することができたとしても、領土的な帰属が激しく争われている中で、自分たちの家は南オセット人に占拠されているという場合が多い。南オセット人もまた、1991年のグルジア侵攻によって難民となっており、この係争地域に北オセチア政府によって緩衝材がわりに放りこまれたのだ。

 アブハジアの大統領選を10月3日に控えた現在(6)、グルジア政府が推進する戦略は重大な結果をはらむことになる。アブハジアと南オセチアをグルジアに再統合するためには両地域の人々の信頼を取り戻す必要がある。最悪の政策をもてあそび、アブハジアとオセチアの人々をそれぞれの地域から追い出そうとすれば、紛争を再燃させることは確実だ。

 同時に、モスクワの責任も重要になってくる。南カフカスに対するロシアの曖昧な政策は近視眼的な戦略でしかなく、カフカスの国々をアメリカやヨーロッパとの戦略的、経済的な同盟関係に走らせている。

 ロシアはグルジアの主権を回復させるために、分離主義を唱える政府に影響力を行使するようにすれば、そこから利益を引き出すことができる。だがチェチェン紛争の場合と同じく、主に軍事的な見方に凝り固まってしまったモスクワに、必要な一歩を踏み出す準備があるとは思えない。

 アメリカの立場には(ヨーロッパの立場もだが)、もはや何の首尾一貫性もない。ワシントンはグルジア軍を新たに訓練し、装備を提供することで(小規模の部隊が既にイラクとアフガニスタンへ派兵されている)、グルジア政府の好戦派を後押ししてしまっている。そして、アメリカとヨーロッパはチェチェンでのロシアの戦略を批判することを避けつつ、カフカスの火薬庫に対する自らの責任からも逃れようとしている。

(1) この問題については、チェチェンに関する国際人権連盟の一連の報告書、およびチェチェン委員会『チェチェン、理解するための10の鍵』(第2版、ラ・デクーヴェルト社、パリ、2004年)を参照。
(2) ジャン・ラドヴァヌイ編『ソヴィエト後の国々』(第2版、アルマン・コラン社、パリ、2004年)参照。
(3) アブハジアは1992年7月23日に主権を宣言し、グルジア軍の介入を受けるが、1993年9月27日にアブハジア軍が首都スフミを制圧した。
(4) グルジアには11月と5月の2回、「聖ゲオルギウスの祝日」がある。
(5) 南北両オセチアと近隣隣国については、フランス・オセチア協会のニューズレター『オセチアとその周辺のこと』を参照。
(6) 投票直後より与党陣営、野党陣営ともに不正があったと主張して最高裁に提訴。選挙委員会は10月11日に野党候補の勝利を宣言したが、与党側は最高裁に最終決定権があるとする。10月22日時点で、最高裁は第二回投票の実施、あるいは選挙のやり直しを命ずるだろうと予測されている。[訳註]


(2004年10月号)

* 小見出し「緊張の高まり」の二つ前の段落「アオセチア」を「オセチア」に訂正(2008年8月28日)

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