コートジヴォワールはどうなっているのか

コレット・ブラークマン特派員(Colette Braeckman)
ル・ソワール紙記者、ブリュッセル

訳・清水眞理子

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 かつて独立後のアフリカ諸国の中で例外的な政治的安定を享受していたコートジヴォワールは、「国父」ウフェ=ボワニ大統領の死後、後継者問題が表面化し、地域や民族の違いが政争の具とされた。現在のバグボ大統領は、クーデターで成立した軍事政権が自らの対立候補を排除した選挙の際、「現職」よりも高得票率を得たことで「選出」された。こうした経緯から、その正統性を認めない勢力が2002年に地方で蜂起、国は内戦状態に陥った。それから2年後、2004年7月30日のアクラ合意により、事態は改善に向かいつつあるかに見える。しかし、近隣諸国からの移民労働者が経済の一端をささえていることが紛争をより複雑化、中部アフリカで見られる紛争のように複数国家がかかわる越境戦争の様相も呈している。さらに旧宗主国フランスの経済権益の影が今もなお色濃く残り、脱植民地化に至らないコートジヴォワールには疲弊感がただよっている。[日本語版編集部]

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 反乱の勃発から2年、イヴォワール人は疲弊している。たとえバグボ大統領を支持する「愛国派」がアビジャンの路上で大声をあげてフランス人や白人全般を非難したとしても、慎重に一歩ひいている普通の市民はため息をつき「こいつらは金をもらって気炎をはいている」と断言する。

 アフリカのマンハッタンを思わせるようなアビジャンにいれば、まだ活気があるように見えなくもない。しかし北部を旅行すると無気力状態が拡大しているのが見て取れる。アビジャン港から隣国マリとブルキナファソに通じる幹線道路沿いにはところどころ検問所があり、そのたびにトラック一台につき1000CFAフラン(約200円)とられ、時に泥棒まがいの武装集団にさらなる通行料を要求される。

 リコルヌ作戦を展開するフランス軍がパトロールしている「信頼ゾーン」をひとたび越えてブアケに入ると、そこは「新勢力」と呼ばれるようになった旧反乱軍が占拠する地域だ。洗いざらしのTシャツを着て、弾薬をたすき掛けにしたごく若い青年たちが、お守りやマスコットを載せた検問ゲートの前に陣取る。所持品検査は政府の側よりさらに厳しく、徴収金額も高い。

 それも当然で、兵士は当初は給与を支払われていたが、遅配が続くうちに住民や旅行者を収入源とするようになった。将校の振る舞いは礼儀正しいものの、黒メガネをかけお守りを持った下級兵士はリベリアやシエラレオネのギャングを思わせる。

 ブアケでは保健衛生サービス、飲料水、電気の供給がだんだん逼迫してきている。道路は保守管理されていない。夜間には銃撃音が響く。それでも依然、道路交通は重要である。というのも公務員は(旧反乱軍の支配地域に残っている教員も含め)、中央政府から支払われる給料を受け取りにアビジャンかヤムスクロまで行かねばならないからである。ブアケの横断は毎度たいへんな難関であり、いくつもの検問でなにがしかを支払わなければ通り抜けることはできない。

 「新勢力」(1)の支配地域に広がった疲弊や失望の度合を知るためには、ブアケ北方の小さな村、例えばマラバディアッサで立ち止まればよい。故ウフェ=ボワニ大統領と同じバウレ族の住む地域の中で、マリンケ族の飛び地になっている村だ。綿花農家が大半を占めるマリンケ族は「大北部」に住む同族と連帯感をもっており、共和派連合(RDR)党首のアラサン・ワタラをずっと英雄視してきた。彼らはワタラのコートジヴォワール国籍が否定され、大統領選挙への立候補資格を剥奪されたことに衝撃を受けた。中央の制服組(警察と国軍)が北部住人をブルキナファソ人やマリ人と同一視して手荒く扱うやり方に傷ついた。

 2002年9月の反乱の直前にヨプゴンの死体の山(2)の写真が配られると、村の世論は沸騰した。「コートジヴォワール愛国運動(MPCI)(3)が最初の会合を開いた時に集会所を借りる金を出したのは私だった」。綿花生産協同組合のイブラヒム組合長は述懐する。他方、「べべ」と呼ばれる中年男は、どうして憤りに駆られて反乱軍の一員に加わったかを説明した。「外国人を疎んじ、北部住民を排除する風潮に対して戦いたかった」

 後日談は辛いものである。「べべ」は村に帰ったが警備員の仕事しか見つからなかった。彼は自分を馬鹿にする近所の人びとに向かって「だまされたんだ」と弁明する。「俺たちイヴォワール人が銃撃戦をやっている間に、こっちが傭い兵だと思っていたマリ人やブルキナファソ人は人家を襲撃し、戦利品を自国に持ち帰っていたのさ」。協同組合のメンバーも憤懣やるかたない様子で言う。「2003年の作柄は悪かった。理由は前年、肥料も農薬もすべて反乱軍に略奪されたからだ。兵士は我われに言った。『これはバグボの投入資源 (アビジャンから運ばれる綿花生産に欠かせない化学製品)だ』。そして彼らはそれをブルキナファソの市場で売りさばいた。今年になっても昨年度分の綿花の代金はまだ入ってこない。どこかブアケとアビジャンの間をさまよっているにちがいない」

 「新勢力」の領袖は国土の半分を掌握していると豪語し、ためらうことなく分離独立という威嚇に訴える。しかし、ここ2年の北部地域は活気を失っているように見える。公共サービスは中断し、道路はもはや保守管理されず、アビジャンに逃げた多くの教員は戻ってきていない。マラバディアッサに一人しかいない医師はこの村出身の年寄りだ。彼は退職後ここに戻ることを決意し、ボランティアで働き、旅行者に頼んで持ってきてもらう薬を患者に投与している。

三つ巴の後継者争い

 バグボ大統領があまり愛されていないにせよ、「新勢力」の指導者もまた山師の類とみなされている。「彼らは外国人排除や地域排除に反対して戦うつもりだと言っていた。我われは今、彼らが自分のために戦っていたことを理解した」。スレイマン・トゥレ老はそう断言し、もはや彼らの会合に出席しようとせず、指導者たちが乗り回す黒塗りの大型リムジンを見て眉をひそめる。国民全体が例外なく支持するのは、どこの家にも掲げてある少し黄ばんだ写真の主、ウフェ=ボワニだけだ。イヴォワール人は今なお彼の喪に服している。

 ウフェ=ボワニ大統領が1993年12月に死去した時コートジヴォワールが悲嘆にくれたのは、独立の父という理由だけからではない。彼がフランス本国政府の閣僚を務めた後、ローマのサンピエトロ寺院に匹敵するほどのノートルダム大聖堂をヤムスクロに建立し、自らを常にこの国の第一の農民と称していたからである。彼の死で、一つの時代が終わりを告げたことを皆が悟った。それは「奇跡」と言われた長きにわたる発展の時代だった。旧宗主国フランスとの繋がりは緊密かつ共生的で、まだ植民地状態を脱していなかったように見受けられた。しかし、この「長老」の死で後継者争いが表面化する。政治家たちの争いは部族感情をあおり、コートジヴォワール経済に依存する近隣諸国の不安をかきたてている。

 3人の男、3つの地域がこの争いを象徴している。1人目はアンリ・コナン・ベディエである。ウフェ=ボワニ大統領の後継者で彼と同じ中部バウレ族出身、コートジヴォワール民主党(PDCI)を支持母体とする。

 続いて挑戦者のワタラがいる。北部出身で国際通貨基金(IMF)の元副専務理事、国際金融機関に近い自由主義のテクノクラートである。カカオをめぐる駆け引きに負け(コートジヴォワールは国際相場の上昇を期待して売り惜しみしたが、相場は上がらなかった)、事態収拾を図るウフェ=ボワニ大統領によって首相に起用された。ワタラは緊縮策をとり、外国人の滞在許可証を制度化するという手法で、この仕事を成し遂げた。RDRの創設者で国際的な人脈をもち、右派のサルコジ財務相や左派のファビウス元首相などフランスとの繋がりも深い。

 最後はバグボである。西部地方のベテ族出身、貧しい家庭に生まれ、歴史学を専門にした。30年にわたって戦闘的に反体制活動を行ってきたという自負心をもち、党首を務めるイヴォワール人民戦線(FPI)が加盟する社会主義インターナショナルで交友関係を築いている。

 三者の間には野望、恨み、その場限りの協力が交錯する。バグボはワタラが首相時代に自分を刑務所に放り込んだ張本人であることを忘れない。それでもべディエが2000年予定の大統領選挙を前に、ワタラが当初ブルキナファソのパスポートをもっていたとして候補者から排除しようとした際には、これに対抗してワタラと同盟を結んだ。ベディエのPDCIはフランス極右のルペン国民戦線党首なら「国民優先」と呼びそうな「イヴォワール民族」の概念を作り上げた。生粋のイヴォワール人のコートジヴォワールということだ。多くの知識人が外国人排除や地域排除に直結するような出自の概念を練り上げようとした。

 実際、イヴォワール住民の26%はブルキナファソ、マリ、ガーナ出身の外国人である。彼らはコーヒーやカカオのプランテーションで雇われ、コートジヴォワールの発展を担ってきた。ウフェ=ボワニ大統領は彼らを招きいれて保護を与え、身分証明の書類を気前よく発行した。当時は有力な反体制派であったバグボが「票田」と非難するほどだった。実際には、移民労働者が問題視されるようになったのは、経済資源が不足するようになってからだ。「構造調整」のせいで新たに失業者となった公務員が村に戻ると、父祖伝来の土地は外国人によって耕作されていた。彼らはたとえ外国出身であっても自分たちが土地を購入し開墾した以上は正当な所有者だと考えていた。

 バグボが明白には認めないにしても、FPIの下部組織は「イヴォワール民族」の概念を広く受け入れ、時にはベディエのPDCIと共同戦線を張った。しかし1999年12月、この政治ゲームは頓挫し、タブーが破られることになる。西部地方出身のゲイ元参謀総長がクーデターにより権力を掌握したのである。10カ月後、つかの間の「軍服を着たサンタ」は選挙の実施を余儀なくされた。彼は政治の味を覚え、選挙に勝つつもりでいた。さらに慎重を期し、自分が長官を任命しておいた最高裁が2人の有力候補の立候補資格を否認するのを待った。べディエは汚職(4)、ワタラは国籍が問題だとされた。唯一バグボだけがレースに残り、他にこれといった文民候補がいないことから、2000年10月22日の大統領選挙でゲイ将軍を打ち負かした。

旧宗主国の介入

 ゲイ将軍が権力を手放すことを拒んだので、バグボは後のち最も頼りとするようになる武器を使う。大学生が路上に繰り出し、FPIの活動家たちが群れをなしてデモ行進したのだ。ゲイ将軍は屈服せざるをえなかった。バグボは彼自身「惨憺たる」と呼ぶ状況で執り行われた選挙の結果、大統領になった。

 バグボは最高裁の見解を楯にこの選挙の合法性を主張し、立候補できなかった2人を含めた選挙のやり直しを断固拒否した。ヨプゴンの虐殺が国民に与えた衝撃にもかかわらず、バグボは自分の政策を実行するつもりだった。医療の皆保険制度を確立し、すべてのイヴォワール人が屋根のあるところに住み、教育を受けられるようにするという政策である。

 彼は政治ゲームを収めたかったので、ワタラに身分証明書を発行し、国民和解フォーラムを組織した(但し、そこでなされた提言を実施しようとはしていない)。2001年の地方選挙ではワタラのRDRが勝利した。経済見通しは良好との判断が世銀によって下され、新規借款が約束された。コートジヴォワールは復興しつつあるように思われた。その矢先、バグボ大統領はさらに一歩を踏み出すような決定を下す。コートジヴォワールはもはやフランスの草刈り場にとどまるべきではないとして、国内市場の開放を望んだのだ。

 このような意向はフランスの不安を生んだ。コートジヴォワールではフランスが外国投資の三分の一、国内総生産の30%を占める。各省庁にはフランス人の顧問がいて用心深く様子を見ている。フランスの大手企業グループ(複合企業のブイグ、ボロレ、電力のEDF、水処理のソールなど)は国際競争なしに受注することが当たり前だった。金融部門は同じくフランスのソシエテ・ジェネラル、BNP、クレディ・リヨネが全面的に支配していた。さらにフランスの選挙戦で右派政党は、伝統的にアフリカの資金をあてにしている。

 ウフェ=ボワニ大統領の時代には、農業生産価格維持安定公庫(CAISTAB)が作物の集荷、買い上げ、輸出の各段階でかかわり、コーヒーとカカオの生産農家に固定価格を保証していた。CAISTABの収益が体制のドル箱となっていた。これは開発プロジェクトの原資であると同時に、「長老」の政治資金となり、旧宗主国との関係の緊密化に役立てられた。90年代末にCAISTABが解体され、代わりに調整・流通・融資部門の3組織が新設されても、フランスへの「還流」が完全に絶えることはなかった。

 バグボ大統領は、この暗黙の決まりを尊重しようとしない。カカオ産業にアメリカ系企業(食品のカーギル、搾油のADM)を参入させ、第3アビジャン橋の建設ではフランス企業と(入札額がその半値の)中国企業を競争させ、ブイグ社に対しては水道・電気の事業免許を取り消すと脅しをかけた。この政策では、経済面での真の脱植民地化が目論まれたわけだが、旧宗主国へ資金還流の見返りが安定の保証であったという事実が無視されている。フランスとの有名な防衛協定の下、ポールブエに駐留する第43海兵隊は、コートジヴォワールをあらゆる外的脅威から守るという任務を帯びている。数十年にわたってこの保証があったからこそ軍事支出を開発資金に回すことが可能であった。

 それゆえ2002年9月20日の最初の反乱が成功した際には誰もが驚いた。反乱はアビジャンでは失敗したが、エミール・ボガ=ドゥドゥ内相が暗殺された。ゲイ将軍は自宅近くで遺体で発見された。北部地域では反乱軍MPCIがすばやく進撃し首都に迫るも、フランスの介入によりブアケ付近で阻止された。防衛協定は外国からの攻撃の場合のみ有効だとして当初介入を拒んだフランスは、それでもリコルヌ作戦を展開した。4000人の兵士を前線に投入し、以後情勢は安定するが、コートジヴォワールは2つに分断される。

 このフランスの介入は、コートジヴォワールが内戦に陥るのを防いだが、両派から非難されることになった。「新勢力」の側は、フランスによる兵力引き離しのせいで、アビジャンでの政権掌握を邪魔されたと信じた。反対に政府側にとって、ナイジェリアがバグボ大統領に援軍を送るのを妨げ、アンゴラがフランス製戦闘機を出動させるのを封じたフランスの行動は許せない。その上、フランス諜報部はブルキナファソをはじめとする地域諸国に広く入りこんでおり、反乱軍が同国の首都ワガドゥグ周辺でコートジヴォワール侵攻を準備していたことや、北部地方の住民だけでなくブルキナファソ、マリの出身者からも募兵していることをフランスが知らなかったとは考えにくい。

危険な合意の前例

 後から考えれば、フランスの態度は当初から曖昧だったように思われる。フランスはバグボ大統領に決定的な支援を与え、反乱軍を制圧しようとは望んでいない。しかし同時に、コートジヴォワールにいる二重国籍者1万5000人の存在を考慮しなければならない。以前は2万人いたフランス人は2004年には8000人にすぎない。

 アフリカ諸国が何度か仲裁を試みたが、トーゴのエヤデマ大統領の仲裁が失敗に終わった後、2003年1月、反乱軍と諸政党を一堂に集めた会議が、パリ郊外リナ・マルクーシの体育館にて非公開で開催された。仲裁者フランスの強い後押しで、1つの妥協点が見出された。バグボを大統領職にとどめたまま、首相を新たに任命することになったのだ。国民和解フォーラムの議長を務め、対話を重んじることで知られる北部出身のセイドゥ・ディアラが、全員に受け入れられる人物だった。「新勢力」と呼ばれるようになった反乱軍からの入閣も合意され、マルクーシ会議閉幕後、パリで開かれた小会合の際に当時のドヴィルパン仏外相の賛同の下、治安と防衛の両大臣ポストが割り当てられた。

 多くのイヴォワール人の憤りを引き起こしたマルクーシ合意の手法は、何も独創的なものではない。このような手法は何度も中部アフリカで利用され、さまざまに成功を収めている。例えば2002年に南アフリカのサンシティーで成立した合意はコンゴ民主共和国(旧ザイール)の危機解決の基礎となった。これは1999年のルサカ停戦合意を受け、ルワンダやウガンダなど外国の支援を受けた反乱軍も、中央政府の代表者も、すべての交戦当事者を全く平等に処遇するものだった。ルワンダに支援されたコンゴ民主連合(RCD)の副議長の一人は防衛・治安の大臣ポストを委ねられた。

 翻ってマルクーシ合意もまた、外国の支援を受けて蜂起したイヴォワール人に報奨を与えたものであるように思われる。潜在的な反乱分子を勇気づける危険な前例だが、国際機関に認知され、不可避の策であるとされた。この合意がバグボ大統領の権力を弱めた一方で、国籍、農地の取得権などの根本的な問題に解を与え、反乱軍の武装解除を規定するという意義があったことは事実である。

 こうしてコートジヴォワールでは2003年1月以降、正統性をめぐる2つの考えが相対立するようになった。大統領の側では憲法を引き合いに、選挙で選ばれた以上は2005年10月予定の次回選挙を前倒しするつもりがないことを強調する。もう1つはフランスの強力な圧力によって交わされた国際合意に由来する正統性であるが、これを実地に適用するのは難しいことが明らかになりつつある。

 反乱の勃発から2年後、マルクーシ合意署名から1年半後のアビジャンで、バグボ大統領が予想に反し、立ち直るとまでは言えないにしても政権維持に成功したことは認めざるをえない。しかしその代償は決して小さくない。彼は公言できないことも含め、可能な手段は何でも利用した。かつての反体制派としての経験から、ためらうことなく路上の示威行動に賭けた。「外国人嫌いさ、それがどうした」というスローガンが大書されたTシャツを着た「愛国派」がデモを繰り返す。路上は常時、沸騰状態にある。それをたきつけるのは大統領の妻のシモーヌや、「愛国青年」を率いる「青年大将」シャルル・ブレ=グデ、「愛国婦人」と「バグボを支持する百万人の少女」を動員するジュヌヴィエーヴ・ブロ=グレベといった取り巻きたちだ。

 危機が長引くにつれて大統領側の下部組織は過激化し、威嚇的になった。ためらうことなく北部地域のディウラ族を物理的に攻撃、外国出身者や反対勢力を怒鳴り倒し、国連車両に火を放った。他方では「死の部隊」と呼ばれる民兵が犯罪行為を行いながら罰せられずにいる(5)。憎悪と排外主義の雰囲気が広がるなか、2003年10月21日にフランスのジャーナリストのジャン・エレーヌが殺害され、すべての大手通信社とアフリカ開発銀行やユニセフのような複数の国際機関がアビジャンから撤退することになる。

経済の脱植民地化の中断

 荒れ狂う街頭に向かって大統領は「私かそれとも混乱か」というよくある戦術に訴え、悪魔を箱の中に押し戻すことができるのは自分しかいないと主張する。しかし彼はその政治的才能にもかかわらず、ルワンダのジュヴェナル・ハビャリマナ(6)のように、他者への憎しみに目の曇った傘下の過激派に先回りされてしまう危険を冒してはいないだろうか。

 バグボ大統領は消耗戦に持ち込もうとしており、実際そのほうが容易であるように思われる。というのは、反乱軍は勢いを失い、彼らが得ていた支援は先細りになり、指導者間の対立が露見しているからである。大統領は国際的なカードも利用している。フランス社会党に範をとり、そこに最良の友人関係を築いているにもかかわらず、アメリカに躊躇なく接近し、ブッシュ大統領からエイズ対策基金と称する潤沢な資金援助をとりつけた。バグボ大統領はまた、彼の信仰と彼が重用するコネ牧師にひきつけられたアメリカ宗教界とも繋がりを保っている。サヘル・サハラ国家共同体(7)を介して、それまでブルキナファソを支援していたリビアとの和解も心がけた。

 この生まれながらの政治的嗅覚をもつ巧みな大統領は、さらに最大の切り札を使った。国の収入である。減少したとはいえ、これが彼の銃後を支えている。コーヒーとカカオから得られる収入が国軍の強化と武器の購入に使われてきたことは周知の事実だ。それゆえこの件について深く知りすぎたフランス系カナダ人ジャーナリストのギー=アンドレ・キーフェルは2004年4月16日に誘拐され、その後おそらく殺されたのである。我われはアビジャンの中央刑務所で2人の留置人、大統領府に配属されていた元警護官らに会った。彼らはバグボ大統領のヘリコプターの操縦士のトニー・ウライなる人物が北部の高速道路わきのどこかでこのジャーナリストの死体を埋めるのを見たと断言した。

 大統領はまたフランスと重要な点について和解することにも気を配った。つまり経済権益である。フランスの大企業グループは、狭義の生産からは手を引いた(ボロレ社はカカオ産業から撤退した)とはいえ、交通、水道、電力、通信といったライフラインをかつてないほど支配している。

 例えば2007年まで上水道の事業免許をもち、売上総額490億CFAフラン(約100億円)に達するコートジヴォワール水道公社(SODECI)の資本は、フランスのソール社が47%保有する。電力では2005年まで事業免許をもち、売上総額2010億CFAフラン(約420億円)のコートジヴォワール電力公社(CIE)の資本は、ソール社とEDFが51%保有する。移動電話(契約数140万台)の免許は仏系オレンジ社と英系テレセル社、固定電話の免許51%分はフランス・ケーブル・ラジオ社に付与された。

 他の契約でも同様である。アビジャン港のコンテナターミナル(年間取扱量1500万トン)の経営はフランスのブイグ社に任されている。2004年から2005年に予定された大統領府や国会議事堂など一部の公的機関のヤムスクロへの移転には5000億CFAフラン(約1040億円)かかるが、半分はフランス企業の利益となる。これらの数値に関して、あるコートジヴォワール首脳は言う。「我われはグローバリゼーションを信用して、パートナーを多様化し、国内市場を開放しようと思った。しかし我われの経済の脱植民地化については中断せざるをえなかった。こめかみに銃を突きつけられれば、しばらく間を置かないわけにはいかない」

 バグボ大統領は、勝つつもりでいる2005年の選挙を待ちつつ、独特のやり方で主導権を取り戻した。2004年7月末にアクラで開かれたアフリカ首脳会議の後、省庁の顧問に「新勢力」の代表者を迎え入れ、マルクーシ合意に新たなチャンスを与えることを受け入れた。国民議会が国籍法の見直しをし、両親のいずれかがコートジヴォワール国籍であれば大統領選に立候補できると規定する手はずになっている。今後の問題は「新勢力」の戦闘員の武装解除である。フランスのリコルヌ作戦部隊4000人に加え、国連コートジヴォワール・ミッション(ONUCI)6420人がその任にあたる。北部地域の住民は政府がこれを受けて少しずつ行政サービス、飲料水の供給、医療、教育を再開することを期待している。

 しかし、この戦争は深刻な後遺症を残すことになるだろう。西部地域は現在もリベリアから入ってくる戦闘員の野蛮な行為にさらされている。リベリアは自国の戦闘員が支援する別の反乱軍、大西部イヴォワール愛国運動(MPIGO)に肩入れしているのだ。北部の経済は疲弊し、モザイク状にさまざまな部族が共生していたのが長きにわたるひびが入った。そして最大の問題は、バグボ派の側でも「新勢力」の側でも多数の若者が銃をとって戦ったことだ。それも理想に燃えたからではなく、戦うことで、威嚇することで、恐怖をふりまくことで、少しばかりの金銭が得られるという理由で。このあと誰が若者をもとの姿に戻し、小遣い稼ぎのために行った暴力の記憶を消し去ってくれるのだろうか。

 もう一つ、双方ともにフランスに対して失望したことが見て取れる。「新勢力」の支持者は自分たちが犠牲にされたのではないかと感じている。バグボ派は自分たちが受けた侮辱や払った代償をすぐには忘れないだろう。それゆえ若き「愛国派」たちは万一に備え、下部組織がゲームの終わったことをあまり早く察知しないよう、フランスを象徴する物事という容易なターゲットを罵倒し続けるのである。

(1) 2003年1月のリナ・マルクーシ会議以後、反乱軍は「新勢力」と呼ばれるようになった。
(2) 2000年10月のバグボの宣誓式の直前、新大統領支持派と目される憲兵部隊が仲間の1人の殺害に対する報復として、アビジャンの下町ヨプゴンで虐殺を繰り広げた。57の遺体が発見された。
(3) 北部を基盤とする反乱軍によって2002年9月に形成された最初のグループにつけられた名前。
(4) 欧州連合(EU)はコートジヴォワール政府当局が保健衛生プロジェクトの資金180億CFAフラン(約37億円)を横領したと非難した。
(5) アムネスティ・インターナショナルおよびヒューマン・ライツ・ウォッチの多数の報告と、「2004年3月25日の事件に関する国連委員会」が2004年4月29日に発表した報告書を参照。
(6) このルワンダ大統領が1994年4月6日に殺害されたことをきっかけに、ツチ族の大虐殺が始まる。
(7) 1998年2月4日トリポリにてリビア、ブルキナファソ、マリ、ニジェール、チャド、スーダンを設立メンバーとして発足。ベナン、コートジヴォワール、ジブチ、エジプト、エリトリア、ガンビア、ギニアビサウ、リベリア、モロッコ、ナイジェリア、中央アフリカ、セネガル、ソマリア、トーゴ、チュニジアが加盟。


(2004年9月号)

All rights reserved, 2004, Le Monde diplomatique + Shimizu Mariko + Saito Kagumi

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