中国共産党体制の「現実社会主義」

ロラン・ルー(Roland Lew)
共編著『共産主義の世紀』第2版(改定増補版)
スーユ社ポワン叢書、2004年

訳・岡林祐子

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 人はそう言い、そう繰り返す。2025年頃の中国は、勢いのある大国として、米国に対抗できる唯一の国となっていることだろう。一部の専門家は、50年以内に中国の国力は欧州全体を抜き去るだろうとさえ言う。この国の経済発展はいたるところで賞賛され、この国を敵視するような議論はもはや流行らない。

 中国の国家が、そして日増しに名が実にそぐわなくなっている共産党が、我々の目に付く多くの弱点から思われるよりも強固なものであったらしいことは認めざるを得ない。1976年以降の毛沢東なき後の中国が、いわばスターリンなき後のソ連と同様に、「脱・毛沢東」の時代になるだろうということは多少なりとも冷静な観察者には予測されていた。体制の負の遺産、特に文化大革命の爪痕を見ればわかることだった。しかし、その後の現実の展開と「脱・毛沢東」との間には依然として大きな溝があり、少なくとも共産党体制が続く間は埋まらないだろうと思われた。

 転換は1978年に始まった。トウ小平を中心とした改革派勢力(1)は、多くの障害と反発の中で様々な策を講じた。この動きはまだ不確かなもので、かなり混沌としており、党の内部あるいは国民との間で緊張が高まることが予想された。しかし、この国を襲った重大で悲劇的な危機は、1989年の天安門事件だけにとどまった。これは体制の正統性の危機であり、権威主義の継続と政治腐敗に対して一部の学生と都市住民が示した大規模な拒否反応だった(2)。この事件は、経済改革がぶつかった難局であると同時に、現行政府が国民に対して独裁制の論理で臨んでいることの確証ともなった。この論理は、当初は暴力的な弾圧という形で強制されたが、やがてもっと柔軟で巧妙な方法で課せられるようになった。

 変革を進めていく手段として、体制は権威主義を継続する道を選んだ。その最大の理由は、体制が自身の存続のために四苦八苦していたからだ。体制は軍を完全な統制下において支えとした。しかも、権威主義の伝統は遠い過去から続いており、都市住民の一部からも支持されていた。1989年の危機に際して体制は、農民の大半が中立を保ち、反徒の弾圧に欠かせない民兵の供給源となったことに助けられた。そして徐々に都市部でも、改革の恩恵に浴する層の支持を得る(あるいは取り戻す)ようになった。時が下るにつれ、一部の知識人からの支持さえ取り付けた。最大の要因は、中産階級が拡大したことと、毛沢東時代につぶされた企業家ブルジョワ層が増大し、評価を高めたばかりか、そのまますんなりと党に加入するようになったことだ。体制は好まれているとは言い難いが、まさに社会的な基盤を持っているのだ。

 中国共産党がこのような展開を見せ、これほどの能力を発揮するなどとは、まったく予想を超えていた。多くの者は、この党の「自己規定」を見当外れのところに求めていた。我々は長きにわたり、この国の体制の政策決定や、中国共産党の歴史の中で(すでに1930年代から)、ナショナリズム的な側面がいかに重要であり、さらには優位を占めているかを正しく認識してこなかった。しかし、このナショナリズム的な側面こそが、イデオロギーの外皮となっていた共産主義にもまして、中国共産党の軌跡をよく説明する。スターリン時代のソ連についてのモーシェ・レヴィンの考察(3)のような作業が、中国に関しても必要だろう。新たな体制が自称するところ(すなわち社会主義体制)から距離をおき、さらには考慮から外したうえで、その体制への支持あるいは反対を唱えるのではなく、体制の特質そのものを理解するという作業である。

 ヴェトナムのように他の国についても言えることだが、中国の場合に共産主義が体現しているのは、国民党(4)のような別の形のナショナリズムと競合関係にある革命的ナショナリズムである。1920年代に帝国主義の侵略に対抗するために「救国」というスローガンが広まったのと同様に、国を守り、国の統一を建て直すことを本義とするという意味で、中国の共産主義はナショナリズムである。この切実な必要に応えることは、国を根底から動かすとともに、都市部に集中し、大部分が知識人からなる最も活発な勢力の支持を取り付けるための(唯一ではないまでも)最も効果的な方法となる。

 中国の共産主義が当初からナショナリズム的なものだったかどうかについては議論の余地がある。とはいえ、中国の共産主義が日本の侵略に対して、とりわけ1937年から国を挙げての戦闘の紛れもない主力となったことで、形成と発展を遂げてきたのは確かだ。

 この目的を実現するために、排撃とともに模倣の対象でもあった西洋の工業諸国にならって国を作り変えなければならなかったという意味で、中国の共産主義は革命的である。そのためには、大衆を動員する必要があった。これは思想的にも実践的にも前代未聞の事態であって、革命的な断絶を行ない、エリート層に深く刻み込まれた伝統的な価値観や行動様式の見直しを迫ることを意味していた。社会と経済の変革は、計画の唯一の主体である国家によって実施される。これらすべてを可能にするのが、組織的かつ中央集権的で、動員のためのイデオロギーを備え、内外の敵を打ち破ることを固く決意した政党である。この総合的なプログラムはレーニン主義の影響を強く受け、ソ連の経験、中でもスターリン時代を模範としていた(5)

エリート層の順応力

 反帝国主義的な側面もあるナショナリズムの重視、そして西洋諸国を範とする近代化志向は、共産主義のイデオロギーとはかけ離れた実用主義の産物だといえる。ナショナリズムの重視はまた、ごく早期からの強硬姿勢の原因ともなった。例えば、未来の中華人民共和国が外モンゴルの統治権を回復することへの期待が表明されたが、これは1949年の建国に先立ってスターリンから拒絶された。さらに重大なのは、台湾の統治権を回復するという主張が続けられていることである(6)

 また、中国の「現実社会主義」を理解するには、1949年以前から共産党内部で地歩を固めた新たな革命エリート層を考慮に入れなければならない。大衆から離れたエリート層は、最初はささやかなものだったとはいえ、急速に社会的な特権を手に入れた。この点を見誤る者は、農民をはじめ一人もいない。新たな上層部、指導者層の役割、そして最高指導者の毛沢東が自任した地位については言うまでもない。毛沢東にはスターリンと同じ独裁者の論理が見出される。露骨な言い方をすると気まぐれ、時には乱心でさえあった二人の政策決定は、必ずしも国の求めに沿ったものではなかったが、結局は国益に立ち戻っていった。突拍子のないことをしでかし、国民を専横的に苦しめる力を持った独裁者といえども、究極的には国民と交わした「協約」を破ることはできない。国を守り、そのために最も効果的と考えられる手段として近代化を進める、という「協約」である。

 それ以外のこと、つまり西洋の社会主義から引き出される新しい解放主義的な命題(民主主義、国民の権限など)の大部分は、徐々に後方に追いやられ、さらには有害視されるようになった。このため、西洋の多元主義の意味に敏感に反応し、人民解放という革命の意義に固執した少数民族に対しては、早くから激しい掃討運動が繰り返された。毛沢東でさえも、農民が一種の自己解放を行なうべきだという1920年代の持論を早々に放棄した。

 「現実社会主義」なるものは、社会主義がすでに死んだも同然の時に模索され始めた歴史上の発明であり、その歴史は、ボルシェヴィキが権力を奪取したソ連とともに幕を開ける。権力の現実に直面した彼らは、方針を転換していった。例えば、レーニンが1917年に発表した有名な著作『国家と革命』に見られる反国家主義の称揚は、1918年初頭には、明白に権威主義的で、大衆不信の上に立った国家主義の喧伝へと、急激に転じている。次々と名指しされた現実の敵や仮想的な敵が弾圧されたのは言うまでもない。やがてスターリンが政権の座に就く以前から、ボルシェヴィズムの国際主義的な伝統に反して体現することになるロシア共産主義の「一国化」への道を開いたのは、こうした方針転換にほかならなかった(7)。東欧諸国のように外国勢力によって押し付けられたわけではなく、ユーゴスラヴィア、中国、ヴェトナム、キューバのように国内の政治闘争から生み出された「共産主義」の建国事業では、権力奪取に先立って、その前提条件としてナショナリズムという選択が定着していくことになる。

 中国の「現実社会主義」とは、実のところ、ナショナリズムの変種の歴史であり、資本主義や反資本主義的「社会主義」を標榜する西洋を起源とする「近代化」が、それまでになかった形をとったものである。それは西洋から、第一に大衆を統制する様々な形態、第二に動員をかける力というナショナリズムの属性を採り入れた。どちらの属性も、おおむね19世紀に形成されたものである。中国のナショナリズムには、国家主義的、権威主義的、かつ反民主的だという特徴がある。そこには一方では戦時中という当時の状況、他方では多元主義や民主主義が確立される余地の乏しい古来の政治文化の影が認められる。大衆の解放への切望は、それが国家政党の論理、国力の必要性、革命的かつ全土的な動員への追従と相容れる限りにおいてしか、実現される可能性はない。つまり社会的な解放は、実現されたとはいえ、厳重な統制下の限定的な解放として、上から与えられ授けられたものにすぎない。

 中国では、ナショナリズムが強く必要とされ、19世紀から20世紀にかけて恐ろしい苦難を味わったがために、共産党エリート層は否応なしに、体制の教義や公式姿勢からかけ離れた順応力を発揮せざるを得なかった。その証拠は、スターリンも毛沢東も認めなかった市場という大問題に見出される。実のところ、公開の場でも非公式の場でも、市場をめぐる議論は「現実社会主義」の歴史を通じて続けられてきた。しかも、中国とソ連の両国には、公式レベルでは否定されていたものの、違法あるいは単に黙認されるという形で、それぞれ程度を異にする非公認市場が存在した。市場の問題は常に意識されており、条件さえ整えば「公」に、つまり主として党内で論じられてきた。したがって、「市場社会主義」はトウ小平時代に「発見」されたわけではない。すでにソ連にはブハーリンから1960年代の議論にいたるまでの前例があり、この点は中国の場合も、目立たないながら同様だった。

毛沢東主義の清算

 近代化と国民動員の源泉としての中国共産党のナショナリズムの力強さと成功をもたらした要因は、どこかの時点で「現実社会主義」の変革を、最終的にはその事実上の放棄を呼び寄せることになった。この国と指導的エリート層の利益とに突き付けられた今日の試練と脅威は、過去と同じ結果を引き起こしている。国の支配を続け、またこの国が大国の地位を得るため、さらには取り戻すためには、変革が求められるということだ。この目標は、今日、ますます公然と表明されるようになっている。

 トウ小平が掲げた「改良主義」的な目標、つまり「現実社会主義」に新たな活力を吹き込もうという目標は、まだ未完成の、それまでとは異なるモデルを登場させた。このモデルとは要するに、世界的に勝利を収めた資本主義に準拠枠を求めつつも、そこにできる限り、国の独立を保ちたいという強烈な願望と、国家および国家政党に委ねられるべき主要な役割とを組み入れようとするものだ。エリート層の再教育は必ずしも簡単ではなく、トウ小平時代に見られた彼らの運命の浮沈の大部分はそれによって説明できる。しかし、イデオロギー上の教義からすでに離れていた多数の幹部は、生き残ろうとする反射から柔軟に立ち回ったため、変革は予想以上に簡単に進んだ。

 二つ目の「予想外」は中国社会の反応だった。毛沢東の後を継いだ指導者層に委ねられた社会は、暴力と弾圧に満ち、ほとんど理解不能な目標の下に推進された文化大革命によって萎縮し、深く傷付いていた。労働者たちは工業地帯に閉じこもり(8)、名だたる単位制度の下で、それぞれ孤立した小社会を作っていた。この国が世界(とりわけ米国)に向かって政治的な開放を始め、経済開放にも着手した矢先、つまり毛沢東時代の末期から、アジアや西洋のライバル諸国に比べて中国の経済成長率が低いことに、多くの幹部がショックを受けていた。変革の時が訪れていた。毛沢東による近代化が数々の矛盾をもたらしたことの奇妙な副産物とでもいうべきか、以降の変革はデリケートであるとともに、予想されるほど大変なものではなくなっていた。少なくとも上層部の者にとってはそうだった。この国は硬直していた。しかし、とくに都市部は、もはや歩みを止められないほどに変わっていた。

 我々は毛沢東時代の最初の25年から30年ほどの期間に起きた変革を考慮することのないまま、中国の現在の繁栄の源を後半25年の成果のみに求めすぎている。毛沢東時代は、国民にとっては明日をも知れず、冷酷な時代だったという側面がある。その筆頭は1960年前後の大躍進運動による経済的、人的な代償であり、他の時期にも大規模な弾圧が繰り返されている。しかし、毛沢東時代に近代化した中国の確固たる土台が、社会的にも経済的にも、とくに都市部で築かれたことは事実である。こうした時代背景の下、毛沢東とその側近は、時代遅れで近代世界の中ではあまりに反動主義的、あまりに独裁者的だと見られるようになった。一方には時代の趨勢に乗りたいという大衆の欲求があり、他方には安定した運営を望む幹部層の要望があり、両者はともに独裁者の専横に反対するようになった。こうした動きは、毛沢東後の中国にもスターリン後のソ連にも見られ、この二人の独裁者の存命中にも、すでに水面下で始まっていた(9)。したがって、毛沢東主義を清算する役目を果たすことになったのは共産党であり、ソ連に見られた事態とまったく同様、党以外のものが主体となることは考えにくかった。

 それと引き比べてあまり目立たなかったのは、毛沢東時代の末期の暴政に翻弄された中国社会の底力である。社会階層の上から下まで、すべては硬直しているようにしか見えなかった。しかし実際は、誰もが地道に努力を重ね、よりよい日々の訪れを待ちながら我が身を守り、あるいは変わりゆく将来に向けて自分なりに備えていたのだ。矛盾もはなはだしい上からの指令に従っているように見えていた広大な農村部でさえ、ことあるごとに見事な無関心を装いながら、体制とつかず離れず、時には距離をおきながら、自身の道を歩んでいた。

 中国社会は、共産党の厳格な管理と影響の下にありながら、場合によっては体制の近代化志向に逆らいつつ旧来の価値観を守ろうとする力や、体制の反動的な要求に逆らいつつ新しいものを採り入れる気風を保っていた。農民たちは家族や一族の価値観、伝統、原則的に禁止された宗教心を守りつつ、1949年以前から始まった社会の変化に淡々と追随してきた。だからこそ農村部は、古い中国への回帰であると同時に決別でもあった毛沢東後の時代に素早く順応することができた(10)。この点は、都市部ではさらに顕著である。どれも同じように見えていた都市住民の生活や考え方の背後では、社会的な分化が大きく進み、新たな望みが社会を変えつつあった。それは、若者の間で個人主義が高まり、企業家勢力が出現し、家族や男女の関係が変わるなど、様々な側面に表れていた。既存の制度を通じて、あるいは制度に逆らって、さらには制度の外側で、こうした一連の動きが進行していった。

将来の大国に問われる課題

 党幹部が示した柔軟性は、彼らが決定的な役割を果たしたという意味で、さらに重要な要因である。彼らはほとんど自主性を持たず、厳格に序列化された命令系統の中で生きていたが、彼らもまた一つの独立した複雑な、変化の途上にある社会を形作っていた。それは、自分の役割を学び始めた支配者層という社会である。

 社会の様々な構成集団の活力と、エリート層以外では今日も根強い政治的な無関心には、驚くばかりの落差がある。言うまでもなく、政治的な力を獲得するというのは、時間がかかるうえに苦労も多い学習過程にほかならない。毛沢東主義は独裁的で反民主的だっただけではない。最初から意識的に、体系的に、社会を分断し、とりわけ労働者階級を細分化したのだ。この体制はスターリンやその後継者たちの体制と同様、公式姿勢とは裏腹に、国民の政治意識を徹底的に薄めてきた。そうすることで、大衆を蚊帳の外におくという政権掌握以前からの反民主的な路線を続け、さらには強めてきたのだ。

 「現実社会主義」の実態を探ろうとするならば、公式声明以外のところに目を向ける必要がある大きな理由の一つは、まさにここにある。それぞれほぼ独自の動きを示す社会の構成集団の中で、一部はたくましく素早く順応するのに対し、大部分はうまく順応できないという落差があるのも、やはり同様の理由から説明できる。

 ここ数年来、農民が数千万人単位で都市部へと押し寄せている。初めは体制の許可のないまま、次いでやむをえない黙認の下に続いてきた人口移動は、最終的に、農村を一定程度まで縮小するという政府の新しい目標と合致するようになった。多くの都市住民もまた、活路を探している。やくざな商売に手を染めたり、私営の資本家になったりする者がいる。自由、創作(映画や芸術など)、思想の場を広げようとする者もいる。いずれもマルクス主義、レーニン主義、毛沢東主義の公式の教義とはかけ離れたところにいる。そして、時には教義からの距離をごまかしながら、許される限度を推し量っている。彼らのかたわらでは、別の多くの都市住民が失業状態でさまよい、新しい貧困にあえいだり、生活の糧を得ようとあらゆる手段に訴えたりしている。現在の中国は、資本主義時代を迎え、活気に満ちていると同時に、あまりにも早く深刻な不平等を生み出している。都市部では、ドルで数えても億万長者という資産家がいる一方で、多数の人々が貧困に苦しんでいる。僻地の農村部には、この国に経済成長などなかったかのように、貧しさの中で暮らしている人たちがいる。彼らの貧しさは、まず公にはされないが、時には極貧にさえいたる。一方には社会的な活力が溢れ、他方では社会的な分断と政治的な無力を抱えているというのが、現在の中国の姿である。

 一部は1989年のように大規模なものとなった反乱の動きが何度も見られ、また都市でも農村でも、多くは平和的ながら一部は暴力的となった騒乱が頻発しているにもかかわらず(11)、体制が持ちこたえ、必要と見なした改革を進めることができた理由はここにある。さらに印象的なのは、体制が今日まで、改革の予想外の結果にうまく対応してきたことだ。着手された改革は、当初に望まれたものであるはずの公式の目標から大きく逸脱した結果を引き起こした。そして、この体制にそれを制御する能力があるとは予想外だった。

 こうした状況下で、中国の国家と共産党が予想以上に頑強であることが明らかになった。社会の圧力や期待、それにもまして省や地方の幹部層の事業や権益、さらに新たな社会的勢力といったものと、政府がうまく折り合いを付けてきたことも事実である。というか、実現できるはずもないイデオロギー・社会・経済の全面的な管理(いわゆる全体主義の論理)を断念したわけだ。その代わり、大きな方針に関する指導権とそれを課していくための手段は、より効果的と思われるような形で維持している。もちろん、弾圧手段の絶対的な独占と、その大抵は専横的な使用を手放すこともない。

 今日の成功は何の将来の保証にもなりはしない。10年か15年前から、同じ課題がそのまま残されている。「中国の奇跡」から取り残された大部分の農民は不満を抱いており(例外は改革初期の農民にとって幸運な時代だけだった)、都市部では社会問題が深刻だ(都市に流入した農民、失業中の都市労働者、国内の新興資本や外国資本による歯止めなき搾取)。党と政府がこれまで以上の配慮を見せているにもかかわらず、環境問題は収まらず、エネルギー問題と食料問題も続いている。成金と新参の党幹部はますます尊大に振る舞い、汚職もいつまでもはびこっている。

 中国が現在、近代史のいかなる時期にも見られなかったほど自信を付けていることは確かである。しかし、首尾よく目標を達成できるのか、世界中の多くの国が期待あるいは懸念しているように、一本筋の通った安定的な大国になりうるのかはまだわからない。そのような目標は、この国が、中でもエリート層が、そう遠くない過去に味わった不幸の恨みを晴らすものとして夢みている。いざ大国となったあかつきに、単に資本主義諸国の中の一等国として、世界を支配し、自分たちの意向を他国に押し付ける諸国に加わるだけではないのだと示し、「これまでになかったような」超大国になることができるかどうか、それが中国に問われることになる。

(1) 長い間毛沢東の信奉者であったトウ小平(1904-1997)は大躍進運動以後、彼に対し批判的となり、文革の間は毛から冷遇された。
(2) 汪暉「天安門で挫折した中国の社会運動」(ル・モンド・ディプロマティーク2002年4月号)参照。
(3) モーシェ・レヴィン『ソヴィエトの時代』(ファイヤール社/ル・モンド・ディプロマティーク社、パリ、2003年)参照。
(4) 1912年に孫文が設立した政党。孫文が1925年に死去すると、蒋介石が総司令となり、最初は日本の侵略に、次いで共産主義者に対抗して、中国統一を目指した。
(5) 中国共産党は、政権を樹立する1949年以前から、「国益」問題をめぐってスターリンと対立した。初期はまだ水面下の対立だったが、1960年代初めにはソ連と正式に断絶する。
(6) 台湾は1683年に中国に統合され、1895年に日本に併合されたが、1945年に中国に返還された。1949年の共産党の勝利後、蒋介石を中心とする国民党が逃げ込んだ。
(7) モーシェ・レヴィン、前掲書25ページ以下。
(8) 王兵のドキュメンタリー映画『鉄西区』(2003年)。
(9) モーシェ・レヴィン『ソヴィエト制度の形成』(ガリマール社、パリ、1987年)、とくに第11章および第12章、370ページ以下および409ページ以下。
(10) 1949年以前の変化については、イザベル・ティロー、マク・ガン『中国に関する社会学的調査:1911-1949』(パリ、PUF 、1996年)を参照のこと。最近の時代に関しては、同著者による「新しい農民運動」(マリ=クレール・ベルジェール編『現代中国の起源:ルシアン・ビアンコ記念論文集』、ラルマッタン社、パリ、2002年、229-280ページに所収)を参照。
(11) マリ・オルツマン「中国が爆発する時」(雑誌『国際政治』97号、パリ、2002年)参照。


(2004年10月号)

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