新たなジェノサイドが懸念されるブルンジ情勢

バルバラ・ヴィニョー特派員(Barbara Vignaux)
ジャーナリスト

訳・青木泉

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 2004年8月13日、ブルンジ西部のガトゥンバ難民キャンプで、隣国コンゴ民主共和国(旧ザイール)のツチ族難民152人が殺害された。この虐殺でルワンダに隣接する小国ブルンジの民族間緊張が高まり、国際連合およびアフリカ連合が後押しする和平合意プロセスは深刻な障害にぶつかっている。この和平合意では、フツ族・ツチ族間の権力分配を定める憲法を採択し、総選挙を実施するという期限が2004年10月31日に設定されている(1)。[フランス語版編集部]

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 「今のブルンジは1994年のルワンダだ」。我々の取材に対し、二人の全く別の人間がほとんど同じ言い方で危惧を表明した。一人はブジュンブラ大学の心理学部長ポール・ヌクンジマナ、もう一人は人権擁護団体イテカ連盟(イテカはルンジ語で「尊厳」の意)副代表ジョゼフ・ヌダイゼイエ。2004年8月13日にコンゴ民主共和国(旧ザイール)との国境に近いガトゥンバ難民キャンプでツチ族コンゴ人(バニャムレンゲ)の難民152人が虐殺されたことで、これまでにも何度となく起こった懸念が一層強まっている。この10月に予定されている総選挙も、政治的緊張を理由に延期される可能性がある。

 ブルンジは、メディアが大きく報じるルワンダの影に隠れてしまっているが、しばしば民族間の恐ろしい暴力抗争の舞台になってきた。国連によれば、1993年10月21日にツチ族将校がヌダダイエ大統領を暗殺した直後の10日間で「数万人」のツチ族と穏健派フツ族が虐殺されたという。このフツ族出身の大統領は事件の4カ月前に、ブルンジ初の民主選挙で選ばれたばかりだった。ジェノサイドの暗雲は、このルワンダの隣国にも漂う。2000年8月にはブルンジ政府と17政党がタンザニアのアルーシャで和平協定に調印しているが、ツチ系の自主防衛勢力(PA)とフツ系の解放国民軍(FNL)はこの協定を認めていない。約3000人のメンバーを擁し、千年王国主義運動と地元の再臨派教会の支持を受ける反政府勢力FNLは、ツチ族に対する執拗な憎しみに駆られており、彼らがフツ族の大虐殺を企てていると非難する。ガトゥンバの虐殺の犯行声明を出したのもFNLである。

 かつてツチ、フツ、ガンワの3民族の間に見られた均衡は、宗主国ベルギーが1962年の独立直後もしばらく続けた策略によって崩された(2)。以来、ツチ族(人口の約20%)が少数派でありながら、司法と軍をはじめとする国家機構、そして単一政党である民族進歩連合(UPRONA)を支配してきた(3)。このため、他民族は怨恨と猜疑心を募らせてきた。公式発表によれば、1993年の虐殺は、ツチ族が選挙結果を受け入れなかったことに対する「民衆の怒り」の表出に他ならなかったという。

 しかし、この「自発的行為」説に疑問を抱かせるような要素が二つある。まず、ツチ族は色々な口実の下に学校や教会、地区の事務所に集められ、そこで虐殺されている。国連の調査委員会も1996年の報告で、1993年の殺戮を「ジェノサイド」と形容した。また、同年3月5日の安全保障理事会の決議でも「ブルンジで犯されている暴力行為、一部のラジオ局が流し続けている民族間憎悪や暴力の奨励、ならびに排斥やジェノサイドを勧奨する声明の増加を深く憂慮する」と述べている。こうした犯罪行為の記憶に加え、懸念を呼び起こす要素がもう一つある。中部アフリカ大湖地域において国境管理の実効性が失われ、フツ族とツチ族の紛争が(国単位でなく)地域的な広がりを見せていることだ。それを改めて示したのがガトゥンバの虐殺事件である。ブルンジのフツ系反政府武装勢力は、ルワンダの民兵勢力インテラハムウェと繋がりがある。インテラハムウェは1994年のルワンダ大虐殺の首謀者であり、コンゴ民主共和国に活動拠点を置く。

 暗殺されたヌダダイエ大統領の支持者によって創設され、1万人以上の規模を誇る最大反政府勢力の民主防衛軍(FDD)は、2002年12月に暫定政府との停戦合意に署名し、その見返りとしていくつかの閣僚ポストを得た。暫定政府は2001年11月に発足し、2003年5月からはフツ族出身のヌダイゼイエを大統領とする。ツチ系のUPRONAと、フツ系の2つの政党、ブルンジ民主戦線(FRODEBU)およびFDDの代表からなる民族混成の暫定政府であり、2004年10月31日までに新憲法を起草し、総選挙を実施する責務を負う。これは恐ろしく困難な作業である。4年間に及ぶ協議の末、2004年8月6日に南アフリカのプレトリアで、フツ族・ツチ族間の権力分配に関する基本合意が調印されているが、UPRONAもフツ系のFNLもここに署名していない。この合意はツチ族に40%、フツ族に60%のポストを割り振ることを定めたものだ。憲法案についても、フツ族は承認しているがツチ族は却下している。

ツチ族の不安

 こうした険悪な空気が、コンゴ民主共和国の和平プロセスの停滞とツチ族主体のルワンダ政権の強硬姿勢によって更に悪化する中で、ブルンジのツチ族はルワンダ式の「最終解決」を恐れている。少なくとも30万人の死者を出したと言われる10年間の内戦が終息して、確かに国土のほとんどは静けさを取り戻した。戦闘は首都の周辺、FNLの勢力範囲であるブジュンブラ近郊県に限定され、散発的になった。しかし、ツチ族にとって危険はまだ残っている。2003年10月8日と11月2日にネルソン・マンデラの後押しで署名されたプレトリアの和解合意では、政府と反政府勢力の双方の人員を組み入れた国軍の創設が規定されている(4)。2004年4月には初の混成部隊が誕生した。だが、フツ系反政府勢力が加われば、これまで司令部で特に際立っていた(ツチ族の)民族的均質は薄まることになる。一方、数万人と見積もられる旧戦闘員の兵舎収容と武装解除は全く進んでいない。

 さらに、予定されている総選挙を数週間後に控え、隣国タンザニアから帰還する難民が増加すれば、フツ族の人口的優位が強められる。フツ族の国外脱出は、1972年のクーデター未遂の直後、彼らに凄惨な弾圧が加えられた時期に遡る。国連によれば、ツチ族の支配する軍によって25万人のフツ族が虐殺されたという。2002年以降15万人の難民がブルンジに帰還していると見られ、2004年末までには全難民80万人のうち更に15万人の帰還が見込まれている。ブルンジの国内人口6800万人のうち、28万人が長期的避難民であり、それに加えて毎月4万から6万人の一時的避難民がブジュンブラ近郊県などで発生している(5)。農業人口が90%を占めるこの国で、国外難民と国内避難民が出身地に帰還すれば、農地問題が深刻化するだろう。人口密度は平方キロメートル当たり250人に及び、一家族当たりの耕地面積は平均0.5ヘクタールに満たない。他方、1972年と1993年の大虐殺の際に放置された土地は占拠されている。土地の所有者を妬んでいた人々が、この機に乗じて彼らを追放してしまったからだ。政府は、訴訟の数を制限するために、土地所有権に関わる訴えを1993年の難民には認めるが1972年の難民には認めないことに決めた。

 有権者調査が始まっていない現状から、2004年秋に予定された投票は延期が予想される。そしてフツ族は現在でも、1993年の選挙の勝利をかすめ取られたと考えている。確かに(国でただ一人の)精神科医シルヴェストル・バランシラの言うように「人々は93年の時のように(殺されるために)集まったりはしないだろう」。とはいえ、もしブルンジに強力なフツ系政権が発足すれば、インテラハムウェがコンゴ民主共和国から流入し、ルワンダのカガメ大統領の反発を招く危険がある。カガメ大統領はガトゥンバの虐殺事件の後も、国際社会の非力を非難している。

 総選挙後には民族混成の政府を作ることが予定されているため、組閣の基準となる各民族のポスト数に関して激論が戦わされている。権力から引き離されることを恐れるツチ族は、ツチ40%、フツ60%という暫定機構の人数配分を議会、内閣、軍、行政の全てに適用するよう求めている。しかし2004年8月6日の基本合意でツチ族の懸念が払拭されたわけではない。市民団体ACジェノサイド代表ヴナン・バンボネイエホは、他に採るべき道はないとしながらも、こうした割当制度は「とんでもないこと」であると言う。「身分証明書に民族を記載しないのはなぜか。これこそがルワンダに災いを招いたからだ。人々を仕分けするために身分証明を提示させたからだ」と彼は声を荒げる。

 2003年10月、アフリカ連合が指揮を執る平和維持軍がブルンジに展開された。しかしながら、これまでにこの種の役割を果たしたことのないアフリカ連合が管理と費用の問題にぶつかる中で、選挙が近づくのを見た国連安全保障理事会は、作戦の指揮を引き継ぎ、兵員を2800人から5600人に増やすことを決意した。ルワンダ大虐殺の際の非常にまずい対応が記憶に新しい国連は、2000年8月に調印されたアルーシャ協定によってフツ族難民の保護を義務づけられたことで、過去の殺戮者にボディ・ガードを提供するという難しい立場に立たされている。

報復の悪循環

 数十年にわたった暴力に関わる係争が和解のプロセスを阻んでいる。国連は、アルーシャ協定に規定された国際調査委員会も特別国際裁判所も、未だに開設できていない。和解の重視が実務的には司法の妨げとなっている。プレトリア基本合意は、かなりあいまいな表現の下に、国軍兵士と旧反政府勢力の免責を暫定的に認めている。イテカ連盟のヌダイゼイエによれば、彼らに政府内での地位を与えたというのは「一番たくさん殺した人間に褒美を与えた」ということだ。加えて、2003年5月に公布された「ジェノサイドの犯罪、戦争犯罪および人道に対する犯罪の取締まりに関する法律」は、複雑すぎて実際には適用不可能と思われる。国境なき弁護士団(ASF)によれば「93年訴訟」で投獄されたのは8000人にすぎない。これに対してルワンダの大虐殺の後には11万人以上が投獄されている。それでも、被告人の裁判は難航している様子だ。「検挙された人間は、亡命した指導者たちに与えられた臨時大赦が自分たちにも与えられるべきだと言って出頭を拒否しています。それに、彼らは93年の虐殺はどっちもどっちだったと思っています。なのに検挙されたのはフツ族だけです」。ブリュッセルの弁護士会に所属し、ブジュンブラでASF代表を務めるフィデル・ルヴェンジカ=ヌシタは解説する。

 こうした障害を越えて判決が下されたとしても、執行されることはほとんどない。「これまでに賠償を受けた犠牲者は一人もいません。処刑された者は全体で10人以下です」。ACジェノサイドの弁護士、エティエンヌ・ヌティヤンクンディエは語る。法廷が飽和状態なので訴訟の90%は延期になる。更に悪いことに、告訴人は審理期間中ずっと被告人を養わなければならない。おかげで、世界で3番目に貧しいと言われるこの国の犠牲者は、訴えを起こす意欲をそがれる。

 「ルワンダでは悪役が特定されたが、ブルンジではそうならない。完璧な法廷など存在しないが、少なくともルワンダでは象徴的な法廷が存在した。記憶に残すことの義務、生存者の境遇が、真剣に受け止められたのだ」。ACジェノサイドのバンボネイエホ代表は強調する。だから様々なツチ系組織は、現在でも1993年の「ジェノサイド」の認知を要求しており、これを「複数形」で語ろうとする「ある種の修正主義」に対抗する。しかしこの要求は大きな難題にぶつかっている。ジェノサイドの「犯意」や「未遂」をどのように認定するのか。1972年の事件をどう扱うのか。

 2002年7月、ブルンジ政府は新たな国際調査委員会の創設を要請した。対象は、独立後に起こった全ての虐殺である。まさにそこに、ブルンジにおける民族問題の難しさが集約されている。「それぞれが自分にとってのジェノサイドを語る」。ラジオ・フランス・アンテルナショナルのブジュンブラ特派員、エスドラス・ヌディクマナは要約する。和解を熱心に訴えるラジオ局、イジャンボ(ルンジ語で「話」の意)の副会長アドリアーヌ・シンダイガヤは、72年と93年の「二重のジェノサイド」を語る。報復の悪循環。93年の殺戮者の中には72年の孤児がいて、殺された人間の中には過去の殺害者がいる。

 真実和解委員会の創設(関連法案は9月初旬に可決済み)に加えて、アルーシャ協定では、ブルンジの歴史をその始まりから(こういう作業には付き物のあいまいさを伴いつつも)記す学術委員会の設立が規定されていた。国連教育科学文化機関(ユネスコ)の後援の下、様々な立場のブルンジ人と外国人の歴史家を集め、将来の教科書のもとになるような基本書を執筆することになっている。ユネスコのブジュンブラ代表部を率いる歴史家、議員、元文化相のエミール・ムウォロハは「このような計画によってブルンジ人は自分自身と、また自分たちの歴史と和解できるに違いない」と言う。ずたずたにされた国民が、歴史によって和解できるのだろうか。委員会メンバーのフランス人歴史家ジャン=ピエール・クレチエンは、少なくとも、過去の事件について「人種的」解釈の影で看過されがちだった政治的、社会的な意味を改めて捉えることには役立つだろうと考える。

 その根源がどこにあったにせよ「異なる民族という概念は、血で血を洗う争いによって実体性を持つようになった」とバランシラ医師は述べる。隣国のルワンダ人が声を低くして言う「ツチ」「フツ」という言葉は、ブルンジ人の口からは頻繁に発せられる。民族意識という現実と「一人一票」という民主主義の原則を両立させることの難しさは、民族間の権力分配をめぐる議論でも露呈された。ブルンジの危機に対する長期的な解決策は、これから考え出していかなければならない。

(1) 憲法草案はすでに起草されて議会で承認済み、11月に国民投票が予定されている。総選挙は2005年春に延期にされた。[訳註]
(2) ベルギーは民族の違いを固定化して政治の具とした。その上、1961年のルワガソル首相暗殺もベルギーの仕業と見られている。この首相は王族出身であったことから、1966年の共和国宣言まで権力の座にあった。ジャン=クロード・ヴィラム「ルワンダにおける大殺戮の起源へ」(雑誌『アフリカ評論』第14号、ラルマッタン社、パリ、1995年)参照。
(3) コレット・ブラークマン「ブルンジの地獄への終わりなき墜落」(ル・モンド・ディプロマティーク1995年7月号)参照。
(4) ウィリー・ニンドレラ「タンザニアの調停外交」(ル・モンド・ディプロマティーク2002年10月号)参照。
(5) See Everyday Victims : Civilians in the Burundian War, Human Rights Watch, December 2003, http://www.hrw.org.


(2004年10月号)

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ブルンジの動揺

1962年国連ベルギー委任統治領、ブルンジが王国として独立。
1966年ミコンベロ大尉クーデターでヌディゼイエ国王を廃位し王政廃止、単一政党UPRONA(民族進歩連合)を創設。
1972年クーデター未遂事件に続く弾圧により、国連によると25万人のフツ族が死亡。
1987年ブヨヤ少佐による最初のクーデター。
1992年新憲法制定、複数政党制導入。
1993年6月初の大統領自由選挙、フツ族出身のヌダダイエ氏が初代大統領に就任。
1993年10月軍部によるクーデター、ヌダダイエ大統領暗殺、国連によると「数万人」のフツ族・ツチ族の一般市民が死亡。
1994年4月7日ルワンダ大虐殺始まる。
1996年7月ブヨヤによる2回目のクーデター。
2000年8月アルーシャ和平協定、政府、野党、一部の反乱勢力の三者間で調印。
2003年10月アフリカ平和維持軍駐留。
2003年11月政府と反政府勢力間でプレトリア議定書、FDD(民主防衛軍)が入閣。
2004年1月フツ系のFNL(解放国民軍)との初交渉に失敗、この時点までに内戦で20万人が死亡。


[訳・清水眞理子]

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